最近とみに東アジア主に中国の強大化による脅威が高まる中、日本もどんどん右傾化している。
そんな中、また最近ちらほらと聞かれるようになっているのが大和民族なる言葉だ。
私はこの蒙昧無知の塊とも言える大和民族なる表現が嫌いです。
というのも多くの方が大和民族というと、どうも日本列島単一民族という捉えをしているからである。
これは戦前の皇国史観教育のなごりだと思われるが、現代のこの時代に未だそのような考えが残っていることが不思議である。
また、このような考えが残ってしまう原因として、よく欧米の方に指摘されることだが、日本人は自分達の歴史や成り立ちや政治についてあまりにも不勉強であることが原因と思われる。
学校教育、つまり普通の学校の教科書にもきちんと日本人のなりたちや歴史は書いている。
書いているのだが、教師がその書いていることの意味をちゃんと伝えていないのだ。
日本列島には大陸と地続きだった頃にナウマン象を追って人が入ってきた。
そして氷河期が終わり、日本海が出来、列島が形成された。
そして地球が温暖になり、列島は温暖で湿潤な気候に恵まれ豊富な植生が形成されていく。
その中で縄文人といわれる人達が狩猟採集を基礎とした生活を営んでいった。
縄文人は非常に優秀な焼き物、木工、漆工芸の技術をもつ人達であった。
この文化が忘れ去られず、現在も引継がれ進化してきたこと、このようなことこそが日本人の誇りなのだ。
そして古代中国において殷、周時代が終わり、春秋戦国時代が始まる。
基本的に中国人のことを漢民族というが、この時点では中国は未だ一つの民族に集約されていなかった。
黄河流域を中心に畑作や騎馬民族の風俗が色濃い人達と、
長江流域を中心に稲作と航海が得意な海洋民族の風俗が色濃い人達があった。
この二つの大きな勢力がぶつかりあったのがこの戦乱のように思う。
この戦乱の中、南方にあった呉、越という国が滅びる。
呉越は中国において南方の海洋民族を形成する中心的な人達であった。
この人達の風俗は体に分身(刺青)を入れ、ズボンを履かない前開きの衣服を着る。
稲作を行い、漁労や航海の技術を使った交易を得意として人達であった。
国を滅ぼされた彼らは難民として船で各地に散っていった。いわゆるボートピープルとなる。
中国を南に下った一団は現在のベトナム北部に故国をしのび「越」の後裔国を建国する。
古代中国の史書では百越と表現されている。
そして一部は山東半島を経由し、朝鮮半島に逃れ、朝鮮半島を経由し日本列島の北部九州や日本海側沿岸にたどり着く。
そしてこの人達が列島で稲作を始めることにより弥生時代が始まったのである。
古代中国の史書にいう倭人である。
この壮大でダイナミックな人の移動を教科書では「江南系中国からの渡来人が」などの一文で片付けてしまう。これが歴史の教育をつまらなくし、教養の低い大人を産出する現代教育の悪癖である。
一応、卑弥呼が登場する段ではさすがに日本の教科書もちゃんと後漢書東夷伝や魏志倭人伝にて、我々の先達である倭人の風俗について書かれている内容を記している。
魏から来た使者は倭人の風俗として分身(刺青)を入れた人達だったことなどである。
そう日本が誇る稲作文化はパンジャーブで生まれ、長江流域で醸成され、戦乱の中に海を渡り、育まれた偉大で壮大な物語をもつものなのだ。また稲と共に歌垣の習俗も引継いでいる。
巨大な歴史の渦の中で、どれだけの苦労があったことだろう。
そのおかけで現代の我々が美味しいお米を頂けていること、これこそが日本人が知るべき主食の歴史であると思う。
これらが理解できていれば、減反政策なるものがいかに日本人を馬鹿にした愚策であるかも分かる。
別の言い方をすれば、稲作を通して日本という国を造成してきた先達の努力を無に帰するようなものなのだ。
良く勘違いされる方がいるが、日本人は農耕民族だから温和で非戦闘的なんだという方がいる。
これも全くの無知の所産である。
いわゆる戦争の発生は農耕の発生に由るものである。
基本的に狩猟採集の生活において戦争など発生しない。
農耕が発生し、生産力がついてくると余剰生産が発生する。
ようは作った分が食べる分を上回るのである。
この食べあまった分が富の蓄積となる。
この富の蓄積が起こるとどうなるのか?
農耕に従事しなくとも良い人達を食べさせることが出来るようになるのである。
そして神官や王が生まれる。
芸能や工芸に専念することが出来る人が発生し文化が芽生える。
そして兵を養うことが出来るようになるのである。
また、最も戦争に発展する理由。
それは農耕には広大な土地が必要となること。
そして水が必要になること。
の2つがある。
現在起こっている戦争の原因も多くはこの二つを求めて国家間が戦うものが多いのだ。
一度農耕により国が出来、その発展が進んでいくと後戻りしていくことは無いようだ。
そして日本列島でも北部九州から都市国家が芽生え、どんどんと広がっていった。
初め北部九州ではじまった稲作はどんどんと東に東にのび、関東まで広がっていく。
そして初め点で存在していた各都市国家は、どんどんと土地を開墾し領域を広げていく。
その広がっていった先で隣の国家と境を接するようになると、そこに戦争が発生していく。
この大きな流れが弥生後期の争乱の時代をつくっていったのだ。
歴史では倭国大乱と表現される。
そして争乱の果てに、これを収束させる手段として戦いではなく卑弥呼という共同の祭祀君主を戴くことで解決を見るのである。争いの果ての滅亡を避けさせたこの手法も素晴らしい日本人の叡智だと思う。
そしてこの祭祀王を共立する合議による国家運営手法が、後の天皇制に繋がっていくのである。
私見だが、この国家運営の手法は正に「和(倭)の精神」を具現化されたものと思う。
倭は和となり、大いなる倭が大和であると思う。正直、現在の日本という国号よりも大和こそが国号にふさわしいと思っている。
大和という国家に纏まっていったこの大きな潮流の根底には、争いを避けみんなで繋がろうという想いがあったと私は思いたい。この想いの象徴として同一の祭祀王(天皇)を皆で戴いているのだ。
よって本来は天皇家は別に万世一系でなくても良い。
もともとはあまり血統になどこだわっていなかったと思える。
では何故のちの天皇家のように血統を大事にする考えが芽生えたのか?
ここには北方騎馬民族の風俗の影響があるのではないかと思える。
弥生後期には卑弥呼(ひのみこ)という祭祀王を共立し、魏への朝貢も成功させ親魏倭王の称号も得る事ができ、邪馬台(やまと)という一定の纏まりができた。
倭国はある程度の安定した時期を迎えたと思われる。
しかし、その安定の礎であった魏が綻び中国の情勢が非常に不安定になって行った。
特に朝鮮半島では強大な中華帝国の抑えが無くなり、各北方民族の動きが活発になって行く。
そして中国東北部から満州にいた北方民族が南下し朝鮮半島に流れ込んで各国家の形成を進めていった。
そんな中で元々朝鮮半島にいた人達はどんどん南に圧迫され、最終的には海を渡り列島にやってきたことと思う。
特に朝鮮半島南部については元々は同じ倭人であり、弥生時代の稲作が盛んになるにつれ農具の必要性から鉄を求め盛んに交易を行っていった。
交易では列島の倭人が鉄を求めるのに対し、朝鮮半島の倭人は列島の宝である玉(翡翠)を求めた。
だから今日でも貨幣のことを日本では金(金属、要は鉄)、朝鮮ではトル(宝石、要は翡翠の玉)というのだ。
列島では朝鮮半島の製鉄技術を持った人達を迎え入れることに大歓迎であったろう。
列島には稲作に適した温暖で湿潤な気候と、何より河川が多くあり潟といわれる湿地帯が広がっていた。
無いのは、これらを造成するのに必要な農具につける鉄の刃なのだ。
この製鉄技術を手中に収めることで倭国は更なる発展を遂げていく。
そして日本でこの製鉄が最初に行われたことが確認できているのが丹波であり、主に日本海側となる。
当初、北部九州が倭国の中心であったが、この頃からパワーバランスが崩れていったのではないかと思われる。そしてこのパワーバランスを取り戻すべく北部九州は瀬戸内から太平洋側に向けた進出を急いだのではないだろうか?
これが突如として瀬戸内から大阪淀川や大和川流域に高地性集落が現れる要因だったのではと思われる。
しかし北部九州勢の焦りとは裏腹に、朝鮮半島の情勢は更に北方系民族の南下が進んでいった。
そして朝鮮半島南部までこの北方系民族の勢力は達してきた、更に圧迫された朝鮮南部の人達は集団で渡海し列島に渡ったのではないだろうか?
どうもこれらの事跡が日本の正史である日本書紀や古事記に描かれる天孫降臨の事象に反映していると思われる。
そしてその北方系民族の南下と勢力の強化が続く。
その結実として、扶余から高句麗の建国、そして百済の建国と繋がっていく。
そしてそれらに対応する形で新羅、加羅諸国という国が形成されていったと思われる。
新羅や加羅は北方系と南方系の混血であったと思われる。それは建国神話にも現れている。
大勢の方が言われるように私も現在の天皇家の祖はこの時期の加羅(任那)からやってきたのではと思っている。
多分、記紀にいうスサノオノミコトがこれに当たる。
もうちょっと具体的な名前で言うと天日矛(ツヌカアラシト)であると思う。
天日矛は記紀では加羅(新羅)王子であると言う、そして敦賀(鶴賀、角鹿)の地名由来になっている。
朝鮮より渡来し、国を求め出雲の大国主を戦った事象が残されている。
また、この日本海側には新羅系の神社や朝鮮系の地名が非常に多く残っている。
天日矛は朝鮮からの渡来系氏族と土着の弥生勢力(大国主の勢力)を統合し北部九州と対立したと思われる。
最終的には北部九州の女王(卑弥呼である必要は無い。能力のある巫女を祭祀王として代々女王をたてていたと思われる)と婚姻を結ぶことで連合王家を成立させたと思う。
これが記紀神話でいうスサノオと天照の誓約であり、神話ではこの誓約により天皇家の祖が誕生しているのである。
しかし、記紀は実際にはこの出来事を古くするために同じ話しを何代もに分解していると考えている。
私は神武と継体天皇は同一人物で、且つ天日矛及びスサノオも継体天皇と同一人物ではないかと思っている。
何故なら継体天皇が即位したというこの時期に朝鮮半島と列島内に大きな動きが見られるからだ。
この大きな動きとは、北方系騎馬民族である扶余族の高句麗が強大となり、また同じ扶余族の百済が南下し加羅を圧迫した。
そしてこの圧迫により倭は百済に4県を割譲したことになっているが、実は侵略されたと考えられる。
この時に押し出された人達が列島に向かったと思われる。
そしてその勢力が北陸に上陸し勢力をはっていく。実はこの勢力も高句麗や百済と同じく扶余系の王族を戴く人達であったのではと思う。また、国内では筑紫君磐井が九州で新羅と結び反乱を起こしている。
最終的に乱を治めるが、継体天皇が大和に入るまで実に長い時間を要しているように書かれているのには、要するに容易に政権を確立できなかったことを意味している。
荒唐無稽な筋書きに思われるかもだが、あらゆる物証がそれを後押ししている。
〇日本神話(天皇家の天孫降臨神話)と金官国加羅の王の建国神話はほぼ同じ内容。
〇突如として大和(奈良)を中心とした国家ができる。そして古墳時代に突入。
この墓制は吉備・東海・北陸と九州の副葬の慣わしが合体したもの。つまり連合国家の成立を物語る。
〇スサノオ(天日矛)を祀る熊野大社の神使はヤタガラスであり太陽神の化身。
これは扶余王族国家である高句麗の紋章。また高句麗王も太陽神の化身であるとしている。
つまり日本の日嗣御子と同じ考え方。
〇この時期に大量の渡来人がきている。
〇王家の血統を重んじる風俗→北方騎馬民族の王家の考え方。
中国は実力をもつものが政権を奪取する。血統で王家を繋ぐ考え方はない。
〇継体天皇がでた福井等の北陸からは、半島出自の遺物が多く残されている。
特に王冠などは、日本で始めて採用されていたと思われる。
〇神話で天孫が着る衣服(白い衣服、ズボンを履きで裾を絞る)や髪型(みずら)は倭人の習俗ではなく北方騎馬民族に見られるもの。
ようは馬に乗るのに適した格好。
〇近畿地方は古朝鮮の地名で一杯。
〇百済の植民地(熊本の玉名、淡路島、大阪の淡輪)まであった。
また、継体天皇の諡号である継体とは、倭国からつづく祭祀王を共立する合議による国家運営体制を引継いだことを意味していると思われる。そしてこの継体天皇から欽明天皇、聖徳太子の時代に向かい国内は大和として一つに纏まっていった。
中国も統一国家が出来、東アジア全体が安定するこにより交易が盛んになり、シルクロードは活況を呈したろう。遠くギリシャ、ペルシャの文物や人がシルクロードを通り、日本までやってきた。
ギリシャの神殿の柱の様式は、聖徳太子建立の法隆寺の柱に影響を与えた。
ペルシャで発達したガラスの工芸の技法は今の日本にも生きている。
そして様々な宗教もやってきたと思われる。
記録ではペルシャ人の医師もやってきていたようだ。
様々な文物や人が日本にやってきて魅力的な国となったろう。
そう日本はグローバルプレーヤーであったし、決して列島で延々と鎖国をしてきたような民族ではないのだ。
我々の先祖は、古モンゴロイドの縄文系(琉球や隼人、蝦夷、アイヌの人達)、弥生系(中国江南系)、北方系(朝鮮を経由した人達)、もしかしたらギリシャやペルシャやステップロードにあったオアシス国家など様々な人々である。
決して、単一大和民族なるものがあったわけではないのだ。
だから民族の差別や血の差別は非常に醜い哀れなものと思う。
それは自分自身を貶めることなのだと歴史を勉強すればよく分かると思う。
また日本でオリンピックが開催される。
その頃には蒙昧無知な日本人が一人でも減っていることを願って。