シャドウファクス/シャドウダンス

(1983,ウィンダム・ヒル)

 

 

子供たちはまだ寝ている。日曜の朝はコーンフレークと決めているので、朝食を作らなくてよい。だから、こうして音楽が聴ける。どっちにしても、もう高校生なんだから自分で作れよという話なのだが。

 

むかしむかし、ウィンダム・ヒルのサンプラーといった趣の紹介盤があって、それを偶然、貸しレコで借りたときに、出会った音楽の一つ。

 

《シャドウダンス》という曲が、当時の僕には不思議で不思議で、なんでこんな音楽が作れるの!? って頭にこびりついていた。因みにこの時に出会った音楽には、ジョージ・ウィンストンスコット・コッスなどがあり、その後のCD選びの参考にさせてもらった。

 

その後、貸しレコじゃなくて、ちゃんと同じレコードを買って、聞いていたのだが、このたび、シャドウファクスの『シャドウダンス』アルバムを入手。このアメリカのバンドの音楽を堪能できる機会が(やっと)訪れた。それにしても、川崎にはなんでもあるなあ…。

 

A面は、アジアンな雰囲気で始まる。中国? インド? 東南アジア? 僕はどちらにも行ったことがないので、知識がないのだが、南の方の音だということは分かる。

 

これがなんだか心地が良いんだ。

 

僕のルーツは沖縄だから、海を渡って遺伝子が入ってきているのか? なんてことまで考える。

 

2曲目は一転して、ウィンダム・ヒルらしい音があらわれる。アコースティックギター、ピアノ、フルート、金物打楽器、ヴァイオリン…。NHK-FM「FMシアター」のサウンドトラックに使われそうな感じの音楽…とでも表現しようか。僕はすぐにBANANAさんを思い出してしまった。

 

3曲目はなんだか分からない楽器が出てきた。リリコンで音を変えてるのかな? 

 

4曲目が《シャドウダンス》だ。シャドウファクスの曲はこれしか知らなかったんだから、そもそもバンドの基本路線が全部こういう感じかと思っていた。しかし、アルバム全編を通して聴いてみると、必ずしも(メンバー全員が)アジアン趣味というわけではなさそうだ。

 

 

そう感じたのは、B面に裏返してからだ。

 

特に終曲の、演奏時間が10分近い《ソング・フォー・ブラザー》は圧巻であった。クリアなエレキギターから始まって、リリコンのソロがあるが、やがて歪んだギターがソロをとり、アルペジオの音型がピアノに移る。バックのシンセの音も気持ちが良い。薄いシンバルによる霧を思わせるショットが冒頭近くから入っていたが、後半、木胴と思われるスネアもパンチを効かせて入ってきて、俄然ビート感のある音楽に更新される。拍子は、なんと、7/8拍子だ! もう脱帽。

 

それにしても…。と急に現実に戻るわけだが、我がLINN NINKA(のツィーター)から放出される先述の「霧のような」シンバルの音。これがたまらなく素晴らしい。ホンモノの響き。普段は大人しくしていたのに、どうしたの? このシンバルは心に響き、そしていつまでも残る。

 

やはり、スピーカーは換えない方がいいのかな…と、いつもの悩みが出てきてしまう。Technicsに換えたとしても、この音が出なかった時のショックを考えると、無暗に機器の交換はできないのかなあ…と思ったり。

 

どっかで試聴できないものかなあ、Technics SB-G90M2。

 

Technicsには何度も裏切られているので。

 

 

 

ドヴォルザーク:

弦楽四重奏曲第6番ヘ長調作品96《アメリカ》

ハイドン:

弦楽四重奏曲第63番ニ長調作品64-5《ひばり》

スメタナ弦楽四重奏団

(1966,エンジェル)

 

 

11月の某ライブに飛び入り参加する予定があって、演奏曲を相棒に選んでもらった。《怪獣の花唄》というタイトルだそうだが、なんじゃそりゃー。フツーのロックナンバーとのことだが、「怪獣?」「花唄?」。

 

最近のロックのタイトルには、横文字的な詩情もなんもないのかいな。

 

…言いつつ、慌ててドラムの練習を始めたのだが、聴く音楽は、いつものようにクラシックなのである。我ながら愉しい音楽趣味だ。

 

今日はスメタナ四重奏団のドヴォルザークである。ドヴォルザークはSLが好きだったんだよね。僕はSLの世代ではなくて、ELの方が好きだけれども。だって、ブルートレイン世代だもんね。横浜駅によく撮影に行っていたよ、友達3人と。そういえば、あの頃から横浜駅は工事をしていたぞ。まだ完成していないらしいのだが。

 

《アメリカ》というのは俗称らしくって、昔は《ニグロ》って言われてたんだって。すごいなあ、昔は。

 

 

この曲はメロディーといい、楽章構成といい、交響曲の「アメリカ」…ならぬ「新世界」にテイストがよく似ている。聴き終わると、自ずと《新世界から》を再生したくなってしまうという。

 

B面のハイドンの方が麗しくてきれいだね。A面よりB面の方を、今日は多めに聴いたよ。

 

弦のヴィブラートって高雅だよね。

 

 

デイブ・グルーシン/ナイト・ラインズ

(1983,GRP)

 

このレコードは先日、ミューザ川崎の帰りに川崎で買った。タイトルといいジャケット写真といい、夜のドライブに相応しい、イギリスのあのバンドを意識した? というようなアルバムのように見える。

 

僕が入手したのはビクターが販売する国内盤であるが、オリジナルとは、ジャケット写真が異なっており、曲順も変わっていることが分かった。

 

 

Apple Musicのアートワークによると、上掲がオリジナルのようである。発売は1983年で、国内盤は「1984年」と書いてあったので、遅れて出たようだ。

 

ドラマーとしては、「生」ドラムが1曲しかなく、残りが全部打ち込みで、ドラムを聴く愉しみがやや少ないのが悲しいのだけれども、音楽そのものはとても洗練されていて、「あの時代」の空気を感じるのにはうってつけのアルバムだと思う。

 

ジャズピアノに疎い僕だけれど、デイブ・グルーシンやチック・コリアのフュージョン寄りの音楽は、昔から好きだ。

 

ヴォーカルが入っている曲が多いのもこのアルバムの特長で、やっぱりあのバンドを意識しているのかな? と思わせる。

 

 

グルーシンのメロディは、なんだかグッと来るものが多いと感じる。売れているということは、僕だけじゃなく多くの日本人に受け入れられた証拠じゃないかと思う。どこか、日本人の感性に合うのかもしれない。

 

こういう音楽を秋の夜長に聴けるのは倖せ。

 

 

 

デイブ・グルーシン/マウンテン・ダンス

(1980,JVC)

 

 

急に涼しくなった感じがする。秋となれば音楽鑑賞。

 

この『マウンテン・ダンス』は、こんにち、中古屋とかブックオフとかでよく見かけるアルバムだ。だいたい300円ぐらいの値がついている。当時、よほど売れたレコードなんだろうと思われる。

 

で、たしか自分も所有していたはず…と思い、棚を検索してみたら、果たして、あった。

 

実はこれまで、しっかり聴き込んでいなかったのだが、この3日間ぐらい、当盤をリピートして聴いている。「パタパタ」いうハーヴィー・メイソンのスネアが、いかにも1980年代という感じ。コーテッドのヘッドにミュートを多めに掛けている音だ。

 

打音の細かい音(ゴーストノート)がよく聴き取れるのでウキウキしちまう。

 

現在の再生装置は、スピーカーがLINN NINKAで、アンプがMyryad Z140。カートリッジがDENON DL-103で、昇圧トランスがPhasemation T-320だ。

 

僕のリスニングルームは実質3畳で、アンプ類はデスクトップに置いている。左右のスピーカー間は、1.5m程度。

 

このくらいの規模・音量で聴くなら、何の不満もない音が再生される。しかも、苦手なジャンルはなさそうだ(聴いてもいないジャンルがあるから断言はできない)。

 

耳が悪くなる前に、現行のTechnicsを揃えたいという「夢」を抱いてきた。僕の竟(つい)の再生装置として、死ぬまで付き添ってもらうおうと夢想していた。

 

現行ということは、すなわち、

 

●プリメインアンプ:SU-G700M2

 

●スピーカー:SB-G90M2

 

なのであるが、果たして、これに換えたとして、僕は本当に「倖せ」になれるのだろうか。「裏切られる」ような可能性はないのだろうか。

 

そんな風に、いつも悩むのである。

 

それくらい、いまの所有機器の組み合わせに満足している。「夢」を実現させたいという想いと、無理して現状を変えて「ヘンな音」を出されてしまう危惧とで、いつも心が行ったり来たりだ。

 

どこかで試聴機を借りられれば、このような不安も解決するのではないかと思うのだが…。


東京交響楽団「川崎定期演奏会」第102回
ミューザ川崎シンフォニーホール

2025年09月28日(日)
14:00 開演
 

J.S.バッハ:マタイ受難曲 BWV244(字幕付き)


指揮:ジョナサン・ノット
ソプラノ:カタリナ・コンラディ
メゾソプラノ:アンナ・ルチア・リヒター
エヴァンゲリスト(テノール):ヴェルナー・ギューラ
イエス(バリトン):ミヒャエル・ナジ
テノール:櫻田亮
バリトン:萩原潤
バス:加藤宏隆
合唱:東響コーラス
合唱指揮:三澤洋史
児童合唱:東京少年少女合唱隊
児童合唱指揮:長谷川久恵

 

(公演プログラムより:なお、演奏時間の訂正があり、正しくは、前半80分、後半100分というアナウンスが事前になされていた)

 

 

感情が先に溢れてしまうが、本当に感動した。一日黙って我慢しているのが難儀だったほどである。このブログで吐き出せなければ、どうなっていたか分からぬ。

 

先週、東響の「ニコ響」(ニコニコ動画)を聴いて、このような素晴らしい演奏が無料で配信されているのは、なんだか演奏者に申し訳ない。ぜひ、会場に行って還元しなければ!……みたいなことを書いたと思う。

 

 

ノットさんがまだ日本にいらっしゃるうちに、と思って、昨日、出張翌日の疲れもなんのその、東響の今期の目玉、《マタイ受難曲》を聴きに行ってきた、というわけである。

 

チケットはとうに完売となっていたが、前日の情報で30枚ほど当日券があるということだったので、開演前に並び、なんとか2階席をゲットできた。ダメなら帰ろうと思っていたので、本当にラッキーだった。

 

 

《マタイ受難曲》を生で聴くのは抜粋を含めて初めて。東響の合唱団はステージの後方に広がり、P席は普通に観客用に充て、児童合唱はそのまた後方、パイプオルガンの手前下手側に配置された。

 

 

《マタイ》は、CDではたまに聴く。《ミサ曲ロ短調》の方が好きではあるが、サイトウ・キネンのCDは音の処理が美しくて端正に響く。しかし、愛聴盤は、ステファン・クレオバリー指揮のキングス・カレッジ・ケンブリッジ合唱団&ブランデンブルク・コンソートによる1994年のライブ演奏だ。音の透明さとソプラノの清澄さでいったら、こちらのピリオド楽器の方が好み。DVDも所有している。

 

 

好きな曲、好きな指揮者、好きなオケ、好きな合唱団、好きなホール、好きな席…で聴ける幸せは、「ニコ響」での感動に比べ、ゆうに600倍は超える。

 

先週のモーツァルトを(配信で)聴いているので、ジョナサン・ノットのバッハは、どのようなアプローチかと期待していたところ、見事に中庸に収まっていたように思う。ここでいう「中庸」とは、中国古典的な意味合いであり、「至高」ということである。

 

まさに全身全霊でノットイズムを味わい尽くす。客席の心も試される、そんな心地で音楽を浴びたひと時であった。

 

「記憶」とは模糊としていて、感覚的なものである。だから詳細は忘れてしまいがち。そういうわけで、敢えて記録しておきたいことを書く。

 

⑴メゾソプラノのアンナ・ルチア・リヒターの声が好き

⑵バスの加藤宏隆のような声に、私はなりたい

⑶第1オケのオーボエとフルートが素晴らしい

⑷フルートのTさんとHさんは昔からの仲良し

⑸オルガンの大木さんは今回も「レギュラー」出演

⑹児童合唱団がカーテンコール前に引き揚げちゃった

 

なんだかよくわからないが「記録」にはなった(かも)。

 

もう一つ。

 

⑺ミューザ川崎の良い席は音響が「完璧」

 

いつもは管打楽器奏者を後ろから拝見するために「P席」を取ることが多い。今回久しぶりに「前」から聴いた。もう、完璧なホールです。直接音と間接音のブレンドの割合が絶妙。オーディオ装置ではこうはいかない。おそらく、どんなハイエンド・オーディオであっても…。

 

400万円で、ハイエンドのオーディオを組むのと、一回20,000円のチケットを買って、死ぬまでに200回、コンサートを聴きに出かけるのと、どちらが良いだろう…。

 

一回性をとるか、恒常性をとるか。

 

なんか、そういう比較ではない気もするが、今日の僕は、後者の方を選択したい気分だ。ああ、これでオーディオを卒業できるのか…。

 

いや、それは別問題のような気が、やはり、する。

 

《マタイ受難曲》が静かに終わった。長い静寂、そして拍手。真っ先にフライングブラボーを叫ぶ者がいたら、駆け寄って殴ってやろうと思ったが、そんな人はミューザにいるはずもない。

 

いい演奏会だった。

 

いい音楽を聴いた。

 

不思議だが、何かを成し遂げたときのような充実感があった。

 

 

ノットさんの講演会に、数年前に行ったことがある。学生時代は合唱団で歌っていたそうな。そして、将来の夢はカーレーサーだったそうな。

 

 

今回は美しいドライビングであった。速さを競うことを超越したカーレーサーなら、きっと周辺の景色を愛でる余裕があるに違いない。『名人伝』の「不射之射」ではないが、もはやノットさんには指揮棒、いや身振りさえ必要ないのかもしれない。

 

任期終了が迫るノットさんの「最後」の演奏会は、大みそかだそうである。その前にも、あと何回か聴く機会がありそうである。

 

ブラボー!東響。

 

 

 

 

東京交響楽団/東京オペラシティシリーズ 第147回

2025年09月20日(土)
14:00 開演
【曲目】
リゲティ:

フルート、オーボエと管弦楽のための二重協奏曲**
歌劇《ル・グラン・マカーブル》から

「マカーブルの秘密」*
モーツァルト:

交響曲第41番ハ長調K.551《ジュピター》
ソプラノ:森野美咲*
フルート:竹山愛**
オーボエ:荒木良太**
ジョナサン・ノット 指揮

東京交響楽団
 

 

昨日、これをニコ響の配信で観た。

 

 

目当ては《ジュピター》だったけど、一番興奮したのは、リゲティのオペラの抜粋だった。見たことも聴いたこともない曲だったのに。

 

 

声が、すごい、そして綺麗。何を言っているのかはわからなかったが、何かを訴えたいのは理解した。

 

 

Jummiさんのこの表情。とても難しい曲である。

 

そして、《ジュピター》はノット味のよく染みた最高に美味な音楽になっていた。先日、FMで聴いてべた褒めしたズーカーマンの解釈よりも、3倍くらい現代的だった。ノットさんは、常に第一線、いつも前を向いて音楽を紡いでいらっしゃる。ズーカーマンが古いとは言っていないが、なんというか、懐かしい演奏だったなあ、あちらは…と。

 

 

昼だから、スーツに明るいネクタイ。

 

 

なんか、今回から音質が良くなっているとか。「ビットレートを320kbpsに上げて高音質でお届けしています」のテロップが。

 

 

でも、なんといってもリゲティのソプラノでしょ、今日の演奏会の白眉ちゃんは。無料配信でここまで感動できちゃうのは、ほんと音楽家に申し訳ない感じ。どしどし定期演奏会のチケットを買おう!

 

「忘れられない」というのは芸術。

 

すぐ忘れちゃうのはBGM音楽。

 

小澤征爾は後者のことを「エレベータで流れているサロン音楽」と言っていた。よくかかってるよね、ニセものっぽジャズとか、クラシック風にアレンジしたストリングスとか。もっと最悪なのは、日本旅館や和食屋でかかっている、和琴の音をサンプリングした音源で拵えられた流行(はや)り歌。

 

あんなの音楽かい。人の智慧や次元を超えた努力が入ってないものは、やはり受け入れがたい。

ブラームス:

交響曲第1番ハ短調作品68

小林研一郎 指揮

東京交響楽団

(1978,東響自主製作盤)

 

 

東京交響楽団の公式ホームページの沿革によると、小林研一郎は、1976年~1978年まで「専属指揮者」だった。ただ、入手した当盤の解説には「特別客演指揮者」と書いてある。呼び方の問題だと思うが、どっちにしても、コバケン先生にとって東響は、とても相性の合うオーケストラだったのだろうと推察する。
 

 

このレコードを聴いて、そう思った。

 

 

さっき、関内で入手したばかりのレコードである。ジャケットの端っこに「2,000円」と書いてあるから、非売品ではなさそうだ。しっかりコバケンの直筆サインが入っている。定期演奏会の会場などで売っていたのかもしれない。

 

 

さて、小林先生は、このころから「炎のコバケン」と言われていたのだろうか。

 

少なくとも、このブラームスの指揮ぶりは、延焼していく「炎」のようである。序奏はゆっくりからだんだんテンポが速くなる。いや、「テンポが」という感じは、実はしない。指揮棒の勢いが早まって、弦はボウイングの、管は息の、スピードが自ずから速くなってしまった…という感じで、ずんずん流れていくだけだ。

 
個人的には、硬めのマレットで叩かせるティンパニが強烈でドキドキする。管楽器を足しているカラヤンのレコードなどとは違って、ライブ収録・一発録りなので、造られた感じは皆無であり、再生芸術としては非常にリアルである。
 
いま聴き終わったところだが、拍手も盛大だ。なお、指揮者登場時の拍手も収録されていた。東京文化会館での第242回定期演奏会。昭和のフライング・ブラボー全盛期で、余韻もへったくれもないが、ともかく、客席も僕も大興奮である。
 
 
小林先生の若き頃の雄姿である。この容姿のまんまの音楽が、このレコードから聴ける。個性を発揮しようなんて、これっぽっちも思っていない。コバケンの感性が、勝手に音楽を個性的にしてしまうのである。
 
この1978年ごろの感性で、僕の好きなショスタコーヴィチの交響曲第5番なども録音してもらいたかった気がする。
 
休日、良い音楽が聴けて本当に良かった。
 
最近のコバケン先生については、こちら。↓

前の記事:

 

「デジタルレコーダーをどうしようか問題」が、急転直下、解決をみた。

 

10年以上前のデジタルレコーダー、TASCAM D-07(初代)を購入することで、LINE入出力が可能となり、一般のカセットデッキと同じような使い方ができるようになったのである。

 

 

ポータブル機ゆえ、入出力はRCAの赤白ではなく、ステレオミニ端子(3.5mm)であるが、特にデメリットは感じない。

 

 

なんとこの個体、所謂「デッドストック品」ということで、未開封・新品で購入。液晶画面のフィルムは敢えてそのままにしておこう。

 

かつて、同じ製品の色違い=レッドを所有していたことがあったので、操作はお手のものである。

 

で、2009年ごろと事情が変わっているのが、メディアの大容量化と低価格化である。当時は2GBのSDカードを購入するのさえ少しの勇気と決断力が必要だったが、2025年のきょうび、日本製のSDカード(64GB)が800円で売られている!

 

びっくり。

 

昔なら、SDカードでエアチェックしたデータを、せっせとPCに移したり、CD-Rに焼いたりしていたが、もはやその必要もない。

 

録ったまま、SDカードでどんどん保存していけばのである。「64」GBで800円…。昭和60年代なら、だいたい「64」分のカセットテープ1本分の価格だ。

 

SDカードを大量に収納できるケースを購入し、余生を愉しみたいと思う。

 

 

フェーズメーションの主張…。

 

 

前の記事:

 

前の記事を書いていて思い出したのは、2000年当時、よくレベッカの《Poison》を聴いていたなあ、ということ。発表は1987年のアルバムだが、何故かずっと、ループして聴いていた。

 

Rebecca/Poison

(1987,CBSソニー)

 

1999年か2000年にブックオフ春日部店で、中古CDを500円で購入した記憶があるので、おそらく僕はそれまで、1987年の『Poison』アルバムをCDではなくカセットテープで聴いていたんだろうと思う。ソースはレンタルCDである。(けっこう「俄か」だったことに気づく)

 

このアルバムの入手をきっかけに、レベッカの数々のCDを揃えていったのかもしれない。

 

先週ちらっと記した、NHK交響楽団の藤森亮一氏がクレジットされているアルバムというのは、この『Poison』のことである。

 

 

B面4曲目、《TROUBLE OF LOVE》の間奏に弦楽パートがあり、そこで藤森氏のチェロがちょろっと聴ける。

 

 

話が戻るが、2000年ごろに、ようやく世間に中古CDが多く出回るようになり、価格も安くなった。中古屋も街にあふれていた。このCDも500円だったし、ストリーミングなどもなかったので、ブックオフは大盛況だった。25年経つと、商売はだいぶ変わってしまう。そのうち、CDコーナーは撤去されるのではないかと思う。

 

同じ時代、LPレコードも叩き売り状態だった。いま針を落として聴いている『Poison』のレコードも、105円だった。あのころに買ったレコードは多いが、もっと買っておけばよかったと思う。特にクラシックのLPを。

 

 

『Poison』には好きな曲が多い。強いて言えば、《MOON》、《真夏の雨》、《KILLING ME WITH YOUR VOICE》、《NERVOUS BUT GLAMOROUS》、 《CHERRY SHUFFLE》、《OLIVE》…。

 

《OLIVE》が最高かな。オスティナート的な間奏が長くて、聴きごたえがある。土橋節、全開である。

 

 

前の記事:

 

自分が結婚した頃の音楽を聴くシリーズ。今夜は2000年発売のレベッカのシングルを聴いた。

 

レベッカ/神様と仲なおり

(2000,イーストウエスト・ジャパン)

 

2000年の時点で、「レベッカの約10年ぶりの再結成シングルだー!」って興奮していた。ストリーミングとかYouTubeとか、そんなものは有り得ない世の中だったので、いかにCDプレーヤーで上手く鳴らすか、それだけを考えて再生していた。

 

リアルタイムでは、「ちょっとNOKKOの声量が落ちたかな…」という感想を持っていたが、いま聞くと、近年の歌声とはやはり違って、往時と変わらぬほどの存在感である。

 

特に2曲目の《Hello Teenage》がいい。

 

しかし、ドラムはどう聞いても小田原豊じゃないので、僕としてはどうしても、1980年代後半のアルバムやライブを懐かしく思ってしまう。

 

妻は、「NOKKOの声はピンク色だね」って言っていた。彼女はよく様々な音色を、目で見える「色」で喩えていた。たしかに、音「色」って書くぐらいだもの。その表現は正しい、と思う。