じなんぼうの伝言 -13ページ目







◎梨木神社http://www.genbu.net/data/yamasiro/nasinoki_title.htm
新福采館から広小路通りを戻って寺町通りにつきあたったところに梨木神社がある。
明治維新に貢献した三條實萬(さねつむ)・三條實美(さねとみ)父子を祭神とし、創建は久邇宮朝彦親王によるもので、三條家の邸宅跡に三條實萬を祀るための社殿を造営し、明治18年、地名からとった梨木神社の社号と別格官幣社の列格を受けて創建した。大正4年、大正天皇即位を記念して、子の實美を合祀した。
近代の人物で、神話上や伝説上の人物でもないのに祀るというのは現代的には奇妙だが日本らしい風習だ。
境内に井戸があり「染井の水」と呼ばれて、京都三名水の一つとされる。京都三名水(醒ヶ井・県井・染井)のうち、現存するのはここだけという。「染井」というのはかつて宮中で染色に使われたということだ。ワシが行った時も水を汲みに来ている人がいた。(写真2枚目)
当社は萩の花で「萩の宮」としても有名らしい。
境内には上田秋成や湯川秀樹の歌碑(写真5,6枚目)があった。上田秋成はこの近くに住居があり、湯川秀樹は当社の「萩の会」の会長をしていた縁だ。
三條實美公は東京遷都時に御所廃止の計画が出たときに反対して守ったというから、御所のおそば近くに神社があるというのももっともだ。
ただ、境内は京町屋ならぬうなぎの寝床式に南北に長いのが特徴。(大きい写真はその長々とした境内参道)


◎新福采館(府立医大前店)で黒いラーメン
新島襄旧邸から寺町通りを少し上がって広小路通りに右折、河原町通りに出るかどにラーメン屋があった。
店の前にはメニューの掲示もないのでちょっと迷ったが他に店もなさそうなので入った。
無難なところでラーメンを注文(チャーシューメンだったかも知れない)。値段は忘れた。とにかくスープが真っ黒。ちょっと驚いた。関西では味は薄口と思っていたが、見た目は濃い口だ。だが、味は濃いということはなく、気のせいか焦がしたような感じはあった。






◎新島襄旧邸http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/yorimichi/yori25.html
弁慶石からは麩屋町通りを上がって御池通りに出て、右折して寺町通りをしばらく走り、丸太町通りを渡って御所のわきになる、右手に新島襄旧宅。
受付に人がいるが入場無料。スリッパであがる。屋内は昔らしい建物で、入ってすぐの平屋部分は天井も低くて「こもる」ような住まい方だったんだろう。
いろいろな文書資料がガラスケースに入って展示がある。





★★京都気まぐれ旅・二番煎じ、記事100本目。
◎弁慶石http://www2u.biglobe.ne.jp/~yamy1265/kyoto-12.html
六角堂からは六角通りをそのまま東進。麩屋町通りを上がって三条通り交差点の北東かど近く。ビルの1階の1坪ほどのスペースに弁慶石がある。一見、ビルの装飾のオブジェかと見えてしまう。
しかし、バカにしちゃいけません。この界隈はその名も弁慶石町というのです。この石コロひとつによって町の名前がついているのだ。
説明によると、弁慶は幼少の頃、三条京極(この近く)に住み、この石を熱愛したと言われている。弁慶の死後、この石は、奥州高領の辺にあったが、発声鳴動して「三条京極に往かむ」と言い、その在所には熱病が蔓延したので、土地の人が恐怖し、亨徳3年、三条京極寺に移し、以来、この地を弁慶石町と称するようになった。
このような大石をわざわざ東北まで運ぶことはあるまいと思う。解釈すれば、弁慶の死後、その魂が(高領の)この石に宿った如く、(故郷の)三条京極に帰りたいと発声鳴動・・・というところだろう。「熱愛」は余計だろう。
石の形は長楕円形で、立ててあるからなるほど「帰りたい」と立ち上がるようにも見えるし、それこそ弁慶の立ち往生を連想させるとも言える。石の種類はわからないがちょっと黄味がかって、悪い感じはない。愛着を持つ人がいても不思議ではないだろう。
先にも書いたが、岩神様があるように京都の岩石信仰のようなものの一種だろう。弁慶石というのも全国でいくつかあるという。
★★この記事で「京都の旅・二番煎じ」の記事、100本になったが、はからずも弁慶石の記事になった。弁慶は999本の刀を奪い取り、1000本目となるときに牛若丸に対決した。無理矢理だがキリバンということで妙な因縁を感じる。








◎六角堂http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%82%E6%B3%95%E5%AF%BA
本能寺跡から少し上がれば六角通り。東進する。ここは都合よく東方向に一通だ。人出が多くなってきてのろのろ運転になる。昼食時でサラリーマンやOLらしい通行人が行き交う。
一通だけあって道幅は狭く、バイクさえ停めにくい。そのうち六角堂の前に来たがどうも「クリーン」な状況。少し通り過ぎて東洞院通りに入って電柱の陰にバイクを置く。
紫雲山頂法寺。六角堂は町なかにあるせいで参観者が多い。通称の由来は本堂が六角に造られているからだが、六角堂自体は寺内塔頭ということだ。
寺伝では創建は聖徳太子の夢のお告げによるらしいが、夢つながりであちらは八角だが夢殿との連想があったのか。実際の創建はもっと下って平安期ということも言われている。
六角堂は他の大寺院の堂宇に比べれば大きいものではないが、市街地内の寺院なので狭い境内にあって「六角」の状態を見渡せない。
六角堂の由緒で重要なのはなんと言っても池坊華道の発祥だろう。大げさに言えば結局日本の文化の一翼を形成したのだから。もっともワシ個人にはなんの影響もないが。
へそ石もあった(大きい写真)。これも伝説を聞くまでもなく形から六角堂との関連を思わせるが、言ってみれば「無意味な物件」だから伝説が生まれたのだろう。伽藍建造物の焼失と再建のくりかえしで残ってしまったのか。
面白いのは鐘楼堂、鐘が六角通りを挟んで飛び地に設置されていることだ(写真7枚目)。これも市街地にあるせいだ。



◎本能寺跡碑http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Tokubetsuhen/Honnouji/
壬生寺からは四条通りに出て右折。油小路通りを上がって蛸薬師通り交差点手前に真新しい石碑がある。周辺もきれいで、近年整備されたようだ。
ネットで見ると、かつては交差点の角に小さい石碑があっただけのようだ。そのころは背後に本能小学校があったが廃校になり、現在はそれが福祉施設になり道路も含んで一帯が整備された。
石碑の「本能寺跡」の文字が奇妙だと思ったが、「能」の字のツクリが「ヒ」が二つで「火」につながるということで嫌われ、「缶」に似たような形にしているということだ。これはここで初めて知った。
もともとの本能寺は、当初は本応寺とされ、室町時代の応永22年(1415)、現在の仏光寺のあたりに日隆によって創建されたものという。かなりの寺域があったらしい。
お寺そのものもトラブルがあったが、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変でとどめを刺された。
明智光秀の行動や「犯行動機」についてはナゾが多いようだが、こういう暗殺事件は世界的にも多いし、犯人はコモノでも失われたものはあまりに大きいというのも事実だ。
現在の石碑の背後には地域の消防団の施設があったが皮肉だ。写真を撮り損なったのが悔やまれる。
PS・・・今(9/21)気がついたが、ワシがこの本能寺跡に行ったのは上記のように6月2日で、旧暦ではあるが本能寺の変があったその日だ。いわば信長さんの命日だ。知らんかった、うかつだったねえ、今わかった、因縁だ、信長さんに呼ばれたんだろうか。わが崇敬する信長公の魂よやすかれ。









◎壬生寺http://www.kyoto.zaq.ne.jp/mibu/
梛神社からは四条通りをさらに西進して、千本通りに左折、仏光寺通りにさらに左折して壬生寺。
創建は寺伝では奈良時代、鑑真和上によるとされ。 本尊は延命地蔵菩薩で、水掛け地蔵を始めとする、多数の地蔵菩薩が祀られ、古来より厄除・開運の寺として庶民の信仰を集める。
正暦2年(991)三井寺(円城寺:滋賀県大津市)の快賢僧都によって再興された。
壬生寺といえば新選組。屯所を八木邸に置いて、当寺で訓練をしたり大砲を撃ったり、近所迷惑をかけていた。
境内の一角には、近藤勇の像や芹沢鴨や隊士の墓があって、壬生塚として、その方面では参観者もあって恩返しをしているだろうか。
壬生塚は参観100円。近藤勇の胸像が迎える。自分のコブシを口に入れて見せたというだけあって大口の様子がわかる。
チャンネルを変えるときにちらっと見ただけだが、NHKの新選組では香取慎吾が近藤勇をやっていた。ひどい大根だったのでセリフもなく、口がでかいだけで選ばれたんだと思ったのを思い出した。
場内にはノートがあって来場者の書き込みがあったが、いまだに新選組の人気は高いようだ。
お寺は壬生狂言でも有名だ。境内にある保育園のうらにある大念仏堂を見る(写真6,7枚目)。これは横の方から覗き込むようになるので全体はわからないが、どうなんだろう、別の方から見られたんだろうか。
それでも舞台らしいものはわかった。新選組の近藤勇をはじめ隊士連中も鑑賞したらしい。







◎梛(なぎ)神社・隼神社http://www.kamimoude.org/jinjya/kyoto-city/nakagyou/na-nagi/index.html
壬生寺に行こうと四条通りを西進。大宮を少し過ぎて坊城通りとの交差点、左手角に石造の鳥居がある。以前から目に付いていたが、寄ってみる。
鳥居左右に石標があって夫々「式内 隼(はやぶさ)神社」と「元祇園 梛(なぎ)神社」と刻まれている。「同居型」の神社は多いが、二つとも珍しい社名というのも珍しい。
「梛」は植物の梛ということで、貞観十一年(876)京都に疫病が流行したとき、播磨国広峰から牛頭天王( スサノウノミコト)の神霊を勧請して鎮疫祭を行った。そのときその神輿を梛の林中に置いて祀ったことがこの神社の始まりだという。
梛は新熊野神社でも出てきたが「なぎ」という語感が「草薙」とか「災いをなぎ払う」に通じるということなのだろう。
「元祇園」のわけは、後に神霊を八坂神社に遷祀したとき、花を飾った風流傘を立て、鉾を振り、 音楽を奏して神輿を八坂に送ったことで、のちの祇園会の起源といわれ、また八坂神社の古址にあたるので元祇園社と呼ばれたという。
一方の隼神社は式内社であるから古社には違いないが、イワレは詳しくはネットを見た限りではよくわからない。
祭神は 建甕槌神(たけみかづちのかみ) と 経津主神(ふつぬしのかみ) 。社名はここで初めて知ったが、たしかに多くはないが鳥取の方にもあるらしく、空前絶後というほどではないようだ。
「鳥取」なら同じ鳥つながりだから、そちらが「本場」と言えるかも知れん。
なぜ鳥の「隼」なのかはわからない。こういうのはもともとは土俗的なイメージのものであって、あとで漢字をあてたのでよくわからなくなってしまうのだ。
(大体、日本の言葉、地名の多くは本来「漢字で名付けた」ということはないはずだ。漢字が入ってくる前から日本語はあった。漢字が入って来たので日本語を漢字にアテたのであって、最初から漢字表記の日本語があるわけがない。ところが、一度漢字で表記されてしまうと、今度は漢字としての意味が先行してしまうのだ)
この隼神社は蛸薬師坊城から当地に遷座されたのは大正時代。梛神社とともに厄除けに霊験ありとのこと。
ハヤブサとは面白い。機会があれば調べよう。意外にナゾがありそう。
大きい写真、社殿は左が梛神社、右が隼神社。








◎六孫王神社http://www.rokunomiya.ecnet.jp/index.html
矢取地蔵からは九条通りを東進して壬生通りを上がる。JRの線路につき当たる手前に六孫王神社がある。境内入り口には鳥居はないが、「清和源氏発祥の宮」という看板が目を引く。境内自由。
源経基がご祭神。経基は清和天皇の第六皇子貞純親王の子で、天皇の孫なので「六孫王」と呼ばれた。神社の創建はその嫡子、源満仲で、さらに清和源氏の武士団を形成したことから、「清和源氏発祥の宮」を称する。社地は、源経基の邸宅「八条亭」の跡地である。・・・と。
応和元年(961)、経基は臨終に際し、「死後は龍神となって邸内の池に住み、子孫の繁栄を祈るから、この地に葬るように」と遺言した。応和3年(963)、嫡子の満仲は現社地に経基の墓所を建立し、その前に社殿を造営した。・・・とのこと。
だから霊廟を神社にするという珍しいことになった。亡くなった人を祀ると言うのはよくあるが、実際にお墓も一緒というのはないようだ。
真偽はわからんが、本人の意思で「龍神となって子孫の繁栄を祈る」というのは珍しいだろう。しかし、その言に違わず、血筋に源頼光、木曽義仲や足利氏、細川氏、島津氏、今川氏、徳川等があるというから、まさに後の日本を造ったと言って過言でない。
もっとも、なにかの本で読んだが、計算上は日本人全員が天皇の血を引いていると言えるらしい。だから天皇の血筋が絶えるということも心配無用ということになるが。
神社は境内の中央に神龍池がある。また満仲誕生のとき琵琶湖の竹生島から勧進したという弁財天を井戸に祀った誕生水弁財天社がある。
そういえば清和源氏という言葉は聞くが、歴史を動かす力はそういうふうに最後は血筋なのかね。
まあそれはいいんだが、ではなぜ数ある天皇の嫡流のなかで清和源氏だけが特別なのか。ネットをいろいろ見たが、「こうなっている」というのはわかったが、なぜ「そうなったのか」、なぜ「清和」なのかはわからんかった。
それに細かく言えばなぜ「六孫王」なのかというのもちょっと納得がいかない。「六道」というのがいろいろ宗教上の用語で出てくるが、そういう部分で「六」自体になにか意味があるようにも思うんだけどなあ。









◎KC―135・その2
○給油機の特徴の給油ブームを見た。オペレータ用の窓もあった。
○ひっくり返らないように機体後部にはつっかい棒が立ててあった。

