『ボクのおとうさんは、ボランティアというやつに殺されました。』の記事で抜けてると思う点 | ○と○

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☆被災地ボランティア(避難所調査員)
☆フェアトレードを主とした貧困問題
☆ネットショップ開業
☆フィリピン(セブ島)について

最近、Facebookでこの記事をアップしている人をたくさん見かけますし、たくさんの人の考えがとびかっているのですが、僕としてはこの記事を書いた人のなかで決定的に抜けてる視点があるように思えてなりません。

『ボクのおとうさんは、ボランティアというやつに殺されました。

http://jiburi.com/seigi/

概要としては、イモや狩で生計をたてている人達のところにボランティアの人がきて、野菜を育てて栄養をとり、野菜を売ってお金を稼ぎなさいと。

けどそのために父親が仕事に追われてしまい、父と遊ぶ時間がなくなり、あげくに父が死んだ。僕の父はボランティアに殺された。というお話なのです。

『僕のお父さんは桃太郎というやつに殺されました(泣)』から思いついた話らしいです。(思いついた話といっておきながら、「この話のボランティアとは僕の事」というのはどこからどこまでが真実なのかよくわかりませんが…)



これを最初にみたときから、抜けてる視点があるなと思って、黙っていられないのです。



周知のとおり、経済がグローバル化していく世の中です。
正直なところ、昔ながらの伝統的な生活のみで生きていくには限界があります。
様々な途上国で新たに土地が開拓され続け、森林は減少し、温暖化によって干ばつ地区も増えています。資本主義や教育競争の中から孤立して生きていくことは多くの人達にとって困難な状況になっています。
さらに少数民族や宗教、地方の人達は差別までされがちです。
生き残って行くためにはどうしてもお金も教育も必要になります。


イモや肉だけでも生き延びられるでしょうが、当然ながら栄養をとらないと健康によくありません。
お金がなければ子供が病気や怪我をしたときに、助けられるはずなのに助けられないなんてことになります。
お金を貯金しておかないと、干ばつや災害にみまわれたときに飢えて死ぬ事にもなりかねません。
教育を受けなければ、簡単に騙されて人身売買の被害にあったり、不当に借金をかけられてしまったり、土地を奪われてしまいます。

もしお父さんが頑張って働いてなければ、この子供は、世界で1日1万6千もの救えるような原因で死んでいく子供達の一人になっていたかもしれませんし、誘拐されたり数万円程度で人身売買され工場か農園で毎日重労働していたかもしれません。

これが、今の世界の実情です。

こういった大人の事情を踏まえれば、このボランティア活動がこの子供に不幸をもたらしたなんて言えないはずなのです。


実際にお金に困って我が子を売ったり見捨てたりする事はよくある事です。前回のスタディーツアーで訪問した孤児院にもたくさんのそういった子供たちがいました。



まぁ、ただ、記事を書いた人も悩んでいることだと言っているので、僕がえらそうにこの考え付け足せなんて言えるはずもないのですがw

僕の考えとしては、こういった視点をもって彼の行いの正当性を考えればよいのではと思うのです。





さて。

この活動は本当にこの人たちにとって幸せをもたらすものなのだろうかという葛藤は、よくあります。特に、人の命に関わるような課題がたくさんある国際協力をしていると頻繁に出会うものなのです。


例えば、以前スタツアで訪問した孤児院のスタッフ達なんかは、「子供達を飢え死にさせてしまうかもしれないよな貧しい親から子供達を引き離し、この孤児院で3食食べさせ高校を卒業させてあげるべきか。もしくは子供達が親からの愛情を求めて親に会いたい親と暮らしたいという思いを尊重して一緒に住まわせてあげるべきなのか。」こんな葛藤があると言ってました

どちらをとるべきかは、ケースごとによほど精査しないと正しい答えはだせないでしょうし、どちらが正しいという答えのない事も多いと思います。



同じように、文字や計算など必要とせず、自立している民族の人達に教育を押し付けるのはどうなのかというような題もあります。
だけど教育の受けていない人達が教育の重要性をきちんと判断できるわけもないし、さらにはその民族が位置する国や地域の状況をふまえて考えないと、そこに教育が必要か不必要かは判断できません。

その判断ができるはずもない人たちが教育なんかいらないよと言っているからといって見捨てるのは、それこそ、後々その民族が文字が書けないがために土地を奪われて、人身売買されたりでもしたらどれだけ後悔しちゃうのと思います。





経済の競争は、止めることができません。国と国が争い合う事も止めることができません。それらがものすごいスピードで物事が進んでしまうのも止めることができません。
誰もがその波から逃げ出すことはできるわけではありませんし、取り残されて不幸な結末を迎えてしまうかもしれない人達を無視もできません。

ただ、せめてその人たちと向き合って考えて行動していくことはすべきだと思います。

『あれをやってもダメ、これをやってもダメ。だから何もしない方がいいだろう』と、結論付けるのはただの思考停止状態です。

孤児院の話の中で、わざわざ『ケースごとによほど精査しないと正しい答えはだせないでしょうし、どちらが正しいという答えのない事も多いと思います。』と書いたのは、答えのない事ばかりではないからです。

きちんと一つ一つのケースについて情報を集めて学び、よく考えれば誰もがこれが正しいはずと思える答えがみつかることもあります。それは、僕がこれまでセブ島でいろんな農家の人達や、貧しく酷い環境におかれた人達をたくさん見て来て、思うことです。

悪い結果になってしまう事も人のやる事ですからあるでしょう。
それでも、そのリスクを理由にして隣で困っている人を無視してしまうのは最も愛のない事だと思いますし、悩むのが怖いからといって、首をつっこむ事を踏みとどまるのはすごく惜しい事です。




ちなみにこの記事を書いた方は青年海外協力隊の方だということなので、協力隊独特のやり方だからこそ、さらにこういう葛藤がうまれやすいのかもしれません。
協力隊というのは、現地のNPOなり団体なりが日本側に助けておくれとメッセージをなげかけて日本側で判断して協力隊を派遣するのです。
現地のNPOの意見と、現地に住まう人たちの意見は必ずしも一致しているわけではありませんし、そこは大勢の協力隊の人達が苦労している事です。ましてやたかだか2年やそこらで言語を習得してその文化風習に合わせてやりとりしなきゃならないですからものすごく大変ですよ。

ただ不幸中の幸いというか、日本としては、ODAを外交戦略として使う傾向は比較的にとても薄いのです。もしこれが、日本の文化や経済発展につなげるために、多くの現地の人に日本の産業に依存するような生活スタイルへ変貌させるという意図があれば、酷くあくどい話ですね。西洋医学の押し付けや、特定の農薬や肥料、苗の使い方を主観的に押し付けるとそうなるでしょうね。有名な話では戦後のアメリカさんは小麦を売るために日本に食糧援助しながらパン文化を植え付けたなんていわれてますが。


ちなみに僕の場合は、現地の人達が直接困っていると言っている事、明らかに改善すべき課題に対してのみアプローチする事が多いです。明らかにやるべきだといえる事は山ほどあるのですから、それらを放っておいてわざわざ葛藤せねばならない事に重きを置く必要があまりありません。(立場が違うということを言いたいだけで、青年海外協力隊を否定する気はまったくありません)

青年海外協力隊は、国際協力の活動もそうですが、青年の育成もミッションとして掲げています。この記事を書いた人は、十分に悩んで自分なりに答えをみつけだし、自信をもって自分はこれをやりたいといえることをやっていってほしいです。
http://jiburi.com/seigi/