「オール・MADE IN JAPAN」は、なんかワクワクする。例外はヘッドホンのAKG(オーストリア製)だが、これは手放せない。これでしか奏でられない音楽がある。それは譲れない。

 

AKG K-501

 

…といいつつ、「日本製」のヘッドホンも一丁、手に入れたいと思っている今日このごろ。僕のことだから、早晩きっと入手することだろう。(アテはある)

 

前段はこれくらいにして、「後宮」に控えていたDIATONE DS-700Zを引っ張り出してきた。正妻の地位に上らせるためである。

 

僕のDS-700Zに対する「寵愛」については、過去の日記にいっぱいあった。うーん、懐かしい。

 

◆1993年の購入経緯

 

◆DS-700Zへの愛(1)

 

◆DS-700Zへの愛(2)

 

◆スコーカーの交換

 

有体に云うと、僕の「基準機」である。これより音が好みだと欲しいスピーカー、これより好みじゃないと「じゃあ、DS-700Zでいいじゃん」となる。

 

直近のLINNは、オーケストラを聴くのにたいへん適性の高いスピーカーだった。格という意味でも、DS-700Zとは段違いであった。それで導入したわけだが、数か月たって、鮮烈な音が恋しくなる。そして、売ってしまった。

 

鮮烈な音というのはダイヤトーンである。DS-700Zである。これは僕の耳の特性が「ドラマーの耳」だからだと理解している。とにかくドラマーにとっては、打楽器の表情が生々しい。もっと分かりやすく言えば、「ドラムセットの前で演奏している時のような楽器の音がする」のである。

 

特にハイハットとシンバル、そしてスネアドラムの音が生々しい。「スカっ」と耳に届くのがドラムスツールに座っている時に聞こえる音なのだ。これはドラマーじゃなければ分からない。

 

英国のメーカーでこれに近い音だな、と感じたブランドがあるが、高価だから僕には買えない。僕が今までに聴けたそのブランドのミドルクラスのスピーカーは、中高音は鮮明で最高なのだが、低音が不自然に聞こえてしまった。無理に盛っていて量感を増しているように感じた。セッティングやチューニングで追い込むべきなのだろう。しかし、手軽にタイトなバスドラを聴こうとするには、やはりダイヤトーンという選択しか、過去の僕にはないのだった。

 

そういう基準で聴くと、いわゆる「大人しい」クラシック向きのスピーカーでは、欲求不満になってしまう。もちろん、クラシックには良いのだが、僕は両方を良い音で聴きたいから、悩ましいところである。

 

「正妻」に返り咲いたDS-700Zは、予想通りの「良い音」を奏でた。しかし、今般はアンプがグレードアップしている。ふわっとした低音の(見えない)煙のようなものが部屋中を充満させている。

 

実に心地よい。そして、痛快。もっともっと可愛がってあげなければいけないなあと思う。

 

 

前の記事:

 

欲しいままにプリアンプを買ってしまったので、パワーアンプを用意しなければ音が出ない。仕方がない。パワーアンプを買うしかないではないか。

 

(「仕方がない」などとはこれっぽっちも思っていない)

 

小さなデジタルアンプで我慢しよう。狭い部屋だし、音質にそこまで拘るわけじゃない。集合住宅だから音量だって小さくして聴いている。よし、アマゾンで売ってる安いデジアンをポチろう。

 

…とはならなかった。

 

僕はアマゾンのデジアンで何回か失敗しているし、プリアンプ=SU-C2000に「見合う」だけの風格も必要だ。

 

 

そこで、Technics SE-A5(初代)が我が部屋にお目見えした。空気が1980年になった。近所のレコード屋にこれが常設されていたのを憶えている。僕が手にするのは2回目。以前の入手は2006年頃だったか。その時は個人売買だったが、今回は業者によるフルメンテ品を手に入れた。前回とは安心感が違う。

 

2002年頃に、SE-A3(SE-A5の上位機種)のメンテ品を導入した時と同じ感覚を味わった。スピーカーから、今まで聴いたことのないような「ふんわりとした雰囲気」が醸し出された。見えない低音の煙が部屋に充満するかのようだ。

 

もともとスッキリ派の国産1980年代製品である。ましてや大手家電・松下電器のベストセラーとなれば、こりゃ、日本中、誰にでも受容せられる音調(音質ではない)であって当然だ。

 

無味無臭とはよく言ったもので、音に個性は感じない。でも、それがいい。個性は音楽から聴きとるものだ。オーディオから聴きとるものではない。

 

SU-C2000との組み合わせは、なんとも不格好。

 

 

SU-C2000のサイドパネルの分、横幅がハミ出ている。個人的には、この種のサイドパネルはデザイン的に無くても良いのではないかと常々思うが、別に有っても悪くはないと感じる。

 

記しておきたいのは、SE-A5の出力切替は「full」と「limited」があって、「limited」にするとメーターパネルの照明が消せるということ。これは記憶になかった。たぶん以前に導入した時は「limited」で使うことがなかったためであろう。

 

ランプが消えると、発熱を抑えられる。とにかく、Technicsのメーターランプの上部はものすごく熱くなるのが常なのである。「limited」にしたら、パネルがまったく熱くならなかった。これはいい。

 

次に良い点は、入力ボリュームの存在。だって、SE-A2000にはこの機能がなかった。小音量派の僕には、プリアンプのボリューム位置がいつも7時30分辺りになり、使いづらかったのだ。その点、今回のSE-A5は背面にボリュームツマミがあるので、半分以下に絞って使っている。これで、SU-C2000のボリューム位置はだいたい9時前後になる。

 

奏でられる「音」は、これはもう、申し訳ないけれども、前のインテグレーテッドアンプとは「格が違う」と思った。そういうことなのだ、オーディオというのは。

 

ということで、久々に国産3ウェイ機に再登板してもらうことにしよう。こうなりゃ、「オールMADE IN JAPAN」勢で揃えて、じっくり聴き込んでみたいではないか。

 

愛する「あの」スピーカーの再登場である。

 

つづく。

NHK-FM「ベストオブクラシック」

「N響 第2049回定期公演」
初回放送日:2025年11月28日

解説:野平一郎(作曲家・ピアニスト)

案内:金子奈緒

 

ラヴェル:

亡き王女のためのパヴァーヌ
組曲《クープランの墓》
バレエ音楽《ダフニスとクロエ》(全曲)※

シャルル・デュトワ 指揮
NHK交響楽団、二期会合唱団※
(2025.11.14,NHKホール)

 

 

帰ってきて聴いた。昨日の心配が嘘のように素晴らしすぎる演奏と録音だった。

 

 

やはり収録方法による差異なのであろうか。それとも、僕のDACを入れ替えたから?

 

 

 

…と思って、昨日のホルストを聴き直したら、やはり低音がスッキリとせず、木管が聞こえないようなバランスだった。シンバルの炸裂も弱弱しい。だからウチの聴取環境のせいではなさそうだ。

 

また、この回は合唱団が入っていて、ステージ上のオケがだいぶ客席側に迫っていたので、響き方も変わったのかもしれない。残響も心地よく、僕が聴いた現地での視聴時よりも響いていて、「特等席」の放送を味わった。

 

バランス的に管楽器と打楽器が明瞭に聞こえると、音楽に躍動感が生まれる。特にソロがよく聴き取れるマイキングになっていて、《亡き王女》も《クープラン》も堪能できた。吉村さんのオーボエは現地で聴くよりも大きな音に収録されていて嬉しいかぎり。

 

今日の放送はCDにできるぐらいのクオリティだと思う。ぜひ、お願いしたい。(もちろんエアチェックはしたが)

 

《ダフニス》も、冒頭から明瞭に聞き取れる。楽器と楽器のつながりもスムーズで美しい。ミュート・トランペットの音が強奏部できちんと耳に飛んでくると、オケがカラフルになる。

 

当日の席があまり良くなかったから、「特等席」で聴けることが、とてもありがたい。NHK-FM万歳。

 

僕もそうだが、日本人は3連符が苦手だと思う。デュトワとモントリオールの演奏なんかを聴いていると、3連符は「どんどん前に行く」イメージしかない。スペインの放送オケでも同じような印象を持った。互いに染み付いたリズム感を以て、聴き合いながら合わせていくと、自然と「前に行ってしまう」という感じだ。

 

でも、僕たちはどうしても3連符の2つ目と3つ目の音を「等分割」して、それが合っているかどうかの「答え合わせ」を、次の拍のアタマで確かめるようなところがある。つまり、「次の拍で帳尻を合わせている」のである。そうすると、当然、音楽は「前」にはけっして行かず、メトロノーム通りのテンポに、いつでも「修正」されることになる。「走る」のが「怖い」というのもあるだろう。

 

モントリオールもスペイン放送オケも、メトロノーム的には「走っている」ように聞こえるが、音楽としては「躍動感」に変換され、けっして「走って」いるのではなく、「前に行っている」と感じられるのである。

 

峰の覇者、N響を以てしても、このあたりに関しては「おや?」と思う場面があるのだから、ほんと、ラヴェルを日本人が演奏することの「難しさ」といったら、並大抵ではない。

 

全体として「走った」ら、「合って」いるんだ! とは僕の高校時代の先生の「暴言」だが、逆にいうと、3連符をいくら独りでフランス系の人みたいなリズム感で演奏したって、周囲がそれを理解して合わせてくれなけりゃ、白眼視されることは間違いない。それを分かっているから「冒険」できないのではないか。

 

プロの打楽器奏者の本音を聴いてみたいところである。

 

↓ モントリオール響の「前進するリズム」が聴ける好盤。

 

 

 

 

 

前の記事:

 

今週の初めに購入した中古のPioneer N-50が、早くもフリーズしたまま復帰しない。さっそく返品して来ようと思う。

 

非常に残念、せっかく音が良かったのに…と思ったのも束の間、元のUSB-DACに戻してみたら、あら不思議、こっちの方が音が良い…?

 

「元のUSB-DAC」というのが、RATOC Audio LabのRAL-2496HA1Rという小さな箱。歴としたMade in Japanである。

 

 

 

こっちの音の方が素直で広帯域。思い返すと、N-50は中音域が元気で力感があったが、ちょっとキツく感じる部分があった。パッと聴きで、早とちりをしてしまったのか…?

 

見た目も大事だと思うが、しばらくこの小さな箱を使い続けてみようと思った。

 

うーん、なんかオーディオは分かんないなあ。

NHK-FM「ベストオブクラシック」

「N響 第2048回定期公演」

初回放送日:2025年11月27日
解説:野平一郎(作曲家・ピアニスト)

案内:金子奈緒

 

メシアン:神の現存の3つの小典礼
小菅優(ピアノ)

大矢素子(オンド・マルトノ)

東京オペラシンガーズ(女声合唱)

ホルスト:組曲《惑星》作品32
東京オペラシンガーズ(女声合唱)

 

シャルル・デュトワ 指揮

NHK交響楽団
(2025.11.8,NHKホール)

 

 

放送をリアタイで聴きたくて、すぐに仕事から帰ってきた。メシアンは相変わらず、よく解らない音楽であったが、今日、もっとも聴きたかった《惑星》には少しがっかりした。ホールが悪いのか、録音が悪いのか、オケが悪いのか。

 

デュトワの《惑星》はこんなものじゃない。まずスピード感に欠ける。「火星」「木星」「土星」では、リズムのエッジが立っていない。今日のオケからは、同じリズムを共有しているという一体感が感じられなかった。各々がメトローム通りのテンポで奏でているだけ。

 

もっとキレキレなのがデュトワだった。

 

耳直しにデュトワのCDを聴く。発売時からおそらく1000回ぐらい聞いたCDだ。

 

 

デュトワにも若さがあった。そして、これは明らかに「ノスタルジー」を求めた僕の心性が影響している。つまり、今日の僕は、若いころの僕に出会いたかっただけなのかもしれない。

 

明日は、僕が聴きに行った演奏会の放送がある。《ダフニスとクロエ》である。

 

ちょっと聴くのが怖い。ことによると、明日は早く帰宅しないかもしれない。残業に打ち込む自分の姿が見える。

 

チャイコフスキー:

交響曲第6番ロ短調作品74《悲愴》

ヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

(1984年,グラモフォン)

 

 

CD時代の1980年代後期に発売されたレコードを見つけると、すぐ買ってしまう悪癖をもっている。

 

このカラヤン最後の《悲愴》も、CDでは死ぬほど聴いたことがあるが、レコードを持っておくのも良いだろう。

 

カラヤンのレコード(=ギュンター・ヘルマンスの録音)は、どういうわけか毎度、CDで聴くよりもLPで聴いた時の方が心地よいと感じる。

 

ただ、それは僕のレコード再生環境がデジタルを鳴らす環境よりも悪いことに起因するように思う。「悪い」から「良い」なんて、矛盾するようだが、要は「ハイファイ過ぎちゃうとキツくなっちゃう」のが、カラヤンの録音なんだと思う。あくまでも僕にとっては。

 

音質のことはともかく、この演奏のことを誰かが「《悲愴》はこの演奏だけでいい」って言ったとのこと。

 

僕も80%同意する。

 

ただ、終楽章はもっとしみじみしていてほしいので、この演奏だけを一生聴き続けるのは嫌なのである。このレコードの終楽章は、ゆったりとした中にも、内なる感情を爆発させ過ぎていると僕は思う。ここに激情は要らない気がするのだ。

 

そういう意味では、カラヤン生誕100周年で演奏した小澤征爾&ベルリン・フィルの《悲愴》(ブルーレイ・ディスク)の方が好み。これは、「日本人」ということに何か関係があるのだろうか。「あはれ」の趣を感じるのは断然、後者だと思う。

 

でも、年齢も関係あるのかな。それから自身の周辺環境。同じ音源を聴いても、聴くときによって感想が異なるというのが興味深い。表題性の見える音楽は特にそうだ。文学と同じである。

なるほど、こういう手があったのか、と膝を打った。

 

うちの近所にはハードオフがないのだけれど、それは幸いだったのかもしれない。車で行けば近いことに気づいたので、この数日で青葉区と泉区の店舗を覚えた。青葉区では、所謂シール帯&西ドイツ製の初期CDを数枚ゲットしてきた。すばらしいコレクション。

 

で、昨日は泉区で、14年も前のネットワークオーディオプレーヤーを買ってきた。

 

これにUSB-DAC機能があるのを知って、そうか、そういう手があったのかと、目から鱗が落ちた。

 

なんでこんなことを書くかというと、その音がたいへん良かったからなのだ。

 

 

Pioneer N-50である。今まで使っていたUSB給電の小さなDACよりも数段上の音がする。端的に言って解像度が高い。

 

筐体がフルサイズで、見た目の安定感からそう感じるのかもしれないが、ACアダプターやUSB給電では得られない瞬発力があるのかもしれない。力があり、一つ一つの音にしっかり魂が宿ている気配もある。

 

いままで、ずっと安いUSB-DACを使っていたのがイケなかった。

 

やっぱり、ちゃんとしたオーディオはかっこいい。パイオニアが、こういうのを造らなくなってしまったことを悲しむ。

秋になると魔物が蠢きだす。これから温かくなるまでは駄目かもしれない。

 

「秋」は「飽き」に通じる。オーディオに「飽き」が来てしまうのである。昨年もそうだった。

 

 

そんな昨シーズンから、様々な機種との出会いがあった。スピーカーは3台、レコードプレーヤーは4台、アンプは実に5台、入れ替えた。マイナーなところではカセットデッキも1台、買い替えている。ヘッドホンも7個くらい買って、いま手元に残っているのは2個だけだ。

 

一年かけて徐々に脱皮を繰り返す、特殊な生物のようだ、私は。

 

「更にちゃんとした音」で聴きたいと思ったのは、先日、ウィーン・フィルを聴いたのが大きい。あのような音に近い音が、自室で出せないかしら。そう思ってしまった。

 

少し前、あるお店で、Technics SU-C2000という1990年代のプリアンプの中古を見つけた。どうしても、Technicsのバッジには過剰に反応してしまう。状態は良さそうであったが、ちょっとプライスが高すぎるんじゃないの?…っていう数字が並んでいた。案の定、ぜんぜん売れる気配がない。

 

 

もちろん買うつもりはなかった。しかし、何故か運命的なものを感じてしまった。こうなるともう恋愛と変わらない。

 

2003年ごろ、これとペアになるSE-A2000というパワーアンプを所有していたことがある。メーターか何かが故障して、パナソニックに修理を頼んだが、部品無しで返品されてきて、送料だけを取られたという、そんなイヤな思い出も蘇る。

 

さて、先月、過去に懇意にしていたオーディオ・ショップにあいさつに行った。実に11年ぶりである。店長と久闊を叙し、「じゃあ何か聞かせてください」ということで、スピーカーの前へ。

 

店長がボリュームを弄るその先を見て、いただいたコーヒーを吹きそうになった。

 

 

なんと、件のSU-C2000が店のメインのプリアンプとして使われていたのだ! 何たる偶然。

 

考えるより先に、「結婚してください!」…ではなく、「これ、ください!」って叫ぶ私がいた。

 

しかし、店長は「売り物じゃないから…」と言って売ってくれない。私を翻弄しているのでなければ、よほど気にいっていて、手離したくないのだろう。そうに違いない。

 

1時間ほど滞在し、コーヒーと果物をご馳走になっただけで、遠路、帰途についたわけだが、当然、私の心は、もうSU-C2000の虜(とりこ)なのであった。

 

高速道路を駆りながら、「あの店のSU-C2000がまだ売れてなければ買おう」という決心が固まった。ロングドライブでは、意外と冷静にいろんなことを思索できる。オーディオ更新の様々なプランが浮かんできた。愛車の中はある意味、危険な空間である。

 

 

そして、先週、めでたくゴールインとなったのである。

 

 

いや、ゴールではなくスタートだった。メインアンプがなければ音は出ない。困ったものであるが、本当は(もちろん)困っていない。

 

ワクワクしかないのである。

 

しばらく、日記が続きそうな予感。

家では相変わらずオーケストラのレコードをメインに聴いている。

 

先週、ウィーン・フィルを生で聴いた余波で、自室で鳴らすオーディオにも大きな影響が出てきそうである。というか、すでにその端緒は表われているのである。「完成」したら、備忘録をしたためてみたいと思う。

 

しかし、今夜は日常雑記として愛車のことについて書き留めておく。何年か後に読んで、懐かしむことができたらいい。

 

夏休み中に中古車を買った。11年落ちの日産スカイライン(V36)である。走行8万キロ超、車体価格55万円だった。

 

納車の3日後、環七を走行中にガス欠になってJAFを呼ぶ騒ぎになった。事故や損傷もなく、ほんとうに幸運だったと思う。前日に祈祷に行った川崎大師様のお蔭であろう。

 

原因は、燃料計が正確に表示できていなかったことである。警告ランプもつかなかった。その時、ゲージは半分近くを示していたので、安心していたのだ。納車後すぐに満タンにしなかった自分も悪い。

 

スカイラインの購入店は、横浜市内の中古屋さんである。環七からすぐ電話をして、2日後に修理のために再入庫となった。

 

その間、別の不具合も見つかった。水温計の異常である。オーバーヒートのギリギリまで針が上がっている。そして、タコメーター。アイドリング時に「0」回転になってしまう。

 

こりゃだめだ。メーター系がイカれている。

 

確認すべきことは、販売店がすべてやってくれた。最大限の努力をしてくれたと思う。フューエルポンプ、フロート、センサー、すべてを交換。エアコンアンプと呼ばれるコンピュータも交換し、メーターも中古部品を取り付けた。これで、水温計とタコメーターが直った。「これで大丈夫だろう」と、しばらく様子を見てくれたようであるが、やはり燃料計の異常は直らない。取り付けた中古のメーターにも不具合が来ていたようだ。

 

最後の頼み、新品のメーターの発注。当然、日産のディーラー経由である。これが大変だった。納品まで半年を要するというのだ。中古自動車における新品パーツの製造・流通については、どうなっているのかまったく知らないけれど、いくらなんでも半年って…?

 

中古車だから廃番…というのなら理解できるが、半年後に新たに製造するのだろうか?

 

結局、ディーラーさんが国内の在庫を隈なく調べてくれて、「1個だけあった」とかで、取り寄せてくれることになった。半年まではいかなかったけれど、ここまでで、2か月近くが経っていた。(「1個だけあった」というのは果たして本当だろうか…)

 

こうして「完全」に直って再納車になったのが、10月中旬である。その後、今日まで愛車には何のトラブルもなく、通勤をメインに活躍中である。

 

当然ながら、「初期不良」扱いなので、これらのすべての修理費用は販売店持ち(補償内)であった。愛車がない間は、代車も貸してくれていたので、通勤に不自由はなかった。ただ、ロングドライブは出来なかったので、愛車が帰ってきてからは、これまでの鬱憤を晴らすかのように、小旅行に出かけまくっている。

 

お礼巡りに福島にも行ったし、最近引っ越した妹夫婦の住む、高崎にも行った。それ以外にも、ちょこちょこ出かけている。運転が愉しくて仕方がない。

 

想定内だが、維持費も結構かかる。まず、燃料代が最近は高い。次に月極駐車場の料金。バッテリーも新調した。オイル交換も3,000キロに一回はするつもりだ。

 

タイヤは幸い、ブリヂストンの廉価版の新品同様のものを履いていたので、しばらく考えないことにするが、次はスポーツタイヤを…なんて「野望」も見えてくる。

 

翻って、なんでいまさら、11年落ちのスカイラインなのか。

 

まず、僕はクルマを新車で買った経験がない。数え上げたら、人生で9代目の愛車である。そのすべてが中古車だった。謂わば、中古車が好き、なのである。

 

次に、この11年間、横浜に戻ってきてからマイカーを所有していなかったことが大きい。ずっと欲しいと思っていたのだ。11年前の「ラスト」はマツダ・アテンザだった。その名残惜しさも正直あった。

 

子どもたちも大きくなったし、乗るならセダンに限る。僕は古くさい人間で、車はイコール、セダンなのである。

 

そして、ガソリン車でもう少し遊んでみたい。少なからず肩身の狭い内燃機関車であるが、やっぱり、もう少し、この愉しさ(と不便さ)を味わってから免許を返納したい。さすがに、人生最後の愛車というのにはまだ早いと思っているのだが…。

 

というわけで、毎日、今度は何が起きるか、どこが故障するかと、わくわくドキドキで運転している。

 

今日などは、運行前点検で、パワステ・フルードのリザーブタンクの容量が「MIN」のラインまで低下しているのを発見した。普通は「MAX」まで入っているものではないのか。

 

「漏れているのかも…」

 

すっ飛んで、職場の隣にある日産に駆け込んだ。異常はなかった。若いメカニックさんはジャッキアップした我が車の足回りを目視させてくれた。たしかに綺麗だ。フルードを「MAX」の目盛まで補充してくれた。お金は要らないという。新車のディーラーってこんなに親切なのかと驚いた。待っている間、コーヒーも出てくるし。

 

なにせ、新車を買ったことがないので…(笑)

 

というわけで、日常雑記は終了。「みんカラ」というクルマ専門のSNSもあるようだが、面倒なので自分のブログにしたためた次第。

 

これもまた愉し。

 

前の記事:

 

無事ゲットしたC定期のデュトワのチケット。先週の金曜日のことであるが、仕事を1時間早引けして、渋谷に向かった。

 

席は2階だった。頭上に3階席のバルコニーが迫る後方の席で、音がまったく響かなかった。

 

それでも公演は愉しめた。

 

昨年のNHK音楽祭以来のデュトワの指揮。デュトワが好きすぎて、90年代、デュトワの録画ばかり観ていたので、僕の指揮は、デュトワに「そっくり」だと評判である。ある先輩は、アウフタクトが「デュトワ瓜二つ」とおっしゃった。

 

日本の指揮法のメソッド的には方向性が違うので、「こりゃ、やばいな」と感じた僕は、以来、子供たちの前で指導する時には敢えて「封印」して、ちゃんと斎藤メソッドを踏襲している。

 

でも本当は、デュトワの、あのダイナミックな大振りが好き。ああ、デュトワさんが好きすぎて…。

 

 

《ダフニス》は全曲版である。すばらしい。デュトワは昔、N響でもやったことがあった。録音を聴いたことがある。

 

前半の《亡き王女のためのパヴァーヌ》や《クープランの墓》は、OSMのCDよりもゆったりとしていたので、《ダフニス》はどうかなと思っていたのだけれど、「終曲」のスピードは落ちていなかった。いや、むしろ速かったのではあるまいか。

 

ロイヤル・フィルと来日した時の演奏(「第2組曲」のみ)では、スネアがメタルスネアを使っていて、からっとしたスナッピー音が印象的だった。「ああ、色彩的!」と思ったものだが、やはりN響では木胴だった。だから、音色としては重々しい。

 

管打楽器、大活躍のこの曲は、やっぱり「生」で聴くと愉しい。竹島さんのシンバルも、黒田さんのタンブリンもカッコ良かったなー。

 

僕にとっては、人々の云うブロムシュテットと同じで、デュトワはレジェンド。だからもう、来日して指揮してくれるだけで嬉しい。さすがに大阪フィルには行けないけれども、次に東京にいらっしゃる時には、必ずまた聞きに行く。

 

いつまでも現役で!!

 

 

カーテンコールで、客席に両手を振るデュトワ。最前列の人々には全員に握手していた。うらやましい。

 

次回は絶対に最前列を取るんだ。

 

なお、放送は11月27日と28日。必ず録音する。おそらく音自体は、「生」よりきれいに録れていると思う。