で、だいしょうにんさま敵対てきたいしたじゃしゅう連合れんごうだいひょうしゃりょうかんぼう、この男はだいしょうにんさまを憎みに憎んでたつくちけいじょうに送って頸を切らんとさせたというこのぼうりゃくをめぐらせた張本人でありまするが、もうだいしょうにんさまには手も足も出ない。
 そこで、佐渡からお帰りになっただいしょうにんさまが身延にお入りになると、だいしょうにんさまに対する直接のぼうりゃくはもう何もできない。
 そこで、だいしょうにんさまたてまつっている門下のゆうりょくしんを次々に狙い撃ちをしていって、様々なぼうりゃくで迫害をくわえておったんです。
 その中で、じょう殿どのは鎌倉におけるだいしょうにんさましんの中心者ですよ。
 ですから、鎌倉におけるだいしょうにんの御一門を壊滅かいめつさせるにはこのじょう殿どのを落とせということで、りょうかんぼうりゃくを巡らした。
 じょう殿どのつかえるというのは、主君しゅくんからしてりょうかん信者しんじゃだったんですね。
 そして、しんの多くもりょうかんぼう信者しんじゃであった。
 その所にりょうかんが目をつけて、しんたちに「じょうきんわるくち主君しゅくん讒言ざんげんせよ」とってあることないことふいちょうしていったんです。
 讒言ざんげんというのはよほど聡明そうめいな者でないと引っかかっちゃうんですね。
 そのことで、主君しゅくんが本気になって真にけちゃって「じょうはとんでもない奴だ」ということでこういうことをしたんですね。
 「法華経のしんこうを捨てるというちかい状を書け。さもなければしょりょうぼっしゅうする」とってきた。
 その時に、じょうきん殿どのが「たとえしょりょうを奪われようともにちれんだいしょうにんしんこうはやめません」とってしょりょうぼっしゅうされちゃったんです。
 その時にだいしょうにんさまが『よりもとちんじょう』という主君しゅくんてての一通の文証をじょう殿どのに渡されたんですが、そして、そのうちに主君しゅくんに罰が出たんですね。じゅうびょうになっちゃったんです。
 そのことから、いろんなほうぼうに医者を呼んだけれど治らない。
 とうとう「じょうを呼べ、じょうでなければ治せない」ということで、じょう殿どのの手厚いかんによって主君しゅくんの命を取り遂げた。
 そこで、すっかりと主君しゅくんが改悔をしてぼっしゅうしたしょりょうを返した。
 それだけではない、その何倍かのをくれたというんですね。
 それを見て、いよいよりょうかんぼう並びにしんだんおんしつは燃えさかった。
 「もうこれでは今までのぼうりゃくつうようしない。いよいよ暗殺あんさつ以外にない」ということでもって暗殺あんさつけいかくを立てたんです。
 そして、いよいよ弘安2年の10月にその暗殺あんさつが行われたんです。
 ですからだいしょうにんさまは前々から「必ずおんしつしゃたちはじょう殿どの暗殺あんさつする。命を狙うことが最後にはあるであろう。彼らのおんしつはそこまで強いんだ」ということつねじょう殿どのに対して懇切こんせつなるなんくだされた。
 例えば「同輩どうはいに酒盛りに誘われても絶対ぜったいに行ってはいけない。夜同輩どうはいと酒なんか飲んでたら命を狙われる。酒を離れては狙うすきがない。だから、夜酒を飲んでは絶対ぜったいにいけない。酒を飲むなら家で飲め」という風に懇々こんこんと様々なこまかいことを色々となんくだされた。
 そして、ついに弘安2年の10月にじょう殿どのやみちをけた。
 じょう殿どのは前々からようじんけんにしておった。供を恐らく2,3人はれていたでしょうね。
 そういうようなじょう殿どのがどれほどげい達人たつじん剣豪けんごうであったとしても、あるいは供の2,3人がいたとしても、けいかくてきに大勢の者が集まってやみちをしようとしたら絶対ぜったいに逃れることができないんですよ。殺されてたりまえであります。
 ところが、ことじょう殿どのは一命を取り留めることができた。
 その有難ありがたさをじょう殿どのは早速お手紙にしたためて、だいしょうにんさま報告ほうこくもうげた。
 そのことに対して賜わったしょが只今の『じょうきん殿どのへん』であります。その肝要かんようもんだけ拝読はいどくをいたしました。


平成26年 3月9日 浅井先生指導