今日の一曲!Base Ball Bear「アンビバレントダンサー」【平成26年の楽曲】 | A Flood of Music

今日の一曲!Base Ball Bear「アンビバレントダンサー」【平成26年の楽曲】

 【追記:2021.1.5】 本記事は「今日の一曲!」【テーマ:平成の楽曲を振り返る】の第二十六弾です。【追記ここまで】

 平成26年分の「今日の一曲!」はBase Ball Bearの「アンビバレントダンサー」(2014)です。5thアルバム『二十九歳』収録曲。



 当ブログでベボベの記事をアップするのは、一昨年の8月以来とかなり久々です。単独でなければ、お気に入りMVの紹介記事と、テーマ【雨】のまとめ+補遺記事にも言及はあるものの、好きな割にはふれてなさすぎだろうということで、今回の選曲に至りました。

 中でも5thの収録曲に関しては、今までに一曲たりとも名前を挙げたことがなかったため、代表として同盤の中でいちばん好みの「アンビバレントダンサー」にフォーカスします。


 こう言っておいてなんですが、実はリリース当初はそこまで印象に残っておらず、数年を経てから急に良さに気付けたナンバーであったことを告白します。所謂スルメ曲だったんだなと受け取られそうな書き方ですが、個人的な感覚ではこの認識を持っておらず、寧ろ初聴時の感想を素直に述べるならば、ベボベのナンバーとしては手堅すぎるといったものでした。

 ご存知のようにベボベはロックバンドで、そのサウンドも基本的には最低限の構成員(Vo.[+Gt.], Gt., Ba., Dr.)で成り立つものとなっています。しかし、この編成からは意外*にも映りそうなアウトプットとして、ダンサブルな楽曲が多いのも特色のひとつです。本曲がわかりやすく「ダンサー」を冠しているのも然り、他にも「踊」や「ダンス」をキーに検索をかければ、多くのトラックがヒットします。これが僕の大好物の路線であることとは裏腹に、「このタイプの楽曲がまた増えたな」と既聴感を覚えてしまったという意味で、「手堅すぎる」としたわけです。

 * ここで言う「意外」とは、リスナーをわかりやすく躍らせる「電子音楽的な要素は強くないにも拘らず」といった意味になります。とはいえ、人を躍らせる音楽は何もテクノやエレクトロの専売特許ではないため、ロック自体が踊れない音楽だと言いたいのではないことに留意してください。


 手堅いことの何がいけないんだとの反論はご尤もながら、そこを掘り下げたいわけではないので流していただくとして、ともかくどちらかと言えばネガティブなイメージを抱いていた楽曲を、後から突然好きになるというパターンに、本曲が該当していることだけでも伝われば結構です。

 楽曲同士の関連性が薄いのでリンクはしませんが、以前にもこの手のプロセスに関する説明をしたことがあるので、次に墨付括弧を付して再掲します。【スルメ曲はどちらかといえば地味な曲に対して使われる形容だと思いますが(中略)むしろ逆で、キャッチーすぎてあまり心に響かなかった楽曲の良さを素直に受け取れた瞬間好きになるというパターンなのです】。本曲に対してもこの理由付けは成立する(=「キャッチー」を「手堅い」に置き換えても構わない)と考えるため、以降に記すレビューのスタイルは自ずと、素直に受け取れた楽曲の良さについて述べるものとなります。


 ここまでの話の流れを考慮して、語り出しはダンス要素からとしましょう。僕が本曲で最も耳を奪われたポイントは、ずばりギターの格好良さです。ポップだけれどヒリヒリとした質感のボーカルラインと競い合うような形で、オブリガート的にしっかりと主張をしてくるギターのメロディアスさが堪らなく好きで、両者の相乗効果で以て一層踊れるロックチューンになっていると捉えています。まあ本曲に限らずとも、「ギターが歌っている」と強く認識出来るのが、4人編成時のベボベの音楽性に宿るそもそもの美点だという気はしますけどね。

 曲冒頭のキラキラ感の漂うセクションだけは毛色が異なり、何処か80~90年代風の趣を懐かしむ気持ちのほうが優勢ではありますが、曲が本格的に走り出す0:33からは、どうしてもギターの旋律性を追ってしまいます。分けるのも面倒ゆえバッキングも一緒くたにして言及すると、Aメロの段階ではまだコードの担い手たる側面が強いものの、Bメロ入りの少し前(=歌詞に無い「No No」の裏あたり)から副旋律じみた役割を帯び始め、主旋律の間隙を縫うようなプレイが特徴的となり、愈々のサビで遂にボーカルとギターのデュエットが完成するというシークエンス。この一連の格好良さを悉くスルーしてしまった、聴き初めの頃の自分の耳を詰ってやりたいです。笑

 ここからは実質的にソロと言っていいでしょうが、クライマックスの"踊れ"が繰り返されるパートに於けるギターの絶頂も素晴らしく、僕がダンスミュージックを語る上で重要な精神性と位置付けている、「忘我の音楽」に相応しいサウンドスケープが展開されていると絶賛します。ギターの素敵さを説くことの何がダンス要素なのかと、疑問に思われた方のために補足しておきますと、先に「競い合う」や「デュエット」といったワードを出したのが肝で、対等なパートナーが存在するプレイスタイルを、ダンスに擬えたからです。


 話を切り替えて、続いては歌詞の奥深さを特筆大書します。表題を含むBメロでの一節、"なんてアンビバレンス/どちらとも言えず"が本曲の枢機で、鋭い着眼点の小出節が披露されていると感心しました。

 敢えて極論を述べますが、「曖昧」が美徳にも悪癖にもなっている日本人が行き着く先は、曖昧なままを受け容れる人間となるか、両端を抱えたまま生きていく人間になるかの、究極的には二択*だと思っています。大多数は前者を選択し、それでこそ大人の証明といった風潮に傾くのでしょう。しかし、中にはどちらも立場も等価で考えて尊重したい人種もいて、その特性を巧く乗り熟せばバランサーとして大成する可能性がある一方で、現実的には個人で受け止められるキャパシティには限界があるため、自己の立ち位置を見失う結果に終わってしまうことも、往々にしてあるとの認識です。

 * 勿論もっとシンプルに考えて、どちらかの端に立てばいいだけの道があることも否定はしませんが、これを容易に行えないのが日本人の特性であるとして、美徳と悪癖と表現しました。


 本曲はこのうち、後者で述べたような生き様にスポットライトを当てたものに映ります。「両方」を意味する接頭辞'ambi-'を持つ語同士で比較すれば、前者は言わば「アンビギュアスダンサー」ですが、後者は知っての通りの「アンビバレントダンサー」となり、板挟みや矛盾といったニュアンスが強くなる気がするんですよね。歌詞の文脈に照らせば、こちらは曖昧文化に迎合しているとまでは言えません。

 サビの"“嘘だけどTruth 本当だけどFalsehood”/“嫌いだけどMiss you 好きだけどHate you”"は、当人の中ではまさにこの通りなのでしょう。双方の是非を好い塩梅に処理出来ている大人なモノの見方とは違って、相反を承知で双方共に是もしくは非としたいある意味では我儘なモノの見方です。…が、本曲は別にこの価値観を否定するものではなく、こんな自分でも認めて生きていくしかないといった寧ろ肯定で、それが結びの"ゆれながら/漂いながら/さまよいながら/踊れ/踊れ/踊れ/踊れ"に集約されるのだと思います。


 このようにBメロとサビの歌詞は、「アンビバレントダンサー」の精神性や理想を歌ったものとして的を射ており、ここまでの記述で高く評価したのもこの点についてです。反面Aメロでは、前述した「自己の立ち位置を見失う」に関わるような非常に現実的なシーンが描かれており、こちらもまた残酷なれど鮮やかな言辞が光っています。

 1番Aの"辿り着けない日常to日常/朝夜朝夜朝がシームレス/辿り着けない日常でゆれてる"は、忙殺される日々に真の日常がないことを示していて、家に居ながらにして帰りたいと思ってしまう類のヤバめの兆候が窺えそうなフレーズです。続く"大胆な決断は出来ない&出来ない/敵味方敵味方のミルフィーユ/大胆な決断が出来ないでゆれてる"も、もはや自分がどちらの陣営なのかすらわからなくなってしまった恐怖がよく滲んでいます。"朝夜朝夜朝"をスペースなしの見たまま"シームレス"で表示して日付の切り替わりを希薄にしているところや、"敵味方敵味方"を層で表して"ミルフィーユ"とするセンスは、どちらも冴えが凄いです。

 2番Aの"交代で来る絶望と希望だ/花占いの女学生みたいに/答えが出て一喜一憂/やりなおす"は、これと同一のスタンザが二度繰り返される提示の仕方が巧く、文字通り"やりなおす"を経た後に"くりかえす"という自己言及的な書き方に、高い文学性を見出せます。どこを切り取っても"アンビバレンス"であることが明らかな中で、それでもどうにかしたいと足掻く様をダンスに喩える曲の名は、確かに「アンビバレントダンサー」でしょう。