みょう法蓮ほうれんきょう じゅうじゅっぽん だいじゅう』にたまわく
 ねんけんにして、だいにんにくりきあり。



 じん大会たいかい先般せんぱんたいしきでしばしば話してまいりましたが、じゅっぽんにおける地涌じゆさつしゅつげん、あの時の姿において、まずしゃくそんは、しゃっほうだいさつ等が末法まっぽうづう真剣しんけんに願い出たんですね。
 「もしお許しをたまわるならば、自分達は命を捨ててづうさせていただきます」とのこの切なる願いをしゃくそんみね、ぜんなんといってこれをせいされた。
 なぜこれをとどめられたかと申しますると、しゃっほうだいさつには、末法まっぽうの恐ろしい大難だいなん到底とうてい耐えられるものではない。
 もう一つ、しゃっほうだいさつしゅぶっぽうには縁がない。本法ほんぽうしょにんではない。すなわち、三大さんだいほうじゅする人ではない。
 よって「末法まっぽうづうするかくがないのだ」とこういうことからしゃくそんみね、ぜんなんといってせいされてただちにだいの底よりはるばると上行じょうぎょうさつひきいられた六万ろくまんごうじゃすう地涌じゆさつだしてぞくをせられて、末法まっぽうづうのその体験たいけんということげんしょうめいせられたわけでありまするが、その上行じょうぎょうさつひきいられた地涌じゆさつ巍々ぎぎ堂々どうどうたる姿を眼前がんぜんにして、しゃくそん第一だいいち弟子でしであるしょさつといわれるろくさつしゃくそんかみひと智恵ちえを持っておるろくさつが「そのような荘厳そうごんなる地涌じゆしゅつげんしきを今まで自分は見たことがありません。一体このようなりっさつ方はどこから来たのでございましょうか」といってその地涌じゆさつとくたたえてしゃくそんにこれをうかがいたてまつる。
 その中の段にこのろくさつこととして、上行じょうぎょうさつのお徳を讃嘆さんたんして

ねんけんにして、だいにんにくりきあり」

「まことに、私が今まで見たことがございません。ねんけんにしてだいにんにくりきがある」

とこのことをもって上行じょうぎょうさつ讃嘆さんたんした。
 それが只今ただいまじゅっぽんきょうもんであります。
 「ねん」のとはこころざしねん一念信いちねんしんねん、それがけんである。
 すなわち、上行じょうぎょうさつ末法まっぽう一切いっさいしゅじょうをお救いになるその一念いちねんの固さは金剛こんごうのごとくけんであるということ
 それから「だいにんにくりきあり」の「にんにく」とはにんしのぶ、にくはずかしめですね。
 どのような悪口わるくちわれても、どのようなじょくをされてもそれをしのんでいくちからがある。
 このように、上行じょうぎょうさつ末法まっぽうたいしゅうをお救いになる。三大さんだいほうをおひろめになる。
 そのお徳というものはまさにねんけんにして、だいにんにくりきあり」と。


平成24年 10月21日 浅井先生指導