奈良のイメージといえば、やはり大仏と奈良公園の鹿ではないでしょうか?
小生は奈良出身なのですが、あの鹿が大嫌いでした。
奈良の街を我が物顔で縦横無尽に歩き回り、人が食べ物をもっていようものならしつこく付き纏われる、、、。こんなことを言うとバチがあたるよとよく祖母から言われたものでした。
何故バチがあたるのか?
それは奈良公園の鹿は神の使いだからなのです。
どこの神様の御遣いかというと、春日大社の神様の使いということになります。
この春日大社は奈良時代に、常陸の鹿島神宮から藤原氏が氏神として勧請されたものです。
鹿島の神様である武甕槌命(タケミカズチ)が、常陸から大和の春日大社がある三笠山にこられる際に白鹿にのってこられたのが春日大社で鹿が飼われるようになった由来だそうです。
因みに常陸の鹿島神宮でも鹿が飼われています。
じゃあ本家の鹿島神宮でなぜ鹿が飼われているかというと、天照大神が武甕槌命に出雲の大国主に国譲りの談判をしてきなさいという指令を運んだのが鹿だったからということだそうです。
この時にタケミカズチが使用した剣が十握剣といい、鹿島神宮には巨大な直刀が納められています。
で藤原氏の氏神としたとあるのですが、記紀神話では藤原こと中臣氏の氏神は天児屋根命とされておりタケミカズチとは接点があるようには見えません。
特にタケミカズチは剣の神であり、軍神として崇められた神様で中臣氏は拝み屋さんであり軍を率いて戦った氏族としての印象がないので余計に不思議なのです。
しかし、この藤原氏の関係する神社である枚方神社や春日大社、また鹿島神宮では神鹿がいること。
また藤原氏自身がこの鹿島の神を氏神とすることから、タケミカズチと何らかの関係があることは間違いないことだと思われます。
また、別の視点から春日大社の春日とは氏の名で春日氏(和邇氏)の氏神を祀っていたのが元々なのです。そこに藤原氏が自身の氏神を勧請したということなのですが、普通元の神様と何の関係もない神社に自分の祖先の神を祀るなんてこと考えられます?
いわば他人さんの墓に自分の祖先の墓から骨壷を移すようなこと、この祟り一つで国政も決まるような時代にありえないと思うのです。
つまり、藤原こと中臣氏と春日氏(和邇氏)にはなんらかのというか血縁上の関係がある。
もっと言うと春日氏の後裔の中に中臣氏があり、後にこの春日氏の血統の中で最も出世した中臣こと藤原氏が氏の長者として祭祀や財産を継承したのではと思うのです。
春日氏は大和を代表する古代氏族であり、現在の奈良公園のある一帯から天理市北部までを勢力圏とした大豪族でした。
また天皇家との関係も深く、后を出す一族であったと言われています。そして外戚氏族として権勢をふるったものと思われます。
この大和の春日氏の祖は難波根子武振熊という方で、記紀では神功皇后と仲哀天皇が熊襲討伐の為に九州北部に赴いた際にまっさきに恭順の意を示し、その際に現在の三種の神器の一つであるヤサカニノ勾玉を献上した人です。
その後は応神天皇の大和入りの際に活躍したことが記されています。
この春日氏の勢力を張った地域としては、出身地の福岡県北部の遠賀川流域、大和北部、琵琶湖西岸一帯です。つまり水運拠点を握っていた氏族といえます。
春日氏は古代大和朝廷の水軍を担っていた氏族のようなのです。
そして私見ですが、武甕槌命とは武振熊のことなのではないかと思うのです。
全くの同一人物ではないと思いますが、古代大和朝廷により東国に派遣された軍団長こそ春日(和邇)の水軍だったのではと考えています。
その大和の東国の軍事拠点となった場所が現在の鹿島神宮と香取神宮だったと思われます。
きっとこの遠征軍の構成は、九州の水軍を中心としたものではなかったかと思われます。
(福岡:春日氏(和邇)、福岡:安曇氏、福岡:宗像氏、熊本:阿蘇氏)
因みにこの遠征軍が東国に向けて進んだ所に、上記の氏族の進駐した形跡として地名や神社が残されています。
例えば、美濃の春日井(春日居)、三河の渥美半島(安曇半島)、遠州の鹿島(浜松市の地名)、富士山麓の浅間神社宮司は和邇部(春日一族)、熱海(安曇の訛とのこと)、鹿島神宮、利根川を遡った印旛沼周辺に阿蘇、宗像地名、埼玉の春日部などなど。
そして逆に、九州には佐賀の鹿島や杵島の地名があり、福岡の博多には春日市や那珂の地名、また海神族(春日、安曇、宗像など)の総本山(綿都美神社)は福岡の博多湾にのびる志賀島(しかのしま→鹿島)があるのです。
なぜ藤原氏が編纂した日本書記の中で自身の祖がタケミカズチであることを明記しなかったのか?
その秘密は、タケミカズチを祖とする豪族が多数あり、その中で藤原氏が最も格下の位置づけにあったことがあげられるのではと考えています。
また、他の豪族達と藤原は全く別であり天照大神の随神であることを強調したかったと考えられます。
つまり書記編纂時の女帝を天照大神に見立て、その随神である天児屋根命を藤原氏とし、
天孫たる日嗣御子に藤原より后を入れ、その間の子を日嗣の御子としたいという願いが作ったものと思われます。
また突拍子もないことですが、私は春日氏と安曇氏は古の倭国王奴国の王族の後裔ではないかと考えています。
というのも奴国を構成した氏族が全て絶えることなど考えられないこと。
そして、漢倭奴国王の金印が見つかった志賀島が彼ら海神族の総本山であることがあります。
また、記紀にて天皇家の祖と海神の娘の結婚譚が多く見受けられます。
これは春日氏が初期の天皇家に后を入れ外戚となったことと重なります。
つまり藤原氏もこの流れであり、先祖が繁栄した手法をもって自身も出世していったのではないかと考えられるのです。
藤原氏の繁栄の基礎は、天皇家に皇族以外から初めて皇后をいれ、その御子を天皇とし外戚として権勢をふるったものです。
そう春日氏の手法と一緒なのです。
そして藤原氏の旧姓である中臣の中ですが、これはもともとは那珂ではなかったのか?と思います。
そう福岡の那珂のことです。
つまり春日、安曇、那珂臣らは地図でみれば分かりますが本当に近所の一族だったと思われます。
そして鹿島神宮がある常陸にも那珂地名があり、那珂川が流れており、この那珂の中臣氏が鹿島神宮の神官家として仕えていたのです。
日本を代表する氏族であった春日氏と藤原氏のルーツや系図がいまいち良く分からないこと、またその先祖の活躍もよく伝わっていない理由こそ彼らが古の倭国王の末裔であったからと思います。
つまり、天皇家の祖よりも彼らの血筋のほうが高貴の出だったことを隠蔽するために記紀に記さなかったのではないかと思うのです。
つまり倭国王末裔の中臣氏は、天皇家のあくまでも随身としての生き方を選んだ。
それを名にして負ったのが「藤原」の姓の由来なのではないでしょうか?
天皇家を木として、その木に寄生し生きる藤の蔓としての生き方です。
天皇家も勿論彼らが高貴の出であり、自分達よりも上か同等の血筋であるにも関わらず臣下とし仕えることを誓約してくれた彼らを慈しんだのではないでしょうか?
それが記紀神話において天皇家の祖が海神を丁重に扱っている様に反映しているのではないでしょうか。
また、よく藤原氏を百済人とする説がありますが私はその説に異論があります。
藤原氏を百済人とする根拠として、壬申の乱の際に百済渡来氏族が多く住む近江に都したことがあげられるのですが、私から考えると藤原氏の勢力圏は基本的に春日氏の勢力圏と重なっていると思います。
平城京の藤原氏の邸宅があった旧興福寺から春日大社一帯、及び琵琶湖西岸地域は正に春日一族の土地です。
しかし、1点だけ私と百済人末裔説の共通点があります。
それは両方とも渡来氏族であるということです。
私は、藤原氏の祖は春日氏であり、春日氏の祖は武振熊(天足彦)であり、武振熊は天日矛の末裔と考えています。
天日矛は加羅王子とされています。
そう、藤原氏の祖は百済人ではなく加羅人だと考えています。
つまり加羅から太占が伝えられ、それを中臣が継承したと考えます。
太占とは古の中国から伝えられた一種の占いで、亀の甲羅や鹿の骨を火であぶり、割れたヒビから吉凶を読み取るものです。
日本でも鹿を聖なる太占と読んでいたそう。
もしかすると鹿島神宮などの神鹿のルーツがここになるのかも知れません。
そして藤原氏も自分達のルーツである太古から続く祭祀の家であることを忘れないように奈良公園に鹿を飼育したのかもしれませんね。