







小沢蘆庵碑を見てから岡崎通りを上がって丸太町通りの一本奥になる春日上通りになるのか、少し戻るように西進して積善院準提堂と、その向かい須賀神社を見学。だけどちょっとスベッタので、ここでは写真を少しだけにしますね。むこうさんが悪いわけではない。
ちょうどお昼なので店を探したが、付近は妙に静か。考えたら日曜日だ。東京あたりでは日曜も土曜もないが京都では日曜というと店は休む。困る。
それでもあたりをさんざん走って熊野神社の向かいの「カレーハウス・スパイシー」と言う店に入った。チキンカツカレー580円。


御辰稲荷から丸太町通りをそのまま東進して200メートルほど。岡崎通りとの交差点手前。歩道上に石標2本が並んでいる。
小沢蘆庵は江戸期の歌人(1723~1801)で平安和歌四天王の一人。「ただごと歌」という主張があって20年間門下となっていた冷泉為村のもとを破門されたとか、歌人とは言え、なかなか剛直な人であったようだ。
小沢蘆庵は上田秋成(1734~1809)とも親交があったという。
蒲生君平(1768~1813)はその蘆庵宅に寄宿していた。こちらはまた「寛政の三奇人」の一人と言う。儒学者だが蘆庵とは尊王論で意気統合していた。蘆庵よりは45歳ほど年下だ。
蒲生君平は全国の天皇陵を調査してまわり、「前方後円墳」の名付け親と言う。故郷宇都宮には蒲生神社があって祀られている。
石標の建立は蘆庵は大正6年、蒲生君平のほうは昭和15年。
上田秋成の雨月物語は中学生のころ読んで、忘れようとして思い出せないのだが、上田秋成は、この小沢蘆庵と関連があったとあとでわかり梨木神社でもその名があったことを思い出した。
そして、知られているのかな、上田秋成の伝記はないという。というか書いてはいけないというタブーがある。書こうとした人は命を落とすと言われている。






熊野神社の門前の丸太町通りを東進して300メートルほどで左手に御辰稲荷がある。社名が人の名のようだと思ったのだが、人名ではなく方角名から来ている。
ただ面白いのは伝承に「御辰狐」という擬人化した狐の話があることだ。やはり連想として人の名が出てくるのだろう。また境内末社に福石大明神(写真4枚目)があり、こちらは例の岩石信仰がある。
境内は狭いがきれいにされていて場所柄、参拝者も多いことが窺われる。
小さい神社だが宝永二年(1706)に、東山天皇の側室、新崇賢門院が霊夢を見、東山天皇の勅許により創祀とあるから由緒のあるものだ。
そして「辰」の語感が「達」「達成」「達者」につながり、芸能上達に霊験アリとなったと言う。その規模の小さいこともかえって庶民的な親近感につながっているのだろう。






いにしえのニチモのキット。組み立てはずいぶん前に終っていたんですけどね、今回製作再開をしてプロペラを自作したほか、細かいところを作ったわけです。
このキットは古い分、オモチャっぽいところもありますが、箱絵があの橋本喜久男氏で、当然、設計も氏のものと思います。だから全体のラインは美しい。
資料はエアカムシリーズです、型式は本来はMk5Bですが、切断翼なのでL・Fとなるのね。
最大の問題点はプロペラ。プラ版から削りだしてもいいんですが、手っ取り早くレベルのP47のもので、1枚欠けてしまったジャンクパーツを流用しました、その3枚になったものを削ったわけです。
箱絵も素朴な感じです。







◎八ッ橋屋http://www.8284.co.jp/history/history04.html
寂光寺から東大路通りを上がって丸太町通り交差点、北西角。京都の熊野三山のひとつという。新熊野神社にも行って知ったが、熊野信仰は天皇の参詣もあってかつてはかなりの崇敬を集めていたことがわかる。
創建は弘仁2年(811)紀州熊野大神を勧請したのに始まると伝えられる。 嘉承年間(1106~1108年)増譽僧正は聖護院を建立し、当社を鎮守神とした。
ここだけではないがお寺の鎮守が神社ということをはっきり知ったのは今回京都に来て初めてのことだ。当社も応仁の乱で焼失して、再建したのは江戸期になってからだ。
境内には銅像と石碑があるが八つ橋の発祥の地ということと銅像は八橋屋の中興の祖、西尾為治という人だ。たしかに神社となりに八ッ橋屋?さんがあって店頭に「八つ橋発祥の家」とある。
今回、熊野神社にちなんで、この八つ橋のこともネットで探したのだが、どうもよくわからない部分がある。やはりよくあるように「本家」「元祖」「創業」というような発生にかかわる問題があるようだ。
☆記事300本目。








無鄰庵からは仁王門通りを西進して東大路通りを渡って一通を入ってすぐの左手。観光寺院でないお寺なので静か。
門に寺名の看板と「碁道 本因坊 元祖之道場」とあり、なおも石標があって「碁道名人 第一世本因坊算砂之旧跡」とある。
境内は無人。入って左手に自然石の石碑があって、「第一世本因坊報恩塔」とある。(大きい写真)
申し訳ないがワシは将棋も囲碁も知らないのでありがたみは全然わからん。
囲碁の名人で寂光寺の寺内塔頭の本因坊に住んで算砂(後の日海上人)と号し、あの本能寺の変の前日に織田信長に招かれ御前碁として鹿塩利賢(または利玄)と対局し「本能寺三劫の碁」の伝説を生んだ。
本因坊を「名人」としたのは信長であること、本能寺の変の凶兆を示唆した三劫が不吉であることなど今に知られるエピソードが多い。
ただ、「三劫」についてはどうも脚色臭いようだ。
本因坊日海上人はこの後、秀吉や家康とも囲碁を通じて接触があり、その点、歴史の目撃者になっているところがうならせる。








東山五条あたりからは行きにくいのだが、仁王門通りの南側に面する、京都市動物園の向かい。
東側から道路を入って行くと板塀が続く、路地を曲がって入り口がある。入ると今度は一段と小さい入り口がある。ここでいいのか一瞬躊躇する。裏木戸と言った感じ。入場料350円。
山縣有朋の別荘。と言っても昔の住宅は狭いというよりとにかく小さくできているとつくづく思う。人の体格も小さかったのは事実だろうが。
入って左手に木造の母屋、右手に洋館がある。実際の面積はわからないが、視界の多くを占めるのは池泉回遊式という庭園だ。東山を借景としているのもよくわかる。
入り口から入ってすぐの印象は狭苦しいのだが建物を敷地の片方に思い切り寄せて、庭園をできるだけ広く取るためだということがわかる。
庭園を周るが、こういうところでゆうゆうとすごせば気分はいいだろうと思わせる。
母屋に上がって畳に座って庭をながめると、また気分はいい。お茶も有料で頼める。
洋館に行って見る。日露戦争直前にあって山縣、伊藤博文(政友会総裁)、桂太郎(総理大臣)、小村寿太郎(外務大臣)の四者によって開戦の密議をしたという場所だ。
2階にも上がって見たが、政治家なのでその方面の客を迎えるために造ったものだろう、ここでくつろぐようにも思えない。庭も見えない。くつろぐのは母屋でということだろう。
PS・・・翌日は帰りなので、実質、この日が最終日だ。今回の記事数は100本を越えた。前回の京都行きの記事と合計すると150本以上。これはこのBLOGの記事の半分以上になる数だ。それでも充分という感じはない。行ったところでも見落としはいくらでもある。京都は底なしだね。終わりということがない。



上御霊神社の西側門前に道をはさんで小さい石標がある。
緒方光琳宅蹟。「緒方」は「尾形」ということだろう。尾形光琳についてあれこれいうこともないが、なにか人知れず建っているという感じ。
ネットで見ると、この背後は「瓢亭」という料理屋だったようだが、ワシが行ったときは普通の住宅だったと思うが。
こんなところにも歴史かとしばらく周囲をウロチョロした。
近くの自販機でポカリスエットを買ってしばし休憩。
夕日に追われるようにして帰路についた。








寺町通りをそのまま上がって今出川通りを渡る。なおも北上。右手に本満寺とか阿弥陀寺とか、門前に気になる石碑を見つつ、その名も上御霊神社通りに左折。道がクランクに曲がる手前に神社境内の森が繁っている。鎮守の森である。
社名の「御霊」というのは政争等で非業の最期を遂げた人の霊ということで、当社はそれを祀ったものということだ。
祭神は崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)井上皇后(光仁天皇の皇后)他戸親王(光仁天皇の皇子) 藤原大夫神(藤原広嗣)橘大夫(橘逸勢)文大夫(文屋宮田麿)火雷神(以上六柱の荒魂。菅原道真とも) 吉備大臣(吉備真備。吉備聖霊ともいう) で、この八柱をもって八所御霊としている。
崇道天皇とあるが、これは早良(さわら)親王(785年没)が死後に追称(800年)されたものという。そのあたりに当社の創祀の淵源がある。
神社の説明立札には平安京遷都(794年)に同じくして桓武天皇によって創建されたとある。
ただ、どういうわけかネット上では神泉苑で上記の八柱を慰霊した御霊会が行われた863年を起源にしている記述が見られる。「863年御霊会」がなぜ突出したかわからん。
たしかに桓武天皇(806年没)の時代、各地で疫病が流行したが、これは早良親王やそれに連座した御霊の祟りであるとして、追称したのをはじめ、その後も度々慰霊の催事が行われたようだ。
早良親王は無実を訴えながらの最期という事で、悲劇の人になっている、それをあとになって怨霊に祟られたとかかわいそうかなって言ってもねえ。
神社の森が応仁の乱の発端になったというのは因縁であろうか。
西向きに鳥居はあるが南にあるのは神門というのか立派な門構えがある。
神社はさすがに天皇ゆかりを感じさせる雰囲気があり、静かで高貴な印象がある。
芭蕉の句碑がある(写真6枚目)
★半日は 神を友にや とし忘(れ)

