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江原啓之 本音発言/江原 啓之
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macさんに紹介していただいた江原さんの本の続きを読んでます。

おーそれより、わたし江原さんと誕生日6日違いなこと発見。

それも私の方が先輩だぁ。わかった?江原くん(笑)


うちの夕馬が、嫌というほどわかっていて、よく言うんですが、

オーラが見えるからと言って幸せにはなれません。

前世がわかったからと言って幸せにはなれません。

江原さん、見えるとか、見えないとかそんな質問うんざりだろうけど、

この本では一生懸命答えておられる。その態度にわたしとても好感もちました。


わたし霊感ありませんが、(しっかぁし、生き霊を飛ばすといううわさ有り)

こう考えます。霊感ある方、違う考えでしたらお許しください。


上田 閑照さんが、『座禅は本来の自己の具体的な先取りというべきであろう』

と、↓この本の中で言っておられます。




十牛図―自己の現象学
上田 閑照



これに感覚が近いかもしれない。

座禅をして修業しても、まだ悩んでいる坊さんはたくさん居られると思います。

それと同じように霊感とは、『本来の自己の具体的な先取り』かもしれない。

あくまで先取りであって、本来の自己にはまだたどり着いていないかもしれない。

もちろん素晴らしい方も居られると思います。


江原さんは、とにかく、

「大切なのはオーラや前世がみえることではないよ。

そこから、本当の自分をいかに見つけることができるかだよ」

と、おっしゃっているようにわたしは思います。



で、新たな実験とは?

「お年寄りを大切に」です。

で、わたし非常にひねくれてます。従来の道徳の言葉は大嫌いです。

「お年寄りを大切に」と言われても、「むかつくお年寄りもいるよ」と思ってしまいます。

でも、お年寄りの話を文句も言わずに聞いてみましょう。

とっても重要な事がわかります。

話を聞いているとわかるのですが、人生に満足しているお年寄りと、

人生に不満足なお年寄りが居られます。

つまり、全ての方が幸せな気分で死んでいくのでは無いということが、

実感としてわかります。どうしてそうなったのか?

話を聞いていると、非常に多くの気付きが得られます。


どうでしょう。自分の成長の為と考えたら、お年寄りのむかつく話も

笑って許せるかもしれません。

とくにご両親が許せないとき。このような考えかたはどうか?と、考えてみました。

あくまでわたし個人の思いつきです。


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macさんが紹介してみえた江原さんの本を午前中買いに行って、古本の整理を

しながら、チラチラ読む。シンクロニティーというのか、偶然というのか、さっき

みにもるさんにコメントしたことと重なる”小我”という仏教用語が出てきて、

自分のまちがいに気付いた。やっぱり中途半端な知識で仏教は書くもんじゃない。

と反省。


macさんのブログ



仏教なんて壮大な教えは、受け売りの知識を書くのではなく、

自分の経験と照らし合わせて納得した部分だけ書くべきだよなぁ。と思った。

わかってなかった。



小我と大我(しょうがとたいが)

ちっちゃい我とおっきい我。

小我とは、自分中心の考え。

大我とは、まわりの人々を思う考え。

これでいくと、わたしのブログのやってることは、大我はわからないので、

一切触れてません。これはいいと思うんだけど。

小我をつきつめて、いかにして大我を知る事ができるか?ということを

自分ではやっていたみたい。

小我をつきつめるというのは、自分を見つめるということ。

これが自分探しだと、ぼくは思ってるんですね。

これが、心のしくみを知る事だと思っています。



で、ここはよそに書いてあった受け売りですが、大我を知るというのは、

真理を知るということだそうです。なるほど。



で、わたしがまちがっていた、というか、わかってないところは、

自分を見つめて気付きがあるということは、心が分かれるのではなく、

こころが合わさることかな?というところ。

いやぁ、ギブです。わかりません。

もうひとつは、小我自体を小さな悟りと書いたところ。

小我の意味がわかる事が小さな悟りではないか?と考えています。

月の雫さん、みにもるさん中途半端なコメントしたみたいです。

申し訳ありませんでした。



ただ、とても大切なことは、小我を無視して、大我に至るということは、

ありえない。ということだと思います。

自分を見つめることが、とても重要であり、とても遠い道でありながら、

最短の道だと思うのです。





で、macさんに紹介していただいた江原さんの本の感想ですが、

答えが出ない論争だな。というのが実感。

世間の中傷に耐える江原さんの態度自体にとっても教えられる気がしました。

人を批難する言葉には常に哀しさが伴います。

人を批難したい気持ちはぼくにもある。

ただ、そう思う自分の気持ちには、『必ず何かしらの気付きが隠れている』

そう考えるようにして、まず自分に聞いてみる。中途半端に人を批難しないように

自分を常に抑えてます。

わたしもまだまだ、こんなところをふらふらしているようでは、大我なんて

わかるはずがありません(笑)





それと最後にわたし老人介護施設で10人くらいのお年寄りとお話して、思ったこと。

そのうちの数人は、お金のうらみとか、人の悪口を言っていた。

この人たちは、人生に満足して死んでいかないんだろうなぁ。と思った。

それと対照的に、「あとは楽に死ぬだけ♪」と、ほんとに人生に満足している

ようなお年寄りの方ともお話した。

つまりね、江原さんの話がわかる人とわからない人は、永遠にそれぞれ

存在するんですよ。


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江原啓之 本音発言/江原 啓之

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おはようございます。

まずは弁当。

昨日は王将が売り出ししてるやん。

「うおぉー」と600円で6人前。

はあぁ。男の弁当となりました。


しょうゆごはん。

おふの甘から煮

王将のぎょうざ

ブロッコリー

たまごやき


はあぁ。ほんま正直嫌になってきた。

朝起きるのも辛くない。

料理するのも嫌いではない。

きっちりやりたい人間は、きっちりやりたいがゆえに嫌気が差してくるんですなー。

難儀な性格。しっかぁし。ここ気付きどころですよぉ。たぶん。

わたしは、自分のことを『中途半端な完璧主義人間』とここでは言わせてもらいますが、

このようなタイプのひとには、よく自己啓発書に載っている、

「とりあえず行動しなさい!」という言葉が非常に有効ですな。

嫌ですけど。

『小さなことにくよくよしない』ための訓練でしょうなぁ。


あしたから、夕馬さん東京遠征ですので、わしがしっかり家庭を守らねばなりませぬ。

「姫、お気をつけて」と言っとこう。


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おはようございます。


みなさん、昨日はコメントありがとうございました。

いろいろ参考にしていきます。


まずは弁当。

とりあえず今日は、みどりのブロッコリー、えんどう

で彩りを与えてみました。

そのうえは、渾身の作品つーか、昨日の記事の

「あつあげ、あつあげ」(笑)のあつあげとたまねぎと

ピーマンの甘酢あんかけです。

ご飯は前に娘しゃんに好評だった、しょうゆご飯(笑)



で、またいろいろ考えます。

バーンアウト(燃え尽き症候群)のこと。

ぼくは、自分の中にバーンアウトになる要素を持っていた気がするんですね。

事実、自分の事業がこけた時、それに近い気分だったと思います。

このブログも始めた頃は、そうとう悩んでいた。

弁当を作りながら、考えてるのは(冷静に見ると変な文章だ)

ぼくは、褒められると木に登ってしまうところがあったな。と。

逆に攻められると落ち込んでしまっていたな。と。

自分が無かった。と思います。

これって、けっこうバーンアウトになる要素なんじゃないかな?と考えています。


自分は弁当作りが楽しい?楽しんでる?

何のために作ってるの?

こういう自分との対話は非常に重要です。

「なぜ?」

そこから、もし自分を納得させることのできる理由がみつかったならば、

それは、自分にとって確かな自信になるからです。


人に何を言われようが、揺ぎない自分。

調子にも乗らないが落ち込みもしない。

弁当作りは自分の成長のためにやっているのだ。

その証拠に今日はブロッコリーのゆで方を覚えて賢くなったのだ(笑)


今日は古書組合の市の日で大阪に行ってます。

では、よい一日を


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前回の記事の続きです。

自分を客観的に見て、自己距離化して、相手の気持ちを理解しようと努めます。

これは、努力ですね。

さて、どうして相手の気持ちを理解しようとしたのか?

自分が楽になるためです。

他人のせいでストレスが増えるのが嫌とか。

自分が楽しく人生を生きられるようになるためです。


ところで、このような努力をしていると、まわりの人々の反応が変わってくるのに

気付くことがあります。

これが、いわゆる気付きですね。実体験。実感です。

素晴らしい映画を見た後のような。

背中がぞくぞくする。

何かが、からだの中を元気良く流れるのを実感することができます。

このような感覚を体験すると、”気”の存在なども理解する気持ちが出てきます。

オーラもね!


「おーまわりの人に自分が生かされてる。ってこういうことか~?」


なんて感覚が実感できれば、しめたものです。

与えるとか与えられるとか。許すとか許されるとか。

そんなのは、どうでもよくなってきます。

理論で物事を考えるのではなく、魂で物事を考える方法に

感覚が移行していくわけです。一部ね。少しづつ移行していきます。

”心が分かれていく”と仏教では言います。


フランクル心理学では、これを”自己超越”といいます。

いや、正確には自己超越の小っちゃいやつ。

実はわたしもまだよくわかっていません。

ここは勉強中です。

たぶん自己超越は種類や大きさがたくさん有ると思っています。


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