いにしえの徒然ブログ ― 古代史のロマンを求めて ―

いにしえの徒然ブログ ― 古代史のロマンを求めて ―

なぜ大和朝廷発祥の地で、その支配者たる天皇家の祖神である天照大神を祭っていないのか?
伊勢神宮はなんなのか?
等など素人の視点からの疑問を綴っていきたいと考えております。

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最近の日本での考古学的発見の一つに奈良の藤原旧跡より国内最古の憧幡遺功が発見がありました。これにより続日本紀で記された通り「正面にカラス、東側には太陽・青竜(せいりゅう)・朱雀(すざく)、西側には月・玄武(げんぶ)・白虎(びゃっこ)の計7本」の旗が天皇の威光を示すように建てられていたことが証明されました。

 

特にこの旗の中でも示唆に富むこのが中央に建てられたヤタガラスの旗で

ヤタガラスが天皇家のシンボルを表すものであることが分かります。

ヤタガラス(三本足のカラス)のモチーフは古代中国でも見られ、太陽の化身の象徴とされており、つまりヤタガラスは太陽の化身であり、また太陽神の神格である天照大神を表していることが分かります。

 

またヤタガラスの神紋といえば熊野本宮大社が有名ですが、

祭神であるスサノオ命と天皇家の関係については日本神話でも語られるとおり

天照大神の弟神であり素行の悪さから天界から地上界に落とされた神様です。

しかし、地上界に降りたスサノオ命はその後大活躍を見せ国造りに励んでいます。

 

そのスサノオ命の神裔が大和を神武天皇に禅譲したウマシマジ命となります。

このウマシマジ命の父が天皇家以外で天孫降臨神話を持つニギハヤヒ命とあり

正式尊号は天照国照彦火明櫛玉饒速日命となるのです。

私見ではこの方が元々の天照大神であると考えています。

記紀でもニギハヤヒ命が祭られる大三輪大社から三種神器である太陽の神格を現す

ヤタノ鏡を分霊し最終的に伊勢神宮に御祭したことからも、

所謂天照大神とはこのニギハヤヒ命であったことが分かります。

またニギハヤヒの命は天火明命のことともされ、

正に太陽の神格を持った方のお名前であることが伺えるのです。

 

天皇家が直系の先祖ではなく、母方となるウマシマジ命の霊格となる

太陽神格を継承していることは古来より大和の大王家が日嗣御子といわれることと無関係ではないと思われ、特にこの日嗣御子の日(太陽神の霊格)嗣こそが国の魂を引継ぐ正統の王の条件であったということが伺えます。つまり例え如何に武力が優れていても大和の王となる為には、太陽神格を引継ぐことができなければ大王とは認められなかったことを表していると思われます。この流れは近代まで天皇制が日本に残った大きな要因であったと思われるのです。

 

また邪馬台国大和説で話題の巻向遺跡ですが、近年の発掘により広大な都であったことがわかってきており、且つ農耕具の類が発掘されない祭祀に特化した都であったことがわかってきまました。

 

また、発掘された遺物である土器が吉備、東海、北陸、山陰などかなり広い範囲からのものでありここに各地の豪族を束ねる祭祀王が君臨しいたことがわかってきています。

この祭祀王のあり方は現在の天皇家にも引継がれるものでわが国にとって非常に大きな意味を持ちます。

 

私は魏志倭人伝にいう邪馬台国がこの巻向か否かは別として現在まで続く日本の王のあり方の基本がこの巻向の時代に既にその祖形をなしていたことに大きな関心を持っています。

 

何故古代の大和が祭祀の中心とされたのか?

 

奈良県出身の私からしても非常に不思議で、、、

何が不思議かといえば、巻向は聖地とされる三輪山の麓に形成されていますが、

この三輪山って見たことのある方だとご賛同いただけると思うのですが

非常に小さい小山で、ぱっと見ても何か山としての凄さを感じることがないのです。

 

富士山、御岳、白山などなど、、、山岳信仰のあるこれらの山は

威容すさまじく見る物を圧倒する山ですが、

三輪山にはそのようなものは何も感じません(不敬ですみません、、、)

 

とすると、この三輪山は山自体に信仰の対象がある訳ではなく

信仰の対象となる何者か?が眠っているのではないか?

もしくは代々の祭祀王が葬られた山なのではないかと思えてくるのです。

 

故に皆はこの山を畏れ敬い、この山の麓に祭祀王の都がおかれてきたのではないかと考えています。

 

昔から三輪山はピラミッドではないか?などのトンでも話しがありますが

最近巻向の発掘が進むにつれ本当にある意味そうなのかもと前述の考えが浮かんできました。

 

歴史作家の関祐二さんが天皇は祟る恐ろしい方だから畏れ敬われたという考えをしていらっしゃいますが

私も同感で、今後さらに発掘が進めば、あるいは三輪山の発掘が可能となれば

とても大きな発見が出てくるのでは?と大いに期待しています。

 

全国から参集した首長が平伏す太陽の現人神である祭祀大王は一体誰だったのか?

またそれだけの信仰を集めることができたのは一体何が要因であったのか?

 

全国から参集するということは、それだけ広範囲の人たちに多大なご利益を与えることが出来たのだと思われますが、それは一体なんだったのか?

 

今後の小職の宿題として考えて生きたいと思います。

両面宿儺(りょうめんすくな)は上古、仁徳天皇の時代に飛騨に現れたとされる異形の人。
魏石鬼 八面大王 (ぎしき はちめんだいおう)は、長野県の安曇野に伝わる伝説上の人物。


どちらにも共通するのは時の大和朝廷によって征伐されたということ。
また、どちらとも頭や腕が複数ある怪人の姿で描かれていることである。
この姿、わたしには仏教で言う阿修羅やインド・ペルシャの火の神アグニとかぶるのです。

もしかすると古代飛騨や信州の地域にインドやペルシャからの渡来人が住み着いていたのではと思えるのです。


         (両面宿儺)                  (阿修羅像)

      (アグニ)



この伝承だけをもとにすると心もとないのですが、飛騨で有名な御祭の際に引き回す山車ですが、
この山車はヒマラヤ山脈周辺の遺跡などにも石に彫られていることが確認されています。


宗教や文化の伝播としてはインドからの影響が多大にあったことは間違いのないことですが、
日本書紀や古事記の伝承として大和朝廷が征服する以前の飛騨地域や信州にインド圏の影響をうけた
人たちが住んでいたといたとすればどうやってやってきたのか?


シルクロード経由か?海路をやってきたのか?

いづれにしてもとんでもない長い旅をしてきたことは間違いありません。


ですが、この小生のとんでも説を補強するものとして日本列島のお隣の朝鮮半島の最南端に古代に存在した国である金官加羅国という国を建国した首露王の王妃「許黄玉(ホファンオッ)」は、インドアユタヤから
西暦48年、王女16歳のとき、船に乗り、伽耶の国へ首露王王妃として嫁ぎ、189年になくなったと言われています。


現在でも、首露王の金海金氏と首露王妃の許氏の結婚は禁じられているそうです。
また、首露王妃陵は1641年に改築されて今の形になり、境内には内三門、外三門、紅箭門などの建物や王妃陵を見て右側に婆娑石塔(パサソッタッ)というものがあります。


(プサンナビより抜粋)

西暦47年といえば日本では第11代垂仁天皇の時代、ようやく神話世界から一歩踏み出した頃にお隣の朝鮮にはインドから王妃までとついで来ていたことを考えると日本にインドからの渡来集団が飛騨や信州に国をつくっていたとしてもなんらの不思議もないようにも思えます。


最近思うのですが、なんの言われも関係もないところに煙はたたないというか、、、

やはり伝承や風俗習慣、文化は人の移動なくしてはないということなのでしょうね。

日本列島の太平洋上を流れる黒潮。


ご存知の方も多いかと思いますが、黒潮は世界最大の海流でフィリピンの海上で誕生し、太平洋を北上し日本列島の中央部以北まで到達する長い長いたびをする海流なのです。


古来からこの黒潮は人や物、文化を運んできたことは確認されていますが、最近小生の在地の郷土史家の方とお話しする機会があり遠くポリネシアからも日本列島に人がやってきたのかもと考えさせられました。


小生の在地の名産品に海老芋というサトイモの一種があります。
海老芋といえば京都知恩院前の平野屋本家の「いもぼう」が有名で、京野菜の代表各の野菜ですね。


この海老芋、実は京野菜として有名ですが生産の8割以上が静岡県磐田市なんですね。
でこの海老芋はずっと京都に自生していたのかというとそうではなく、いもぼうで有名な平野屋の初代が九州からもちかえった唐芋(とうのいも)がもとだそう。


先ほどの郷土史家の方は実は海老芋農家さんであり、小生は海老芋を貰いに行った際にこの海老芋の歴史を聞かされるはめになり…
(もっとも結果として凄くロマンのある素敵なお話しでしたが)。

郷土史家の方曰く、この海老芋は種類としてはセレベス系の品種で原産地はインドネシア周辺で、黒潮に乗って人が日本列島に運んできたに違いないと考えているとおっしゃっていました。
サトイモの原産はマレー半島で、最近の研究では縄文時代に日本列島に入り栽培されてたことが確認されているそうです。
で、史が曰くきっとこの芋は黒潮の流れに沿って九州南部に上陸し、そこから各地に拡散していったとかんがえており卑弥呼さんも食べていたに違いないとおっしゃっていました。


つまり古く縄文時代に遠く東南アジアから船に乗って渡来してきた一団がいたということです。
すごくないですか!?


驚いてしまったのは小生の不勉強のせいのようで…所謂ポリネシアンと呼ばれる環太平洋諸島に住む皆さんは我々と同じモンゴロイドなのだそう。
どうやって拡散していったのか?については諸説色々あるようですが、確かなのは卓越した航海技術をもっていたということ。


面白い説では、太古に存在した古モンゴロイドの発生した大陸である失われたスンダランドが海に没した際に発生したボートピープルではないかとの説もあります。

その中の一団が黒潮に乗り日本列島にやってきたのかもしれません。

そう考えると、記紀に登場する南方海洋民族の匂いの強い隼人の人たちのルーツや、海人と呼ばれる人たちの風俗にも納得がいくのです。
また遺伝的にも南九州と台湾の高砂族はポリネシアンと近い形質をもっているそうです。


隼人が使う隼人盾の文様、あの文様からはポリネシア文化と共通する趣が感じられます。

隼人盾


また隼人が得意とする竹細工。この竹の文化圏も実は東南アジアから南九州の範囲になるのです。
また竹取物語や天の羽衣伝説なども実はポリネシアから東南アジマまで広くその祖形を見出すことが出来るそうです。
また裸に腰蓑ひとつを付けて行う見付の裸祭りという御祭がありますが、海の民の雰囲気を往々に感じられます。



また奈良の飛鳥にある猿石。あの雰囲気は小生むかしからエキゾチックな印象が強かったのですが、その造形的ルーツはポリネシアンの共通のものなのかも知れません。




記紀では隼人の祖は天皇家の兄の系譜と位置づけられ、大王の近習として傍に仕えていたとされており丁重に扱われているようでもありますが、反面たびたび反乱を起こす困った存在としても描かれています。また南九州から京都に多く強制移住させられたような痕跡もあり不思議な関係が垣間見えます。


これは支配者からみた海の民への畏怖心が大きかったのではと思います。


日本列島の支配者となったものたちは基本的には稲作農耕民の王であり、農耕耕作地の広がりと共に拡大する王権の集大成が天皇家というまとまりです。
つまり国の根底は農民であり、土地に縛り付けることで支配が容易な者達でした。

しかし海の民には定住地が必ずしも必要ではなく、なんとなれば船にて容易に支配地を飛び越えてしまう。

このような支配しずらい存在を纏めるために海の民の代表として隼人を大王家の傍に仕えさせ、また系譜上も大王家の兄の家としたおのでしょう。
また、初期神話において大王家が積極的に海神の娘を后に迎えていることにも表れていると思います。


日本は基本的に海と山が近く、道路の発達しない古代では船が重要な交通手段であり、その交通を牛耳る海の民をうまく取込むことは日本列島を支配する上で非常に重要なことであったと想像できます。
そう考えると記紀の初期に登場する豪族の多くが海神系の安曇、和邇、鹿島、海部など水軍を担う者達であったことも納得がいきます。


きっと古代の水軍の主力はポリネシアからの渡来系縄文人の末裔が多く存在したのではないかと思うのです。もしかしたら、海神系といわれる豪族の中には縄文から続く系譜が隠されているのかもしれません。


我々の祖先は非常に多くのルーツを持つ人たちであることが実感できるお話しでした。
また日本人はともすれば農耕民族という捉え方をしますが、太古より世界にも有数の海の民であることも忘れてはいけないと思いました。

水戸光圀公の「この紋所が目に入らぬか?」でおなじみの三つ葉葵紋。


この三つ葉葵紋の由来については諸説色々とあるのですが、
その中の一説では、この三つ葉葵紋は賀茂大社の神紋が由来というものがあります。

元々三河地方は賀茂大社との縁がある地域のようで三河武士である本多家、酒井家、松平家などが葵紋を使用していたようです。
その中でも徳川家の前身である松平家は自身の氏を「賀茂朝臣」と名乗っており、賀茂氏の後裔であるとしていたようです。


ですが、徳川家は自身の氏を「新田源氏」としています。
これには理由があり、征夷大将軍になれる家門は清和源氏の血筋でなくてはならないという不文律がありました。豊臣秀吉が征夷大将軍になれなかったのもこのためでもあったので、徳川家康は自身の氏を源氏であるとする必要があった為と言われています。


しかし徳川家康は自身のルーツには愛着があったのか、それとも朝廷に対するあてつけか?
代々政権を担う征夷大将軍家などに対し朝廷から下賜される桐紋を固辞し、三つ葉葵紋を使用しました。


ここからは小生の単なる妄想ですので、全く史実とは関係ありませんのであしからず。


徳川家康が葵紋に固執した訳として、自身の本当のルーツを賀茂氏として強く認識しそのルーツや歴史をしっていたとしたら、、、
徳川幕府の成立は非常に痛快な出来事だったのでは?と思えるのです。


何が痛快なの?というところですが、この賀茂氏とは要するに現在の天皇家の初代である神武天皇が大和入りする前に大和の王であったウマシマジ命の後裔だからです。

記紀神話でも有名ですが神武天皇の東征により遠い昔に天皇家に禅譲し、大和の王であったウマシマジ命は自身は祭祀を司ることとするとしました。ですのでウマシマジ命の後裔家である大神氏、神氏、三輪氏、賀茂氏などは皆さん神官家となっています。


天皇家に攻められ、古にその政権の座を奪われた先祖にかわり自身が天下に幕府し政権を打ち立てることに成功した徳川家康。
そう考えると家康が三つ葉葵紋にこだわった気持ちが良く分かる様な気がするのです。


また氏を新田源氏としたままではありましたが、家康は本当の氏である賀茂氏を大事にするためからか京都賀茂大社に室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後、途絶えていた祭礼の復興のために祭料の支援を行ってます。


これにより京の風物詩として有名な葵祭りが現在にのこっているのです。


蛇足ですが、京の夏の風物詩である八坂神社の祭礼である祇園祭り。この八坂神社の祭神はスサノオ命で、賀茂氏の祖でもあります。

つまり徳川家康はスサノオ命の後裔でもあるとうことになりますね。

古代史というとその舞台はほぼ畿内~九州で、中部~東北はほぼ語られることは無い。

しかし、古代の日本を考える際に小生は古代の東海地方の存在は抜きにして考えられないのではないかと考えています。


なぜかと言えば、小生の考えでは古代史の古墳時代までのながれとして弥生時代後期に発生した銅鐸文化圏と銅矛文化圏という大きな二大潮流があり、その一翼を担った近畿~東海地域の勢力こそが天孫族に国譲りを行った大国主の故郷だったのではと考えるからです。


銅鐸は小生の考えでは水の神の依代であり、農耕民として水を重んじていた表れと考えています。
また、銅鐸に刻まれるトーテムである蛇もその性格をよく表しており、これは中国江南の稲作長江文化が引継がれているものと思うのです。
そしてこの蛇のとぐろを巻く姿が甘南備であり、銅鐸の姿ともかぶります。

稲作民にとっての川は正に命の源の恵みであり、また一変し濁流となり命を奪って行く荒ぶる神そのものであったと思います。


上古聖地と言えば、度々記紀に登場する三輪山ですが、三輪山こそは甘南備であり小生が思うに銅鐸文化圏の勢力の聖地であったのではと思うのです。
現在も三輪山には白蛇が祭られており、運がよければその姿を見ることができます。
小生の小さかった頃には三輪山に御参りにいくときには卵をお供えに持っていったものです。


で、東海地方とどう関係してくるのか?というと、この三輪山に関わる人物や神社が多く遠州にあるのです。


まずこの三輪山に祀られる神様であるオオナムチ尊(天照国照彦櫛玉ニギハヤヒ尊又、大国主命)を祀る神社が遠州一ノ宮の小国神社であること。
また、この三輪山の大神神社(おおみわ)の初代神官である太田直根子さんの末裔氏族である大神氏、三輪氏、賀茂(鴨、加茂)氏が東海地方には地名や人名として多く存在すること。
現在の浜松~駿東郡(伊豆含む)にかけ地名として賀茂や、賀茂さん、またひねりの効いた地名として県居(賀茂県主のことと思われる)。また賀茂間淵との縁もある。伊豆には賀茂郡があり、大和の葛城山と同じ名前の葛城山があります。
その伊豆の葛城山は、大和の葛城にて修行していた賀茂の役行者が左遷され修行した地でもあります。
さらに葛城繋がりでは雄略天皇が葛城山で出会った神である一言主神が記紀に登場しますが、遠州の磐田市には一言という地名があります。しかも隣は賀茂という地区という符号までみせます。
さらに大神神社に祀られるニギハヤヒ命の末裔が日本古代最大の豪族である物部氏ですが、古代この東海地方の国造家は物部氏の一党が多く存在します。
そして日本一「鈴木さん」の多い浜松市ですが、この鈴木姓もニギハヤヒ命後裔である熊野国造の姓なのです。


どうでしょう?
なんだか気持ち悪くなるくらいに三輪山の神関連と紐付くとおもいませんか?


また、この地域は遺物も多くのこっており多くの古墳が存在する地域でもあります。
特に浜松市浜北区には日本でも珍しい積石塚古墳(二本ケ谷積石塚群)が存在します。
この積石塚は朝鮮半島に見られるもので、このことは古くから大陸との交流があったことが伺えます。


また、多くの海神族の拠点があったであろうことも地名から伺えます。
渥美半島 → 北九州の安曇氏からきているとのこと
遠州鹿島 → 九州の鹿島氏からきているとのこと
熱海 → 安曇が訛ったとのこと
豊川稲荷 → 日本3大稲荷。秦氏(羽田)さんがいたと考えられる。


さらに弥生時代を代表する登呂遺跡もあり、この地域が古代の歴史舞台からまったくの野放図にされていることが不思議でなりません。

我々日本人はよく無宗教だといわれるが、あえて言うなら原始宗教に位置づけらる
自然崇拝や精霊信仰に近いものだと思われる。


「トイレの神様」を感じられる心というか感性が、日本人の宗教観の代表だ。


全ての事象に神が宿っているという感覚は日本人にとっては当たり前のことだが
一神教(キリスト教やイスラム教)の人にとっては信じられないのだそう。


特にキリスト教圏では、中世にヨーロッパの古い信仰を原初とする自然崇拝や精霊信仰
を行うものを魔女として抹殺した経緯がある。
魔女といっても我々が思い描くような人々とはだいぶんと違うイメージだったのだろう。


最近はすごく緩和されているように思うが、西洋の人にとってキリスト教化されていない
ということは未開の野蛮人を意味しているようだ。
日露戦争時のフランスのリベラル派の新聞でさえ、同じキリスト教徒としてのロシアを
熱烈に応援し、野蛮人の日本になど負けることはありえないという論調だった。


そう考えると今頃日本は明治の頃にもっとキリスト教化されていてもよかったように思うが、
やはりそうはならなかったのはこの日本人の宗教観のなせる技だったのだと思う。


日本人にとっては、仏さんもキリストさんもアッラーの神も八百万の神々のうちの一つなんだと思う。
どの神様のことも否定しないし、それぞれの神様のいいとこを都合よく信仰しちゃう。


文化文明についても神様と同じ感覚で日本人は取り入れちゃう。
食べ物にいたっては、これだけ世界中の食べられる国は珍しいそう。
生活様式も建築にしてもそう。
日本人ってほんと面白いと思う。


この節操の無さが日本人の形成に大いに貢献したろうなと思う。

元々は古モンゴロイドがいて、その人達が縄文人といわれる人達になって
次に中国河南系の人達が来て、土着の縄文人と混血して弥生時代になって
朝鮮から北方民族に圧迫された人達が沢山やってきて
シルクロード経由でも人はやってきたと思う。
とても雑多な生活様式の人がいて、それでも最終的に日本人として纏まっているのはこの宗教観のおかけだと思う。


他の国なら基本的に民族が融合せずに争い、どちらかを駆逐するまで戦いぬくことも珍しくない。
最近の戦争だって民族の違いが原因のものは多々ある。


日本人の欠点としてよく言われる曖昧さや、優柔不断ともとれる態度が争いを極度に避けることに貢献していると思う。
まあ勿論弊害も多々ありますが、、、。


スタジオジブリのアニメで伝えたいメッセージや想いにも、この日本人の宗教観が多々織り込まれていると思う。

いつまでも「トイレの神様」を感じられる日本人であったらいいなと思います。

最近とみに東アジア主に中国の強大化による脅威が高まる中、日本もどんどん右傾化している。

そんな中、また最近ちらほらと聞かれるようになっているのが大和民族なる言葉だ。

私はこの蒙昧無知の塊とも言える大和民族なる表現が嫌いです。


というのも多くの方が大和民族というと、どうも日本列島単一民族という捉えをしているからである。
これは戦前の皇国史観教育のなごりだと思われるが、現代のこの時代に未だそのような考えが残っていることが不思議である。


また、このような考えが残ってしまう原因として、よく欧米の方に指摘されることだが、日本人は自分達の歴史や成り立ちや政治についてあまりにも不勉強であることが原因と思われる。

学校教育、つまり普通の学校の教科書にもきちんと日本人のなりたちや歴史は書いている。
書いているのだが、教師がその書いていることの意味をちゃんと伝えていないのだ。


日本列島には大陸と地続きだった頃にナウマン象を追って人が入ってきた。
そして氷河期が終わり、日本海が出来、列島が形成された。
そして地球が温暖になり、列島は温暖で湿潤な気候に恵まれ豊富な植生が形成されていく。

その中で縄文人といわれる人達が狩猟採集を基礎とした生活を営んでいった。

縄文人は非常に優秀な焼き物、木工、漆工芸の技術をもつ人達であった。
この文化が忘れ去られず、現在も引継がれ進化してきたこと、このようなことこそが日本人の誇りなのだ。


そして古代中国において殷、周時代が終わり、春秋戦国時代が始まる。
基本的に中国人のことを漢民族というが、この時点では中国は未だ一つの民族に集約されていなかった。
黄河流域を中心に畑作や騎馬民族の風俗が色濃い人達と、
長江流域を中心に稲作と航海が得意な海洋民族の風俗が色濃い人達があった。
この二つの大きな勢力がぶつかりあったのがこの戦乱のように思う。


この戦乱の中、南方にあった呉、越という国が滅びる。
呉越は中国において南方の海洋民族を形成する中心的な人達であった。

この人達の風俗は体に分身(刺青)を入れ、ズボンを履かない前開きの衣服を着る。
稲作を行い、漁労や航海の技術を使った交易を得意として人達であった。


国を滅ぼされた彼らは難民として船で各地に散っていった。いわゆるボートピープルとなる。
中国を南に下った一団は現在のベトナム北部に故国をしのび「越」の後裔国を建国する。
古代中国の史書では百越と表現されている。

そして一部は山東半島を経由し、朝鮮半島に逃れ、朝鮮半島を経由し日本列島の北部九州や日本海側沿岸にたどり着く。
そしてこの人達が列島で稲作を始めることにより弥生時代が始まったのである。
古代中国の史書にいう倭人である。


この壮大でダイナミックな人の移動を教科書では「江南系中国からの渡来人が」などの一文で片付けてしまう。これが歴史の教育をつまらなくし、教養の低い大人を産出する現代教育の悪癖である。


一応、卑弥呼が登場する段ではさすがに日本の教科書もちゃんと後漢書東夷伝や魏志倭人伝にて、我々の先達である倭人の風俗について書かれている内容を記している。
魏から来た使者は倭人の風俗として分身(刺青)を入れた人達だったことなどである。


そう日本が誇る稲作文化はパンジャーブで生まれ、長江流域で醸成され、戦乱の中に海を渡り、育まれた偉大で壮大な物語をもつものなのだ。また稲と共に歌垣の習俗も引継いでいる。

巨大な歴史の渦の中で、どれだけの苦労があったことだろう。
そのおかけで現代の我々が美味しいお米を頂けていること、これこそが日本人が知るべき主食の歴史であると思う。

これらが理解できていれば、減反政策なるものがいかに日本人を馬鹿にした愚策であるかも分かる。
別の言い方をすれば、稲作を通して日本という国を造成してきた先達の努力を無に帰するようなものなのだ。


良く勘違いされる方がいるが、日本人は農耕民族だから温和で非戦闘的なんだという方がいる。
これも全くの無知の所産である。
いわゆる戦争の発生は農耕の発生に由るものである。


基本的に狩猟採集の生活において戦争など発生しない。

農耕が発生し、生産力がついてくると余剰生産が発生する。
ようは作った分が食べる分を上回るのである。
この食べあまった分が富の蓄積となる。


この富の蓄積が起こるとどうなるのか?
農耕に従事しなくとも良い人達を食べさせることが出来るようになるのである。

そして神官や王が生まれる。
芸能や工芸に専念することが出来る人が発生し文化が芽生える。
そして兵を養うことが出来るようになるのである。


また、最も戦争に発展する理由。
それは農耕には広大な土地が必要となること。
そして水が必要になること。
の2つがある。


現在起こっている戦争の原因も多くはこの二つを求めて国家間が戦うものが多いのだ。

一度農耕により国が出来、その発展が進んでいくと後戻りしていくことは無いようだ。

そして日本列島でも北部九州から都市国家が芽生え、どんどんと広がっていった。
初め北部九州ではじまった稲作はどんどんと東に東にのび、関東まで広がっていく。


そして初め点で存在していた各都市国家は、どんどんと土地を開墾し領域を広げていく。
その広がっていった先で隣の国家と境を接するようになると、そこに戦争が発生していく。
この大きな流れが弥生後期の争乱の時代をつくっていったのだ。

歴史では倭国大乱と表現される。


そして争乱の果てに、これを収束させる手段として戦いではなく卑弥呼という共同の祭祀君主を戴くことで解決を見るのである。争いの果ての滅亡を避けさせたこの手法も素晴らしい日本人の叡智だと思う。


そしてこの祭祀王を共立する合議による国家運営手法が、後の天皇制に繋がっていくのである。

私見だが、この国家運営の手法は正に「和(倭)の精神」を具現化されたものと思う。
倭は和となり、大いなる倭が大和であると思う。正直、現在の日本という国号よりも大和こそが国号にふさわしいと思っている。


大和という国家に纏まっていったこの大きな潮流の根底には、争いを避けみんなで繋がろうという想いがあったと私は思いたい。この想いの象徴として同一の祭祀王(天皇)を皆で戴いているのだ。

よって本来は天皇家は別に万世一系でなくても良い。
もともとはあまり血統になどこだわっていなかったと思える。


では何故のちの天皇家のように血統を大事にする考えが芽生えたのか?
ここには北方騎馬民族の風俗の影響があるのではないかと思える。


弥生後期には卑弥呼(ひのみこ)という祭祀王を共立し、魏への朝貢も成功させ親魏倭王の称号も得る事ができ、邪馬台(やまと)という一定の纏まりができた。
倭国はある程度の安定した時期を迎えたと思われる。


しかし、その安定の礎であった魏が綻び中国の情勢が非常に不安定になって行った。
特に朝鮮半島では強大な中華帝国の抑えが無くなり、各北方民族の動きが活発になって行く。
そして中国東北部から満州にいた北方民族が南下し朝鮮半島に流れ込んで各国家の形成を進めていった。

そんな中で元々朝鮮半島にいた人達はどんどん南に圧迫され、最終的には海を渡り列島にやってきたことと思う。
特に朝鮮半島南部については元々は同じ倭人であり、弥生時代の稲作が盛んになるにつれ農具の必要性から鉄を求め盛んに交易を行っていった。
交易では列島の倭人が鉄を求めるのに対し、朝鮮半島の倭人は列島の宝である玉(翡翠)を求めた。
だから今日でも貨幣のことを日本では金(金属、要は鉄)、朝鮮ではトル(宝石、要は翡翠の玉)というのだ。


列島では朝鮮半島の製鉄技術を持った人達を迎え入れることに大歓迎であったろう。
列島には稲作に適した温暖で湿潤な気候と、何より河川が多くあり潟といわれる湿地帯が広がっていた。
無いのは、これらを造成するのに必要な農具につける鉄の刃なのだ。


この製鉄技術を手中に収めることで倭国は更なる発展を遂げていく。

そして日本でこの製鉄が最初に行われたことが確認できているのが丹波であり、主に日本海側となる。

当初、北部九州が倭国の中心であったが、この頃からパワーバランスが崩れていったのではないかと思われる。そしてこのパワーバランスを取り戻すべく北部九州は瀬戸内から太平洋側に向けた進出を急いだのではないだろうか?
これが突如として瀬戸内から大阪淀川や大和川流域に高地性集落が現れる要因だったのではと思われる。


しかし北部九州勢の焦りとは裏腹に、朝鮮半島の情勢は更に北方系民族の南下が進んでいった。
そして朝鮮半島南部までこの北方系民族の勢力は達してきた、更に圧迫された朝鮮南部の人達は集団で渡海し列島に渡ったのではないだろうか?
どうもこれらの事跡が日本の正史である日本書紀や古事記に描かれる天孫降臨の事象に反映していると思われる。


そしてその北方系民族の南下と勢力の強化が続く。
その結実として、扶余から高句麗の建国、そして百済の建国と繋がっていく。
そしてそれらに対応する形で新羅、加羅諸国という国が形成されていったと思われる。
新羅や加羅は北方系と南方系の混血であったと思われる。それは建国神話にも現れている。

大勢の方が言われるように私も現在の天皇家の祖はこの時期の加羅(任那)からやってきたのではと思っている。

多分、記紀にいうスサノオノミコトがこれに当たる。
もうちょっと具体的な名前で言うと天日矛(ツヌカアラシト)であると思う。


天日矛は記紀では加羅(新羅)王子であると言う、そして敦賀(鶴賀、角鹿)の地名由来になっている。
朝鮮より渡来し、国を求め出雲の大国主を戦った事象が残されている。
また、この日本海側には新羅系の神社や朝鮮系の地名が非常に多く残っている。


天日矛は朝鮮からの渡来系氏族と土着の弥生勢力(大国主の勢力)を統合し北部九州と対立したと思われる。
最終的には北部九州の女王(卑弥呼である必要は無い。能力のある巫女を祭祀王として代々女王をたてていたと思われる)と婚姻を結ぶことで連合王家を成立させたと思う。
これが記紀神話でいうスサノオと天照の誓約であり、神話ではこの誓約により天皇家の祖が誕生しているのである。


しかし、記紀は実際にはこの出来事を古くするために同じ話しを何代もに分解していると考えている。
私は神武と継体天皇は同一人物で、且つ天日矛及びスサノオも継体天皇と同一人物ではないかと思っている。


何故なら継体天皇が即位したというこの時期に朝鮮半島と列島内に大きな動きが見られるからだ。


この大きな動きとは、北方系騎馬民族である扶余族の高句麗が強大となり、また同じ扶余族の百済が南下し加羅を圧迫した。

そしてこの圧迫により倭は百済に4県を割譲したことになっているが、実は侵略されたと考えられる。
この時に押し出された人達が列島に向かったと思われる。

そしてその勢力が北陸に上陸し勢力をはっていく。実はこの勢力も高句麗や百済と同じく扶余系の王族を戴く人達であったのではと思う。また、国内では筑紫君磐井が九州で新羅と結び反乱を起こしている。


最終的に乱を治めるが、継体天皇が大和に入るまで実に長い時間を要しているように書かれているのには、要するに容易に政権を確立できなかったことを意味している。


荒唐無稽な筋書きに思われるかもだが、あらゆる物証がそれを後押ししている。


〇日本神話(天皇家の天孫降臨神話)と金官国加羅の王の建国神話はほぼ同じ内容。
〇突如として大和(奈良)を中心とした国家ができる。そして古墳時代に突入。
 この墓制は吉備・東海・北陸と九州の副葬の慣わしが合体したもの。つまり連合国家の成立を物語る。
〇スサノオ(天日矛)を祀る熊野大社の神使はヤタガラスであり太陽神の化身。
 これは扶余王族国家である高句麗の紋章。また高句麗王も太陽神の化身であるとしている。
 つまり日本の日嗣御子と同じ考え方。
〇この時期に大量の渡来人がきている。
〇王家の血統を重んじる風俗→北方騎馬民族の王家の考え方。
 中国は実力をもつものが政権を奪取する。血統で王家を繋ぐ考え方はない。
〇継体天皇がでた福井等の北陸からは、半島出自の遺物が多く残されている。
 特に王冠などは、日本で始めて採用されていたと思われる。
〇神話で天孫が着る衣服(白い衣服、ズボンを履きで裾を絞る)や髪型(みずら)は倭人の習俗ではなく北方騎馬民族に見られるもの。
 ようは馬に乗るのに適した格好。
〇近畿地方は古朝鮮の地名で一杯。
〇百済の植民地(熊本の玉名、淡路島、大阪の淡輪)まであった。


また、継体天皇の諡号である継体とは、倭国からつづく祭祀王を共立する合議による国家運営体制を引継いだことを意味していると思われる。そしてこの継体天皇から欽明天皇、聖徳太子の時代に向かい国内は大和として一つに纏まっていった。


中国も統一国家が出来、東アジア全体が安定するこにより交易が盛んになり、シルクロードは活況を呈したろう。遠くギリシャ、ペルシャの文物や人がシルクロードを通り、日本までやってきた。

ギリシャの神殿の柱の様式は、聖徳太子建立の法隆寺の柱に影響を与えた。
ペルシャで発達したガラスの工芸の技法は今の日本にも生きている。
そして様々な宗教もやってきたと思われる。
記録ではペルシャ人の医師もやってきていたようだ。

様々な文物や人が日本にやってきて魅力的な国となったろう。

そう日本はグローバルプレーヤーであったし、決して列島で延々と鎖国をしてきたような民族ではないのだ。


我々の先祖は、古モンゴロイドの縄文系(琉球や隼人、蝦夷、アイヌの人達)、弥生系(中国江南系)、北方系(朝鮮を経由した人達)、もしかしたらギリシャやペルシャやステップロードにあったオアシス国家など様々な人々である。


決して、単一大和民族なるものがあったわけではないのだ。

だから民族の差別や血の差別は非常に醜い哀れなものと思う。
それは自分自身を貶めることなのだと歴史を勉強すればよく分かると思う。


また日本でオリンピックが開催される。
その頃には蒙昧無知な日本人が一人でも減っていることを願って。

奈良のイメージといえば、やはり大仏と奈良公園の鹿ではないでしょうか?


小生は奈良出身なのですが、あの鹿が大嫌いでした。

奈良の街を我が物顔で縦横無尽に歩き回り、人が食べ物をもっていようものならしつこく付き纏われる、、、。こんなことを言うとバチがあたるよとよく祖母から言われたものでした。


何故バチがあたるのか?
それは奈良公園の鹿は神の使いだからなのです。


どこの神様の御遣いかというと、春日大社の神様の使いということになります。
この春日大社は奈良時代に、常陸の鹿島神宮から藤原氏が氏神として勧請されたものです。

鹿島の神様である武甕槌命(タケミカズチ)が、常陸から大和の春日大社がある三笠山にこられる際に白鹿にのってこられたのが春日大社で鹿が飼われるようになった由来だそうです。
因みに常陸の鹿島神宮でも鹿が飼われています。


じゃあ本家の鹿島神宮でなぜ鹿が飼われているかというと、天照大神が武甕槌命に出雲の大国主に国譲りの談判をしてきなさいという指令を運んだのが鹿だったからということだそうです。

この時にタケミカズチが使用した剣が十握剣といい、鹿島神宮には巨大な直刀が納められています。

で藤原氏の氏神としたとあるのですが、記紀神話では藤原こと中臣氏の氏神は天児屋根命とされておりタケミカズチとは接点があるようには見えません。

特にタケミカズチは剣の神であり、軍神として崇められた神様で中臣氏は拝み屋さんであり軍を率いて戦った氏族としての印象がないので余計に不思議なのです。


しかし、この藤原氏の関係する神社である枚方神社や春日大社、また鹿島神宮では神鹿がいること。
また藤原氏自身がこの鹿島の神を氏神とすることから、タケミカズチと何らかの関係があることは間違いないことだと思われます。


また、別の視点から春日大社の春日とは氏の名で春日氏(和邇氏)の氏神を祀っていたのが元々なのです。そこに藤原氏が自身の氏神を勧請したということなのですが、普通元の神様と何の関係もない神社に自分の祖先の神を祀るなんてこと考えられます?
いわば他人さんの墓に自分の祖先の墓から骨壷を移すようなこと、この祟り一つで国政も決まるような時代にありえないと思うのです。
つまり、藤原こと中臣氏と春日氏(和邇氏)にはなんらかのというか血縁上の関係がある。

もっと言うと春日氏の後裔の中に中臣氏があり、後にこの春日氏の血統の中で最も出世した中臣こと藤原氏が氏の長者として祭祀や財産を継承したのではと思うのです。


春日氏は大和を代表する古代氏族であり、現在の奈良公園のある一帯から天理市北部までを勢力圏とした大豪族でした。
また天皇家との関係も深く、后を出す一族であったと言われています。そして外戚氏族として権勢をふるったものと思われます。

この大和の春日氏の祖は難波根子武振熊という方で、記紀では神功皇后と仲哀天皇が熊襲討伐の為に九州北部に赴いた際にまっさきに恭順の意を示し、その際に現在の三種の神器の一つであるヤサカニノ勾玉を献上した人です。
その後は応神天皇の大和入りの際に活躍したことが記されています。


この春日氏の勢力を張った地域としては、出身地の福岡県北部の遠賀川流域、大和北部、琵琶湖西岸一帯です。つまり水運拠点を握っていた氏族といえます。

春日氏は古代大和朝廷の水軍を担っていた氏族のようなのです。


そして私見ですが、武甕槌命とは武振熊のことなのではないかと思うのです。
全くの同一人物ではないと思いますが、古代大和朝廷により東国に派遣された軍団長こそ春日(和邇)の水軍だったのではと考えています。


その大和の東国の軍事拠点となった場所が現在の鹿島神宮と香取神宮だったと思われます。

きっとこの遠征軍の構成は、九州の水軍を中心としたものではなかったかと思われます。
(福岡:春日氏(和邇)、福岡:安曇氏、福岡:宗像氏、熊本:阿蘇氏)


因みにこの遠征軍が東国に向けて進んだ所に、上記の氏族の進駐した形跡として地名や神社が残されています。
例えば、美濃の春日井(春日居)、三河の渥美半島(安曇半島)、遠州の鹿島(浜松市の地名)、富士山麓の浅間神社宮司は和邇部(春日一族)、熱海(安曇の訛とのこと)、鹿島神宮、利根川を遡った印旛沼周辺に阿蘇、宗像地名、埼玉の春日部などなど。
そして逆に、九州には佐賀の鹿島や杵島の地名があり、福岡の博多には春日市や那珂の地名、また海神族(春日、安曇、宗像など)の総本山(綿都美神社)は福岡の博多湾にのびる志賀島(しかのしま→鹿島)があるのです。


なぜ藤原氏が編纂した日本書記の中で自身の祖がタケミカズチであることを明記しなかったのか?

その秘密は、タケミカズチを祖とする豪族が多数あり、その中で藤原氏が最も格下の位置づけにあったことがあげられるのではと考えています。
また、他の豪族達と藤原は全く別であり天照大神の随神であることを強調したかったと考えられます。


つまり書記編纂時の女帝を天照大神に見立て、その随神である天児屋根命を藤原氏とし、
天孫たる日嗣御子に藤原より后を入れ、その間の子を日嗣の御子としたいという願いが作ったものと思われます。


また突拍子もないことですが、私は春日氏と安曇氏は古の倭国王奴国の王族の後裔ではないかと考えています。
というのも奴国を構成した氏族が全て絶えることなど考えられないこと。
そして、漢倭奴国王の金印が見つかった志賀島が彼ら海神族の総本山であることがあります。
また、記紀にて天皇家の祖と海神の娘の結婚譚が多く見受けられます。
これは春日氏が初期の天皇家に后を入れ外戚となったことと重なります。


つまり藤原氏もこの流れであり、先祖が繁栄した手法をもって自身も出世していったのではないかと考えられるのです。
藤原氏の繁栄の基礎は、天皇家に皇族以外から初めて皇后をいれ、その御子を天皇とし外戚として権勢をふるったものです。

そう春日氏の手法と一緒なのです。


そして藤原氏の旧姓である中臣の中ですが、これはもともとは那珂ではなかったのか?と思います。
そう福岡の那珂のことです。
つまり春日、安曇、那珂臣らは地図でみれば分かりますが本当に近所の一族だったと思われます。

そして鹿島神宮がある常陸にも那珂地名があり、那珂川が流れており、この那珂の中臣氏が鹿島神宮の神官家として仕えていたのです。


日本を代表する氏族であった春日氏と藤原氏のルーツや系図がいまいち良く分からないこと、またその先祖の活躍もよく伝わっていない理由こそ彼らが古の倭国王の末裔であったからと思います。
つまり、天皇家の祖よりも彼らの血筋のほうが高貴の出だったことを隠蔽するために記紀に記さなかったのではないかと思うのです。


つまり倭国王末裔の中臣氏は、天皇家のあくまでも随身としての生き方を選んだ。
それを名にして負ったのが「藤原」の姓の由来なのではないでしょうか?
天皇家を木として、その木に寄生し生きる藤の蔓としての生き方です。


天皇家も勿論彼らが高貴の出であり、自分達よりも上か同等の血筋であるにも関わらず臣下とし仕えることを誓約してくれた彼らを慈しんだのではないでしょうか?
それが記紀神話において天皇家の祖が海神を丁重に扱っている様に反映しているのではないでしょうか。


また、よく藤原氏を百済人とする説がありますが私はその説に異論があります。
藤原氏を百済人とする根拠として、壬申の乱の際に百済渡来氏族が多く住む近江に都したことがあげられるのですが、私から考えると藤原氏の勢力圏は基本的に春日氏の勢力圏と重なっていると思います。
平城京の藤原氏の邸宅があった旧興福寺から春日大社一帯、及び琵琶湖西岸地域は正に春日一族の土地です。


しかし、1点だけ私と百済人末裔説の共通点があります。
それは両方とも渡来氏族であるということです。


私は、藤原氏の祖は春日氏であり、春日氏の祖は武振熊(天足彦)であり、武振熊は天日矛の末裔と考えています。
天日矛は加羅王子とされています。

そう、藤原氏の祖は百済人ではなく加羅人だと考えています。

つまり加羅から太占が伝えられ、それを中臣が継承したと考えます。

太占とは古の中国から伝えられた一種の占いで、亀の甲羅や鹿の骨を火であぶり、割れたヒビから吉凶を読み取るものです。
日本でも鹿を聖なる太占と読んでいたそう。

もしかすると鹿島神宮などの神鹿のルーツがここになるのかも知れません。

そして藤原氏も自分達のルーツである太古から続く祭祀の家であることを忘れないように奈良公園に鹿を飼育したのかもしれませんね。

伊勢神宮とはなんなのか?
私からすると非常に不思議な神社である。

何が不思議かというと、常に天皇家の傍に無いということである。

伊勢神宮は当然ながら日本において最高神が奉られており、性格としては天皇家の宗廟である。
つまり我々の感覚で言えば先祖代々のお墓であるにも関わらず、何故か天皇家との繋がりを感じない神社なのである。

たぶん、皆さんが思っている以上に伊勢神宮の歴史は古い。

創始は第11代垂仁天皇の御世に、元伊勢こと大和笠縫村(その前は大三輪大社)から転々と遷され最終的に伊勢に行き着く。

『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条に、「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とあり、皇女倭姫命が天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をしたと記されている。
また、古事記では第10代祟神天皇のときに皇女豊鋤入姫が奉ることとなったと。

で、いったい三輪から何が遷されたかというと天孫が天照より下賜された皇室の正統後継者の証たる三種の神器の一つ「八咫鏡」である。

八咫鏡は「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。(『日本書紀』)」として天照大御神自身の神霊を込めたとされる。

つまり、天照大神そのものなのである。

<この大事な神を何故にその当時の天皇家の宮(おすまい)から遠く離れた所に遷す必要があったのか?

この答えははっきりとは記紀には書かれていないが、記紀には下記のような記事がある。

>崇神天皇の世,疫病が流行したとき,天皇の夢に大物主神が現れて,疫病は自分の仕業であること,自分の血を引く大田田根子の手によって祭られればそれは収まると告げる。そこで大田田根子が捜し出され,確かに大物主神と活玉依媛との結婚によって生まれた者であることが判明したので,彼を大物主神の祭主に据える。するとたちまちに疫病は収まり,国内は平安を取り戻す。

つまり元々の大和の聖地であった三輪山には三輪の大物主神(大国主命)が奉られていた。

そこに天照の神霊である「八咫鏡」を合祀したのだろう。
そしたらもともと御奉していた大物主神が怒って祟ったので、畏れて天照大神に遷ってもらったということなのでしょうね。

そしてその後の聖地大三輪の神職は、この大物主神の後裔である太田直禰子さんがつとめた。

この人の後裔が、三輪大社神職の神君(三輪氏、大三輪氏、大神氏)賀茂大社神職の鴨君(賀茂氏、鴨氏)となります。

その当時の祟りに対する畏れは現代の感覚では計り知れないものがありますね。

で、東の果てのここにて陸尽きる地とも見える伊勢にひっそりと自分の先祖のお墓を移したのが現在の伊勢神宮となります。

記紀をそのまま信じればそうねんですけれども、私はひねくれているので単純にそうとも思えない部分があります。ひっかかるんですね~。

つまり、第9代と第10代の天皇家には断絶があったのではないか?もっというと王統は続いてないのでは?という疑いです。

そして伊勢にて祀られているという三種の神器と結びつけて考えると下記の私の夢想も真実味を帯びてきます。

三種の神器は下記3つ

①天村雲剣 : スサノオ命がヤマタ大蛇を退治した際に尾を張ったら出てきた剣(熱田大社にある)
②八咫鏡 : 天照の岩戸隠れの際に作られた鏡の一つ(日像鏡,日矛鏡(日前宮にある)の後に創られた)
③八尺瓊勾玉:天照の岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り、八咫鏡とともに太玉命(和邇祖,中臣祖)が捧げ持つ榊の木に掛けられた。後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に授けられたとする。

【夢想の皇統ストーリー】

①天村雲剣のエピソードの真実
スサノオこと天日矛(半島南部の王族)来襲 = 出雲(尾張)平定 = 神宝は剣(天村雲剣)

スサノオ命がヤマタ大蛇を退治した際に尾を張ったら出てきた剣。つまり尾張が舞台、だから尾張の熱田大社で祀られる。つまりヤマタ大蛇は木曽三川。この話は大国主と戦い尾張の水運拠点をぶんどったことを物語る。そして山陰~若狭~尾張を切り取り近畿周辺の水運を押さえたと考える。この事跡が出雲神話であり、またヤマトタケル神話であり、播磨の国風土記の天日矛説話にも投影される。

②八咫鏡のエピソードの真実
ニギハヤヒ命(天日矛後裔)の天降り = 神宝の鏡(日像鏡、日矛鏡)、剣(天村雲剣)を持つ

スサノオ後裔王族ニギハヤヒ命(山陰,若狭,尾張)勢力の大和侵攻(大国主と戦争)、若しくはニギハヤヒ命(天日矛後裔)が大国主の娘と政略結婚し連合王家樹立。

侵攻地の王家の大国主神(蛇体の水神)を奉る三輪山にスサノオ(天日矛)の神霊である八咫鏡(日像鏡、日矛鏡)を合祀する。

正嫡戦争?王統断絶?クーデター?
大国主系王統が復活(第10代祟神天皇)

要らなくなったスサノオの神霊である八咫鏡(日像鏡、日矛鏡)を遷す(伊勢内宮が出来る)、また別に第11代垂仁天皇が日像鏡、日矛鏡を紀国の日前宮に遷座の記事あり。

③八尺瓊勾玉のエピソードの真実
天日矛王統が反攻 = 神功皇后(応神天皇)の東征 = 神宝は玉(潮干珠と潮満珠(天日矛の神宝に2つの玉あり)

天日矛後裔の神功(オキナガタラシ姫)と九州倭国王族である武内宿禰が政略結婚し皇子をもうける。この婚礼の証が、神器の一つ八尺瓊勾玉。記紀では、神宮皇后は仲哀天皇后となっているが、武内宿禰を祀る住吉大社の神代記には神功皇后と武内宿禰に密事(男女の秘め事っていえばね~)ありと書かれている。

記紀では、岡県主熊鰐(武振熊)及び伊都県主イトデ(武内宿禰か?)が神功への恭順の証に榊に八尺瓊勾玉かけて献上と書かれている。(之だけでも結構な内容だが、何故か記紀は真実を匂わせる記事が多い。)

応神の大和入り

大国主系王家及び豪族は大和国東側(三輪山側)に布陣 
(大国主直系の登美ナガス彦,言任主、大国主の娘とニギハヤヒ(天日矛後裔)の子の系統(物部・穂積・三輪・賀茂・尾張)) 

VS 

天日矛と九州勢力の連合王家及び豪速は河内から大和国西側(葛城山側)に布陣
(天日矛(天穂日)後裔出雲臣、武内宿禰(葛城,平群,巨勢,蘇我,紀氏祖)と武振熊(和邇氏祖)及び安曇氏ら北九州の旧倭国王族(漢倭奴国王及び漢倭伊都国王))

大国主の娘とニギハヤヒ(天日矛後裔)の子の系統(物部・穂積・三輪・賀茂・尾張)が大国主王家を裏切る。
この裏切りがヤタガラス説話及び高倉下の神剣(スサノオの神霊=天村雲剣)献上説話となる。

大国主王家の降参 = 出雲の国譲り
神話の内容を見るに王統は根絶やしに殺されたと思われる、唯一の生き残りが建宗像命(後裔は諏訪の神氏)

神宮皇后(天日矛後裔)と倭国王族(武内宿禰)との息子である応神が即位し河内王朝樹立

記紀の前半の流れの真実がこの流れであると考えています。
つまり神武東征の内容も実は応神のお話しです。

ちょっと話しがそれますが、
神功皇后は息子の応神に若狭の気比神宮に御礼参りをさせる。

そこは神功皇后(息長氏)の祖である天日矛(ツヌガアラシト)が奉られている。

この方は新羅王子で、現在の敦賀の地名の由来になった方。因みに越前~若狭~山陰には新羅・加羅系神社や地名が多い。

神功皇后の三韓征伐の話は、夫である倭国王族が持っていた半島の権益と自身の新羅王家の出自をもとにした半島支配権の正統性を訴えたものと思われるのです。

また、その後の論功行賞の結果が大和国周辺の豪族分布や領土分配に表れていると考えられる。

●大和侵攻拠点:住吉大社 祭神は武内宿禰 → 大国主の娘とニギハヤヒの子の系統である津守氏
●大和侵攻拠点:紀ノ川入り口 → 武内宿禰裔の紀氏を紀国造として封じる 日前宮社家として現代ま で続く
●ナガスネ彦(大国主王家)の拠点:登美(大和北部丘陵地帯) → 武振熊後裔の和邇,春日氏へ 春日大社を奉祀し皇后を出す家となる


●言任主(大国主王家)の拠点:葛城~生駒一帯 → 武内宿禰一統の葛城,平群,巨勢,蘇我氏 
●忍坂王ら(大国主王家)拠点:木津川~宇治~琵琶湖 → 武振熊後裔の和邇氏へ
●大和国東側の一帯:裏切りを評価し大国主の娘とニギハヤヒ(天日矛後裔)の子の系統の物部,穂積,三輪氏へ
●山城一帯:九州勢として参戦した秦一族(半島でのスサノオ一族では?)が封じられる。伏見稲荷大社 この一族の開発した土地が後の平安京となる。
●山陰一帯:出雲国造として出雲臣を封じる。出雲大社社家として現在まで続く
●若狭一帯:天日矛一族が引き続き支配。後に真人姓を賜る皇別とされる氏族。継体帝はこの流れでは?
●東海・関東一帯:天穂日系統の出雲氏が各国の国造として封ぜられる。
●渥美半島から信州:九州勢として参戦した安曇水軍が賜る。渥美半島は安曇半島であり、信州の安曇野は正にこれに由来。穂高神社に海神が祭られる由縁。
●利根川入り口:九州勢として参戦した鹿島水軍が賜る。鹿島大社 後社家の中(那珂)臣が大和中央政権に参画することで春日大社に勧請される。
●利根川印旛沼周辺:九州勢として参戦した阿蘇・宗像氏が賜る。現在もそのままに地名が残る。
●水軍の拠点:宇佐,淡路島,丹後半島,伊勢 → 大国主の娘とニギハヤヒ(天日矛後裔)の子の系統である海部氏を水軍の長とする。後の世に海部首相を出し籠神社社家として現在まで残る。
●全軍団の長:武内宿禰の直参である久米軍団をヤマトの軍団の長とする。応神を護るのが使命。後裔は大伴,佐伯,久米氏

上記から大和周辺の敵の所領や重要拠点,水運拠点は全てこの戦の勝者である天日矛後裔である出雲臣,九州勢である武内宿禰と武振熊の一族が押さえたことが良く分かる。

そしてこれ以降、祭祀にも大きく変化が起こる。

大和国聖地の三輪山の祭祀は重要視されなくなる。
当然と言えば、当然で敵の親玉の神様を奉る必要などあるはずもなく、、、。

奈良時代~平安時代において天皇家の宗廟として影響力を行使するのは
応神天皇,神宮皇后を祀る「宇佐八幡宮」となるのである。

そしてその宇佐八幡宮を京都に勧請したのが岩清水八幡宮となる。
平安時代に清和天皇が王城の裏鬼門を護るために勧請されてとのこと。

では完全に之までの神(大物主系統)をほったらかしたかというとそうではなく
平安京の鬼門を守る上下賀茂大社において賀茂氏が奉祀。

そして、全ての王統に関係しているスサノオ命は京都では八坂神社にて奉祀されています。
京都の夏の風物詩、そう祇園祭りも牛頭天王ことスサノオ命のお祭りなのです。

そしてひっそりと逼塞していた伊勢神宮は、持統天皇の御世に藤原不比等の手により復活します。
往時の政権を牛耳った藤原が作成した日本書紀の神話の筋書き通りに、、、。

天照大神は持統女帝を表し、
高皇産霊尊は、中臣(藤原)一族を表し、
天孫ニニギは、持統天皇の子の軽皇子と藤原の女の皇子

藤原の女と天皇との子が天孫として日本を治める。
この形態の御世が常しえに続きますようにという願いをこめたのです。

そう、その当時の天皇が女帝であったから女神になったのです。

しかし、いかに権勢を極めた藤原といえど伊勢の本当の神を蔑ろには出来なかったと思えます。その御祭の中身こそが式年遷宮の「心の御柱」の儀式です。

祭神である天照大神は勿論、スサノオ命こと天日矛であり女神ではなく男性の太陽神です。
それを端的に表しているのが「心の御柱」と「斎宮」です。

心の御柱は、そそりたつ男根です。
斎宮は男性の太陽神に捧げられる女性(神妻)なのです。

式年遷宮をよ~く観察してみてください。常に祭りを動かしていくのは少女のはずです。
彼女が捧げられる過程こそがあの御祭の要諦と思います。

故に天皇家は男系の血を尊ぶのです。

もし本当に天皇家の祖神が女神様であったなら、女系の血が最も崇められたはすなのです。

先の記事に書いたことですが、私は天皇家の祖神は天照大神ではなく大物主命ことニギハヤヒ命ではないかと考えていました。


記紀からもそれを裏付けることができるものを探していたところ、神武東征のヤタガラス神話を思いだしました。


そう、ここに描かれる登場人物や神剣はどう考えても全てスサノオ命及びニギハヤヒ命に結びついてゆくのです。


下にこの考察をした際の図を貼り付けておきます。

これを見ると天皇家とスサノオ命のつながりの深さがよく分かると思います。


天皇家の正統継承者の証=三種の神器=天村雲剣(草薙剣)

スサノオ命がヤマタ大蛇を退治した際に、尾をわると出てきた剣

尾張(地名)、ということは出雲の神話舞台は島根県ではない。

ヤマタの大蛇=木曽三川

よって現在も草薙剣は熱田大社にある

熱田大社社家:尾張氏=物部同族=ニギハヤヒ後裔=スサノオ命の後裔

天皇家の正統後継者=スサノオ命の正統後継者



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