今日の一曲!μ's「嵐のなかの恋だから」 | A Flood of Music

今日の一曲!μ's「嵐のなかの恋だから」

 

乱数メーカーの結果:1333

 

 上記に基づく「今日の一曲!」は、ラブライブ!シリーズのセクション(1318~1347)からμ'sの「嵐のなかの恋だから」です。詳しい選曲プロセスが知りたい方は、こちらの説明記事をご覧ください。

 

 

収録先:『HEART to HEART!』(2015)

 

 

 本曲の初出はアプリゲーム向けシングル『HEART to HEART!』のc/wです。スクフェスは2016年の春から始めて今年の初め頃までは遊び続けていたものの、現在はゲームに割く時間的な余裕がなくなり殆どのスマホゲーを引退してしまったため最新情報はよくわかりません。特にリズムゲーはながらプレイが不可能なので優先的に引退するしかなかったのですが、スクフェスは出来れば続けていたかったです(オートやスキップがあれば或いは…)。

 

 従って思い出話になってしまうけれども、HtHについては難易度がえげつなくて苦しめられた記憶しかありません。結局引退するまでにMASTERのフルパは勿論フルコンも当然のように無理で、何なら完走すら時に怪しかったと白状します。嵐恋はどうだったかなと思って久々にログインして確かめてみたところ、こちらもMASTERのフルコンは出来ていませんでした。過去に4回しか挑戦していなかったと言い訳しつつ、譜面を見る限りそこまで難しくはなさそうに感じたので試行回数を増やせばフルコンは狙えそうです。

 

 

歌詞(作詞:畑亜貴)

 

 詞先か曲先かコンセプトが優先か不明なれど、作風がミュージカルなのでその歌詞も戯曲的と言えます。解釈は色々あると思いますが、愛し合っているのに結ばれない二人の悲恋が描かれているとするのが王道でしょう。その背景には"革命の炎"があり"平和な世界"を希っているところから、戦火に因って二人は引き裂かれたと読み解けます。冒頭の"時代の嵐には 逆らえぬさだめ/それでも恋ゆえに あらがって恋ゆえに"が、そのまま本曲の概説です。

 

 今生での救済は疾うに諦めているのも切なく、"つぎの世界で(また会いたいの)/生まれ変わって(また会いたいの)/こんどは幸せになろうって誓いましょう(誓いましょう)"だけならまだしも、"魂は夢で(夢のなかで)惹かれあうのよ(愛のために)/身体がどこにあっても声が聞こえるでしょう/魂は夢で(夢のなかで)惹かれあうなら(愛のために)/悲しむことはないのね いつでも一緒だから"は達観しています。

 

 この"身体がどこにあっても"は解釈の余地を残す一節で、単に物理的な距離への言及と捉えても勿論構わないのですが、既に肉体がこの世に存在していないからこその言い回しにも思えて意味深長です。来世に期待している以上寧ろ後者の受け止めが正道な気もして、すると"さあその扉(見送るわたし)/さあ出たあとは(立ち去るあなた)/ふりかえらないでね(すぐに消えて…おねがい!)/二度と会えないわ"は、生死の境界での出来事に映ります。

 

 

メロディ(作曲:酒井陽一)

 

 本曲で最も語り甲斐があるのは楽想の複雑さに関してだと言え、ピクシブ百科事典の解説でもこの点は指摘されています。当ブログには「メロディの区分について」と題した曲構成の表示ルールがあるため、これに従い自分なりの分析を提示しつつそのユニークさを説くとしましょう。独自研究に独自研究を重ねた複雑な長文によるお目汚しをご寛恕ください。

 

□ フェーズⅠ

 

 まずは例によってサビから規定しますと、"魂は夢で"~のスタンザをサビとすることへの異論は少ないと期待します。加えてサビは前半部と後半部に二分でき、"ただ見つめあえる"以降を後半とするのも自然な理解としたいです。次に規定すべきはAメロですが、単に最初に出てきたものをAとすればいいわけではなく、「Aメロよりも前に位置付けるべきメロディ:○○始まり」という特殊なパターンについて考えます。本曲の場合これに当て嵌まるのは"まだ終わりじゃない"~のスタンザで、ここのメロディは(厳密には"ただ見つめあえる"~が)サビ後半と同じものです。

 

 サビの後半部だけが先んじて登場する;後になってそれがサビ後半と同じ旋律だとわかる楽想には時偶出会すことがあり(e.g. この記事に於ける「キラリスト・ジュエリスト」を参照)、先掲のルール記事でも「サビ始まりに後半部のみが利用される場合」と想定しています。本曲も"まだ終わりじゃない"~から幕を開けていたならこれで説明が付くのだけれど、実際はその前に"時代の嵐には"~のパートが来るのでややこしいです。尤もサビ始まりという言い方に拘らなければ、素直にここをAメロとしてサビ後半が続くと見做すのもアリでしょう。

 

□ フェーズⅡ

 

 しかし個人的な感覚では、"時代の嵐には"~をAメロとすることには抵抗があります。なぜならハイライト的な音運びになっていると言いましょうか、起点に据えられるようなルート感がないからです。当該部は後にもう一度だけ登場しますが、2番後間奏の台詞パートを経てからのそれがまさしくハイライト的な出現で、こちらはとりわけ得心が行き易くあります。要するに冒頭部はこのセクションを先出ししたものであり、Aメロとしての役割を持ってはいないとの理屈です。では現実にAメロらしい振る舞いをしている旋律はどれかと問われると、その実サビ後半のそれがそうなのではと思います。

 

 消去法のため敢えて先にBメロを規定しますと、そのプレコーラスとしての役目を果たしているのは"つぎの世界で"~の部分でしょう。1番でも2番でもサビ(コーラス)の前に据えられている点は元より、ラスサビの前に"(いまを止めて…おねがい!)/革命の炎…"と終盤のみの簡易版が出て来るのが決定打です。"時代の嵐には"~をAメロとしたくない前提に立ち、"つぎの世界で"~はBメロで揺るがないとなると、残るは"まだ終わりじゃない"~しかなくなり、位置的にもここをAメロとするのは何ら可笑しくありません。

 

□ フェーズⅢ

 

 唯一特殊なのは再三述べているようにサビ後半にも同一の旋律が来るところで、しかし"時代の嵐には"~の存在によってサビ始まりの理解では収まりが悪いとなると、サビが前半と後半に分かれているのではなく"魂は夢で"~"一緒だから"までがサビメロで、その直ぐ後にAメロが続く形を取っていると発想の転換が必要になります。このように考えると2番サビの構造がシンプルになり、サビが前半部のみで終わっているという特殊な視点を持ち込まないでOKです。

 

 ここまで来れば後は残ったセクションを通時的に規定するのみで、"あの日"~をCメロとすると問題の"時代の嵐には"~はDメロになります。つまり本曲はDメロ始まりであるとの一見不自然な結論を得たことになるけれども、前述の通り冒頭のそれはハイライトを先出ししているという認識ゆえ問題ないのです。フェーズⅠでサビ前半+後半としたまとまりをサビ+Aメロに改め、フェーズⅡでふれたラスサビ前のプレコーラスはDメロ+変則Bメロ(元の簡易版)で構成されているとおさらいしまして、最終的な楽想は以下のようになります。

 

□ コンクルージョン

 

 【 Dメロ始まり["時代"] ⇒ 1番Aメロ["まだ"] ⇒ 1番Bメロ["つぎ"] ⇒ 1番サビ["魂は"] ⇒ Aメロのリプリーズ["ただ"] ⇒ Cメロ["あの"] ⇒ 2番Bメロ["つぎ"] ⇒ 2番サビ["幻抱"] ⇒ 台詞 ⇒ Dメロ["時代"] ⇒ 変則Bメロ["(い"] ⇒ ラスサビ["魂は"] ⇒ Aメロのリプリーズ["ただ"] 】

 

 ※ 角括弧中の歌詞は頭の二文字のみ表示

 ※ リプリーズ(英:reprise)は反復・再開の意

 

 これが個人的にいちばんしっくり来る本曲の区分です。メロの呼称はこの際どうでもいいとぶん投げたとしても、同一の旋律が予想外の位置に配されている自由度の高さに1番と2番で楽想が全く異なる変幻自在さ、そしてユニークな組み合わせで構成されたプレコーラスと、聴き手の予測を良い意味で裏切り続ける進行に酒井さんの卓越した作曲センスが感じられます。

 

 

アレンジ(編曲:酒井陽一)

 

 前項にこれ以上新たな視点を詰め込むと話の軸がぶれるので、一旦仕切り直して引き続き本項でもアレンジと絡めてメロディの話をしますと、邦楽的なファクターと西洋音楽的なエッセンスが綯い交ぜになったチャレンジングなつくりが印象的です。その意図を推測するに時代を超越した歌詞内容だからこそ、特定の地点や時点に縛られる音作りにしてはいけなかったのでしょう。

 

 「ムーンライト伝説」(1992)とマッシュアップしたくなるようなアニソンらしいイントロから鳴り響く迫真のヴィブラスラップに演歌の趣を覚えたのも束の間、幕開けのDメロは主旋律の進行もオケのパーカス使いも舶来風で仰けから先が読めなくなります。続くA/Bメロは昭和歌謡のデュエット然とした調和で進行し、J-POPでお馴染みのリズムパターンを有したカスタネットや、90年代っぽいギラついたキーボードの音色が耳に残る作編曲が特徴的です。

 

 これを以て年代は区々でもやはりメイドインジャパンだなと納得しかけるも、いざサビに入るとミュージカルのコンセプトが強まってメロディおよびコーラスワークに空間的な広がりが生まれ、この絢爛さは海外の美学で説明を付けたくなります。大幅に曲調が変化して遊園地やホリデーシーズンの音景が浮かぶCメロ付近も、そのサウンドはライトミュージック的です。非常に包括的なジャンル名ですが僕が言わんとしているのは、Leroy Andersonの「Sleigh Ride」(1948)に代表されるようなポップスオーケストラ系で、それこそ演劇やショーには打って付けの音楽と言えます。

 

 

 
 

備考:特になし

 

 今回は取り立てて補足したいことはありません。