じなんぼうの伝言 -12ページ目


◎大久保利通旧廷跡碑http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A
往ったり来たりだが清荒神から再び寺町通りに出て上がる。石薬師通りなんだが、寺町通りからは一通の出口なので徒歩で少し入ると小さい石標がある。住宅のかどにわずかに建っている。
大久保利通公は明治の元勲と言う以外あまり知らなかったが、今回ネット上でだが多少知識を得たが、非常に合理的で現実的で、新選組のような存在があった反面、こういう人物がいたから明治維新はあったのかと思わせる。
維新はすなわち東京遷都であるから、大久保公がここに居住していたのは維新前だろう。この石標が建てられたのも昭和になってからだ。
この小さい石標に明治の時代を思わせるものがある。というか、こんなひっそりとした風情で大人物の名がたたずんでるかねえ。
思えばこの界隈は紫式部、上田秋成、三条実美、大久保利通という日本を作った偉人達が時代は違っても隣近所同士に住んでいたのだからすごい。








◎清荒神(きよしこうじん・護浄院)http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/gojyo-in.htm
盧山寺からは寺町通りを少し下がってその名も荒神口通りに左折してすぐ、大型のちょうちんがあるお寺。
ネットの説明を転載するが、三宝大荒神は、千二百余年前、光仁天皇の皇子開成親王の作といわれ、当初は攝津勝尾山の清荒神にあったが、後小松天皇の勅により僧乗厳(じょうげん)が醒ヶ井高辻(下京区)の地に勧請し、始めて清荒神といわれた。
その後、慶長5年(1600)、この地に移され、後陽成天皇自作の如来荒神尊七体を合わせて祀って、国家安泰、五穀豊穣、火難即滅、日常生活の平穏を祈願し、元禄10年(1697)に護浄院と院号を賜り 、今日に至る。
また、一般の家庭ではカマドの上に祀られ、火の守護神とされる。尊天堂内に安置される福徳恵比須神は、もと禁裏(京都御所、堂上家)に奉安されていたが、明治維新に際し当院七福殿へ移されたもので、「京都七福神」の一つに数えられ、世に尊信が高い。また、福禄寿尊は「京の七福神」の一つとして知られている。なお、”荒神口”の地名はここから起こったものという。
雨宝院ほどではないがそれほど広くない境内の一角は社殿の如く諸仏が安置されている。地域では清荒神として崇敬されていると言うのは充分わかる。ワシも近くに住んでいたらなにかにつけてお参りをするだろう。



◎シャークティース
P―40と言えばシャークティース。作ったのは中国大陸で日本軍と戦った14空軍23戦闘グループの1機。
その昔、塗装はできていたんだが米軍マークがなく、オクライリになっていたが、この前デカールを手に入れて今回完成にこぎつけた。
レベルのP―40はデキがいい、好きなモデルのひとつ。
修正点は機首上面のエアインテイクで、カマボコ型を「吸入口」らしくした。その他いろいろ。なお現物の写真では胴体上面のアンテナ支柱はないのでとりはずした。つけ忘れではない。
機番号の「202」は、間に合わせだ。写真資料では300番台しかないが、デカールがないので間に合わせた。機会があれば修正するつもり。








◎帰宅まで
竜神大吊橋を出るともう3時過ぎだ。ここからのコースはショートカットコースに変更する。
吊橋からはそのまま南下。数キロ走って県道36を左折東進。これも数キロ走ってR349茨城街道(棚倉道)に突き当たる。
時間があればこれを左折、北上してR461を高萩に出るコースがあるのだが、もう日暮れも早い季節なので、それはやめてここで帰りのコースを取る。
右折してR349を南下。30キロくらいか、午前中に来た県道38に行き当たり、左折してしばらく行って、R6に入る。ガイドではここらへんはR6は「陸前浜街道」となっている。
R6はただまっすぐ走って帰宅。
午後8時帰着。
★走行距離337km。今回なぜか疲労感なし。尻が痛くなることもなかった。気候がよかったのか、コースが良かったのか。









◎竜神大吊橋
○R461を行けば大きな看板があるので吊橋はすぐわかる。R461から看板に従って坂になっているわき道を登る。
○坂道を登りきったところに吊橋の塔が突き立っている。塔の近くの駐車場にバイクを停めた。車は数台。橋は歩行者専用だ。
○橋の入り口の料金所で入場料?300円を払って入る。橋の入り口から見ると向こう側は山が待ち受けている。橋の下を見ると竜神ダムがあるのだが、橋はその貯水池をまたいでいるが渡ってもまた山道があるだけのようだ。
○前を行く子連れの夫婦が言った。「ここを渡ってどうするんだ」
○橋は途中3箇所で床にガラスがはまっていて下が見えるようになっている。ただ、キズで曇ってしまっていてよく見えない。橋長375mということで、景色を見ながらゆっくり歩いて10分ほどで渡りきる。
○渡ったところには自販機と小さな休憩所がある。そのさきには小道が下に続いている。







◎R118からR461を行く。
空はどんよりとしているが暑くないだけいい。久慈川沿いを道は北上する。ときどき川を渡る。ここらへんはリンゴも作っているようだ。それにこんにゃく。
そのうちR461との分岐点にさしかかる。ここが今度のツーリングの折り返し点になる。道は右折してR461に入る。袋田の滝の入り口という看板は今回無視。そのまま東進。
数キロ走って小生瀬(読み方わからず)というところで道は南方向に曲がる。ここまでで通り過ぎたR461には月居城跡とかがあるはずなんだが全然わからず。あとで見たらトンネルの近くだったようだ。
この奥久慈の久慈川周辺は釣りやキャンプや温泉、ハイキングなど、いろいとレジャーができるようだ。







◎特産センターで昼食
R118に入ってガソリンの残量を見る。出発は満タンではなかったが給油するほどではなかった。しかしツーリングとなると見る見る減って行く。この先1回は給油が必要と思っていたところで、GSがあった。
135円/L。セルフだがこれは安い。給油にはまだ少し早かったが寄る。4.97L、671円。
道は久慈川に沿って伸びている。平日のせいもあってか交通量はない。ほぼ直線でゆっくり走れる。道端の看板に鮎の字が見えるが、鮎釣りができるようだ。時々見える川面には釣り人の姿が見える。
道は水郷線の鉄道が並行して走っている。その駅、山方宿というあたり、道の右手になるが特産物販売センターがある。直径6~7メートルはありそうな水車が目印だ。
時間は1時を過ぎているので昼食にする。特産品が並べられている。値段は安そうだ。
食堂は「みずぐるま」という屋号らしい。お決まりの日替わり定食を注文すると、切らしたとのこと。では名物らしい鮎定食をというと、土、日だけという。結局けんちんそば525円を注文。切らしちゃいけないよ。
そばは田舎風とでもいうか、やや太めでむっちりとした感じ。量も多めでこれはこれで満足。
食後は店内にある特産品売り場を見て回った。







◎長年の冬眠モデル。
○いつ作り始めたか、いつ中断したか忘れたくらい昔のプラモを5機、今日、組み立てを完了した。・・・と思う。
○なんで5機、いや、あと2機(Fw190とF4F)あるが、こんなにたまったかわからんが。
○この1週間くらい気が向くとチョコチョコと手を入れるくらいのペースでやってたが、これであとは塗装だ。
○すべて半完成だったのでへんな手間がかかった。
○内容は、零戦が22型2機と32型、52型、スピットファイアL・F5B各1機の計5機。
☆零戦は全て今はなきエルエスの1/75(1/72ではない)。そして52型以外は全て改造だ。
☆22、32型は21型と52型の合体で組んだ。ぜいたくだねえ、子供の頃はできなかった。52型は改造はないが、増槽2個と250キロ爆弾をジャンクパーツから持ってきての戦爆仕様。
☆スピットファイアはこれも今はなきニチモの1/70だ(1/72ではない)。改造で切断翼と自作の幅広プロペラの組み合わせ。








◎出発・9月26日・朝
夏の猛暑も終った。これで遠出もできる。
バイクは風を切ると言っても、真夏はやはり暑い。知らない人は、風が涼しいでしょうなどと言うが、それはトーシロ、風はバイクの敵です。ワシは冬もいやだが夏もいやなのだ。
奥久慈というのは以前から聞いてはいた。袋田の滝も行ったことはある。が、ガイドに出ていたので行くことにした。
朝8時半、出発。天候は曇り。雲は薄い。大分涼しいが、田舎は寒いかもしれない。
R6水戸街道に出てひたすら北上。R6は退屈なだけだ。とりあえず目指すのは市毛交差点。
そこから県道38に入り、袋田の滝に向う。ただし、袋田の滝は行かない。以前、行ったことがあるので今回はパス予定。
とりあえず目的としては竜神大吊橋だ。
石岡まで来ると百里の自衛隊基地を思い出すがそんなことはどうでもいい。酒門(さかど)というあたりで一休みして、少し走ってすぐに市毛交差点に着いた。早速左折。
県道38を5~6キロ走ってR118に取り付く。ここまで80キロくらいか、時間は11:40頃。
ひたすら北上。とりあえず袋田の滝をめざす。
マシン=CHARGE125






◎盧山寺http://www7a.biglobe.ne.jp/~rozanji/murasakisikibu.htm
梨木神社とは寺町通りを挟んで向かい側。場所柄、人通りも少ないのだが、紫式部の寺で知られているだけあって地味な環境は相応しいだろう。
サイトの説明によれば、比叡山天台18世座主元三大師良源によって天慶年間(938年)に船岡山の南に創建された。還元年間(1243~1247)の頃僧覚瑜が再興、中国の廬山にならって蓮社を結び道俗貴賎が群集し、廬山天台講寺と号した。・・・とある。
で、その紫式部だが、お寺も宣伝してはいるし、根拠がないわけではないのだが、正直言って、この地が紫式部の住居跡ということであって、この盧山寺に住んでいたわけではないので紫式部自身の「何か」があるわけではないのね。あくまで「空間」が「それ」だっていうことだ。
場所的にも室町時代に応仁の乱で焼失した後、1573年に織田信長の焼き打ちをまぬがれ、現在の地に移ったということだ。紫式部の没後500年経ってからだ。
拝観料400円。本堂内には紫式部に関連した資料の展示があり、ガイドによく出ている独特の庭がある。その苔の島?の丸い形がいかにもだ。
拝観者も意外に何人もいたが、女性ばかりだったのもやはり紫式部の寺ということであろう。
境内には紫式部の歌碑もあった。
★「めぐりあひて 見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」

