イタリア製のDAC(north star design Model 192 DAC)で、昭和のアイドルを聴くシリーズ第2弾。この文言だけで歌謡曲がちょっぴり高級感を纏ったような響きを感じる。

 

中1の時、水谷豊の次によく聴いていたアイドルが、松本伊代。当時は「伊代ちゃん」だが、令和の現在も活躍されていることを考えると「伊代さん」って呼ぶ方がしっくりくる。

 

 

『サムシング I・Y・O』(1982年発売)のLPをデジタルで取り込んでFLAC化したものを聴く。

 

《バージニア・ラプソディ》《或る夜の出来事》《プールサイドで待つわ》など、懐かしい曲ばかり。シングルの《ラブ・ミー・テンダー》も入っていて、どの曲もいままで聴いたことのないような透明感をもって再生された。

 

バックのオケがいい。管弦楽器が巧みにフィーチャーされていて、ドラムやパーカッションの動きもよく聴ける。トライアングルとかコンガとかが、伊代さんの音楽に上手く抑揚をつけていて、巧みなアレンジだと思う。アレンジャーは鷺巣詩郎である。

 

こういうところが昭和の歌謡曲の良さであって、現代のアイドル・ソングと一線を画す部分である。

 

伊代さんは、現在もこのアルバムの曲をライヴで歌っているようだ。

 

 

驚異的ではないか。オリジナル・キーである。しかも、声質も歌い方も、あまり変わらないのに、確実に歌が上手くなっている。自分が中1の時に好きだったアイドルが、いまもライヴで歌っていて、しかもまったく衰えていないどころか、巧くなっているなんて…。

 

こういうのを聴くと、自分もがんばらないと! と思う。

 

 

でも、当時高校生だった伊代さんの、「かわいい歌唱法」も魅力的ではある。

 

 

 

 

 

 

前の記事:

 

ショルティの音楽を聴いて水谷豊を想った。なかなかの「センス」だと思う。

 

さて、今日は休日。予告通りに水谷豊を聴こう。

 

自らの推しのアイドルの歌声を、ラウドスピーカーを中心とした2chステレオで堪能するのって、ほんとうに愉しい趣味だと思う。他のブロガーさんの記事を見ていて、自分ももっとアイドルを聴こうと思った次第。

 

僕の最初の「アイドル」は水谷さんだ。

 

とっても久しぶりに、《TIME CAPSULE》(2008)を聴いた。

 

 

セルフカバーのアルバムである。1970年代後半~1980年代前半にかけてのご自身の名曲を歌い直している。

 

中には、当時のオケの音源をそのまま使って吹き込みなおした楽曲もあるので、僕みたいな昔からのファンにはたまらない内容となっていた。

 

それでももうすでに18年前のアルバムかあ…。光陰矢の如しである。

 

《普通のラブソング》は、ニューアレンジ。作詞:松本隆、作曲:筒美京平のヒットメーカーコンビによる曲で、水谷さん主演の『あんちゃん』(NTV系)のエンディング主題歌だった。中学の時は、暗い歌詞だな…ぐらいの感想だったが、いま聴くと共感と感動で胸がいっぱいになってしまう。

 

 

このEPは、1982年、藤が丘駅前の「レコード専科じゅん」で注文して購入。届くまでに1か月ぐらい待った。当時のレコード発注は、ほんとうに大変でイライラさせられた。店頭にないレコードを頼むのって、なんであんなに大儀だったのだろう。ストリーミング主体の現代にしたら、良い思い出ではあるのだけれど…。

 

水谷さんは何をやっても水谷さんだ。自ずと「水谷豊ワールド」に連れていかれてしまう。歌は「訴()える」に通底している。水谷さんには、おそらく「歌」と「台詞」の区別は感じていないはずだ。実際、「台詞」が挿入される楽曲も多かった。

 

つまり、台詞のように歌う、ということを徹底していたのだと思う。

 

《何んて優しい時代》は、作詞も作曲も水谷さん本人で、しかも自分の主演ドラマ「事件記者チャボ!」のオープニング主題歌ときている。「全部自分でやってしまう」という昔ながらのタレントの正統的な系譜を感じる。

 

すばらしい。

 

いくらか良くなった最近の僕のオーディオで聴く水谷さんは、ちょっと高級路線だ。DACの影響が大きいような気がする。もちろん、ダイヤトーンのスピーカーの鮮烈さが活きているのは確かだが、すべての細部に上品さが備わっているのは、やはり、イタリアのノーススター・デザイン社(すでに倒産)のDACのお蔭のような気がする。

 

いま僕は、何を聴いていても愉しくてしょうがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

ドビュッシー:

交響詩《海》

牧神の午後への前奏曲

交響組曲《春》

ダニエル・バレンボイム 指揮

パリ管弦楽団

(1978,1982,1977,グラモフォン)

 

 

昨日聴いたショルティよりも面白かった。

 

 

 

ふっくらしてやわらかい。そのままドイツ・グラモフォンの録音の特長だ。最後まで愉しめたレコードだったのだが、《海》の3曲目、エンディング近くのトランペットの「雄叫び」がカットされている。ここからのクライマックスを聴きたくて針を落とす向きが大半だと思われるのに…。

 

…ん? 「カットされている」とは?

 

この録音では、まったく吹いていない。小さくも聞こえない。ミスってるわけじゃない。

 

そういう楽譜もあるのだろうか。

 

僕が参照したスコアには「オプション」とも何とも書いていない。だよねー。あれがなかったら終わらないもんね、曲が。

 

↓これ

 

トランペットもコルネットもユニゾンで総動員ではないか。これを「カット」するとは、なにゆえに…。

 

何が起きていたのか、想像してみた。(愉快)

 

①バレンボイムが要らないと思った

 (楽譜改竄)

②Trp.チームが若造を試した

 (いたずら)

③パリ管のパート譜に「吹くな」と書いてあった

 (伝統)

④Trp.抜きで練習していたテイクが使われた

 (ここだけ切り張り)

 

①じゃないよなー。②③はどっちもありえるなー。④かなあ、やはり。

 

どこかで聞いたことがあるが、切り張りにはこういうミスがよくあったみたい。要はテープエディターのミスである。

 

それにしても最終チェックとかはしないのかね。

 

でも、こんなの枝葉末節でじゅうぶんに愉しい演奏だった。だから、いいやこれで、って出版したのかもしれない。

 

このレコードは西ドイツ製で、「シグネチャー・シリーズ」という名盤集の1枚のようだ。裏面にカラヤンとかジュリーニとかカルロス・クライバーとかに並んで小澤征爾の写真が載っている。国際市場向けの商品で小澤の写真があると、なんか誇らしい気持ちになったものだ。小澤に続く国際派がいない日本人の現状を少し寂しく思う。

 

 

カラヤンと小澤だけタートルネックなのも、なんかイイネ。

 

 

 

 

ドビュッシー:交響詩《海》

牧神の午後への前奏曲

ラヴェル:ボレロ

ゲオルグ・ショルティ 指揮

シカゴ交響楽団

(1976,ロンドン)

 

 

とにかく何を聴いてもショルティにはショルティの音楽というものがあって、そういう行き方に感心してしまう。

 

機能美、というのだろうか、これも一つの芸術の方向性であって、個性というのとはまた違う、何か途轍もないものを聴いてしまったような発見がある。

 

ロンドンの録音は、デュトワのレコードと傾向が一緒だ。ホールの響きがちょっと少ないかなという感じで、あとは全体の透明感だとか、明瞭さだとかは同一線上にある。

 

アメリカという国は、なんだかんだいって、やはり圧倒的だ。それは、オーケストラにおいても同様。きっと生音も大きいんだろうな…と想像させる。

 

当時のシカゴ響だから、まるで吹奏楽を聴いているようなバランスで、弦楽器がどこかにいってしまっている。でも、それがまた面白い。

 

極めつけはB面の《ボレロ》だ。ショルティのあの大振りの指揮が目に見えるようである(少し猫背で、カクカクした、あの動きです)。

 

テンポが速くて正確。スコアの小節線が見えるような音楽。ソロに「遊ばせ」たりはしない。インテンポ! と指揮が叫んでる。

 

面白くはないや、ね。

 

でも、この「行き方」に感銘を受けたりする。全然ジャンルが違うが、僕は最近、水谷豊は凄いと思う。いや、昔から凄いとは思っていたが、その魅力を表現することはできなかった。それは、僕が水谷さんを「好きすぎる」からである訳だけれど、最近は、ちょっとわかった気がする。

 

すなわち、水谷さんは何をやっても水谷さんなのである。浅見光彦をやれば「水谷光彦」になっちゃうし、刑事になれば「水谷右京」になっちゃうのである。しかも、そこには誰も近づけない。

 

明日は、久々に豊さんのレコードを聴いてみよう。いま、そう決めた。

ヴォーン・ウィリアムズ:

管弦楽曲集

ネヴィル・マリナー 指揮

アカデミー室内管弦楽団

(1972-1980,デッカ)

 

 

思えばヴォーン・ウィリアムズが僕の出発点だった。久しぶりにこのCDを聴いてみよう。新しいオーディオ・セットにしてから、まだ聴いていないので、どのように聴こえるのか。

 

このCDでは、《「富める人とラザロ」の5つの異版》がもっとも好き。この曲から再生を始めた。

 

 

よくもまあ、こんな万能選手型のスピーカーを生み出したものだ、ダイヤトーンってやつは。

 

「本当に好みの音なんですよー」

 

もうそれしか言えないのである。明るくパーッと音が拡散されていく、スピーカーの位置で「鳴っている」感じがしない。さっき、「Hysteric Blue」を聴いていたのだが、歪んだギターも常時オープンのハイハットも、すべてが煌びやかで(憂いこそないけれども)ストレートに音楽が飛び込んでくる。

 

で、この弦楽中心のクラシックにソースを替えてみても、結果はどうだ。まったく違和感がなく、同じように感情に訴えてくる。

 

要は「好き」なのだな、この音が、僕は。(倒置法)

 

やっぱり、あれこれ変えるのも面白いけれど、気に入ったものは最後まで付き合うという「覚悟」がないといけないのかもしれない。それが、結局は自分のためなのだ。

 

スピーカーをDIATONE DS-700Zに戻して、愉しい音楽生活を送っている僕なのであった。

 

 

 

 

 

ラヴェル:ボレロ

ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲

交響詩《海》

ヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(1966,1964,グラモフォン)

 

 

このレコードも素晴らしい! もともとは別の曲の組み合わせで出ていたレコードを再編成したもののようだ。

 

家のレコード棚を探したら、オリジナルがあった。《ダフニスとクロエ》とセットになったレコードだった。

 

よって、この《ボレロ》の演奏をレコードで聴くのは初めてかもしれない。おそらくソロを吹くのは、コッホやツェラーなど、伝説のスターたちであろう。

 

80年代のカラヤン&ベルリン・フィルの《ボレロ》も持っているが、この60年代の録音は響きが豊かで柔らかい。音楽もちょうどいいテンポ感で、ちょちょいのちょいと、何の苦労もなく(難なく)演奏しているような雰囲気が伝わってくる。要は余裕なんだな。

 

気持ちのよいレコードだった。

ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68

ヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

(1959,ロンドン)

 

 

今年1枚目のレコード鑑賞である。昨年、ノーススター・デザイン(倒産)のDACを買ってから、デジタル音源ばかり聞いていた。これではいかん。

 

ブックオフで救出。ブックオフの良いところは、高値がついていたレコードでも、数か月売れ残ると次第に値段が下がってくることだ。このレコードも今日、仕事帰りに330円で買った。もう一枚、ベルリンフィルとのラヴェル&ドビュッシー管弦楽曲集も救出してきたが、それは明日以降に聴こう。

 

昨年のウィーンフィルの来日公演以来、なんだかウィーンフィルの録音ばかり聞いている。そんなものである。

 

ステレオ初期の録音だが、音が生々しい。さすがデッカ・レーベルである。

 

後年のベルリンフィルとの録音(1970年代、1980年代)に比べ、このブラームスはとてもゆったりとした感じで流れていく。ガチガチにはならずに、柔らかいと言ったらよいのか。

 

昨日まで、アコースティックで行くか、ロックで行くかと、少し悩んでいたが、もう決心がついた。やはり、僕は当ブログのタイトルのように「どっちも」やることにする。

 

いずれにしても、美しい音楽は人を前向きにさせる。

 

 

 

 

STANDARD/SCANDAL

(2013,エピック)

 

 

 なんでか、新年早々、スキャンダルの《下弦の月》のリフが頭から離れなくて、聴きまくっています。これを書いている今も、この『STANDARD』を聴いているんですね、これが。

 

喪が明けていないので、いつもより淋しい正月となりました。が、けっこう前向きにいろいろとやっています。年の始まりとしては、スムーズなスタートをきれました。

 

今年はアコースティックなことをやろうと思っているのですが、叶いそうな感じがします。部活動の顧問も、「音楽系」で希望を出していて、なんとなくウマくいくような気がします。

 

とにかく仕事が愉しくてしかたがない。

 

それから、年末に、欲しかったクルマに出会ってしまって、やっぱり即決してしまいました。あー、30年も前の車だからしんぱいー。でもその「しんぱい」が愉しみだったりして。

 

令和8年が幸せな年になりますように。

 

 

 

 

ベートーヴェン:

交響曲第9番ニ短調 作品125《合唱》
 アンネ・シュヴァンネヴィルムス(ソプラノ)
 バーバラ・ディヴァー(アルト)
 ポール・グローヴズ(テノール)
 フランツ・ハヴラダ(バス)
 東京オペラ・シンガーズ
 サイトウ・キネン・オーケストラ
 指揮:小澤征爾

(2002,フィリップス)

 

 

今年も実演は聴きにいけません。家での鑑賞です。へび年の今年は、長男が厄年でした。西大井の蛇窪神社へ祈祷に行ったことを思い出します。

 

大晦日の今日は、その長男が水戸に遊びに行ってしまったので、次男と二人きりの夜になります。毎年、大晦日はすき焼きで、深夜に年越しそばを食べる習慣でしたが、今年はヤメにします。銀のさらかどこかで二人前のお寿司を取ろうかな、なんて考えています。(年越しそばは用意しましたが)

 

ということで、お昼はゆっくりと「第九」鑑賞です。

 

このCDの録音場所は松本市・松本文化会館だそうです。結局、この会場には行けずじまいです。

 

23年前の入手時には、あまり感動しなくって、すぐに「お蔵入り」にしていたのですが、いま聴くとウルっときますね。なんていうんでしょう、「ああ、四半世紀前にはこんなに熱いベートーヴェンの第九がまだ残されていたんだなあ…」なんていうふうに。

 

これ、自身の年齢と世間的な流行りからの影響が「大」だと思います。

 

年齢を重ねていろいろと聴き込むほど、楽曲のさまざまなところに耳が行くようになります。それで、いままで感じなかった、種々の意図を理解できるようになります。この「意図」というのは作曲者の「意図」であり、指揮者の「意図」であり、演奏者の「意図」であるわけです。

 

例を挙げると、音符の並び(連符)が綺麗に整っています。ヴィック・ファースのティンパニが実質、音楽を導いています。フレーズの終端が揃っていて、余韻が美しいです。演奏者が一致団結しているのが分かってしまう。個人的には宮本文昭の、あのウェーブのかかったようなトーンが懐かしいです。素晴らしい個性でした。

 

世間的な流行りは、やっぱり古楽風というか、高速系なのでしょうが、私には無機質に感じてしまいます。面白いんだけれども感動はしない。演奏もカッコいいんだけど、何も残らないというか…。

 

だから、小澤征爾がこういう録音を日本人のオケで残してくださったことは意義深いと思います。後年の水戸よりも私はこちらを採りますね。

 

来年になると、もう「24年前の演奏」と言わなくてはならなくなります。およそ四半世紀、時は移ろい、人々も変わっていきます。

 

音楽があってほんとうによかったと思います。癒されているを通り越して救われている気分です。

 

来年もがんばりたいと思います。

 

2025年 マイ・オーディオ「最終形」

 

 

 

 

 

 

サザンオールスターズのレコードを40年ぶりに購入した。40年前の1985年といえば、言わずと知れた名盤『KAMAKURA』の2枚組。「レコード」でサザンの楽曲を買うのは、それ以来のことなのである。

 

『THANK YOU SO MACH』(2025)の発売時、実は、予約をしくじってレコードを入手できなかった。しかたなく、楽曲をApple Musicで聞いていたのだが、どうしても「レコードで」欲しいという気持ちが勝ってくる。

 

中古市場を見て買うタイミングを探っていたが、ぜんぜん価格が下がんない。新品時の2倍の1万円以上になっている。待っていても上がる一方だろうと思ったので、2か月ほど前に、中古盤を手に入れた。ハードオフさんで、ネット価格よりもちょっと安い1万1千円で販売されていた。「見本盤」のシールが貼ってある。だから安かったのかもしれない。盤面は購入前に確認させてくれた。とても綺麗。おそらく、一回ぐらいしか針を落としていないのではないか。

 

 

CDでは一枚だと思うが、LPでは2枚組である。奇しくも、40年前の『KAMAKURA』と同じである。なにか、不思議な感慨を覚えてしまう。

 

音を聴いてみたら、これはもう完全にレコードの勝利。

 

以降、Apple Musicでは聴く気がなくなった。で、カセットテープにダビングして、日ごろはそれで愛聴している。レコードは擦り切れないように温存しておくのが、1980年代に生きた者の「礼儀」みたいなもんなのである。

 

 

 

令和の現代に、新作をレコードで聴くことの意味はあるな、と痛感した次第。なんか、次々に「新譜」を求めてしまいそう。