スポットライトに照らされて、一瞬で真っ白になる舞台。

スピーカーが大音量で鳴らす、聞き慣れたポップミュージック。

それを見上げる僕達が歓声を上げ、手を叩くのと同時に彼女が舞台に現れる。

衣装に散りばめられたスパンコールに反射した、カラフルな光。

重いビートに合わせて彼女達が踏む、リズミカルなステップ。

遠くからでもわかる、僕達を照らす無数の笑顔。

彼女がステップを踏むたび長い髪が大きく揺れ、真っ白な空間にその残像を焼き付ける。

彼女が跳躍するたびスカートのプリーツが開き、それが抜け落ちた羽のように宙に舞う。

 

きっと、舞台の上は重力が軽くなるんだ。僕はそんなことを考えている。

 

ライブでお馴染みのキラーチューンを投下する時、ロックバンドのボーカリストはマイクに向かって「踊れ!」と叫ぶ。生きる事をダンスに例えた人間だっていた。そして、僕達は時として、神様や女の子に踊らされるピエロになる。

いつだって僕達は踊っている。いや、踊らされているというのが正しいだろうか。いくら好き勝手に踊っている気持ちでも、リズムが無いと踊る事ができない。僕達は何時だって世界が刻むビートに合わせて踊らされる側であり、ドラムを叩いてメロディーを奏でる側に立てる人間は、ごくわずかだ。

いつかは、自分のステップを踏む事ができる日は来るのだろうか。

誰の手助けも借りず、誰かのビートも聞かず、DJもドラマーもいない場所で、僕達はステップを踏む事ができるのだろうか。適当なステップを踏んで、好きな時に腕を上げて、誰の目も気にせず、僕達はステップを踏む事ができるのだろうか。

僕がステップを踏む場所は何時だって誰かの手のひらの上だ。ここから逃げ出して、どこかに飛んで行ってしまいたい。そう思っても、僕がここから逃れる事は出来ない。

 

舞台の上の彼女が、床を蹴り、その小さな体を再び宙に浮かせる。

黒髪とワンサイズ大きいシャツが、彼女の身体から離れ、一瞬だけ浮き上がる。

 

 解き放たれた。重力からも、リズムからも解き放たれた跳躍に見えた。

 僕は息を飲んで舞台を見つめるが、彼女はその次の跳躍をなかなか行わない。以前と同じようにステップを踏んで、それに合わせて身体を動かす。僕は次に彼女が床を蹴る瞬間を見逃すまいと目を凝らす。

 跳ぶには準備がいる。鉄の塊が重力を逃れるためには長距離の滑走を行わなければいけないように、彼女が跳躍をする為にはリズムに合わせてステップを踏まなければいけない。やってくる跳躍の瞬間の為の準備が必要なのだ。いつだって、高く飛び上がれる人間はリズムを知りつくして、それを自分のものにしていた。高く飛ぶためには、美しいステップを踏む必要があった。

 

舞台を見つめている僕の身体は、気が付いたら音楽に合わせて体をゆすっている。

照明に当たって、スパンコールが煌めいた。

彼女の靴が、再び、床を蹴る。


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おひさしぶりです、某しです。
久しぶりに共同ブログを書かせて頂きました。いかがでしたでしょうか。

以前の更新から時間が空いてしまいましたが、これから夏休みという事で、筆まめにいくつも文章をこちらで書かせて頂こうと思っています。お付き合い頂けると嬉しいです。

ここでこそこそやっている事が、他のメンバーへのプレッシャーになりますように。
万寿子さんの庭/黒野 伸一
¥1,470
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 「あーわかるわかる!」がいたるところに詰め込まれた物語。

 主人公は社会人になったばかりの女性。東京に不動産会社に勤めらがら、給料や待遇に不満はないけど「私がやりたいのはこれだったのかなぁ」という不安を抱えている。でもだからって辞めてどうするの? じゃぁやりがいのある仕事って何よ? といかにも私たち世代がもつある種「贅沢な悩み」をしながら、しかし待遇の良い勤め先に甘えている。

 また彼女はより目を気にし、奥手で恋愛もヘタ。物語内でもせっかくいい雰囲気にタイミングを逃して始まる前に恋を終えてしまったり・・・とにかく、「あーいるなぁ、こんな人」というごく普通の女性だった。

 万寿子さんはその彼女の近くに住むおばあさん。この小説は二人の交友を描いたほのぼのトした物語なのだが、ときおり万寿子さんの経験した戦争の話、一人暮らしの老人と世間の関係など簡単に答えは出ない問題も含ませている。


 ただあくまでこれは将来に悩む女性の物語。彼女は最後、万寿子さんとの出会いを経て、自分の悩みに対し一つの答えを出す――つまるところ、「やりがい」を選ぶのだ。

 万寿子さんとのやり取りの中で興味を持ち始めた植物の世話。「これなら」と思った彼女は会社を辞め、ホームセンターにアルバイトとして働き始める。もちろん給料も待遇もぐっと悪くなるわけだが、彼女は前向きな決断を下し、物語はそこで終わる。

 私はそこに対しては「あーわかるわかる!」とはならなかった。
 万寿子さんとの関係をつくっていくうちで、花に興味を持っていく過程は分かる。自分の今のあやふやな状況を悩む気持ちもわかる。でも「今の安定した状況を蹴って別のところに行く」きっかけになる部分がいまいち見当たらなかったのだ。「なやむなぁ」「どうしようもないなぁ」とぼんやり俯く主人公が、何に吹っ切れたのか急に職を変える。それに対する違和感が、どうにも私には拭えなかった。せっかく「エリートと結婚して一緒にパリに行く」という可能性もあったのに、それに対してなんの未練もないこともひっかかる。

 それまでの「ぐずぐずと悩む感じ」が共感できたため、あまりにも爽やかな終わり方に首をかしげてしまった。





 ただ、この結末がハッピーエンドに感じられるかどうかは、今の自分の状況にけっこう依存するだろうなぁ

 若者の「安定志向」や「個人主義」にメスを入れてるから(若い女性がおばあちゃうを助けるのを爽やかにきれいに書ききっているわけだし)

 どうしても反抗心を持ってしまう自分がいる。

 だから今の私はこの作者にとって「近ごろの若者は…(ため息)」といわれる対象なんだろうなぁっていうのは痛いほど伝わってきた物語でした。






カナリア [DVD]/石田法嗣,谷村美月,西島秀俊
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 地下鉄サリン事件から数年。オウム真理教をモチーフとした映画。

 とあるカルト宗教が殺戮事件を起こし、宗教組織は壊滅。幹部数名は行方不明で指名手配中。この映画の主事項はその指名手配中の女性の息子。事件後施設に保護されていた彼は、祖父に引き取られた妹を「取り戻し」、母を見つけるために施設を飛び出す。

 映画は大部分は主人公の少年と道中で出会った少女二人のロードムービー。その途中途中に「いかにもうさんくさいカルト宗教」内で、宗教になじみ切れない少年の日々が挟み込まれている。

 宗教組織で生活する彼は、母妹自分の家族三人で苦しくもともに生活していた現実社会に戻りたく思っており、

 事件後現実に戻された彼は、たとえ狂った世界の中でも母がいた宗教団体に縋っている。

 事件前はいつもいやいや、しぶしぶ口にしていた呪文のような言葉を、事件後は何かあるたびに口ずさむ。もはやこれしか、自分と母をつなげるものがないことを自ら証明してしまっているように。


 少年と少女の旅の途中、「レズビアンで不完全だが、母親になろうとしている女性」と「かつて宗教に執着し今はそこから逃げ出した、けれど父親のように優しく接してくれる男性」に出会う。

 彼らとの出会いは確実に少年の心を解きほぐしていく。

 不完全でも、ちゃんとした「親」になれなくても、ただ一緒にいてくれるだけでそれでいい――ここまでこの映画を見ていた私は、あくまでこれは「家族」の物語だと思っていた。自分の不完全な部分を宗教に依存するのでなく、不完全なりに接していけばよかった。そのような母の弱さを、主人公は受け入れていくのだと思った。


 けれど終盤、突然の母親の自殺によって全てが一転する。


 ネタバレになるので詳細は言わないが、ラストの主人公のセリフにはぞっとした。

「俺は、お前を許す」

 主人公と妹ひきはがした張本人である祖父。殺したいほどに憎んでいた彼に、少年は一言そうつぶやいた。

 あまりにも淡々と、感情のない声で。


 本当なら、もっともっと悔しそうに、それでもかろうじて口に出きる言葉なのではないだろうか。

 主人公が来る前に少女が祖父に投げつけた数々の憎しみに満ちた叫びが、あまりにも人間味にあふれているため対比が印象的。

 そして何よりも目が行ったのは、母の死の衝撃で真っ白になってしまった少年の髪。そこまでしなくとも…と私は思ってしまった。


 中盤まで続いていた少年の成長の物語は、最後宗教の絶望の物語へと幕を変える。一見ハッピーエンドととれなくもない映画の終わり方は、どうしても絶望の道筋にしか見えなかった。









うまくまとまらない…(/TДT)/

あらすじまみれになっちゃうなぁ。あと無駄に長い。

また書き直そう…。



太宰治の「パンドラの匣」と「トカトントン」を読みました。
「戦後」という空気をビリビリ感じました。
戦争が終わり、何もかも新しくなるという「希望」と、敗戦という「虚無」。
戦争は良くも悪くも、知らぬ間に人々のあらゆる行動の理由であり、拠り所になっていたのだと思います。

「トカトントン」は色々自分の身の振り方を考えさせられる話でした。
拠り所が無いのは大学生も同じかもしれない。

前回は普通に映画の感想書いてしまったけれど、
今回は森見登美彦の「新釈走れメロス」みたいに
大学生ver.で自分なりの解釈を表現してみたいと思います。

●国、さらには●ルチの人しか判らないネタも
多数出すかも知れません。

本当に最後まで書けるのか、書いてもどれくらい時間かかるのかわかんないけど
とりあえずやってみようと思います。

今日書いた分↓

$続・批評 コラムを書く
マリー・アントワネット (通常版) [DVD]/キルスティン・ダンスト,ジェイソン・シュワルツマン,アーシア・アルジェント

¥3,990
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映画「マリー・アントワネット」

これは、「歴史上の人物」としてのマリー・アントワネットをとことん削ぎ落とした、新しい視点の映画である。
したがって、所謂「歴史もの」とは異なる。全体的に軽いタッチで進み、明るくコミカルな印象であり、実際のヴェルサイユ宮殿で撮影された映像は見ているだけで贅沢である。日本の作品で言えば、今やってる大河ドラマ「江」に少し近いかもしれない。

一国の王妃でもなく、贅沢好きの悪女でもない、純粋な10代、20代の女性としてのマリー・アントワネット像。時代も国も全く違うのに、華やかなドレスを身に纏った彼女の中に、私達は「女子高生」あるいは「女子大生」を見出すことが出来る。彼女の関心事は国の行く末や夫の仕事のことではない。夫との性生活、王子を産むこと、オシャレ、夜遊び、恋愛、友達、ライバル、遠くにいる口煩い母親、そういうものなのである。
朝まで飲み明かしたり、合コンしたり、私達の時代と同じ「ひとりの女性」ということが前面に主張され、彼女はどこまでも愛らしい存在として描かれる。音楽も、いかにも優雅なクラッシックではなく、ポップで元気な曲で彼女のイメージを作り上げている。

物語では「フランス革命」を思わせるシーンはほとんど出てこない。あるのはマリー・アントワネットの視点からの「なんだかよくわかんないけど大変らしい」とか「なんだかよくわかんないけど怖いことが起こっている」という感覚だけである。自分を可愛がり、認めてくれていた人が離れていくことを暗示するオペラ会場のシーンが印象的だ。彼女は民衆の暴動によって身の危険を感じているのではなく、身近な貴族の反応によって自分の居場所が危ういことを察知するのである。あくまで「歴史」ではなく「マリー・アントワネット」を主人公に据えた脚本だと思った。

一家がヴェルサイユ宮殿を離れるところで物語は終わり、やはり具体的な革命には触れずに物語は終了する。中途半端なようにも感じたが、やはりヴェルサイユを離れる時点で彼女の物語は終わらざるを得ないのだろう。なぜなら、この先彼女は宮殿にいた頃のように華やかな存在ではいられないからである。
もはや彼女は主人公ではない。この日を境に主人公は民衆に移った、ということだろう。