ASA-CHANG&巡礼のₙC₅「花-a last flower-」「影の無いヒト」「事件」ほか | A Flood of Music

ASA-CHANG&巡礼のₙC₅「花-a last flower-」「影の無いヒト」「事件」ほか

 

はじめに

 

 自作のプレイリストからアーティストもしくは作品毎に5曲を選んでレビューする記事です。第9弾は【ASA-CHANG&巡礼】を取り立てます。普通に読む分に理解の必要はありませんが、独自の用語(nの値やリストに係る序数詞)に関する詳細は前掲リンク先を参照してください。

 

 これまでに当ブログで同ユニットがメインの記事をアップしたことはないけれど、ASA-CHANGさん個人への言及なら過去に一度だけ下掲の記事にて行ったことがあります。椎名林檎『逆輸入 ~航空局~』(2017)収録の「重金属製の女 "The Heavy Metalic Girl"」に、タブラと電子ノイズで参加している旨にふれた文脈です。短いので以下にそのままセルフ引用します。

 

 

 名越さん以外にもこの曲の演奏クレジットは個人的に面白く、まずはタブラ&電子ノイズをASA-CHANGさんが担当なさっていることに驚喜しました。イントロでもしやと思いましたが本当にそうだとは。当ブログでは未だ記事を書いたことはありませんが、ASA-CHANG&巡礼の唯一無二としか言えない音楽は高く評価していて、アルバムも愛聴しています。唯一無二ゆえレビューも難しそうだと若干畏れている節があるぐらい。笑

 

 ということで上記から6年以上経過した今とうとうレビューの機会が回ってきたため、「若干畏れている節」を押してその魅力を文章化してみる次第です。

 

 前置きは以上で、ここからASA-CHANG&巡礼のₙC₅を書き始めます。現時点でのnの値は15/3[=5*3]、レビューするのは「花 -a last flower-」「まほう」「影の無いヒト」「ウーハンの女」「事件」の5曲です。

 

 

「花 -a last flower-」(2013)

 

 

 トップバッターには皆大好き「花 -a last flower-」を据えます。巡礼の恐らくいちばんの有名曲で(歌詞が「検索してはいけない言葉」の認定を受けている箔付き)、ご多分に漏れず自分にとっても存在認知のきっかけとなった楽曲です。TVアニメ『惡の華』の通常EDに使われたそのインパクトは絶大で、遍歴記事のコラム③でも明かしている通り、同作は僕が二次元趣味から離れていた約8年(2007~2015)の間に観た数少ないアニメのひとつだと補足します。

 

 「-a last flower-」はバージョン違いを表す副題で、オリジナルはアルバム『花』(2001)の表題曲です。こちらにもタイアップがあって元々は邦画『けものがれ、俺らの猿と』のED曲ですが、『惡の華』に於いても第7話の特殊ED曲に再起用されているほか、後年には『花 -20周年記念集-』(2022)というコンピ盤もリリースされており、長年大切にされ続けているナンバーだと窺えます。以降はオリジナルとの比較で語るので、表記上の区別は「花」と「a last flower」です。

 

 

 まずは両曲に対する個人的な全体解釈をば。上掲MVの心理療法的な世界観も相俟って、「花」で強調されているのは美しさや儚さである印象です。センシティブな表現をご寛恕願えれば、綺麗さに消え入りたくなるような希死念慮を覚えます。花に照らすなら散り際の美学でしょうか。一方の「a last flower」は更に闇深い変貌を遂げているものの、寧ろこちらには生への強い執着が感じられます。同じく花に照らすなら泥中の蓮のイメージで、その諺が意味するところの「汚濁の中に在って尚清廉」は飽くまで理想として、より現実的に「汚濁に染まろうが咲き続ける」という足掻きにこそ矜持が垣間見える音風景です。

 

 具体的にアレンジの違いから上記の理由付けを行うなら、ストリングスの役割が異なる点に重きを置けます。『WhoSampled』に拠ればSadeの「Pearls」(1992)を元ネタとするらしい*1(外部リンク)「花」のそれは、冒頭からずっと寂莫たる重厚さで鳴り続けて本曲を音楽たらしめている重要な要素です。これを除くと「タブラのプレイに同期したボーカルトラック」という巡礼を象徴するサウンドが主として残り、その性質はリズムなのでメロディとハーモニーに欠けます。これは「だからこそストリングスが伴奏の肝として挿入されている」の意です。

 

 *1 聴こえの上では同曲を引用元とすることに強く意見しないけれど、少なくとも自分の手元にあるアルバム『花』に係る情報は印字されていません。一応「花」への言及があるネット上のインタビューを複数本読みましたが、これを裏付ける公的なソースは管見の限り確認出来ませんでした。ニコニコ大百科の記事(外部リンク)でも曲名を挙げこそすれ「ストリングスのメロディを基調とし」とやや婉曲に書かれており、僕もこれを支持するためストレートにサンプリング元と書くのは控えておきます。

 

 

 対する「a last flower」に当該のストリングスはなく、ボーカルのトリガーになっているのもタブラではありません。そも本曲のつくりはリミックス的なのでレコーディング時に同期させたというよりは、DAW上で声ネタとオケを重ねたのだろうと推測します。クレジットから察するに前者はASA-CHANGさんの独特な作詞作曲(総じて韻律)のセンスおよび権藤知彦さんの手に成るボイスエディットの領分で、後者は後関好宏さんのフルート&サックスに須原杏さんのヴァイオリンを加えた三種がウワモノとして振る舞う生楽器担当との理解です。この組み合わせで結果的に演奏がボーカルと同期しているように聴こえ、「編曲:ASA-CHANG&巡礼」の表示になるのだと捉えています。更にエンジニアリング面ではアニメの音響効果を務めた川田清貴さんのSFXによる装飾*2と、プログラミングを手掛けた安宅秀紀さんのミックス手腕も確かで完璧な仕上がりです。

 

 *2 本曲ではイントロと中盤の特徴的な音効が氏のワークスで、下掲リンクカード先では『「惡の華」の不気味な開花音』と形容されています(2頁目にも言及あり)。当ブログの前記事「プリティーシリーズのₙC₅」に因むと、プリズムジャンプの固定音も川田さんと知って驚きました。

 

 

 巡礼の楽曲は実に多彩なので次に述べる描写はその一端に過ぎないと断っておきまして、本曲に限らず歌詞の分量が多くラップともポエトリーともつかないユニークなカットアップが前面に来るタイプのナンバーでは、「徐々に複雑になっていくフロウ」にこそ魅力があると主張します。以下その点の文章化に努めましたが、楽器の同定が不正確かもしれないのはお目溢しください。また、何処がAメロだのサビだのと規定出来ないため目安としてタイムを通時的に付しておきます。
 
[0:00~]
 
 先述の通りイントロのそれは惡の華の開花を告げているため、誕生から間もない点が意識されてか冒頭の一節は訥々とした語り口です。いざオケが鳴り出し再び紡がれる同様の一節は、着実且つ重苦しいバッキングに相応く這い出すような性質を帯びています。このたどたどしさは食い気味の"ハナナドナイ"で破られ、調子外れにベンドするヴァイオリン[1:45~1:46]に替わってフルートの息遣いを孕みながらの次節は俄にメロディアスです。"花ガ有ダヨ"の部分に顕著なようにボイスエディットもジャブを打ってきます。
 
[2:38~]
 
 駆け足になったテンポに対して遅れまいと息巻く早口の"シタラソシタラ其レハ"を合図にフロウが勢い付き、フルートとの同期も緩くなってボーカルとオケがインタラクティブに機能し始めます。別けても"花ハ震エテ"以降のグルーヴは神懸っており、全ての音に合わせて巧まずと動いてしまう心身は宛らコンテンポラリーダンサーです。この忘我の果てにはチルアウトパートがある親切設計で、平静を取り戻した鼓動の上をピアニカっぽいチープな響きのサックスが漂う哀愁に、内省の感が強まります。
 
[4:25~]
 
 鳴り出しの荘重なオケに回帰したのと同時に"サツキノ風の音"への怯えを思い出し、続く"ヨリもっと風ノ音デ音風々音ノカゼよりモツト音ノ嵐デ嵐嵐"に個人的なエピソードを紐付けるなら、令和元年台風第15号襲来時のトラウマ(詳細は下掲記事参照)を想起させ、悪状況がエスカレートしていく情景が浮かぶ段階的な言葉の連ね方に腹落ちです。確かにあの夜に聞こえていたのは風の音に非ず、破壊の音と表現するのが適切な"音ノ嵐"でした。
 
[4:41~]
 
 陶酔的な管弦に共鳴していく"夢ナド無"以降は第二のピークで、リズムとメロディが綯い交ぜとなった複雑で繊細なラインの随所に、エクスペリメンタルなボーカル処理が施されて唯一無二と言う外なくなります。ここから一気に使用語彙の幅が広がるのも新鮮な聴き味を供す要因で、情景が一転"もう風等無無論雲モ動かネのに"と凪いでくるのもフックです。先達ては"光ヲ見タコト無花ガ泣イテイタよ"と日向への未練が見え隠れする言い回しだったものが、暴力的な静寂の中に在って"花ハ闇ヲ選闇ヲ愛花ハ闇謳愛シ其ニ泣キ"と常夜に馴染みつつある変化を見て取れます。
 
[5:07~]
 
 本曲の歌詞は最後の"答エ"を除けば全て観測者目線のもの、要するに当該の"花"が置かれている過酷な状況を案じた人の視座に基いていると解釈可能です。その強い使命感は"花ヨ花ノ不屈心光ガ笑テクレル様ニ"以降に色濃く表れています。"風"からも"闇"からも"鋏研奴"からも守護し、不思議な哲学で"月ヲ見ヨ星ハ駄目月本当ノ光ヨ"と月光を神聖視し(恒星と違って太陽の光を反射しているから?)、かと思えば直後の「んー?」と疑義を呈すようなボイスを受けて"否星モ綺麗"とフォローが入る、意識の流れに忠実なところが好きです。
 
[5:45~]
 
 愈々オチが近付いてくる"成バ其成バ"からの盛り上がりはクラシックのクロージングを彷彿させ、その熱狂的なオケに枉げてボーカルを相乗りさせる電子音楽ならではの手法に圧倒されます。"ハナにヒカリを"を核とする言葉の奔流に押されて漸く"花は答エタンダ"の焦がれた瞬間に行き着くも、返ってきたのは"光はイラネ水ヲ下さイ"の闇落ちなのが素晴らしい裏切りです。
 

 

「まほう」(2016)

 

 

 漫画『惡の華』の作者である押見修造さん繋がりで、続けてアルバム『まほう』(2016)の表題曲を紹介します。本曲は氏の漫画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』にインスパイアされていて、そのはっとさせられる題名が伝える通りに吃音持ち*3の女の子が主人公の作品です。同作はフィクションだけれども、吃音に関しては押見さん自身の経験が反映されています。先のレビューで「花 -a last flower」の歌い出しを「訥々とした語り口」と表現したのもその一例として、巡礼が得意とする細切れのカットアップは奇しくも吃音症との親和性が高く、下手を打てば障害を馬鹿にしていると取られかねないアウトプットに一切の差別意識が感じられないのが見事です。

 

 *3 便宜上「吃音」という言葉を用いていますが、下掲インタビューで語られているように作中にその単語は登場しません。同作が伝えんとするメッセージは特定の病気や障害を前提としておらず、思春期に誰しもが抱えるコンプレックスの一形態として描かれているからです。

 

 

 クラス内のざわめきをBGMにした自己紹介の場面から幕を開け、"お お おお おお しま お お/すみません えっと お お おお お/お すみません… オオシマ シノ/おおしまし の 大島志乃 おし おし しの んんん…"と、自分の名前をきちんと言おうとするだけで[2:05]まで掛かるところに困難の大きさを察せます。対照的に心の中では雄弁で、"「ああ 魔法をください/みんなと同じに 喋れる魔法/ああ それさえあれば/わたしは外へ 出かけて行くよ」"と、当たり前を望む些細な願いが流麗なメロディに乗せられて淀みないのが切ないです。

 

 オケは柔らかなパッドと細やかなビートによるヴァルネラブルなタッチを基本としつつも、子供らしい"まほう"のサウンドスケープか楽器の演奏は賑やかでトイミュージック的な趣があります。「花 -a last flower-」にも参加していた後関さんと須原さんが正式にスタジオメンバーとなってからは、素直にポップなエッセンスが付与されて音源に温かみが出た印象です。"まほう"への尽きない憧れが歌われる終盤のユーフォニアスなユーフォリアに、何時までも浸っていたいと思うのは僕だけではないでしょう。

 

 

「影の無いヒト」(2009)

 

 

 新体制の楽曲も結構だけれど浦山秀彦さんとU-zhaanさんが居た頃の音源も素敵だぞということで、3曲目にはディスコグラフィーを遡ってアルバム『影の無いヒト』(2009)の表題曲を取り立てます。両名は2010年に脱退したため同盤が旧体制でのラストワークとなりますが、ここで一区切りとしたことにも得心がいくほどに本作延いて本曲の完成度は高く、ひとつの到達点に至ったとの受け止めです。先述のアーティスト評を再掲すれば、「歌詞の分量が多くラップともポエトリーともつかないユニークなカットアップが前面に来るタイプ」に於ける最高傑作と評せます。

 

 僕はやはりタブラがというかパーカス主体の音作りこそが巡礼の真骨頂であるとの認識なので、一般的な楽曲では中々味わえないトリッキーなリズムとフロウを乗り継げる本曲に神韻を聴くのは道理です。とはいえ基底のリズム隊は意外とミニマルで且つサイケデリックなギターが常にじんわりと空間を支配しているため、敢えて漫然と向き合ってみると難解には響かず寧ろ癒しがあるとさえ言えます。但しこれは何度も繰り返し聴いているからこそ出てくる感想かもしれず、初めて本曲を聴いた人の口を衝くのは恐らく「怖い」や「凄い」の一言でしょう。

 

[0:00~]

 

 その一因が歌詞にあるのは間違いなく(歌詞カードが怪文書のそれ)、「影の無いヒト」という曲名から想像される"ヒトに在らずヨ"の予感が的中する不気味な内容です。「陰の無いヒト」だったら普通に誉め言葉または皮肉や嫌味だけれど、本曲の主人公が遭遇したのは文字通りのa shadowless humanだと読み解けます。しかしその見てくれは翻って完璧らしく、"影の無い、うつくしい人に逢っタんだ。/影のナイ、極く、スゴク、優しいヒトが居た。"*4と好感触です。この不可解さを指して"どうして何故やさしく、凄く、極く正しい人のカゲない…/…無いんダヨ…泣いタんダ"と紡がれる、仰けからの異様な状況提示に引き込まれます。

 

 *4 ここの"極く、スゴク"や続く"ホントに居たンだった。/本当に異端ダッタ。"を例に取り、この手の言葉遊び的な要素が随所に鏤められているのも歌詞上の特色です。一部を先取りして明かすと"それから固まりました {中略} ココロも塊で"、"カタチが無くなりそうな/凍り付いた型血。"、"ケモノ…ノケモノ…ケダモノ"、"罪・蜜・ツミ・ミツ…"などが該当します。

 

 ゲストボイスの特筆性についてもここで語りまして、説明不要のご存知坂本龍一さんに、マルチな活躍で常に時の人である宮藤官九郎さん、同郷で同い年と知って勝手に親近感を覚えているモデル・女優の太田莉菜さんと、三者三様の人声が時に怪しく時に心地好く調和するマリアージュは必聴です。銘々の独立部でも存在感が顕なのは流石で、とりわけ教授の寂声(e.g. [1:19]の"ホントに")には鼓膜のみならず魂を揺さぶられます。別アーティストとのコラボ曲をcf.するなら、m-flo loves 坂本龍一の「I WANNA BE DOWN」(2004)もボーカルの組み立て方が実験的なので、巡礼を聴く方なら琴線にふれるものがあるはずです。

 

 

[1:53~]

 

 短い間奏を挟んで次のセクションでは、"影の無いヒト"への洞察が深まります。"ブルブル"と顫動した後に硬直する様子が、"顔も、腕、も脚も、心も、カオモ・ウデモ・アシモ…ココロも塊で"と詳細に描写された果てに、直截的な恐怖の一節"「ハヤクコロセ」と叫びました。"の登場です。これは観測者が「(あれは善くない存在だから)早く殺せ」と警告しているのか、当人が「(どうにかなる前に)早く殺してくれ」と懇願しているのか迷えるけれど、以降の一問一答に"影の無いヒトに(は)問いました。"と二通りの助詞(動作の対象と主格)を想定している点を考慮すると、両義的に受け取るのが正解なのだと感じられます。もしくは「大脳辺縁系は主語を理解しない」的な含みかもしれません。

 

[3:23~]

 

 今度は長めの間奏でフルートの美しい音色にしっかりと心を落ち付ける猶予が与えられ、遂に"影の無いヒト"との対話がスタートです。だけれど結局は「何も解らないということが解った」類の問答に終始し、果たしてその背景に"答えは・コタエハ・本当は・ホントは・知っているノニノニノニノニ…なのに、/なのに問い続けましたノデス。"が、元より詮無いと知っていたことの告白として続きます。即ち最初から解っていた「影の無い理由」とは、ずばり"「ワルイヤツ」が、/ヤツが・奴が・ヤツが/「フミツケ、タベテシマッタ」"からです。その性質は"とても、ドシテモ、正しく無い、恐しく"だそうなので、同質の"影"を食べられたがゆえに本体は"やさしく、凄く、極く正しい人のカゲない…"の状態になったのだと納得出来ます。

 

[4:43~]

 

 またも短い間奏を挟んで、次に暴かれるのは"ワルイヤツ"の生態です。"影の無いヒトの傍から「ワルイヤツ」は離れません、"からの説明を端的にまとめると、その本質は蓋し"影"だと言えます。換言して"ワルイヤツ"が"影"に擬態している不自然さに"影の無いヒト"は苦しめられており、"ンダッて、人は、影ある者。/影無い人ヒトに在らずヨ。アラズヨ…"の理屈の上では、自身の非人間性を嘆くのも無理からぬことです。"鏡ニナミダ映ります。"を「本体は映っていない」と解すれば、まるで吸血鬼だなと結び付けられます。「影が無い」も含めて自分の抱く吸血鬼像に近しい説明は、下掲外部ブログ『吸血鬼の手帖』さんに詳しいです。

 

 

[5:28~]

 

 これを憐れんでかは定かでないものの、"ワルイヤツ"は"影の無いヒトのカゲ"を体内から取り出そうと試みます。悪戦苦闘して"やっとハラワタの奥の憶の影を其の悪い手で握り締めた時、"に激しい反応が起こり、"サッキの罪よりモット深い罪が襲って来テ、罪の毒で躰がシビレ雷に撃たれた様に/ビリビリリビビビリビリビビビビビリリリ"となった事実から、"タベテシマッタ"以上は如何ともし難いようです。それを突き付ける"遅すぎたコ・ウ・カ・イ"がそのまま"後悔"なのは当然として、「航海」にも掛かっていることを船の汽笛と軋み音と海猫の地鳴きを思わせるイントロの音風景から導けます。つまり[0:00]の出航時点でもう遅きに失しているとの考察です。或いは「更改」で「今更改心しても手遅れ」だったり、「狡獪」で「悪巧みをするならもっと計画的に」だったりの筋道も立てられそうですね。

 

[6:47~]

 

 "ワルイヤツ"への考察は進み、"ニンゲンですか、ヒトの型の魔法使いデスカ、/ヘタクソな魔法使いデスカ、怪しい獣ですか、ケダモノ、除者ですか、"と、殆どネガティブな候補が挙がります(正体はその何れもと言いたげ)。"血を吐くの、赤いの、"に対するものとはいえやや突飛に感じられる"海の色蒼いの"は、先の「航海」から来ているとすれば据りが良いです。"片時も離れ無い「ワルイヤツ」が影の無いヒトの影に成るつもりなのですか。"で前述した擬態の最終目標を看破されるも、"己の罪を受け入れるつもりですか、"と合理化を図るならこの解決策は成程"蜜"の味でしょう。

 

[7:27~]

 

 ところがこの甘く罪深い判断がまさかの好転を呼び寄せ、"罪のせいで時間が戻る"という奇跡が起こります。これで今までの悪手も遅滞もちゃらです。その結果"人と影は互いに自らを縫い合わせハジメ/奇妙なカンケイに成りました。"と着地するわけですが、これは要するに我々の能く知っている"影"の振る舞いに思えます。光とそれを遮蔽するものがあれば必ず出来上がる影、物理的にはそれだけのことに過ぎないけれど、実は斯様なバックストーリーがあって延々とそのサイクルに囚われているとの思索に耽ると、"「悪いのは誰ですか」"に答える可くもありません。

 

 

「ウーハンの女」(2009)

 

 

 お次もアルバム『影の無いヒト』からの選曲で「ウーハンの女」に迫ります。ソロデビュー前の星野源さんが作詞を務めており、付属ステッカーの肖像イラストも今より短髪で白スーツにリボンタイなので『ホニャララ』(2008)の頃ですかね。また、曲名の「ウーハン」はクレジットのWuhan Sistersも根拠にすれば武漢のことと思われ、この地名も後年にある意味一段とメジャーになったため因果を感じます。

 

 本曲は巡礼のナンバーの中ではかなりキャッチーな部類で、その楽想もAメロBメロサビとJ-POP的です。とはいえ1番Aの"めじり ミニな"で早速と主旋律が暴走するのを聴くと、凡夫の自分は「そういう変化球って普通2番以降で投げない?」と常識に縛られてしまうので、やはり一筋縄ではいかないと舌を巻きます。中華風のウワモノと甲走ったボーカルが共にキンキンと響くことによる耳への負担を、ダンサブルな低音部で中和するパワープレイなトラックメイキングも慣れてくれば愛おしいです。

 

 「並」に少し足りない程度の生活感を漂わせるスタイルも十八番のひとつで、"おこめ あらう/たける すきに/せんたくして ザブブ/きのう たべた/ものと おなじ/さばのみそに たべる"だけならともかく、一日の始まりが朝になく撞着語法の"まぶしい ひぐれね"が似合う人のそれとなると侘しさが増します。それも職業柄仕方のないことが"うーちのみーせは てっぺんこえて あくの"で明かされ、スナックの日常風景"きゃくの うたう カラオケ きいて"をリアルに想像してみると、本曲の微妙に爽快感を欠く出音や音像は素人感の演出だろうかと心得顔です。

 

 閉店後のオクシモロンは"まっくらの あさだわ"で、"シャーワーあーびて レディコミよんで ねるの/てーきとうーな はなーしに なみだ するの/そうして あーたま うーそで うめて ゆくの/もうウーハンのことーは わすれて ねるの"の虚無感には寒気を覚えます。だとしても代り映えのないルーチンこそが生活であり、"おうちかえる ねこをなでる/はなしかける わらう"と動物相手であっても笑顔が残っているのと、"ほーそぼそーとなんーとか やって ゆくの/とーくにゆーめもなーいし これで いいの"と最低限度を維持しているだけマシと、相対的な幸不幸を持ち込んで無益な比較をしてしまう僕も庶民です。

 

 

 
 

「事件」(2020)

 

 

 ラストは「ウーハン」がニュースを賑わせていた4年前のリリースながら、現状の最新スタジオアルバムである『事件』(2020)の表題曲で〆ます。上掲動画のいとうせいこうさんによる前口上が本曲の成立過程を知るのに適しており、スラジュさんの遺品である「漢字で埋め尽くされたレポート用紙」(付属解説小冊子での表記)がどんなものかは是非ご覧いただきたいです。「ウーハンの女」が何とか「日本に入れた」ケースだとすると、本曲はそうならなかったがゆえに「事件」を冠しています。というわけで実際の出来事を元にしたがっつり社会派のナンバーであることを含み置いて読み進めてください。

 

 歌詞の全体は例の用紙に倣い単語の連なりだけで構成され、使われている語彙もそこにあったものが中心(もしくは全て?)です。序盤こそ故郷のガーナが意識されてかアフリカの風を感じさせる熱いサウンドが聴こえ、第一スタンザにあまり不穏なワードが含まれていないのもギリギリ平時の証と言えるものの、シンセベースで俄に電子的に傾く第二スタンザからは"怪我・爆発・遺族・国籍・学校・才能・転がし/秘密・原告・結婚・栄養・誘惑・瞬間・愛されて"と、断片的にしかし見るからに入管の闇が近付いて来ます。"畳生活・食事・首の下と・背骨・畳生活・食事"に対して、"忘れない"を都合17回繰り返した後に"抗議・抗議・抗議・抗議・抗議・抗議"と続くのはもう有事です。

 

 

 第三スタンザの"抗議・抗議・抗議・抗議"はまさに抗議らしい発声で怒気を帯び、"ぐったりして"に続く"未遂"の連呼の前に何が伏せられているかはコロケーションから推して知るべしでしょう。"明らかに"も他の類似事案からそうなのだろうなと嫌な想像が出来ます。第四~五スタンザも歌詞内容は同じだけれど、焦燥感に駆られながら実際にはこの数字以上にリピートされる一連のシークエンスに、終わりの見えない悪夢が謳われていると理解するのは容易です。

 

 残りのスタンザには(最後のタイトルコールを除いて)"神様"と"人間"しか出てきません。目下の文脈に於けるこの二語は実に多義的だと思いますが、スラジュさんがせめて人間らしく扱われていれば救いの神は人だったかもしれないのにと短くまとめておきます。そもそも不法残留しなければとの議論は付き物とはいえ、その対応が法というか人道に悖っていい理由にはなりませんよね。早鐘のビートを伴って悲憤慷慨然もありなんと、ボルテージの上がっていく濁声から浮かぶのは瞋恚の目と乱り顔です。

 

 

おわりに

 

 以上、のASA-CHANG&巡礼のₙC₅でした。前回のₙC₅から20日も空いてしまったのは何も本記事の執筆にそれだけ時間を要したからではないものの、従前に「レビューも難しそうだ」とした予想は案の定その通りで、「amazarashiのₙC₅」と同じくらいには難儀したと両者の高いオリジナリティに讃辞を送ります。

 

 

 アニメ漫画以外のサブカル界隈への歩み寄りを紹介しますと、『にじさんじ』所属のVTuber・月ノ美兎の1stアルバム表題曲「月の兎はヴァーチュアルの夢をみる」(2021)は巡礼による提供楽曲です。同盤にはいとうせいこうさんが作詞と編曲に携わった「NOWを」も収録されているため、本記事を読了した方には幾分馴染み易いかと思います。