今日の一曲!安月名莉子「Glow at the Velocity of Light」 | A Flood of Music

今日の一曲!安月名莉子「Glow at the Velocity of Light」

 【追記:2021.1.5】 本記事は「今日の一曲!」【テーマ:2019年のアニソンを振り返る】の第十弾です。【追記ここまで】


 今回の「今日の一曲!」は、安月名莉子の「Glow at the Velocity of Light」(2019)です。TVアニメ『彼方のアストラ』ED曲。


 当ブログで安月名莉子の楽曲を扱うのは二度目で、この記事の中で「君にふれて」(2018)に言及して以来です。リンク先で僕は同曲の美点のひとつに「メロディラインの美しさ」を挙げましたが、これから紹介する「Glow ~」もまた旋律に神懸かり的な流麗さを見出したことが気に入った理由の最たるものとなるので、作曲者に恵まれたシンガーであるとの認識を更に強めています。

 前出した「君にふれて」と2ndシングル曲「Whiteout」は共通のクレジット【作詞作曲:ボンジュール鈴木、編曲:鈴木Daichi秀行】を有していて、両曲とも出来が良かったゆえに上掲記事ではこのタッグによるトラックメイキングを「ありよりのあり」と評価したわけですが、3rd以降の表題曲では都度トラックメイカーが変わっており、それでも良曲が連発している点をして「恵まれた」との形容です。安月名さんはご自身でも曲作りをなさる方(つまりSSW)なので、この表現に他意が含まれないように先んじてこう釈明しておきます。




 ということで、本曲の魅力をまず作曲面から語るとしましょう。僕が殊更に好んでいるのはサビメロで、大胆さと繊細さが同時に感じられる絶妙な音符運びに、初聴時から甚く衝撃を受け続けています。先に「大胆さ」を説明しますと、これはサビのライン全体に対して抱いた印象です。縦横無尽に動き回る旋律の自在さには宇宙の果てしなさが、乱高下しつつもベクトルそのものは上向きとわかるハイボルテージな展開にはフロンティアスピリットがそれぞれ窺え、その両者が『彼方のアストラ』の画作りとストーリーを体現していると絶賛します。全体への言及なのに一部分を取り立てるおかしさを扨置けば、とりわけ気に入っているのは"コナゴナ銀河"のメロディです。歌詞内容も考慮してここに「溜めて → 放つ」のシークエンスがあると解釈した上で、作品の主人公であるカナタが十種競技の選手であることを踏まえれば、走幅跳的なラインを描いていると表現したいダイナミックさがあります。

 一方の「繊細さ」に関しては文字通り言語化が難しい観点でして、当ブログでも過去に前例がないタイプのレビュー文となりますが、脳内に流れた幻聴を根拠とした語り口を披露するので、楽典的な整合性は度外視して読んでいただければ幸いです。その幻聴の出現箇所は歌詞で表せば"ふりかえっても"(厳密には"っても")の部分で、僕はここで存在しないはずの「上の旋律」を暫くの間聴き取っていました。音源で聴いてからは認識出来なくなったものの、TVアニメおよびCMで当該部が流れていた際には、安月名さんが地声で出せる音域の上限付近で発声が極端に甘くなったテイクを敢えて採用した;ゆえに下降しているように聴こえると、なぜか多層的な理解をしていたのです。勿論これは幻聴もとい誤解なので本来は掘り下げなくていい視点ですが、虚空へ儚く消えゆくイメージを持つ旋律に寄せた高度なボーカルディレクションとして、間違いとはいえこの先入観を大事にしたかったので敢えて掘り下げてみました。



 この絶妙なメロディの紡ぎ手はナスカというバンドで、欅坂46の「黒い羊」(2019)の作編曲者と表記すれば、ぐっと身近になることでしょう。他にも坂道シリーズの楽曲をいくつか手掛けており、世間に対する訴求力の強さは元より折紙付であったわけです。先達てはポイントをサビに絞ってその良さを明らかにしようと試みましたが、A/Bメロでの着実な音の積み重ねが効いているからこそ、サビメロに宿る解放感が一段と顕著に聴こえるとの分析も可能なので、楽曲の全編を通して確かな作曲センスを感じさせる存在だと評します。the Thirdによる編曲面も絡めて語るなら、躍動感のあるリズムセクションが終始トラックをリードしている点が、先述した「ハイボルテージな展開」を演出しているとも言えるため、メロディとアレンジとの相互作用も実に十全です。the Thirdに関しては調べても大した情報を得られずいまいち正体不明ながら、ナスカと一緒にクレジットされているケースが多いので、近しいクリエイターか誰かの変名かなと推測します。

 最後に残した作詞面については、またもタナカ零さんの文学性に痺れる結果となりました。前回は不覚にもお名前を出しそびれていたのですが、『あそびあそばせ』のOP曲「スリピス」(2018)のレビュー記事をご覧いただければ、作詞作曲共に高い技量を持った方であることは推して知れるでしょう。「Glow ~」では作詞のみの参加となっているものの、安月名さんの他の楽曲に於いては、作編曲も含めてタナカさんの手に成るワークスがいくつか存在します。本曲で最も琴線にふれたフレーズは"永劫回帰半分こ かたく結ばれた命"で、ネタバレになるので詳しくは書きませんが、作品の根幹をなすSF要素を匂わせる巧い表現であるとの理解です。




 ここからは余談というか若干の毒吐きで、本作を通じて感じた「アニメ主題歌の比重」についての一考を載せます。その出発点は、『OP曲・ED曲として起用したなら「最低限流すべき回数」というものがあるのでは?』といったクエスチョンです。ざっと録画を観返しただけなので間違いがあるかもしれませんが、アニメ『彼方のアストラ』全12話のうち作中(OP位置またはED位置、提供バックは除く)で主題歌が流れた話数をカウントしてみると、OP曲・ED曲共に6話分しかない少なさが個人的には気になりました。具体的にOP曲は【1, 3, 6, 8, 11, 12】話でしか、ED曲は【2, 3, 5, 6, 7, 11】話でしか流れず、普通にOPとEDがセットで存在していたのは【3, 6, 11】話だけと、かなり変則的な構成です。

 第1話と最終話でOP曲がED位置で流れることと、1クールに一度は新曲を伴った特殊EDがあること(本作では第4話が該当)は、どちらも定番ゆえにとやかく言うつもりはありません。従って【1, 4, 12】話は例外的に許容するとしても、そもそもOPが存在しない話数が【2, 5, 7, 9, 10】の5話分、EDが存在しない話数が【8, 9, 10】の3話分(第2話にもEDは存在しませんがED曲は流れたのでノーカンとします)もあって、こうまでして本編の尺を調整しなければならなかったのだとしたら、そもそもTVシリーズで放送する意義が薄かったのではと正直思ってしまいました。本作に特徴的な画面演出としてシネマスコープのフレームが採用されていたことや、第1話と最終話に1時間の放送枠を用意していたことも、本当は劇場版でやりたかったということの表れではないかと邪推するほどです。邪推ついでに素人考えのソリューションを提示してみますと、TVでやるなら『PSYCHO-PASS サイコパス 3』のように1時間枠で全8話ぐらいの構成がベストだったのではと結果論で思います。

 レコード会社の側に立ってビジネスないしコマーシャル的な見方をしても、アニメのOP曲・ED曲に所属アーティストの楽曲が起用されるということは、少なくとも放送回数分はTVで音源が流されることを期待してのタイアップになると考えられるため、それが全体の半分だけとなるとどこかレギュレーション違反であるような気がするのは僕だけでしょうか。第1話だろうが最終話だろうが普通にOPとEDが存在するアニメでは放送回数の分だけ主題歌が流れることになりますが、この場合と比べると楽曲への認知度にかなりの差が生じますよね。個人的にはこの昔ながらのスタイルがいちばん好みで、前出した第1話と最終話が変則的であったり特殊ED回が存在したりの構成も嫌いではないものの、OPEDなしや特殊OPEDをあまりにも多用されると、主題歌への憂慮が芽生えてしまうというのはある意味発見でした。『Re:ゼロから始める異世界生活』も主題歌の省略が目立つ作品でしたが、現在放送されている1時間枠に調整された「新編集版」ではこの点があまり気にならないので、30分のフォーマットが省略と相容れないのかもしれません。

 検索したら「はてな匿名ダイアリー」にも当該の立脚地からのエントリーがあって、その執筆者はOPとEDの映像内容の変化を考慮した上で、変則的な主題歌の起用にも好意的な分析を披露していました。確かに話の区切りに合わせて変化するOPEDの構想が前提にあったとするなら、ある程度ストーリーが纏まるまでOPEDなしになるのも仕方なかったのかもです。また、そのエントリーのコメント欄にあった、近年の海外ドラマの方法論を輸入したという説もなるほどと思いました。この毒吐きセクションはおそらく監督批判になるのだろうとの自認ですが、アニメ自体は面白かったですし(原作は未読ながら同じ作者による『SKET DANCE』は昔好きだったのでギャグとシリアスが混ざったノリも平気でした)、特にED曲が素晴らしかったがゆえにもっと各話終わりの余韻の中で聴きたかったという+αの要求であるため、一定の評価を下した上での我儘な意見であることに留意していただければ助かります。