さて、この4月は『佐度御書』の講義を拝聴いたしました。
先生の鉄石の御確信と燃えるような大情熱に満ちた講義を通して、極寒の佐度雪中で筆を執り給う御本仏の大慈大悲と師子王の御気魄が700年の時を超えて胸に迫り、言い知れぬ大感動が込み上げてまいりました。
この講義をされたお心について先生は
「御遺命成就の時に生まれ合わせ、大事な御奉公を貫く顕正会員こそ心肝に染めるべきと思い拝読した」
と仰せられ、その大意を
「日蓮大聖人の師子王のごとき御振る舞いを通して『仏法のために身命を惜しまぬ者必ず仏になる』という事を我等末弟に教えて下さった御書である」
と御教示下さいました。
御遺命成就に戦う私達は、先般の『松野殿御返事』講義と合わせて深く心腑に染めるべきであります。
仏法に身命を捨てるといえばいかにも大仰な事に聞こえるところ、世間のつまらぬ事に人は皆命を捨てている実相をお示し下された段は、何度拝しても新たな感動と共に捨て身の決意がふつふつと湧いてまいります。
「人はあるいは重恩ある人のために我が命を捨ててその恩に報いんとし、あるいは、赤穂浪士や白虎隊などに見るごとく忠義のために命を捨て、あるいは、戦時中には「お国のため」「天皇陛下のため」と言って多くの青年が死地に赴いた。
あるいは、社会的体面にこだわる男子は恥辱を注ぐために命を捨て、あるいは女性は男のために命を捨て、あるいは臆病な人間が目先の欲望のために命を捨てる。
はたまた、命を惜しみ切った生活をすれば命を失わずに済むかといえばそうではなく、あるいは天変地夭・飢饉・疫病、また大戦争等に巻き込まれては命を落とし、たとえ大災難を免れたとしても人は必ずおいて死ぬという人生の実相。
ゆえに大聖人様は『兎に角に死は一定なり、同じくは仮にも法華経の為に命を捨つべし』と。
また『命限りあり、惜しむべからず』と。
あるいは『命は限りある事なり、少しもをどろく事なかれ』等と仰せ給う。
要するに、死は一定であり、誰しもいつまでも生きられるものではなく、ゆえに、徒に儚き一生のうちに永遠に崩れぬ仏果を得る事こそが何より大事なのである」と。
その事が分かれば、たとえ癌になっても嘆く必要はなく、そこから命がけの信心に立つならばそれが成仏につながり、むしろ「癌即功徳」なのであります。
このように、全ての人が死から逃げられない事が分かる時、仏法のために身を捨てて仏果を得る事がいかに尊く有難い事であるのかが深く命に収まります。
令和6年 4月26日 4月度 総幹部会 浅井会長指導
- 説明
- 浅井先生の指さされるままに進む顕正会の戦い
- 命限りあり、惜しむべからず
- 師子王のごとくなる心を持てる者必ず仏になる
- 宗門僧侶の腐敗堕落の実態
- 浅井先生の師子王のごとき大忠誠心の数々
- 池田大作一党の似非摂受の姿
- 時に適う御奉公
- 亡国の大難の数々