今回の文章の中にはホラービデオ、映画「呪怨」シリーズの一部、ストーリーに関する重大なネタバレがあります。

場合によっては結末まで書いてしまっております。


ご注意ください、ホラー映画だけに、おのれネタバレしやがって、と僕のことをうらみに思ったりなさらないでくださいますよう。


あああああああああ、とかコメント欄に書かないでくださいますよう(振り、じゃありませんからね)。





で、ハリウッド版「呪怨(ザ・グラッジ)」「呪怨~パンデミック(ザ・グラッジ2)」「呪怨~(ザ・グラッジ3)」三作を、観る間に少しずつ間隔を置きながら、ですが観まして。


観る時に注意しなければならないのは、一作目の「ザ・グラッジ」は日本の映画版「呪怨」のリメイクなんですが、「パンデミック」からハリウッドのオリジナルストーリーになり、「ザ・グラッジ3」はオリジナルストーリーとしての2作目のストレートな続編である、ということです。


ですから「呪怨」シリーズのファンとしての立場から観ると(ごくごくライトなファンとして)、ちょっとあれれ?と思うような展開になってしまったかなぁという感想を抱くことになりました。

色々と感じたことを書こうか、と思い、書くための予備知識を得ようとネットの海に飛び込んでみたらこんなサイトに→ http://www.k4.dion.ne.jp/~werewolf/juon/


とてもこだわって感じ、考え、書いている方で、なんというのだろう、こだわり方やその上での書き方に勝手に親近感を抱いてしまいました。


日本版「呪怨」がとても分かりやすく解説してあるうえに、観てみたくなる、また観てみたくなる何かを感じます。


「呪怨」シリーズの怖さと言うのは、前回も書いたようにあの家に関わってしまえば、呪いによる死、が手当たり次第であること。


魅力は、時系列を組み替えた場面構成によってミステリィの謎解きのようにストーリーを楽しめること。

だから、こんなネタバレ記事を書いちゃいけないんです、本当はね。


恐怖にもルールみたいなものはあるのです。


呪いによって死を迎える人は、


あの家の中に入ってしまうこと


家の中に入ってしまったことで「呪怨」に触れた人と関わってしまうこと


のいずれかを経験している人たち。


紹介したサイトの管理人さんによると、家の中に入ってしまった人、というのは「呪怨」の感染者であると同時に保菌者(のようなもの)、になる。

ただ、その人物と関わってしまった人というのは、感染はするけれども、保菌者にはならない。


つまり、死の呪いは、間接的に接触した一回分で留まることになるんですね。


あの家の中に入ってしまった人→その人と関わってしまう人→さらにその人と関わって…


という風には伝わっていかないようなんです。


日本版では。


ところが、ハリウッド版ではそのルールが崩れてしまっているんですね。


ハリウッド版では第一作目のラストの方で、家に火がつけられます。


「呪い」の根源である、あの事件の起こった家を無くしてしまおう、と考え実行した人がいたわけです。

ところが、家は燃え残ります。


燃え残った、とはいえ、家の中は火事のせいで煤けてますし、以前とは何かが違ってしまいます。


それが「パンデミック」爆発感染、であって、それまではあの家の中に入った人、それに関わった人だけに降りかかっていた呪いが、家の外に出て行ってしまうんです。


まず「パンデミック」では、あるショッキングなシーンのオープニングがあり、その後あの家、元の佐伯家にアメリカンスクールの3人の少女が入ってしまうエピソードから始まります。


なんで入っちゃったのか、というとある一人の大人しく、地味な少女を他の二人の少女がからかい、いじめるネタとしての肝試しのために、なんです。


もう、この時点でアウトですよね。

いじめっ子二人の少女はサクサクと呪いによる死に捉われてしまいます。


さらに、家に入ってしまった3人から色々と話を聞いていた校長先生(ともスクールカウンセラーという設定とも取れる、ということのようです)もサクッと。


生き残った少女も、ずっとずっと何者かに怯え続けることになってしまいます。

ここでは「呪怨感染者=保菌者→感染者」まで、の「呪いのルール」がまだ有効となっています。


それから、別のエピソード、組みかえられた時系列の一部、として一作目で生き残ったカレンの妹オーブリーのパートが始まり、さらにもう一つ、シカゴのあるアパートに住む少年ジェイクのパートと合わせて三つのエピソード、各パートが映画の中では同時進行で描かれます。


別々のエピソードが同時進行で描かれているように見えながら、実は一つにまとめられる時系列の物語を含んでいて、それがラストで明らかになる、というのはファンにはお馴染みの「呪怨」システム。


「パンデミック」は脚本こそアメリカ人ライターによるものですが、監督が清水さんなので演出手法そのものは従来のものとほぼ同じです。


で、まあ「パンデミック」では、実はタイトルにあるような「爆発(的な呪いの)感染」は起こらないんです。

もちろん「呪怨」ですからカヤコさんの「呪怨」によってサクサクと多くの人間が死を迎えることになる、カヤコさん、家の呪縛からある意味解き放たれてパワーアップしております。


でも、「家の中に入ってしまったもの=感染者=保菌者そのものと関わってしまったもの=感染者」だけが呪われる、というルール、システムは有効なままなんですね。


それが、「ザ・グラッジ3」でルールの適用が微妙になっていきます。


まず、「パンデミック」で生き残ったある人物が登場、すぐに「呪怨」による死に捉われてしまいます。

ルール、システムの上では、この人物は上記した青字にあたる人なので、ここで「呪怨による死」は留まるはずなんです。


しかし、三作目では、二作目で緑字にあたる人物(死亡)が暮らしたアパートの中で家族(青字)や同じアパートに住む住人たち(青字の人もいれば、普段の付き合いはほとんどなかった人もいる。日本で言うと団地サイズのアパートだから部屋数はけっこう多い)が死を迎えただけではなく、


この三作目で最初に死んだある人物(青字)と関わりを持った人物Aが


その人物(青字)がかつて死んでいたアパートを訪れただけで


そこの住人とも接触したのだけれども、その人たちだってルール上では青字のはず、もしくはほとんど接触のなかったはずの人たちなのに


カヤコさんのお迎えを受けてのデッド


となってしまうんですね。


しかも、アパートの住人の交際相手、というだけでもデッド、となってしまう。

製作者側の立場で言うと、「いやいや、人物Aだって交際相手だってもう青字だから」となるのかもしれないんですけど。


理屈で考えるならば、家を燃やされたことで、返って外に出やすくなり、「呪い」を広めやすくなったカヤコさんが、緑字の人物とともにシカゴのアパートにたどり着き、そのアパート自体を「佐伯家化」してしまった、ということになりそうなんですが、そんなことを言ってしまうとですね。


ただでさえカヤコさんは無敵の状態なのですから「手当たり次第」が、パワーアップしてしまって無差別大虐殺ばかりになってしまうように思うのです。


実際、この映画の中でカヤコさんはある儀式によって封じ込められたはず、でも実は…という感じになってまして、ちょっとグダグダな終わり方になっているように感じてしまったのですね。


僕がルール、ルールと言っているのは、言ってみればストーリーの上で生き残るためのルール、とも言えるものです。

緑字でも青字でもないなら、遠く間接的な接触だけだから、カヤコさんのお出迎えは無しだよ、という感じの。


そこらへんが曖昧になると、恐怖が恐怖として機能しない、誰が死の運命に捉われ、誰が死の運命から脱することが出来るのか、というスリルが薄れてしまうような気がします。


だって、どうせみんな死んじゃうんですから(どっちにしろ『呪怨』シリーズではみんな死んじゃうんですけど、なんていうか、それを脱することが出来るかもしれない、逆の面からのスリル、が特色のような気がします)。


この「ザ・グラッジ3」は、原案・監修こそ清水崇さんですけど、脚本も監督もハリウッドの用意した人物によるもの。

なし崩し的な内容になったせいかどうかは分かりませんけど、興行収入が前作の10分の1にも達しない惨敗を喫してしまい、ハリウッド版「呪怨」シリーズの完結編として、シリーズ全体のバッドエンドを引き寄せてしまうことになります。


くわばら、くわばら ▽・w・▽