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◎やっとここまで来たか。

○今どきのプラモはあんまり手がかからないようになっているが、そういうご時世に今日もゴリゴリとプラを削り、パテパテとパテを塗りたくる。

○やっと主脚がつけられた。これは習作だと思えてきた。だいぶ修行になった。

☆XP72はエンジン部や胴体下面がP47と全然違うだけでなく、脚カバーも違う。ただ、P47のものを削ればできる形なのだが、レベルのこの部分はとんでもなく落第だ。

☆まず脚柱がカマボコのようにカバーと一体になっていて途中までしかなく、車軸はカバーに「生えて」いる、ここまでシンプルにするかという、オモチャ感覚だ。

☆結局、カバーはプラ板で作った。本来のカバー部は脚柱部分は削り取り、車輪部分は整形して、P47やXP72に特徴的な分厚いカバーの裏面にそのまま使うことにした。車軸をそのまま使え、車輪も使える。

☆しかしこの車輪は直径はいいのだが、厚みが足りないので修正。P47もそうだけど、あのトラックのようなタイヤが特徴だからね。

☆主脚をつけて三点で立たせるとやっと飛行機らしいカッコウになる。

PS・・・脚収納部側の形状も変更したが、XP72は前の記事にあるように、下面の図面はない。だからかろうじて写真でわかっている脚カバーの形状に合わせて収納部の形状を決めた。

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◎竹中稲荷神社・②(ナゾの塚群)

不気味だったなあ、その竹中稲荷の塚群の中をうろうろして、ひとつづつ見た。

それにしても「竹光大明神」とか「竹春なんとか」と「竹」のついた名が多くあるのも奇妙だ。やはり「竹中」の社名と関係してということだろうか。

その塚や祠が「マウンド」にところせましと築かれていて奇観を呈している。数は数え損なったが資料では50以上と言うのを見た。

これらのイワレはまだネットでは探せていない。

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◎竹中稲荷神社・①http://www.kamimoude.org/jinjya/kyoto-city/sakyou/sa-takenaka/index.html

宗忠神社の向かいあたりになるのか、鳥居があった。その奥は長い参道が続いている。参道のわきには寄進者の名が入った赤い柵がこれも長く続く。車折神社を思い出す。

奥の方の一画がなんとも不気味な風景だった。要するに塚のむれというのか、自然石に大明神と彫ったものや小さい祠や鳥居もありで、歴史的にどうということもないのだろうし、不気味さたっぷりだ。

ネットで調べたのだが「塚群がある」というのがそうであろうか、それくらいしか記述は無い。

神社としては、天長年間(820年前後)既にあって、のちに吉田神社の末社になったというから歴史は古い。

また奇妙なのは「天保年間に京師幾萬の子女群詣し昼夜の別なく満山に踊躍す 是を蝶々踊と云い其の後数千の鳥居参道に樹立し雨雪為に傘を要せず」などというきろくがあるというから、 かつてはにぎわいがあったのだろうか、それがあの不気味な塚群に残っているのか。

神社としては申し訳ないがほかに驚くようなものはなく、「吉田山の塚群」としてワシの記憶に留まった。

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◎なぜそうなったのか

○ワシがかってに取り入れ口は機軸に直角だなんて考えても、だれも迷惑にはならないが有難がれもしない。

○それはいいとしても、では直角を後退角に「間違う」というプロセスを考えないと、いくらかってだと言っても推論は成り立ちがたい気がする。

○それでワシなりに考えたが、それは取り入れ口の断面に原因があるのではないか、取り入れ口の断面は逆オムスビ型というか、おおまかにはV字型をしている。

○そうするとその前後方向の傾きはわかりにくくなる。これが四角形なら縦の辺は左右方向は垂直だから、だいたいどこから見ても傾斜角は判断しやすいが、断面に最初から横方向に傾斜がついていると真横から見るのでなければ前後方向の傾きはわかりにくいものになる。

○というか前後方向に直角であっても、斜めの角度から見ると向こう側になった縦の辺は強い傾斜に見えて「前後方向に後退角がある」と見えてしまうのではないか。

○そして、取り入れ口の後方の胴体部分の下面は湾曲と言えるような、意外なほど曲線を描いていて、それも錯覚を起こさせる一因ではないか。

○それらに原因があって、図面製作者がわずかな枚数の写真しかないなかで見誤ったのではないだろうか。

●今回、あらたに見つけた写真をここに載せるが、その下面の線が、やはりかなり曲がりが強いのと前方に向けて「起き上がる」位置から見て、やはり後退角つきかという疑念も起こさせる写真でもある。

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◎XP72の空気取り入れ口について・写真と図面に矛盾あり?!

①写真について。

○前回のXP72の記事の写真を見た人で知ってる人は、作りかけだが胴体下面にある空気取り入れ口について「角度が違うじゃん」と思ったでしょう。そう、公表されている図面とは違っています。

○今回このモデルを再起させるにあたって取り入れ口を正確に作りたかったのでここの形状がわかる資料をネットで探したのだが、ネットにあったのは新たな写真が1枚と図面(上掲のもの)が1枚。

○しかし、新たな写真は真横のもので、取り入れ口は主脚に隠れて見えない。ワシは航空ファン誌の写真(上掲の大きい写真)を持っているのだが、肝心のその空気取り入れ口も半分ほどしか見えない。結局、これが唯一取り入れ口が写っている写真である。

○ワシが見た限りではXP72の写真は全部で3枚。うち1枚はコントラペラ付きで、参考にはなるが証拠にはならない。それにその写真では取り入れ口は胴体の影に入っていて暗くて見えない。

○ワシが作ろうとしている4枚ペラ型の写真は上掲のものと、その真横のものの2枚ということだ。それが問題だ。

②図面について。

○実はXP72の、この取り入れ口については図面(ネットでの2種類と航空ファン誌の一種)はすべて後退角つきなのだ。それで、ワシも昔作ったものは後退角つきにしていた、約30度くらいだろうか。

③写真の取り入れ口のカタチはどうなっているのか。

★だが、実は取り入れ口が写っている唯一の写真(上掲の写真)では、どう見ても後退角がない・・・ように見える。

★写真は左ななめ前方からなので、たとえ後退角があってもわかりにくい角度なので他のことから推測するしかないのだが、取り入れ口の側面に映っている翼と脚カバーの影を見ると、これは機軸に対して直角ではないのか。

○影は逆くの字になっている。くの字の上半分は翼の影だが、これは後方に傾いて伸びているのがわかる。これが第一点。

○そして、くの字の下半分は脚カバーの影だが、これは取り入れ口の前縁とほぼ平行だ。これが第2点。

○つまり、もし取り入れ口に後退角があれば翼の影の方にそって、取り入れ口の前縁はそれに平行になっているはずだ。しかし、取り入れ口の前縁は脚カバーの方の影に平行になっている。

○脚カバーの先端方向半分は機軸に対して直角だ。開いたときも地面に対して垂直になる。その脚カバーの影に平行ということは取り入れ口の前縁は機軸に直角であることを表している。

○じつは、そのことはこの写真と図面を初めて見たときからの疑問だった。図面では後退角があるが、写真ではそう見えないということだ。

○ただ、この機体は2機(43―6598、43―6599。ネットでは3機という資料もある)しか作られなかったと言うことで写真も少ない。そこで図面しか頼る資料は無いのだが、その図面も後退角付きしかない。

○しかし、この写真(43―6598)を見る限り、後退角がない機体が存在したのではないか。それが公表されている図面とどういう関係になるのか。

★極端に言えば、後退角つきの写真はないことになるのだが、そうすると図面は間違いなのか。

☆図面は大きくは2種類ある。一種目は航空ファン・「世傑」および航空情報・「全貌」のもの。これは両方とも橋本喜久男氏作図のもので同一。

☆もう一種はネット上のものでこの記事、上掲のもの。両方とも後退角がある。しかも上掲の図はアメリカのもので「地元」であることから、かなりの信憑性はあると思われる。

☆これを見てさすがに「正しいのは後退角つき」と結論がでて、ワシも一時はこれで行こうとパーツを削り始めた。

☆だが、待てよ、と、図面が正しいとどこまで言えるのか。図面が間違っているのではないか。そういうことは今までもよくあることだ。そう思って考え直した。

☆図面はあくまで作図者の「意図」を反映したものだ。しかし写真は違う。当然これは写真を信じる方が正しいだろう。そう思った。

☆そうすると、その写真の解釈が問題になる。ワシの解釈では後退角はない。図面は作図者の誤謬か。それとも後退角がこの写真の前後についたのか。

☆しかし取り入れ口が写っている唯一の写真では後退角はない。これを信じることにした。とりあえず、図面は間違っている、そう考えている。

☆もちろん、この機体の未知の写真が見つかって後退角つきとわかれば修正するが。

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◎宗忠神社http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/urochoro-munetada-jinjya.htm

斎場所大元宮を出てからどう行ったかよく覚えてない。写真の順番を見てもどうも行ったり来たりしている感じなのね。吉田山って神社が大小いろいろあってそういうわかりにくい場所だよね。

宗忠神社はこれも「気まぐれ」で行き当たったと思う。ただ、こんなところにって、意外な感じ。宗忠とは黒住宗忠のことだが、近世発祥のいわゆる新宗教の黒住教の教祖だ。

ものの本に「その度量、情愛の深さ、悟りと宗教生活の透徹、神通力のいずれをとっても、黒住宗忠以上の人物はまず見当たらない。(日本神人伝)」とある。よほどの傑物であったのだろう。

この神社を創建したのは宗忠の高弟の一人、赤木忠春という人。彼自身も宗忠の奇跡を体現(失明していたが宗忠によって視力を回復)した人で、時の皇族(孝明帝)、貴族(三条実美など)に黒住教を進講、布教した。(境内に「忠春社」として祀られている(写真4枚目)

境内は無人で静かなものだったがきれいに整備はされている。

奇跡の「神井戸」もあった。(写真6枚目)

ここへ来て京都の記事もブレーキがかかったが、この吉田山はよくわからんということがあるのよね。

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これはもとはレベルのP47だったのだが、その昔、一度、XP72に改造したのだ。

それは一応完成したのだがジャンクにしていて、最近引っ張り出したのだが修理が必要。

完成したときから少し気に入らないところがあった。それで、気になっていたところも修正して再起させようと作業をはじめている。しかし、同じモノでも最初から作ったほうが簡単だ。そのうえ改造だからよけいだ。

プラモを普通に作っていればそう感じないのだろうが、手がかかるモノは段階を追ってデジカメで撮りながらやると、意外に「気分的」にいい。

ひとつの作業が終ると「さあ、やったぞ」というわけで一枚(に限らないが)デジカメで写真を撮る。

「やったぞ」と言ってもだれも「よくやった、えらいぞ」とは言ってくれないので、しかたがないのね。そういうのって中毒だろうか。

☆それにしてもこのXP72というのはワシが好きな飛行機なのだ。馬力は3400馬力もある。最大速度790キロという、ジェット機並の速さがある。実にアメリカらしい。カッコイイ。大戦機で(実戦には出なかったが)ベストワンだ(米軍機のなかでは)。

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◎零戦21型の決定版


「前編」も「後編」も中身を見たが、これ以上のものはいらないだろう。まだ作ってないので作業上の良否は言えないが、とりあえずモールドやキャノピの見てくれだけからは上の部であろ-。

「これ以上のもの」はないだろうが、思うのはエルエスの零戦、エルエスはかつては100円、こっちは1800円?。

エルエスの欠点はなんと言ってもキャノピだが、ここさえなんとかなれば、という高いハードルはあるが、不可能ではないので結果的にはエルエスで「充分」。

ファインモールドがいいのは認めるが、エルエスのを持っている人間から言えば、採点すれば「エルエスより良い」という結果にはなるが、では、ファインモールドでなければ困るか、と言えば、それはない。

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塗装はエアカムを見たのね、所属は1943年の空中戦闘開発部隊となっている。

オリジナルキットのMk1を改造ってことになります。

ラウンデルは他キットの流用。コードレターは手書き。

見ると、ピトー管の位置があきらかに違うし、機首左側面のカムフラージュの塗りわけも相違がある。

あんまり考えないで作る悪い癖ね。

コードは「AFーO」となってますが「あほー」とは読まないように。

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◎吉田神社・①・斎場所大元宮

熊野神社前のカレー屋から丸太町通りを東進したものと思うが、吉田東通りなのか、左折して住宅街を行って適当なところを入ったら坂道になっていて、登った所にちょっとした広場があり鳥居があった。

吉田神社は有名だろうに妙に寂しいところだと思ったが斎場所大元宮と言って末社であった。

鳥居を入って門構えのある白壁の向こうに茅葺の屋根が見える。木戸の隙間からのぞくと奇妙な形の社殿があり、扁額には「日本寂上 日高日宮 大元宮」であろうか、なぞのような文字列がある。

社殿の周囲も見慣れない空間になっている。本殿は八角形で、後房として六角形の社殿がある。

当社は吉田兼倶(かねとも。一発で変換できたがそんなにポピュラーかな)が1484年に造営、さらに吉田兼見が1609年に勅を受けて神祇官代として伊勢例幣使(れいへいし)の儀礼を修め、以来、明治に至るまで吉田神道3千余社の神職の任免権を持って権勢があった。あの吉田兼好の家系だ。

神社のいわれは今になって知ったが、現地ではたしかに荘厳な感じとともにえもいわれぬ情念のようなものがたちのぼる雰囲気があった。