無無明録

無無明録

書を読むは、酒を飲むがごとし 至味は会意にあり


  富嶽三十六景       

              

              東海道江尻田子の浦略図  



                          葛飾北斎












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 一家庭当たり2枚づつ配布って何だろう。ないよりはましかもしれないけど、場当たり的な感じは否めない。マスクを2枚貰って安心感が得られるかと云うとそういうことはないと思う。基本的なところが違うのではないのかな。

 退職して一夜明け、目が覚めたのが10時近くだった。世の中は「新型コロナ」騒ぎが落ち着いていないのに、ワシだけこんなにのんきに過ごしていいのかと思いながらも、「新型」と云うなら「旧型」もあるんだろうなと、ふと頭をかすめたが、ま、どうでもいいなと思い直し、もう一寝しようかと思ったのだけど、これではいかんと思い直した。

 

 さて、これからどう過ごそうかと考えた。今の体のままでは何もできない。とりあえずは体を鍛えなくてはならない。かつては鋼鉄の肉体を誇ったワシである(うそ)。人並みに動けるようになったら旅行に行きたいと思う。仕事が出張ばかりだったから、道内はほとんど回ったのだけど、遊びじゃないしね。ゆっくりと回ってみたいと思う。それよりまずは鹿児島と会津だな。

 

 今日職場に行って机とロッカーの整理をし、本日付で退職の辞令を頂いてきた。机の中の引き出しにはいらないものばかり入っていてほとんど捨ててきた。数十年間貰ってきた辞令も今になっては只の紙切れだし、何の感慨もない。いっそ職場のシュレッダーにかけてしまおうかと思ったが、さすがにそれは躊躇われた。同僚がいらないものはこれに捨ててくださいと箱を持ってきてくれたので、ほとんどをそれに捨てた。

 お昼ご飯は職場一の美人と一緒に食べて、ダンピング対策用の飴やお菓子を頂いた。美人だしスタイルもいいから写真にあげたいところだけど、さすがにそれはね。店員の中村さんもかわいい。小柄だけどきびきび動くし、いつもワシのことを気遣ってくれる。

 

 ちょいと若めのネクタイがいっぱいあったので、10数本を就職2年目の職員にあげてきた。3本を使いまわしにしていると云っていたので、きっと使ってくれるだろう。元上司の先輩が握手を求めてきたので握手を交わして、部長の案内で上司連中に挨拶し、帰りのエレベータでは10人くらいがわざわざ見送ってくれて嬉し恥ずかしのような気分。おまけに同僚が荷物を持ってくれて、車で家まで送くれ、家の玄関まで荷物を運んでくれた。

 

 こんなジジイの退職日としては上々の扱いだったと思い有難かった。。

 父が生きていた10年か15年前だったか、戦争中の話になって、当時の父は20歳前だと思うのだが、父の父、つまりはワシの祖父に海軍に入って特攻に行きたいとは話したことがあったそうだ。祖父とすれば、長男、次男と海軍に採られていたから、この上三男までもかと云う思いがあったに違いない。祖父の必死の説得で海軍行きは思いとどまったそうだ。

 

 しかし、父が戦争に行っていたなら間違いなく特攻かなにか分からないけど、死んでいたと思う。

 

 靖国神社に行くたびに、いつも思う。ここに父の写真があったのかもしれないってね。幸か不幸か父は生き延びて92歳の天寿を全うできたのだから、有難いことである。靖国の英霊の写真を目にするたびに有難さと申し訳なさが心に浮かび上がってくるのだ。

 父が亡くなって1か月以上経った。ワシの家にある仏壇の父と母の写真の顔はいつも優しい。

 父が亡くなる二日くらいの前ことだと思うのだが、見舞いに行ったワシの顔をつくづく眺めながら荒い息の中で「ゆるぐねえんだべ」と云った。北海道弁で、「体が辛いんだろう」と云う意味合いだ。ワシは「ゆるぐねえのはオレより父さんだべ」と思ったのだが、何も言わずに「うん」とだけ言った。それが父との最後会話になった。

 

 ワシは、その後父の手を握った。強く握れば強く握り返したこともあった。でも、あれが必死の力だったのだと思う。

 まあ何だね。人は皆死んじゃうからね。ワシももっと親孝行したかったな。

 

 しかし、本当に仲の良い夫婦だったから、2人で笑いながら、あはは、うふふとやっているのだと思う。

 ありがとう。ありがとうございました。

 夕べ弟から突然父の余命を告げられてから、体に力が入らず、食欲も全くない。水分しか摂ることができないので、体がふらつく。休職手続きをしておいてよかったと思う。

 しかし、いきなり余命1週間から2週間と云われても気持ちが対応できない。92歳と云う父の年齢を考えればあり得ないことではないとは思うのだが、うまく受け入れられない。弟は父を病院に連れて行ったりして、状況を把握していたせいか、実に冷静である。ワシもそうでありたいと思うのだけど、昨日の今日だもんな。ただただため息が出るばかりだ。何か食べなければと思うのだけど食べられない。結構辛い。.

 

 先ほど、弟と電話で話をしていたら、92歳の父が肝臓ガンで、医師から余命1週間とか2週間とか云われたと云うのだが、あの鬼でも食い殺しそうな男が1週間や2週間で死ぬはずがない。母が去年の7月末に亡くなってしまい、ワシは実のところ寂しいのだが、あの悪名散々の父といつまでも付き合うのも辛いと思う。何故かと云うと、それはいろりろあるのだけどね、ここでは書かない。

 

 あの父もとうとう死病に取りつかれたかと思うと感慨深い。できれば、一日でも長く生きてほしいと思うのだがね。明日、会いに行くよ。

 

 先々週から体調が急激に悪くなって仕事を休んでいたのだが、一昨日だったかな、総務課の人事の補佐から電話があって、要は病休なり休職を取ったらどうですか、ということだった。ワシは内心そう思っていたので否やはない。それで昨日、病院に行って、ワシの胃を8時間かけて取ったという、言わばかかりつけの医師に症状を説明したら、あっさりと診断書を書いてくれた。

 

 元々ワシは今年3月いっぱいで仕事を辞めるつもりだったから、職場には何の未練もないのだけれど、同僚に迷惑をかけてしまうのが大きな気がかりだった。でも、ワシが思うほどでのことではなかったな。アイツがあてにならないとなれば、それなりに物事は進んでいくんだよね。

 

 

 

 嘉納謙三郎は桔梗と夫婦になり、伊庭八郎に示唆を受けたとおりに、写真師の修行をしようと長崎に向かう。

 謙三(けんざ)は流れ弾の鉄砲傷で、剣が十分に使えなくなっていたし、それよりも世の中が剣の腕前を求めてはいなかった。桔梗は謙三の思った以上に謙三に尽くし支えてくれた。謙三は、日ごとに桔梗に対する思いが強くなる。

 

 長崎につき、ある写真館で修行をすることになった謙三は、上野彦馬という男と知合ったのだが、この男、なかなか狷介な男だった。あまりいい思いをしないで日々を過ごすおり、街中をぶらぶらしていたところ、一人の男が三、四人に囲まれて、斬りあいになっている。謙三は仔細は承知しないまま、思わず、多勢を相手に立ち向かっている男に加勢をする。肩を撃ち抜かれたとはいえ、修行に修行を重ねた嘉納謙三郎である。

 

 謙三とその男は、相手の者どもを散々に蹴散らした。その男は走り去っていく賊を見やると、謙三に向き直り「あいがとごわした。おいは、薩摩の中村半次郎といいもす」と云うと、何とも言えぬ心に沁みるような笑顔を謙三に向けた。

 

 謙三はこれまでの人生でこんな笑顔は見たことがなかったので、たじろいだ。中村半次郎と名乗った男は続けて云った。「お礼と云うわけではありもはんが、その辺で汁粉でもどげんですか」半次郎は、相変わらず、心に沁みるような笑顔である。いや、しかし、酒でもいっぱいと云う誘いなら分からないことはないが、「汁粉ってなんだ?」と思いながらも、謙三はこの半次郎の笑顔に逆らうことはできなかった。