今日の一曲!ねごと「サタデーナイト」 | A Flood of Music

今日の一曲!ねごと「サタデーナイト」

 今回の「今日の一曲!」は、ねごとの「サタデーナイト」(2017)です。5thアルバム『SOAK』収録曲。曲名を意識して、土曜日の夜に更新してみます。


 知っての通り、去る7月20日のライブをもって、ねごとは解散の道を選んでしまいました。「笑」を付けた書き出しは、寂しさを隠すためにおどけてみせた結果です。同バンドに対して僕が抱いていた希望については、過去にSchool Food Punishmentの記事の中で語ったことがありましたが、その趣旨は「SFPが既に解散しているからこそ、ねごとには期待している」というものであったため、僕の描いた未来図は残念ながら潰えたことになります。

 これまで当ブログ上にアップしたねごとの単独記事は、「DANCER IN THE HANABIRA」(2017)「シグナル」(2017)を取り上げた二本だけだったので、こんなことならもっと熱く語っておけばよかったかなと、目下後悔中です。とはいえ、解散後にその存在を語り続けるのも有意義だろうと自分に言い聞かせて、本記事を執筆することに決めました。




 選曲を「サタデーナイト」にしたのは、解散発表前の公演ながら[Live Music Video]がYouTube上にアップされていることと、本曲が持つ「エンディング感」にフォーカスしたかったからです。動画内でも「次で最後の曲」と語られているように、この認識はバンドも有しているものだと考えています。実際のラストライブでトリを飾ったナンバーは「カロン」(2011)でしたが、電子音楽またはダンスミュージックに傾倒し出してから本格的に惹かれていった個人的には、本曲がキャリアのカーテンコールに流れていて欲しい楽曲のナンバーワンでした。


 こう思える最大の理由は、メンバー全員の手に成る「ハンドクラップ」にあると踏んでいます。当ブログ内を「クラップ」で検索すれば、それに関する僕のこだわりが滲んだ記述を多く拾えるはずです。文脈によってどの点を褒めているかは勿論異なれど、本曲のように電子的なファクターが強い曲の場合、「無機質なトラックにハンドメイドの温かみを付与する立役者」として、手拍子を絶賛しているパターンが大抵だと自己分析します。

 そもそも路線変更後のねごとの魅力は、従来から引き継がれし「ガールズバンドらしい直向きさ」と、中野雅之や益子樹などのサウンドプロデューサーが得意とする「機械と人力の調和」が、巧い具合に化学反応を起こしたところにあるとの理解です。従って、「無機質+温かみ」の賛辞は本曲に限ったものではないかもしれませんが、そこにクラップが入るとやはりダンスミュージックに於けるビートメイキングのマナーで聴き解きたくなり、それを敢えて人力で行ったというのであれば、そこに意図を見出して特筆したくもなります。

 加えて、この点に関連した発言としては、『madameFIGARO.jp』のものがとても参考になりました。中野さんが描いていた曲の方向性が蒼山さんの口から語られる文脈で、「ゴスペル的」とのワードが出てきたのを読んで、なるほどこの手拍子による多幸感の正体にはゴスペルの精神もあるのかと、非常に得心がいったからです。クロージングの心地好いコーラスワークも、言われてみればまさにといった感じですよね。


 ここまでの記述を統合して端的に表せば、本曲は実に「アンセミック」であると言うほかありません。純粋にトラックだけで判断しても、ロックアンセム且つダンスアンセムと形容するに相応しいサウンドスケープですし(僕の定義付ける「アンセム観」は、リンク先の『HEAVEN'S RAVE』の項が参考になるかと思います)、上掲の動画でも確認可能なように、クラップによってオーディエンスが演奏に参加出来る一体感を考慮すれば、ライブアンセムと見做すことにも異論は少ないでしょう。

 また、動画には観客側を映したカットがないので推測になりますが、おそらくオーディエンスは手拍子だけでなく、声を出さずに口遊むことでも本曲に想いの丈を乗せているはずです。そこから「合唱」をキーとすれば、元来の教会音楽的なアンセムらしさにも行き着くので、何から何までコンセプチュアルだなと感心しました。まあ厳密に歴史を語り出すと、教派の別や白人/黒人音楽の違いでややこしくなるため、今ここで「アンセム」と「ゴスペル」を結び付けたのは、あくまで外野の日本人が抱くイメージ上での話であるとご了承ください。


 歌詞で好きな部分は、2番Aの"どんな風に 言われたって/消せない火が胸にあって/誇らしくて 寂しくて/僕らはすぐ 孤独になる"です。とりわけ、"誇らしくて"と前提がポジティブであるのを気に入っています。直ちに他の例を思い出せなくてすみませんが、「胸に消せない情熱がある」的なフレーズは、表現としてはそう珍しくないでしょう。しかし、その場合の多くは「なにくそ精神」を背景にしているというか、周囲への反骨に重きが置かれているパターンが主流な気がします。

 当該の歌詞でも、前半の"どんな風に 言われたって"はまさしく反骨精神の表れに映りますが、後に"誇らしくて"と続くのは、ある程度自身の現状を肯定していないと出てこない言葉繰りです。これはつまり、『「周りの言うことは気にしない」と宣言することで、その実周囲の反応を気にしているのが顕となってしまう矛盾を抱えた段階』は疾うに過ぎていて、自己が確立していることの証左だと読み解けます。

 自他の境界を明確にしている人間が訴える孤独とは、「だとしても互いに不足部分を補い合える」という建設的な経験則に裏打ちされているため、"孤独になる"にも説得力が生まれ、自分の至らなさを微塵も考慮せず排斥された人間が陥るような自明の孤独とは、全くの別物であるのとの認識です。よりわかりやすく換言すれば、「なにくそ精神」にも排他的なものと超然的なものがあって、「サタデーナイト」で歌われているのは後者であるとの解釈を披露したのでした。


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