
今日の一曲!avengers in sci-fi「True Color」【平成30年の楽曲】
【追記:2021.1.5】 本記事は「今日の一曲!」【テーマ:平成の楽曲を振り返る】の第三十弾です。【追記ここまで】
平成30年分の「今日の一曲!」はavengers in sci-fiの「True Color」(2018)です。『Pixels EP』収録曲。
同EPはディスコグラフィー上、シングル『I Was Born To Dance With You / Indigo』(2017)の次に世に出た作品となります。当ブログは2018年の9月以降、「新譜レビュー」の更新を基本的に行わない方針にシフトしたため、同年の11月にリリースされた本作については、当然ながら未だ言及したことがありませんでした。
ディスク全体への感想をざっと述べますと、初聴時には『I Was~』収録曲ほどのインパクトは感じず、どの曲に対しても「もう一押しあればな」との思いが優勢だったことを告白します。しかし、何かしらの中毒性に惹かれ続けていたのか繰り返し聴くことを止められず、そのうちに各曲の魅力をしっかりと噛み締められるようになり、今では全曲ともに大のお気に入りとなりました。中でも今回紹介する「True Color」と、続く「Hooray For The World」は、この時代だからこそ書き下ろされた救いとなる名曲のレベルにまで評価が高まっていたので、平成振り返り企画のラインナップに加えるのが相応しいと思い至った次第です。
主に歌詞解釈に文章を割きたいので、先にサウンド面を手短に語ります。これは決してレビューのし甲斐がないといったネガティブな意味ではなく、上掲のMVが本曲の音作りをビジュアル面から理解するのに非常に有益な内容であるため、僕が変に文章化するよりもバンドが提示してきたものを素直に受け取るのが吉であると(映像のディレクターもバンド名義なので)、そう判断したがゆえの「手短」です。
Instagram風の画面の中には機材がたくさん映り込んでいますし、それらが下のハッシュタグにクレジットされている親切設計。このMVの成立過程を追っていたわけではないので詳細はよくわかりませんが、現実にtruecolor_cmykなるアカウントがインスタに存在しており、素材置き場のようになっています。
とはいえ、作り手に丸投げするのもレビューとしてどうかと思うため、自分の言葉でもアレンジの素敵さを語っておきますと、歪んだって構わないと言わんばかりに破壊的でありながら、確かなポップさも随所に窺える、二面性のあるサウンドスケープが終始印象的です。前者は外部からの力による強制的なモーションに、後者は内部から湧き出してくる能動的な衝動にそれぞれ作用していて、ロックの力強さとダンスの心地好さが火花を散らしているかのような、身体を縦横無尽に揺さぶられる感覚に陥ります。これはイントロの目覚ましさからも充分に把握可能ですが、最も滾るシークエンスは中盤の2:12~2:27でしょうね。
エレクトロニックな要素はしっかりと入れつつも、ロックが全く後ろに隠れないところがアヴェンズの巧さだと常日頃思っているので、本曲を新たなマスターピースと認定することに異論はありません。聴き初めの頃に「もう一押しあればな」と感じてしまったのは、もう少しメロディに発展性があったらなお良かったのにと認識したことが原因ですが、編曲の爆発力と混然一体のものとしてボーカルラインを追ってみたら、鮮やかな決意に満ちた味のある旋律だと気が付けため、今ではこれ以上ない正解だったと認識を改めています。
以降は全て歌詞解釈です。前提として、まずは曲名の「True Color」から考えていきましょう。直訳すれば「真実の色」となりますが、歌詞内容もしくはディスクタイトルに照らすと、よりしっくりくる概念に辿り着けます。ヒントとなったのは"世界中のね/ピクセルを繋いで/塗り替えてくれ"との一節で、ここにコンピューター用語の「トゥルーカラー」を持ち出してくると、文脈をすんなりと理解出来るはずです。専門的な意味については各自でお調べくださいと逃げますが、わずか1ピクセルの最小単位の中に16,777,216もの色を表せる発明に、希望を託すのは納得の描き方だと言えます。
これは確実に正しい解釈のひとつだと主張しますが、続く掘り下げの取っ掛かりとするために、別の捉え方も示すとしましょう。厳密には'true colors'と複数形での話ですが、こう表記すると辞書的には「本来の性質」を意味するイディオムとなるそうです。「本性」や「ありのままの姿」と訳されるのが通例で、日本語でも「本当のあなたの色を見せてよ」的な比喩表現でもって、その人の本質に迫ろうとするのはありかなと思います。ただ、更に調べて語源にあたると、どうもこの'colors'は「(船舶)旗」のことらしく、日本語ネイティブには連想しにくい意外な用法に驚きました。
「旗」の象徴性も捨て難い解釈ではあるものの、ここからは「本来のあなたらしさ」と読み解く方向で話を進めていきます。さて、本曲には二度"バベル"という言葉が登場しますが、順当に解すればこれは「バベルの塔」を指していると明らかです。纏わるエピソードも有名ゆえ説明は省くとして、1番の"背を伸ばしてくバベルの/路地の裏で這う君は素敵だと"と、2番の"目をそらしてるバベルの/路地の裏で寝る君が事実だと"は、どちらも塔の建設に加担しないほうが正しい姿だと説かれています。つまり、言語の散逸によって結果的に人類の分断を招いてしまった元凶に、明確にノーを突き付けている…とまでは言えないながら、反旗を翻そうとする姿勢の尊さが示されているわけです(と、一応「旗」にも結び付けてみる)。
ここからが肝心で、この「バベルの塔」が具体的に何のメタファーであるかに切り込むと、僕には「SNS文化」のことに映ります。その根拠はいくつかあり、一点目は続く歌詞が"アカウントはじきに削除するよ/未明にはなかったこと/夢の醒めたユーザー"であることです。このフレーズには見方が二通りあって、ひとつは「歌詞中の"君"の決意表明&有言実行として、SNSに別れを告げているシーン」、もうひとつは「どんなに言葉を積み重ねたSNSのアカウントでも、消してしまえば発言の一切も闇に葬られてしまうことの虚しさを、バベルの塔に喩えたシーン」となります。いずれにせよ、SNSにどっぷり浸かりまくっている状態は何処か'false colors'であると、そう受け止めたい言葉選びです。
根拠の二点目はMVをインスタ風に仕立てていることで、これは皮肉の面もあると感じはしたものの、一点目の内容をフォローするために提示します。先に「明確にノーを突き付けている…とまでは言えない」と煮え切らない書き方をしたのは、本曲の歌詞はクリティカルな見地に立ってはいても、バベルの塔=SNS文化を全否定しているわけではないと受け取れるからです。実際、本MVには関連するインスタのアカウントがあるわけですし、アヴェンズがTwitterを活用しまくりなのはご存知の通りでしょう。
より拡大させて「ネット文化」の観点で見れば、作品のリリース形態に関しても、レコード会社からCDをフィジカルで出す従来の方法だけに拘らず、サブスクリプション限定で楽曲を配信したり、クラウドファンディングで制作資金を募ったりと、ネットを介した新時代のアプローチをしっかりと行えているバンドであるので、何もアナクロニズムを推し進めようとするナンバーだとは思っていません。
だからと言って「SNSの世界にバベルの塔を建てることだけをお前の"トゥルーカラー"としていいのか?」と、そう問うてきているのが本曲だと解釈しています。ここに至るまでの道筋が根拠の三点目で、そもそもなぜSNS文化をバベルの塔という悪しきものに喩えて理解したのかを(=あくまでも僕の受け止め方である点に留意)、やや長くなりますが述べさせてください。
SNSに限らず、ネットで個人がふれる情報に著しい偏りが見られることは、「フィルターバブル」や「エコーチェンバー現象」などの言葉で既に説明がつけられています。これらを背景にしたコミュニティが栄えるのは当然で、なぜなら係る全員が共通の思想や話題で盛り上がれるから、即ち共通の言語を有しているからこそ、齟齬や軋轢が生じることなく楽しいネットライフをエンジョイ出来るわけです。全員が同じ言葉を話せていたおかげで、バベルの塔の建築に何の支障も来していなかった頃と同様に。
しかし、これはお仲間で集まっているから成立していただけの話で、一度外に目を向けると、自分達には何の関心もない集団で溢れ返っていることと、逆に自分達を敵視している集団までもが存在する現実がすぐにわかります。この言うは易くを行うは難しにしてしまうのがネットのひいてはSNSの罠で、全く外部の存在から歪さを指摘されない限りは、自分達の現状に気付くことは難しいでしょう。またもバベルの塔に擬えれば、外部存在たる神に塔を崩された上に言語を乱されて初めて、人間という名の集団としての自分ではなく、本来の個である自分と向き合うことになり、方々へと散っていったわけです。
今のSNS文化が隆盛を極めた時代には、この「本来の個である自分と向き合うことになる」のを恐れている人が、或いはそもそも忘れてしまった人が、格段に多くなったと実感します。説明がしやすいのでツイッターを例に取りますが、フォロー/フォロワーという拡大鏡と、リツイートといいねという拡声器がデフォルトで備わっているフィールドでは、いくら自己を出したつもりでも、それは肥大化した自分の一部に過ぎないことを自覚しておかないと、バベルの塔の寓話のように不利益な結果を迎えることになりかねません。最近話題となりましたが、ツイッターの創業者であるジャック・ドーシーも、自らが生み出したサービスの現状には苦言を呈していることを補足しておきます。
本曲の歌詞内容は、ここまでに述べたようなことが常に意識の上位にあって、少しSNSから距離を置いてみようかなと考えていた人にはエールに、反対にこのようなことには一切思い至っていなくて、わけもわからずSNS上での息苦しさに喘いでいる人にはサジェストに、今まさにフィルターバブルに包まれた情報だけを用いて、エコーチェンバーの反響で悦に入っているだけの人にはアイロニーに、それぞれ形を変えて届くものであるはずです。
再度言いますが、本曲はSNSを悪だと断罪する類のものでは決してないと思っています。発信者側と受信者側の双方に有益な使い方があることは、「ネット文化」のところで述べた通りですし、「トゥルーカラー=本来のあなたらしさ」で描き出された情報や経験を誰かとシェアすること自体は、何ら否定されるものではないからです。じゃあお前は結局どっちの立場から書いているんだよと、ツッコミたくなる気持ちはお察ししますが、このジレンマが歌詞の"サイエンスフィクションとトゥルーカラー"に集約されているのだと記せば、多少は共感していただけるのではないでしょうか。
ここまで書いて漸く、僕が本曲の中でいちばん気に入っている歌詞の紹介に入れます。文の繋がりを考慮して一行飛ばした引用をしますが、"最後のCDを聴いてる/最後の1人でいいから"というフレーズを目にした瞬間、僕が近年の音楽の聴かれ方に対して抱いていたモヤモヤが、全て晴れたような気がしました。
重要なのは"CD"であることで、この要素からは大きく二つの主張が見出せます。ひとつはこれを物理メディアを代表するモチーフと見做した場合で、前述したネットとの距離感の話に発展させれば、バーチャルだけではなくてフィジカルにも意識を向けてみることの意義を示すための存在として、象徴的に出したのであろうという理解です。この点も関係してくることですが、個人的に肝要なのはもうひとつのほうで、音楽の鑑賞方法が多様化した現代に於いて、敢えてCDで聴くことにこだわる人もいるのだという側面にフォーカスした一節だと捉える理解で、僕は勝手に後者のメッセージ性に賛同しまくっている人間です。
以降にはこの点を詳細に解説した文章を掲載する予定でしたが、いざ書き出したらとても長くなってしまったのと、多方面を不愉快にさせるであろう内容でまとまってしまったので、申し訳ありませんが全て割愛することにしました。本曲は勿論としてアヴェンズに対する批判ではありませんし、というか特定の楽曲やミュージシャンに対する言及でないことだけは明言しておきます。文脈でわかるかもしれませんが、他人の音楽の聴き方に物申す不遜な内容でした。作詞者である木幡さんが実際にどういう意図でこの一節を書いたかは定かではないですが、"最後のCDを聴いてる/最後の1人でいいから"が、僕の本音を代弁してくれていることは間違いありません。
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ディスク全体への感想をざっと述べますと、初聴時には『I Was~』収録曲ほどのインパクトは感じず、どの曲に対しても「もう一押しあればな」との思いが優勢だったことを告白します。しかし、何かしらの中毒性に惹かれ続けていたのか繰り返し聴くことを止められず、そのうちに各曲の魅力をしっかりと噛み締められるようになり、今では全曲ともに大のお気に入りとなりました。中でも今回紹介する「True Color」と、続く「Hooray For The World」は、この時代だからこそ書き下ろされた救いとなる名曲のレベルにまで評価が高まっていたので、平成振り返り企画のラインナップに加えるのが相応しいと思い至った次第です。
主に歌詞解釈に文章を割きたいので、先にサウンド面を手短に語ります。これは決してレビューのし甲斐がないといったネガティブな意味ではなく、上掲のMVが本曲の音作りをビジュアル面から理解するのに非常に有益な内容であるため、僕が変に文章化するよりもバンドが提示してきたものを素直に受け取るのが吉であると(映像のディレクターもバンド名義なので)、そう判断したがゆえの「手短」です。
Instagram風の画面の中には機材がたくさん映り込んでいますし、それらが下のハッシュタグにクレジットされている親切設計。このMVの成立過程を追っていたわけではないので詳細はよくわかりませんが、現実にtruecolor_cmykなるアカウントがインスタに存在しており、素材置き場のようになっています。
とはいえ、作り手に丸投げするのもレビューとしてどうかと思うため、自分の言葉でもアレンジの素敵さを語っておきますと、歪んだって構わないと言わんばかりに破壊的でありながら、確かなポップさも随所に窺える、二面性のあるサウンドスケープが終始印象的です。前者は外部からの力による強制的なモーションに、後者は内部から湧き出してくる能動的な衝動にそれぞれ作用していて、ロックの力強さとダンスの心地好さが火花を散らしているかのような、身体を縦横無尽に揺さぶられる感覚に陥ります。これはイントロの目覚ましさからも充分に把握可能ですが、最も滾るシークエンスは中盤の2:12~2:27でしょうね。
エレクトロニックな要素はしっかりと入れつつも、ロックが全く後ろに隠れないところがアヴェンズの巧さだと常日頃思っているので、本曲を新たなマスターピースと認定することに異論はありません。聴き初めの頃に「もう一押しあればな」と感じてしまったのは、もう少しメロディに発展性があったらなお良かったのにと認識したことが原因ですが、編曲の爆発力と混然一体のものとしてボーカルラインを追ってみたら、鮮やかな決意に満ちた味のある旋律だと気が付けため、今ではこれ以上ない正解だったと認識を改めています。
以降は全て歌詞解釈です。前提として、まずは曲名の「True Color」から考えていきましょう。直訳すれば「真実の色」となりますが、歌詞内容もしくはディスクタイトルに照らすと、よりしっくりくる概念に辿り着けます。ヒントとなったのは"世界中のね/ピクセルを繋いで/塗り替えてくれ"との一節で、ここにコンピューター用語の「トゥルーカラー」を持ち出してくると、文脈をすんなりと理解出来るはずです。専門的な意味については各自でお調べくださいと逃げますが、わずか1ピクセルの最小単位の中に16,777,216もの色を表せる発明に、希望を託すのは納得の描き方だと言えます。
これは確実に正しい解釈のひとつだと主張しますが、続く掘り下げの取っ掛かりとするために、別の捉え方も示すとしましょう。厳密には'true colors'と複数形での話ですが、こう表記すると辞書的には「本来の性質」を意味するイディオムとなるそうです。「本性」や「ありのままの姿」と訳されるのが通例で、日本語でも「本当のあなたの色を見せてよ」的な比喩表現でもって、その人の本質に迫ろうとするのはありかなと思います。ただ、更に調べて語源にあたると、どうもこの'colors'は「(船舶)旗」のことらしく、日本語ネイティブには連想しにくい意外な用法に驚きました。
「旗」の象徴性も捨て難い解釈ではあるものの、ここからは「本来のあなたらしさ」と読み解く方向で話を進めていきます。さて、本曲には二度"バベル"という言葉が登場しますが、順当に解すればこれは「バベルの塔」を指していると明らかです。纏わるエピソードも有名ゆえ説明は省くとして、1番の"背を伸ばしてくバベルの/路地の裏で這う君は素敵だと"と、2番の"目をそらしてるバベルの/路地の裏で寝る君が事実だと"は、どちらも塔の建設に加担しないほうが正しい姿だと説かれています。つまり、言語の散逸によって結果的に人類の分断を招いてしまった元凶に、明確にノーを突き付けている…とまでは言えないながら、反旗を翻そうとする姿勢の尊さが示されているわけです(と、一応「旗」にも結び付けてみる)。
ここからが肝心で、この「バベルの塔」が具体的に何のメタファーであるかに切り込むと、僕には「SNS文化」のことに映ります。その根拠はいくつかあり、一点目は続く歌詞が"アカウントはじきに削除するよ/未明にはなかったこと/夢の醒めたユーザー"であることです。このフレーズには見方が二通りあって、ひとつは「歌詞中の"君"の決意表明&有言実行として、SNSに別れを告げているシーン」、もうひとつは「どんなに言葉を積み重ねたSNSのアカウントでも、消してしまえば発言の一切も闇に葬られてしまうことの虚しさを、バベルの塔に喩えたシーン」となります。いずれにせよ、SNSにどっぷり浸かりまくっている状態は何処か'false colors'であると、そう受け止めたい言葉選びです。
根拠の二点目はMVをインスタ風に仕立てていることで、これは皮肉の面もあると感じはしたものの、一点目の内容をフォローするために提示します。先に「明確にノーを突き付けている…とまでは言えない」と煮え切らない書き方をしたのは、本曲の歌詞はクリティカルな見地に立ってはいても、バベルの塔=SNS文化を全否定しているわけではないと受け取れるからです。実際、本MVには関連するインスタのアカウントがあるわけですし、アヴェンズがTwitterを活用しまくりなのはご存知の通りでしょう。
より拡大させて「ネット文化」の観点で見れば、作品のリリース形態に関しても、レコード会社からCDをフィジカルで出す従来の方法だけに拘らず、サブスクリプション限定で楽曲を配信したり、クラウドファンディングで制作資金を募ったりと、ネットを介した新時代のアプローチをしっかりと行えているバンドであるので、何もアナクロニズムを推し進めようとするナンバーだとは思っていません。
だからと言って「SNSの世界にバベルの塔を建てることだけをお前の"トゥルーカラー"としていいのか?」と、そう問うてきているのが本曲だと解釈しています。ここに至るまでの道筋が根拠の三点目で、そもそもなぜSNS文化をバベルの塔という悪しきものに喩えて理解したのかを(=あくまでも僕の受け止め方である点に留意)、やや長くなりますが述べさせてください。
SNSに限らず、ネットで個人がふれる情報に著しい偏りが見られることは、「フィルターバブル」や「エコーチェンバー現象」などの言葉で既に説明がつけられています。これらを背景にしたコミュニティが栄えるのは当然で、なぜなら係る全員が共通の思想や話題で盛り上がれるから、即ち共通の言語を有しているからこそ、齟齬や軋轢が生じることなく楽しいネットライフをエンジョイ出来るわけです。全員が同じ言葉を話せていたおかげで、バベルの塔の建築に何の支障も来していなかった頃と同様に。
しかし、これはお仲間で集まっているから成立していただけの話で、一度外に目を向けると、自分達には何の関心もない集団で溢れ返っていることと、逆に自分達を敵視している集団までもが存在する現実がすぐにわかります。この言うは易くを行うは難しにしてしまうのがネットのひいてはSNSの罠で、全く外部の存在から歪さを指摘されない限りは、自分達の現状に気付くことは難しいでしょう。またもバベルの塔に擬えれば、外部存在たる神に塔を崩された上に言語を乱されて初めて、人間という名の集団としての自分ではなく、本来の個である自分と向き合うことになり、方々へと散っていったわけです。
今のSNS文化が隆盛を極めた時代には、この「本来の個である自分と向き合うことになる」のを恐れている人が、或いはそもそも忘れてしまった人が、格段に多くなったと実感します。説明がしやすいのでツイッターを例に取りますが、フォロー/フォロワーという拡大鏡と、リツイートといいねという拡声器がデフォルトで備わっているフィールドでは、いくら自己を出したつもりでも、それは肥大化した自分の一部に過ぎないことを自覚しておかないと、バベルの塔の寓話のように不利益な結果を迎えることになりかねません。最近話題となりましたが、ツイッターの創業者であるジャック・ドーシーも、自らが生み出したサービスの現状には苦言を呈していることを補足しておきます。
本曲の歌詞内容は、ここまでに述べたようなことが常に意識の上位にあって、少しSNSから距離を置いてみようかなと考えていた人にはエールに、反対にこのようなことには一切思い至っていなくて、わけもわからずSNS上での息苦しさに喘いでいる人にはサジェストに、今まさにフィルターバブルに包まれた情報だけを用いて、エコーチェンバーの反響で悦に入っているだけの人にはアイロニーに、それぞれ形を変えて届くものであるはずです。
再度言いますが、本曲はSNSを悪だと断罪する類のものでは決してないと思っています。発信者側と受信者側の双方に有益な使い方があることは、「ネット文化」のところで述べた通りですし、「トゥルーカラー=本来のあなたらしさ」で描き出された情報や経験を誰かとシェアすること自体は、何ら否定されるものではないからです。じゃあお前は結局どっちの立場から書いているんだよと、ツッコミたくなる気持ちはお察ししますが、このジレンマが歌詞の"サイエンスフィクションとトゥルーカラー"に集約されているのだと記せば、多少は共感していただけるのではないでしょうか。
ここまで書いて漸く、僕が本曲の中でいちばん気に入っている歌詞の紹介に入れます。文の繋がりを考慮して一行飛ばした引用をしますが、"最後のCDを聴いてる/最後の1人でいいから"というフレーズを目にした瞬間、僕が近年の音楽の聴かれ方に対して抱いていたモヤモヤが、全て晴れたような気がしました。
重要なのは"CD"であることで、この要素からは大きく二つの主張が見出せます。ひとつはこれを物理メディアを代表するモチーフと見做した場合で、前述したネットとの距離感の話に発展させれば、バーチャルだけではなくてフィジカルにも意識を向けてみることの意義を示すための存在として、象徴的に出したのであろうという理解です。この点も関係してくることですが、個人的に肝要なのはもうひとつのほうで、音楽の鑑賞方法が多様化した現代に於いて、敢えてCDで聴くことにこだわる人もいるのだという側面にフォーカスした一節だと捉える理解で、僕は勝手に後者のメッセージ性に賛同しまくっている人間です。
以降にはこの点を詳細に解説した文章を掲載する予定でしたが、いざ書き出したらとても長くなってしまったのと、多方面を不愉快にさせるであろう内容でまとまってしまったので、申し訳ありませんが全て割愛することにしました。本曲は勿論としてアヴェンズに対する批判ではありませんし、というか特定の楽曲やミュージシャンに対する言及でないことだけは明言しておきます。文脈でわかるかもしれませんが、他人の音楽の聴き方に物申す不遜な内容でした。作詞者である木幡さんが実際にどういう意図でこの一節を書いたかは定かではないですが、"最後のCDを聴いてる/最後の1人でいいから"が、僕の本音を代弁してくれていることは間違いありません。
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