「うんきわまりぬればへいほうもいらず、ほうきぬればしょじゅうしたがはず。所詮しょせんうんのこほうひかゆるゆえなり。
 ないぎしぞんめいおもはせたまへ、なにへいほうよりもきょうへいほうもちたまうべし」

おおせになっておられる。
 ここに「へいほう」「へいほう」と出てまいりまするが、これは「ひょうほう」と読むのが昔の読み方でありまするが、分かりやすく私はあえてここでは「へいほう」と用いております。こういうことですね。

 「もしふくうんが尽きてしまったならば、いかにへいほうこころていようとも、そんな物は少しも役にたないのである。
 また、ほうが尽きてしまったら、しょじゅう(すなわち家来・部下)もしたがわなくなってしまう。
 所詮しょせんじょう殿どのふくうんが残り、ほうそなわっているゆえにこの難を逃れることができたのだ。
 この絶体ぜったい絶命ぜつめいやみちを逃れたことおもわなければいけない。
 これはへいほうの力ではない。これひとえに、本尊ほんぞんしゅである。
 ゆえに、何のへいほうよりもきょうへいほうを用いよ。強きしんじんこそ根本こんぽんへいほうなのである」

ということをお教えくだされた。有難ありがたことですね。
 自分がさいに任せていろんなざいを用いても、運が尽きてしまったら何もならない。
 本尊ほんぞんさまへの強きしんじん、これこそが人生じんせいを勝ち抜いていく根本こんぽんへいほうであるということをお教えくだされたのです。
 よく折伏しますと、ぶっぽうを知らない者や慢心した者がよくうでしょう。
 「そんなしんじんなんか頼らなくったって、私は自分のりょくで、自分のさいのうでもって道をひらくんだ」なんてことをいう人はうんといますね。ことに、成功した者はこういうことをいう者がおおい。
 ただし、こんなこと人生じんせいの表面しか見ていない。生命ということの表面の部分しか見ていないんですよ。
 「自分のりょくで、自分のさいかくで進む」なんてっていますが、そういうことつうようするのは「自分にまだふくうんが残っている」ということじょうけんとして初めてそれがつうようするんです。
 「一度ひとたびにんげんふくうんが尽きてしまえばどんなりょくも無駄になってしまう。どんなさいのうも空回りしてしまう」ということなのであります。
 そして、その時にはやること為すことすべうらに出るんですね。
 せっかくりょくをしたけどうらに出た。「りょくしないほうが良かった」みたいなことになる。さいのうも空回りをしてしまうんです。
 また、にんげんきょうがいには十界ということがあるでしょう。
 ごくちくしょうしゅにんげんてんじょうしょうもん縁覚えんがくさつぶつという十種のきょうがいがある。
 自分の命がかいの時には「欲しい欲しい」とに始まって、そして究極はまたきょうがいに落ち込んでいくんです。
 ちくしょうかいしゅかいもみんなそうですよ。
 経文には本末ほんまつきょうとうとある。
 もとまつも、その最初の結果もせんじ詰めてればひとしい、同じことになる。
 に始まってに終わる、ちくしょうちくしょうに始まってちくしょうに終わる。
 本人はいっしょう懸命けんめいやっているようであろうとも、ない知恵を絞ってやろうとも、最後にはに始まってに終わる。
 これが本末ほんまつきょうとうということなんです。
 さつかいも然り、ぶっかいも然りであります。


平成26年 3月9日 浅井先生指導