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◎KC―135・その1

○これは機内を公開していた。ワシは階段の昇降が困難だから入らなかったが、給油の設備、中身はあったんだろうか。あるんだろうね。

○空中給油機を見ると、今となってはこれ以外のアイデアはないように思うが、合理的で大胆なアイデアだ。

○このあとで見たC―17もそうだったが、バリケードもなくて機体の真下にも行けて足回りもよく見られた。

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◎矢取地蔵http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/kyoto/temple/rajyou-mon-02.htm

○羅城門跡へ行く手前の九条通りに面して、なにやら怪しい感じのあばら家がある。これがなにをかくそう矢取地蔵である。

○説明文が出ていた。引用すると、淳和(じゅんな)天皇の時代、渇水があり、東寺の空海と西寺の守敏(しゅびん)に雨乞いの勅命が下った。場所は御所の神泉苑で行ったが、空海の祈祷で3日3夜雨が降った。これを恨んだ守敏は空海に矢を放ったが黒衣の僧が身代わりに矢を受けた。それが地蔵の化身で、矢負い地蔵とか矢取地蔵といわれる発祥で、当地にその地蔵を収めている。地蔵にはその矢キズがある。

○こういうのを見ると、空海さんはいいが、敵役の守敏というのは貧乏くじで、実際はどうなんだろうと思う。

○ネットで見ると東寺と西寺の間か、空海と守敏の間で勢力争いのようなことがあったようで、そういう逸話が生まれたとも言えるが、これはちょっとわからんなあ。

○雨乞い合戦でも、双方初回の祈祷では成果がなく、その後、空海が、守敏が邪魔をしているのを見破ったという話もついて来る、邪魔ができるくらいなら始めから雨を降らせてもいいだろう。そこらへんのところはいかにも矛盾する。

○守敏がどういう人物だったかわからないが、西寺が廃れてしまったことから時間をさかのぼって作られた話のように思うなあ。守敏の肩を持つわけではないが。

○お堂はガラス戸が閉じられ、中をのぞくと小さい電球が点いている。たしかにそれらしい像があるようだがよく見えない。京都の他の場所でもそうだが、戸を締め切って「半公開」か「ほとんど見せない」状態になっているのはいただけない。改善を期待する。

○敷地内には小さい地蔵や石標の類がごろごろしているが、地蔵は周辺で埋もれていたのを集めたらしい。石標には「愛宕大権現」と彫られたのもある。ここがそれなの?。その他道しるべのような石標もあった。

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◎F/A―18D

○海兵隊の複座型だ。これもスーパーホーネットを見たかったが、いいでしょう。

○やっぱりアメリカでもこのクラスの機体が使いやすいんだろうね、F―14はでかすぎやりすぎだよ。

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◎羅城門遺址http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E5%9F%8E%E9%96%80

島原からは山陰線沿いに下がった。梅小路の蒸気機関車館に行きたかったのだが、バイクで入れそうな入り口がわからない。時間も遅くなってきたのでやめておく。

御前通りだったのか九条通りまで下りて左折。5~600メートルで羅城門の町名やバス停が目に付いて迷うことはなかった。

九条通りに面して矢取地蔵という奇妙なたたずまいの建物があって、その横、短い路地を入って児童公園の中に石碑がある。

ワシは芥川龍之介の小説「羅生門」でその名を知ったのだが、そういう意味で見ておきたかった。

羅城門は平安京、朱雀大路の南端にあって洛中洛外を分けていた。構造は重層の入母屋造(いりもやづくり)、瓦屋根に鴟尾(しび)がのる。幅十丈六尺(約35m)、奥行二丈六尺(約9m)、(立札では32m、8m)高さ約七十尺(約21m)という、見るからに立派なもので外国使節を迎えるに充分だった。

多少ネットで資料を見たが建設に関しては詳細がないので平安京建設と同時にできたとして794年前後。だがいくらも経たない弘仁7年(816)8月16日、大風により早くも倒壊。その後再建されたが、天元3年(980)7月9日の暴風雨でふたたび倒壊。以後、再建はなかった。

喪失原因が珍しく火災ではないが、規模のわりに奥行きが短かく、カキワリ状態だったので情けなくも、風害に弱かったと言う。建設目的がカキワリであったのだから仕方がないということか。

復元模型があって京都駅前のぱるるプラザと京都府京都文化博物館(中京区三条通高倉)に展示されているという。その写真を見ても壮大な建築物であったことがわかる。

ただ、この石碑も明治28年(1895)、平安遷都千百年紀念祭の事業の一つとして、平安京実測事業がなされ、羅城門の位置を決め、建てられたというのだが、かつては遠くからも見えていたのだろうが、歴史的には最近まで全くわからなくなっていたというのが面白い。(というか、現在までその遺物の発見はなく、現在の「位置」も、あくまで推定ということだ)

文化財の復元がよく聞かれるが、当地周辺は住宅密集の市街地で、いくら熱心でも同じ場所での再建は不可能だ。再建するにしても同じ構造なら確実に強風で倒壊するから頑丈に作ってほしいが。

現在の石碑で目に付いたのは刻まれた「羅城門」の文字がいかめしく、いかにも立派だった昔を文字にとどめていると感じさせるところだ。

そして芥川龍之介さえも身近に感じるように思えた。

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◎島原あたり・②・角屋(すみや)http://www16.ocn.ne.jp/~sumiyaho/

島原住吉神社の前の路地を下がって行くとすぐに道はクランクになっていて道端に小さな石碑。「東鴻臚館址(ひがしこうろかんあと)」とある(写真1枚目)。

鴻臚館とは迎賓館のことで、発祥は奈良時代に始まり、筑紫館や難波館などがあり、平安京のそれは新しい方だと言う。当時の外国使節、渤海国使をもてなしたと言う。島原の土地のなりたちは鴻臚館に由来すると言っても良いようだ。

石碑に隣接して角屋がある。木造で二階建て。その前の道を少し行くとまた小さな石碑がある。「長州藩志士 久坂玄瑞の密議の角屋」とある(写真3枚目)。

角屋とは揚屋、料亭であるという。寛永18年(1641)六条三筋町から現在地に移築し、その時の移転騒動が島原の乱にたとえられて地域を島原と通称した。町名には「揚屋町」や「太夫町」といった、それらしい町名が残っている。

角屋の建物は昭和27年に文化財指定された。だが角屋を人々の記憶にとどめたのは幕末の事件に絡んでいたこともあるだろう。

石碑に名を残した久坂玄瑞をはじめ新選組の面々がある。芹澤鴨は当屋で暴れたらしいし、その時の刀傷があるという。芹澤は暗殺された日にここで酒宴を開いていた。

京都といっても幕末のころは市街地はもっと狭かったはずで、その上に一つの建物に勤皇,左幕が出入りしていたというのは、現実としても、これはどう考えれば良いのか。

そうは言っても角屋さんは外から見ただけです。現在は保存会によって「角屋もてなしの文化美術館」として公開されているが、入場料1000円ということで入らなかった。高いと思ったのね。ですから中途半端な観察になったことは否めません。後悔はしてないけど。

ひとしきり見たあと角屋のそばで自販機でポカリスエットを買って一休みしたが、周辺は現在は住宅街で静かで、ここがかつて花街であったとは想像できない。歴史だなあと思った。

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◎島原あたり・①・島原住吉神社http://www16.ocn.ne.jp/~sumiyaho/index.html

東本願寺からは七条通りを西進して山陰本線が見えて来て壬生通りに右折。そのさき信号を左折して山陰本線につきあたって少し上がれば島原住吉神社。

かなりの小社。由来は、「島原中堂寺町の住吉屋太兵衛の自宅で祀っていた住吉大明神が、霊験あらたかで良縁の御利益があり、参詣者が多くあり、享保17年(1732)祭神を島原の西北に遷座し建立した。」という。島原地域の鎮守社であった。

ただ、明治の廃仏毀釈で廃され、明治36年に稲荷神社として再興。島原住吉神社となったのは平成13年という。

社地はかつては広かったらしいが現在は家一軒も建たないほど。境内社に幸(さいわい)神社がある。

神社前には石標があり説明がよくなされているが、島原の保存会があって尽力しているようだ。歌が添えられている。

★住吉の 松の常盤に春はなほ 色香あらそふ神垣の梅  富士谷成章・・・とある。

一帯にはこの冨士谷成章の歌がいくつかの石標にある。西門跡の石標には

★花の色は いひこそ知らね 咲きみちて 山寺遠く 向う春風

幸神社の石標には

★曇りなく 神の光も やはらぎて ちりづか山に 交る瑞垣

地域の人たちの熱心な気持ちも文化財クラスと言える。

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◎RF―4E

○F―4は偵察型が来ていたが、ここは戦闘機型を見たかったナ。

○F―4は実物で見るとごつくて重量感があるが、自重だけ見ればF―15より1トンほど重い。これでF―15の方がエンジン出力が40%ほど大きいからF-15の高性能がわかる。

○しかしF―4は強そうなところというかごついところがいい。好きだねこういうの。実際、アメリカで空軍、海軍で主力になったことからも稀に見る名機と言えるだろう。

○ただ、現在では古いこともたしかで、これで米軍と共同演習をすると若い米軍人が自衛隊のF―4を珍しがるという。

○F―4に限らないが、米軍機は機体表面のアチコチに書き込まれた注意書きが面白い。自衛隊もそれにならって、この機体もところせましと書き込みがある。

○事故を防ぐというのももちろんだが、熟練とか、修行とかという日本的な「精神的技術体系」とは別の思想なのだ。「誰でもわかる」ということが大事なんだよね。こういうものは。

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◎東本願寺http://www.honganji.or.jp/

食堂・丸福を出て、北側の七条通りを西進。すぐに烏丸通りに右折して東本願寺門前だ。

本願寺って、東西でどう違うのか。

本願寺は起源を親鸞上人の入滅に発する。文永9年(1272) 親鸞の末娘覚信尼が住む現在の東山区林下町(知恩院三門北の崇泰院あたり)に大谷廟堂を造営、親鸞の影像を安置したのに始まる。

そして東西に分かれたのは第十二代教如上人(本願寺光寿)が、徳川家康によって本願寺東に寺領を与えられ、1602年に二つに分かれた。

だが、この分立は本願寺内に対立があったのではなく、幕府の政治的処遇であって、宗教勢力の抑止が目的だったという、なるほどねえ、以上、受け売りだが。

実際、写真だけでは素人では「東、西」の区別が付かん。これも思うに、「西」に対抗させるのが「東」の存在意義なのだから、上下関係にならないように、幕府が故意に「同一」にしたのだろう。区別がつかなくて当然だ。わざと「双子」にしたのだ。ようするに「違いはない」のだ。

そういうわけで東本願寺は創建には時代も徳川さんの時代になっていたことから京都では新しいうちに入る。

前回は西本願寺には行ったのだが、そのあと枳殻邸に行って、「東」を忘れたのかはずしたのか、とにかく行ったと思ったが行ってなかった。

境内自由だが、現在、御影堂は工事中。巨大さだけわかる。本堂に上がってしばし休憩。読経をサービスにして聞く。(202)

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◎「丸福」でそば付き親子丼http://www.hotpepper.jp/A_20100/strJ000109222.html

もう昼食時を過ぎている。建仁寺を出て川端通りを行ったのか、よく覚えていない。京都駅近く。東洞院通りを下がっていって、塩小路通りに出る手前に小さい店がある。

丸福。バイクを店の横に置いて入ると一階はテーブルが3つ。2階もあるようだ。客はサラリーマン風のが3人。観光客は来ない感じ。いいねえ。真ん中のテーブルにつく。

セットものがいろいろある。そば付き親子丼(セットとは言わないのかな)800円にした。