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マイケル・ベイ監督の『トランスフォーマー ダークサイド・ムーン』を観てきた。(上部に張り付けた物は第一作のものです)約二年前に3D映画の封切り作品として話題になった『アバター』をうっかり2Dで観てしまった僕は、今までずっと初めて3D映画を観に行くタイミングを逃していた。そして、一作目から全て観ている『トランスフォーマー』シリーズの最終章でようやく3D映画デビューを果たした訳だ。デビュー戦を華やかな物にする為、映画館は最上級の設備を誇る川崎のIMAXシアターにわざわざ足を運んだ。最初の3D映画で後悔すると「二度と3D映画なんて見に行か!」とねじ曲がった僕が言いだす恐れがあるからだ。
この『トランスフォーマー』シリーズ、僕はいい意味で最強の『出オチ』映画だと思っている。作品に登場する金属生命体『オートボット』は通常は人型だが、車や戦闘機、家電製品など身近な物に『トランスフォーム』して我々の生活の中に溶け込んでいる。オートボット同士の戦闘が始まるとき、彼らは車の状態で街を猛スピードで走り抜け、車が飛び上がったと思うと宙に浮いている間に車からロボットに一瞬でトランスフォームする。着地するのと同時に敵に殴りかかっているのだ。この一瞬を見せる、いや“魅せる”ために用いられている演出がなかなかえげつない。車が宙に浮いた瞬間に、『マトリックス』のかの名シーンのようにオートボットの動きをスローモーションで見せるのだ。それと同時にBGMや効果音が小さくなりロボットのパーツが組み替わるかしゃかしゃという音だけが僕の耳に届くようになる。オートボットは主人公の頭上を通過し、着地した瞬間にスローモーションが終わる。変形が終ったその大きなボディをしなやかに動かし、敵につかみかかる。
僕がこの映画を見たくなる唯一の理由がこれだ。ロボット同士の戦闘が、たまらなく格好いい。立体になった彼らがスクリーンでスタイリッシュなトランスフォーミングをした瞬間に、僕がIMAXシアターまで足を運んでまで成し遂げたかった目的が達成されてしまった。ロボット達ががしゃんがしゃんとパーツを動かして変形し、街中を舞台に延々と戦闘を繰り広げていてくれればなにも言う事は無い。正直、ストーリーなんて二の次で構わない(実際に、本シリーズの二作目は第30回ゴールデンラズベリー賞で最低映画賞を受賞している)し、いつのまにか前二作で主人公が自分と運命を共にした恋人の女性にフられていたなんて設定(僕は言葉で説明されるまでヒロインが変わっている事に気付かなかった)はどうでもいい。
このロボット達の戦闘が僕の童心を鷲掴みにする訳は、そのえげつない演出の他にも『ロボット達のサイズの丁度良さ』があると僕は思っている。メインに登場するロボット達の中では丁度中間くらいのサイズであるハンブルビーはその身長4.9メートルである。かつて僕が大好きだった東宝映画のビルと同じくらいのサイズである怪獣たちとは歴然とした差がある。ジャンルこそ違えど、この『地球の侵略者のサイズダウン』は人間の存在価値を上げ、作品を日常と地続きの物として観客達に伝えるために大きな役割を駆っている。
日本中で親しまれている怪獣映画のストーリーはほとんどがテンプレート化したものだ。敵怪獣が出現し、シリーズの主人公となっている怪獣も出現し、都市を舞台に戦う。そして、敵怪獣はやられ、勝った怪獣もどこかへ消えていく。この一連の中には、“人間”が全く登場しない。自衛隊が登場して怪獣に一斉攻撃を仕掛けても全く効果は無く、結局踏みつぶされてしまう。人間が何度か怪獣を倒した事もあったが、それは対怪獣用の決戦兵器やオリジナルの技術を用いた物であり、SFに近い物であると言える。怪獣映画における人間は、あくまで怪獣同士が戦う理由を作るための舞台装置でしか無いのだ。対して、『トランスフォーマー』の作品中には、オートボット達が人間に破壊されるシーンが数多く描かれる。しかも、用いるのはSF的な架空の兵器では無い。ミサイルやライフル銃をオートボット達にひたすら打ち込み、やっとの思いで破壊するのだ。オートボット同士の戦闘でピンチに陥った味方を人間が助けたり、作戦の上で共闘したりと、『トランスフォーマー』ではただの異星人同士の戦いでは無く、人間という存在が舞台装置以上の役割を果たす。これは侵略者が人間の立ち向かえるサイズまで小さくなったからこそ実現したものだ。
『トランスフォーマー』では、人間の目線でオートボットを見上げるシーンが数多く存在する。先述したように飛び上がる車を下から眺めたり、自分を捕まえようとするオートボットの又下を潜ったりと言ったカットが何度も見られるのだ。オートボットと人間が戦闘する場面では、ほとんどのカットが人間の視線からオートボット達を見上げるように撮られているのだ。我々はオートボットに追われている人間と同じ視線に立ち、追われる事になる。日常生活と同じ視線の高さのまま、映画の中に入って行く事ができるのだ。対象が大きすぎて見上げる事すらままならない怪獣映画で日常生活の視線を維持するのは不可能である。
蛇足だが、この日常生活の視線というのはゲーム『モンスターハンター』でも用いられている物だ。このゲームの序盤では、我々はモンスターと戦闘をする訳ではない。広大な自然の中を駆け回り、簡単なミッションをこなしながら操作やシステムに慣れて行く。その時間を長く持つことで、プレイヤーの視線と操作しているキャラクターの視線が一致し、文字通りプレイヤーは世界に入り込んで行くのである。そして、ようやく巨大モンスターと合間見える事になる。『モンスターハンター』に登場するモンスター達は他のRPGに登場するモンスターと比較すればそこまで巨大な物では無く、オートボット達と同程度のサイズである。しかし、我々は既に操作しているキャラクターと視線が同じ位置に来ているから、そのモンスターを見た時の驚きは通常のゲームとは異なったものである。自分の日常生活の中に入りこんできた異物に恐怖し、逃げ回る事になる。『トランスフォーマー』の人間達と同じように。
中盤まで、これを3Dで見に来るのは間違ったのではないかと思っていた。3Dで表現される“我々が住んでいる世界”は至って普通のものだ。やはり3Dの良さは『アバター』のようにリアリティ溢れる異世界を作り出せるという所である。しかし、物語の後半で描かれるオートボットと人間の戦いはなかなかの迫力だった。二時間を超える作品だったが、ハリウッド映画らしく退屈する事も無く最後まで観る事ができた。
怪獣映画、ロボット、モンスターハンター。僕が文章中にちりばめた単語のどれかひとつでもピンと来るものがあった方は是非、『オートボットが車から人型に一瞬で変形して敵に突っ込んで行く』シーンを観てもらいたい。童心に帰って興奮する事、間違い無い。オートボットが戦闘するシーン以外は別に飛ばしても構わないから。
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新しい試みとして、第一回で自分が決めたルールを壊して映画感想です。
ルールは壊すものですよ。