伊勢神宮の不思議 ― 三種の神器の出自から考える皇統の流れ ― | いにしえの徒然ブログ ― 古代史のロマンを求めて ―

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なぜ大和朝廷発祥の地で、その支配者たる天皇家の祖神である天照大神を祭っていないのか?
伊勢神宮はなんなのか?
等など素人の視点からの疑問を綴っていきたいと考えております。

伊勢神宮とはなんなのか?
私からすると非常に不思議な神社である。

何が不思議かというと、常に天皇家の傍に無いということである。

伊勢神宮は当然ながら日本において最高神が奉られており、性格としては天皇家の宗廟である。
つまり我々の感覚で言えば先祖代々のお墓であるにも関わらず、何故か天皇家との繋がりを感じない神社なのである。

たぶん、皆さんが思っている以上に伊勢神宮の歴史は古い。

創始は第11代垂仁天皇の御世に、元伊勢こと大和笠縫村(その前は大三輪大社)から転々と遷され最終的に伊勢に行き着く。

『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条に、「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とあり、皇女倭姫命が天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をしたと記されている。
また、古事記では第10代祟神天皇のときに皇女豊鋤入姫が奉ることとなったと。

で、いったい三輪から何が遷されたかというと天孫が天照より下賜された皇室の正統後継者の証たる三種の神器の一つ「八咫鏡」である。

八咫鏡は「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。(『日本書紀』)」として天照大御神自身の神霊を込めたとされる。

つまり、天照大神そのものなのである。

<この大事な神を何故にその当時の天皇家の宮(おすまい)から遠く離れた所に遷す必要があったのか?

この答えははっきりとは記紀には書かれていないが、記紀には下記のような記事がある。

>崇神天皇の世,疫病が流行したとき,天皇の夢に大物主神が現れて,疫病は自分の仕業であること,自分の血を引く大田田根子の手によって祭られればそれは収まると告げる。そこで大田田根子が捜し出され,確かに大物主神と活玉依媛との結婚によって生まれた者であることが判明したので,彼を大物主神の祭主に据える。するとたちまちに疫病は収まり,国内は平安を取り戻す。

つまり元々の大和の聖地であった三輪山には三輪の大物主神(大国主命)が奉られていた。

そこに天照の神霊である「八咫鏡」を合祀したのだろう。
そしたらもともと御奉していた大物主神が怒って祟ったので、畏れて天照大神に遷ってもらったということなのでしょうね。

そしてその後の聖地大三輪の神職は、この大物主神の後裔である太田直禰子さんがつとめた。

この人の後裔が、三輪大社神職の神君(三輪氏、大三輪氏、大神氏)賀茂大社神職の鴨君(賀茂氏、鴨氏)となります。

その当時の祟りに対する畏れは現代の感覚では計り知れないものがありますね。

で、東の果てのここにて陸尽きる地とも見える伊勢にひっそりと自分の先祖のお墓を移したのが現在の伊勢神宮となります。

記紀をそのまま信じればそうねんですけれども、私はひねくれているので単純にそうとも思えない部分があります。ひっかかるんですね~。

つまり、第9代と第10代の天皇家には断絶があったのではないか?もっというと王統は続いてないのでは?という疑いです。

そして伊勢にて祀られているという三種の神器と結びつけて考えると下記の私の夢想も真実味を帯びてきます。

三種の神器は下記3つ

①天村雲剣 : スサノオ命がヤマタ大蛇を退治した際に尾を張ったら出てきた剣(熱田大社にある)
②八咫鏡 : 天照の岩戸隠れの際に作られた鏡の一つ(日像鏡,日矛鏡(日前宮にある)の後に創られた)
③八尺瓊勾玉:天照の岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り、八咫鏡とともに太玉命(和邇祖,中臣祖)が捧げ持つ榊の木に掛けられた。後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に授けられたとする。

【夢想の皇統ストーリー】

①天村雲剣のエピソードの真実
スサノオこと天日矛(半島南部の王族)来襲 = 出雲(尾張)平定 = 神宝は剣(天村雲剣)

スサノオ命がヤマタ大蛇を退治した際に尾を張ったら出てきた剣。つまり尾張が舞台、だから尾張の熱田大社で祀られる。つまりヤマタ大蛇は木曽三川。この話は大国主と戦い尾張の水運拠点をぶんどったことを物語る。そして山陰~若狭~尾張を切り取り近畿周辺の水運を押さえたと考える。この事跡が出雲神話であり、またヤマトタケル神話であり、播磨の国風土記の天日矛説話にも投影される。

②八咫鏡のエピソードの真実
ニギハヤヒ命(天日矛後裔)の天降り = 神宝の鏡(日像鏡、日矛鏡)、剣(天村雲剣)を持つ

スサノオ後裔王族ニギハヤヒ命(山陰,若狭,尾張)勢力の大和侵攻(大国主と戦争)、若しくはニギハヤヒ命(天日矛後裔)が大国主の娘と政略結婚し連合王家樹立。

侵攻地の王家の大国主神(蛇体の水神)を奉る三輪山にスサノオ(天日矛)の神霊である八咫鏡(日像鏡、日矛鏡)を合祀する。

正嫡戦争?王統断絶?クーデター?
大国主系王統が復活(第10代祟神天皇)

要らなくなったスサノオの神霊である八咫鏡(日像鏡、日矛鏡)を遷す(伊勢内宮が出来る)、また別に第11代垂仁天皇が日像鏡、日矛鏡を紀国の日前宮に遷座の記事あり。

③八尺瓊勾玉のエピソードの真実
天日矛王統が反攻 = 神功皇后(応神天皇)の東征 = 神宝は玉(潮干珠と潮満珠(天日矛の神宝に2つの玉あり)

天日矛後裔の神功(オキナガタラシ姫)と九州倭国王族である武内宿禰が政略結婚し皇子をもうける。この婚礼の証が、神器の一つ八尺瓊勾玉。記紀では、神宮皇后は仲哀天皇后となっているが、武内宿禰を祀る住吉大社の神代記には神功皇后と武内宿禰に密事(男女の秘め事っていえばね~)ありと書かれている。

記紀では、岡県主熊鰐(武振熊)及び伊都県主イトデ(武内宿禰か?)が神功への恭順の証に榊に八尺瓊勾玉かけて献上と書かれている。(之だけでも結構な内容だが、何故か記紀は真実を匂わせる記事が多い。)

応神の大和入り

大国主系王家及び豪族は大和国東側(三輪山側)に布陣 
(大国主直系の登美ナガス彦,言任主、大国主の娘とニギハヤヒ(天日矛後裔)の子の系統(物部・穂積・三輪・賀茂・尾張)) 

VS 

天日矛と九州勢力の連合王家及び豪速は河内から大和国西側(葛城山側)に布陣
(天日矛(天穂日)後裔出雲臣、武内宿禰(葛城,平群,巨勢,蘇我,紀氏祖)と武振熊(和邇氏祖)及び安曇氏ら北九州の旧倭国王族(漢倭奴国王及び漢倭伊都国王))

大国主の娘とニギハヤヒ(天日矛後裔)の子の系統(物部・穂積・三輪・賀茂・尾張)が大国主王家を裏切る。
この裏切りがヤタガラス説話及び高倉下の神剣(スサノオの神霊=天村雲剣)献上説話となる。

大国主王家の降参 = 出雲の国譲り
神話の内容を見るに王統は根絶やしに殺されたと思われる、唯一の生き残りが建宗像命(後裔は諏訪の神氏)

神宮皇后(天日矛後裔)と倭国王族(武内宿禰)との息子である応神が即位し河内王朝樹立

記紀の前半の流れの真実がこの流れであると考えています。
つまり神武東征の内容も実は応神のお話しです。

ちょっと話しがそれますが、
神功皇后は息子の応神に若狭の気比神宮に御礼参りをさせる。

そこは神功皇后(息長氏)の祖である天日矛(ツヌガアラシト)が奉られている。

この方は新羅王子で、現在の敦賀の地名の由来になった方。因みに越前~若狭~山陰には新羅・加羅系神社や地名が多い。

神功皇后の三韓征伐の話は、夫である倭国王族が持っていた半島の権益と自身の新羅王家の出自をもとにした半島支配権の正統性を訴えたものと思われるのです。

また、その後の論功行賞の結果が大和国周辺の豪族分布や領土分配に表れていると考えられる。

●大和侵攻拠点:住吉大社 祭神は武内宿禰 → 大国主の娘とニギハヤヒの子の系統である津守氏
●大和侵攻拠点:紀ノ川入り口 → 武内宿禰裔の紀氏を紀国造として封じる 日前宮社家として現代ま で続く
●ナガスネ彦(大国主王家)の拠点:登美(大和北部丘陵地帯) → 武振熊後裔の和邇,春日氏へ 春日大社を奉祀し皇后を出す家となる


●言任主(大国主王家)の拠点:葛城~生駒一帯 → 武内宿禰一統の葛城,平群,巨勢,蘇我氏 
●忍坂王ら(大国主王家)拠点:木津川~宇治~琵琶湖 → 武振熊後裔の和邇氏へ
●大和国東側の一帯:裏切りを評価し大国主の娘とニギハヤヒ(天日矛後裔)の子の系統の物部,穂積,三輪氏へ
●山城一帯:九州勢として参戦した秦一族(半島でのスサノオ一族では?)が封じられる。伏見稲荷大社 この一族の開発した土地が後の平安京となる。
●山陰一帯:出雲国造として出雲臣を封じる。出雲大社社家として現在まで続く
●若狭一帯:天日矛一族が引き続き支配。後に真人姓を賜る皇別とされる氏族。継体帝はこの流れでは?
●東海・関東一帯:天穂日系統の出雲氏が各国の国造として封ぜられる。
●渥美半島から信州:九州勢として参戦した安曇水軍が賜る。渥美半島は安曇半島であり、信州の安曇野は正にこれに由来。穂高神社に海神が祭られる由縁。
●利根川入り口:九州勢として参戦した鹿島水軍が賜る。鹿島大社 後社家の中(那珂)臣が大和中央政権に参画することで春日大社に勧請される。
●利根川印旛沼周辺:九州勢として参戦した阿蘇・宗像氏が賜る。現在もそのままに地名が残る。
●水軍の拠点:宇佐,淡路島,丹後半島,伊勢 → 大国主の娘とニギハヤヒ(天日矛後裔)の子の系統である海部氏を水軍の長とする。後の世に海部首相を出し籠神社社家として現在まで残る。
●全軍団の長:武内宿禰の直参である久米軍団をヤマトの軍団の長とする。応神を護るのが使命。後裔は大伴,佐伯,久米氏

上記から大和周辺の敵の所領や重要拠点,水運拠点は全てこの戦の勝者である天日矛後裔である出雲臣,九州勢である武内宿禰と武振熊の一族が押さえたことが良く分かる。

そしてこれ以降、祭祀にも大きく変化が起こる。

大和国聖地の三輪山の祭祀は重要視されなくなる。
当然と言えば、当然で敵の親玉の神様を奉る必要などあるはずもなく、、、。

奈良時代~平安時代において天皇家の宗廟として影響力を行使するのは
応神天皇,神宮皇后を祀る「宇佐八幡宮」となるのである。

そしてその宇佐八幡宮を京都に勧請したのが岩清水八幡宮となる。
平安時代に清和天皇が王城の裏鬼門を護るために勧請されてとのこと。

では完全に之までの神(大物主系統)をほったらかしたかというとそうではなく
平安京の鬼門を守る上下賀茂大社において賀茂氏が奉祀。

そして、全ての王統に関係しているスサノオ命は京都では八坂神社にて奉祀されています。
京都の夏の風物詩、そう祇園祭りも牛頭天王ことスサノオ命のお祭りなのです。

そしてひっそりと逼塞していた伊勢神宮は、持統天皇の御世に藤原不比等の手により復活します。
往時の政権を牛耳った藤原が作成した日本書紀の神話の筋書き通りに、、、。

天照大神は持統女帝を表し、
高皇産霊尊は、中臣(藤原)一族を表し、
天孫ニニギは、持統天皇の子の軽皇子と藤原の女の皇子

藤原の女と天皇との子が天孫として日本を治める。
この形態の御世が常しえに続きますようにという願いをこめたのです。

そう、その当時の天皇が女帝であったから女神になったのです。

しかし、いかに権勢を極めた藤原といえど伊勢の本当の神を蔑ろには出来なかったと思えます。その御祭の中身こそが式年遷宮の「心の御柱」の儀式です。

祭神である天照大神は勿論、スサノオ命こと天日矛であり女神ではなく男性の太陽神です。
それを端的に表しているのが「心の御柱」と「斎宮」です。

心の御柱は、そそりたつ男根です。
斎宮は男性の太陽神に捧げられる女性(神妻)なのです。

式年遷宮をよ~く観察してみてください。常に祭りを動かしていくのは少女のはずです。
彼女が捧げられる過程こそがあの御祭の要諦と思います。

故に天皇家は男系の血を尊ぶのです。

もし本当に天皇家の祖神が女神様であったなら、女系の血が最も崇められたはすなのです。