426 隠し剣千鳥足(二)の雑な構想 | 無無明録

無無明録

書を読むは、酒を飲むがごとし 至味は会意にあり

 嘉納謙三郎は桔梗と夫婦になり、伊庭八郎に示唆を受けたとおりに、写真師の修行をしようと長崎に向かう。

 謙三(けんざ)は流れ弾の鉄砲傷で、剣が十分に使えなくなっていたし、それよりも世の中が剣の腕前を求めてはいなかった。桔梗は謙三の思った以上に謙三に尽くし支えてくれた。謙三は、日ごとに桔梗に対する思いが強くなる。

 

 長崎につき、ある写真館で修行をすることになった謙三は、上野彦馬という男と知合ったのだが、この男、なかなか狷介な男だった。あまりいい思いをしないで日々を過ごすおり、街中をぶらぶらしていたところ、一人の男が三、四人に囲まれて、斬りあいになっている。謙三は仔細は承知しないまま、思わず、多勢を相手に立ち向かっている男に加勢をする。肩を撃ち抜かれたとはいえ、修行に修行を重ねた嘉納謙三郎である。

 

 謙三とその男は、相手の者どもを散々に蹴散らした。その男は走り去っていく賊を見やると、謙三に向き直り「あいがとごわした。おいは、薩摩の中村半次郎といいもす」と云うと、何とも言えぬ心に沁みるような笑顔を謙三に向けた。

 

 謙三はこれまでの人生でこんな笑顔は見たことがなかったので、たじろいだ。中村半次郎と名乗った男は続けて云った。「お礼と云うわけではありもはんが、その辺で汁粉でもどげんですか」半次郎は、相変わらず、心に沁みるような笑顔である。いや、しかし、酒でもいっぱいと云う誘いなら分からないことはないが、「汁粉ってなんだ?」と思いながらも、謙三はこの半次郎の笑顔に逆らうことはできなかった。