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macさんが紹介してみえた江原さんの本を午前中買いに行って、古本の整理を
しながら、チラチラ読む。シンクロニティーというのか、偶然というのか、さっき
みにもるさんにコメントしたことと重なる”小我”という仏教用語が出てきて、
自分のまちがいに気付いた。やっぱり中途半端な知識で仏教は書くもんじゃない。
と反省。
仏教なんて壮大な教えは、受け売りの知識を書くのではなく、
自分の経験と照らし合わせて納得した部分だけ書くべきだよなぁ。と思った。
わかってなかった。
小我と大我(しょうがとたいが)
ちっちゃい我とおっきい我。
小我とは、自分中心の考え。
大我とは、まわりの人々を思う考え。
これでいくと、わたしのブログのやってることは、大我はわからないので、
一切触れてません。これはいいと思うんだけど。
小我をつきつめて、いかにして大我を知る事ができるか?ということを
自分ではやっていたみたい。
小我をつきつめるというのは、自分を見つめるということ。
これが自分探しだと、ぼくは思ってるんですね。
これが、心のしくみを知る事だと思っています。
で、ここはよそに書いてあった受け売りですが、大我を知るというのは、
真理を知るということだそうです。なるほど。
で、わたしがまちがっていた、というか、わかってないところは、
自分を見つめて気付きがあるということは、心が分かれるのではなく、
こころが合わさることかな?というところ。
いやぁ、ギブです。わかりません。
もうひとつは、小我自体を小さな悟りと書いたところ。
小我の意味がわかる事が小さな悟りではないか?と考えています。
月の雫さん、みにもるさん中途半端なコメントしたみたいです。
申し訳ありませんでした。
ただ、とても大切なことは、小我を無視して、大我に至るということは、
ありえない。ということだと思います。
自分を見つめることが、とても重要であり、とても遠い道でありながら、
最短の道だと思うのです。
で、macさんに紹介していただいた江原さんの本の感想ですが、
答えが出ない論争だな。というのが実感。
世間の中傷に耐える江原さんの態度自体にとっても教えられる気がしました。
人を批難する言葉には常に哀しさが伴います。
人を批難したい気持ちはぼくにもある。
ただ、そう思う自分の気持ちには、『必ず何かしらの気付きが隠れている』
そう考えるようにして、まず自分に聞いてみる。中途半端に人を批難しないように
自分を常に抑えてます。
わたしもまだまだ、こんなところをふらふらしているようでは、大我なんて
わかるはずがありません(笑)
それと最後にわたし老人介護施設で10人くらいのお年寄りとお話して、思ったこと。
そのうちの数人は、お金のうらみとか、人の悪口を言っていた。
この人たちは、人生に満足して死んでいかないんだろうなぁ。と思った。
それと対照的に、「あとは楽に死ぬだけ♪」と、ほんとに人生に満足している
ようなお年寄りの方ともお話した。
つまりね、江原さんの話がわかる人とわからない人は、永遠にそれぞれ
存在するんですよ。
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