「夫れ運極まりぬれば兵法もいらず、果報つきぬれば所従もしたがはず。所詮運も残り果報もひかゆる故なり。
乃至、すぎし存命不思議と思はせ給へ、なにの兵法よりも法華経の兵法を用い給うべし」
と仰せになっておられる。
ここに「兵法」「兵法」と出てまいりまするが、これは「兵法」と読むのが昔の読み方でありまするが、分かりやすく私はあえてここでは「兵法」と用いております。こういう事ですね。
「もし福運が尽きてしまったならば、いかに兵法を心得ていようとも、そんな物は少しも役に立たないのである。
また、果報が尽きてしまったら、所従(すなわち家来・部下)も従わなくなってしまう。
所詮、四条殿に福運が残り、果報も具わっているゆえにこの難を逃れる事ができたのだ。
この絶体絶命の闇討ちを逃れた事を不思議と思わなければいけない。
これは兵法の力ではない。これひとえに、御本尊の御守護である。
ゆえに、何の兵法よりも法華経の兵法を用いよ。強き信心こそ根本の兵法なのである」
という事をお教え下された。有難い事ですね。
自分が小才に任せていろんな小細工を用いても、運が尽きてしまったら何もならない。
御本尊様への強き信心、これこそが人生を勝ち抜いていく根本の兵法であるという事をお教え下されたのです。
よく折伏しますと、仏法を知らない者や慢心した者がよく言うでしょう。
「そんな信心なんか頼らなくったって、私は自分の努力で、自分の才能でもって道を開くんだ」なんて事をいう人はうんといますね。ことに、成功した者はこういう事をいう者が多い。
ただし、こんな事は人生の表面しか見ていない。生命という事の表面の部分しか見ていないんですよ。
「自分の努力で、自分の智恵・才覚で進む」なんて言っていますが、そういう事が通用するのは「自分にまだ福運が残っている」という事を条件として初めてそれが通用するんです。
「一度人間は福運が尽きてしまえばどんな努力も無駄になってしまう。どんな才能も空回りしてしまう」という事なのであります。
そして、その時にはやる事為す事全て裏目に出るんですね。
せっかく努力をしたけど裏目に出た。「努力しないほうが良かった」みたいな事になる。才能も空回りをしてしまうんです。
また、人間の境界には十界という事があるでしょう。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声門・縁覚・菩薩・仏という十種の境界がある。
自分の命が餓鬼界の時には「欲しい欲しい」と餓鬼に始まって、そして究極はまた餓鬼の境界に落ち込んでいくんです。
畜生界も修羅界もみんなそうですよ。
経文には「本末究竟等」とある。
本も末も、その最初の結果も煎じ詰めて見れば等しい、同じ事になる。
餓鬼は餓鬼に始まって餓鬼に終わる、畜生は畜生に始まって畜生に終わる。
本人は一生懸命やっているようであろうとも、ない知恵を絞ってやろうとも、最後には餓鬼に始まって餓鬼に終わる。
これが「本末究竟等」という事なんです。
菩薩界も然り、仏界も然りであります。
平成26年 3月9日 浅井先生指導