東海道五十三次 自転車の旅

 

                     8月16日 13日目(快晴)

 

                  (神奈川宿~川崎宿~品川宿~日本橋)

 

 さァ、笑っても、笑っても、今日はいよいよ「日本橋」到着だ。疲れも吹っ飛んだように気分は軽い。

よく付き合ってくれた二人にも感謝だ!!

 今日の行程は平地で距離も比較的短い、ホテルは9時30分出発。

 まず、山下公園まで、少し遠回り。長細く広大な林がある山下公園。海側はフェンスが一直線に伸びている。大きな船が一艘停泊している? これが「氷川丸」だ。日本郵船が建造した1万トン級の船舶である。終戦直後には、軍用船を改装した常時繋留の観光船だ。立派なレストハウスである。

 

   

森の向こうには「マリンタワーが港の観光資源として、建造されてから久しい。フェンス沿いに歩いて行くと公園中間点ぐらいな処に童謡でお馴染みの「赤い靴」の歌碑と可愛らしいモニュメントのが目に着く。

 

少しの間、時間を取り、国道1号線に向けて出発。

 

  

 

 横浜市街地(当時は神奈川宿エリア)を出、て間もなく「生麦」にさしかかる。幕末、島津藩の大名行列を馬で横切ったイギリス人を「無礼者」と惨殺して、薩英戦争に発展した。これが生麦事件で、幕末の世情に大きな影響を与える。 

  この事件の説明と小さな慰霊碑・社が建てられている。

  その前は国道1号線であり、記念撮影をして再び東京方面へ。工場や民家が所狭しと立ち並んでいる。

神奈川県と東京都の県堺は多摩川である。武蔵平野を流れる大河で。川幅が広く、河川敷まで美しい緑に覆われており、遠くまで川筋と建物が見える。

 

  

  

 

川筋をバックにしたり、県堺の橋などを数枚記念撮影する。自転車にまたいだり、降りたりしているうちに、ついハンドルにきつく触ったのか、距離計の一つが外れて転がり、橋の桁から転がって紛失するというハプニングが発生!(距離計は2個装備していた)

  

品川(宿)へ入る手前に「鈴が森」が目についた。当時の罪人の処刑場である。いわくありげな広場になっており、鈴が森の看板が異様に感じられた。

 

品川に入り、もう道は日本橋まで一直線。

赤穂浪士の泉岳寺を過ぎてからは、新橋、銀座の界隈は歩行者が多く、人にぶつかりそうで見学どころではなかった。

高島屋デパートが右側に見えてきた。間もなく日本橋郵便局を過ぎれば「日本橋」だ。

踏むぺタルは軽い。交差点が見えた。この時の為にお願いしていた「兄の顔」が目に入ってきた。

 

 

 兄も旅行大好きで、若い頃は全国を回ったそうだ。この旅行を誰よりも喜んでくれ、到着日には必ず出迎えてやる、と硬い約束をとりつけていた。この上ない笑顔で出迎えてくれたのが、

何よりもうれしかった!

 運転手として甥も同行しており、今日は、埼玉の兄宅に泊めてもらうことにした。

 荷物の内、必要なものを取り出して、他は、自転車と共に近くの日通(ニッツー)に預け、車で埼玉に向かった。 

 苦しく、そして楽しく有意義な旅は終わった。

 子供の頃から持ち続けた1つの夢が現実のものとなった。(為せば成るの心境だ!)

                                             

      (起床ー6:00 出発ー9:40(洗濯で遅れる) 日本橋 到着ー15:45) 

                  今日の走行距離:60.6Km

 

     大阪・自宅から東京・日本橋までの走行距離:669.1Km

 

                    東海道五十三次 自転車の旅

 

                        8/15   第12日目

 

           (小田原宿~大磯宿~平塚宿~藤沢宿~戸塚宿~保土ヶ谷宿~神奈川宿)

 

 

 なだらかな坂道は延々と続いた。ひょとすると、小田原まで続くのか?と思ったくらい・・・。

急坂走行で二人は先を行っている。トランシーバーは持っているが、距離が離れると辻なくなる。(ブログをまとめている今であれば、携帯でどうにでも都合がつくが、この頃は、通信手段

がない時代だ)

 

 兎に角、前の二人に事故が無いように、二人とはぐれないように、と必死である。ぺタル乗りは支えている左足が疲れる。たまに、地面に右足をついて、バランスを修正する。

 

 旧道を終える頃、なだらかな道に変わった。ようやくサドルにまたいで元の乗車態勢にかえることが出来たが、坂がきつい場所にくると、態勢を変える必要があった。真夏であるが、辺りは殆どとばりが降りて、自転車の弱いライトでも頼もしくなってきた。・・・・

 

 ようやく、小田原の看板文字が目立つようになった。小田原市内に入ったのだ。公衆電話ボックスをみつけて、ホテル案内書を見て、宿泊依頼の電話を掛ける。・・・

 3~4か所当たってみたが、全て満室、の応答。--そうだ、今日からお盆だ!--に気づく。(何時も通り、今日もホテルを出る時に予約しておけば・・・と、悔やまれる)

 

 良い知恵はないものか?相談の結果市内から離れた周辺のホテルを探し、連絡を入れる。何軒か掛けている内に見つかった。---小田原駅前の駐輪場へ行き、宿泊に必要最小限の物品を手提げ鞄に移し替えて、切符を買い、電車に乗る。午後9時を回っていた

 

 朝、6時にはホテルを出発。再び電車に乗り、小田原駅へ。

              

 

小田原は、品川を出て初めての城下町となる。小田原城は後北条として秀吉の天下統一の

最後の戦国有力大名として抵抗した。この時の北条攻めには、様々なエピソードがある。

 江戸時代に入り、譜代大久保氏に始まり、箱根の守りとして様々な歴代藩主が着任した。

 

大磯」は比較的なだらかな道が続く。国道筋には昔の松並木のの面影が所々に見え、こころがなごむ。

 

  

 

平塚宿から保土ヶ谷までは、住宅街が多く、関東らしい「武蔵野台地」的な土地構造(アップダウンが多い平野?)で、暑い中、ひたすら横浜の中心街に向けて、自転車を走らせた。

 途中、鎌倉や葉山(ヨットハーバー)など見たいところが多かったが、昨日の箱根越えの疲れもあり、今日はむりをせず早い目に横浜を目指すことになった。

     

 

 戸塚を過ぎ横浜に入った時、先ず高台の場所に行って、街並みを見ることにしていたが、「外人墓地」に着いた時は、格好のふさわしい目的地となった。

 

 

 

 墓地をまわりこむと、景観は広がり、市街が一望できる。「マリンタワー」・「山下公園」や・港に停泊している大型船や横浜港が見える。(何年ぶりかなァ。)以前の横浜のイメージは可なり変化している・・・。

 坂を下ってみると、

 

  

 

 是非、見せてやりたい(行ってみた)1つに、「横浜南京街」がある。神戸にも中華街はあるが、規模が違う。

 通りまで入ってゆっくり買い物等もしたかったが、入り口だけの見学になってしまった(残念!)

 

 横浜という地名は、江戸時代にはない。「神奈川」である。それが、そっくり県名になった。

 

 今日の泊まりはホテル”サンセイ〟横浜球場の隣だ。球場の外周のような処にあるビジネスホテルだ。丁度試合はなく、至って静かな宿となっている。翌早朝に早く起きたので、球場周辺に散歩に出てみると、多くの散歩者がいる?を見て、驚いた。

 

         (出発ー6:00  到着ー15:45   走行距離:48.2Km)

 

                                                  (つづく)

 

 

 

 

 

                    東海道五十三次 自転車の旅

 

                    8月14日 11日目 (快晴)

 

                             (三島宿~箱根宿~小田原宿)

 

  昨日は早い目にホテルに着き,やや長い目に休養も取れた。旅も後半に入り、「後わずか・・・」と、「・・・いよいよ箱根!」が楽しみを増幅させている。極限の披露も期待の精神力で何とかカバーする材料にこと欠かないのが、旅の良さだ。

   

出発前の部屋で、洗面所では3人共それぞれ十分な態勢であった?まだ、私達は今日の怖さを知らない。

 出発して、先ず三島大社お参りとなった。境内入り口に自転車を止めて、鳥居をくぐる。縁日なのか境内は出店と白装束の地元の氏子か?そして参拝客がうようよ?してごったがえしている。厚い真夏を一層熱くしている。

 

     

 

  人酔いに会って疲れない内にと、参拝して早々と自転車の処へ引っ返す。

3人は再び自転車の人となり、娘を間にして力強く?出発。

 

 箱根と言えば、一人で初めて大学受験で東海道線の「丹奈トンネル」を通ったのを思い出す。昭和8年に開通したこのトンネルは、およそ8Km。文明は箱根(歌で言う天下の険)をわずか数分で通り抜ける時代に変えた。

 

  様々な小説や映画・ドラマでは、旅人を困らせた、江戸時代には西の有力大名から幕府を守る要でもあった。その区間を私達は今、自転車で越えようとしている。

   

 

いよいよ、上り坂にさしかかるのか、旧道の案内板が見えてきた。国道1号線は度々表示の柱が立っており、峠(箱根町)迄の案内を度々目にした。旧道(細い車道)の案内図は細い線で詳しく書かれているようだが、見るからに険しそうだ。国道が出来て随分なだらかになったのだろうが、それだけ迂回カーブも多く取り、距離面は随分増えたのだろう。

 3人決意を新たにして、さァ 出発!!

 

 

 

 ここで、老若の差が露呈してくる。大阪を出て、幾つもの峠を越えてきた。その時は余り年齢の差は感じなかったが、この坂道で自分たちが年配者であることを思いっきり知る。

 申し合わせたように、夫婦2人は自転車を押していた。娘はというと、我々の歩行時間にあわせて、ゆっくりとぺタルを踏んでいる。

 

 休憩所らしい空き地を見つけて休憩した時た。私はズボンを脱いで休憩に入っていた。格好なんて構っておれない心境だ。

 

       

 

 中腹を過ぎれば、景色の素晴らしさに癒される。「もう少し、頑張ろう・・・」と景色が後押ししてくれる。幸い、歩道が広くとられており、少々の蛇行の進行も、多くの通過する車に迷惑もかけないし、事故の心配もない。

 

 

3~4時間も過ぎただろうか。坂道がやや平坦になり、横断歩道、信号を見かける。

 

         

 

 「お食事 峠茶屋」の看板が目に入る。一休みだ。と自転車を止めて、店中へ。

 若い娘連れの埃まみれの異様な連れに見えたのか、茶屋の女将らしい人が「自転車で登ってきたのか?」と問いかけてきた。「そうだ」と答えると驚いた様子だった。話を聞くと、単身やグループの男性旅行者は多いが、こんな女性連れは初めてだ。とのことだった。

 

    

 

 茶店で鋭気を養い、再び、出発。ここからは、みんなペタルを踏める程度の勾配道が続く。ところどころにそびえている杉木などを横目に「芦ノ湖」が一望できるビューポイントの休憩所に着く。

 

 やがて、民家や別荘らしい建物が目につくようになる。箱根町の”繁華街〟に入った。芦ノ湖の船着き場や土産物屋・ホテル・遊園地などは、丁度夏休みで子供連れの観光客でにぎわっている。

  

 

 江戸幕府は、新居の関所・大井川の川渡し・そしてこの箱根関所など二重・三重に通行者を厳重に監視した。そして、御三家や親藩大名(含.大阪・京都各所司代)を要所に配置して、万全の幕藩体制を敷いた。

 今晩泊まる小田原もその一つだ。しかし、今の関所は観光地として、相変わらず賑わっている。

 夕方も近くなり、入場門も閉まりかけているので、柵越しに覗いて、通過することにした。

 

これからは、旧道を下っていく予定。本道の方が早いが、毎年正月に行う「箱根駅伝」の道は、今日登ってきた道より勾配もきつくまた交通量も激しく、途中に湯本温泉街など建物も多いので危険も伴う。以前友達とのドライブ旅行の経験から、敬遠する予定にしていた。

 

 さて、高い杉並木を通っていると昔の石畳らしい細い道があり、観光客が歩いているのが見える。我々が通っているのは、車が行き交う程度の旧道だ。暫く走ると道は急に勾配がきつくなってきた。自転車は両方のブレーキでないと制御がきかないくらい。

 細君・娘は「ままチャリ」なので、くれぐれもゆっくり慎重に!と注意していた。

 

 ところが?新しく買った切り替えのきく小生の後輪から煙がモクモク。。ブレーキが焼けたらしく制御が効かなくなった。「どうしたものか」森の中を走っているので、周りは暗くなってきている。

 

 「片足だけのぺタル乗りでいこう」試してみると案外うまくいく。でも、このまま小田原まで大丈夫か? (以後、何とか小田原まで行けたが、これからの事は明日のページでお知らせしたい。ハプニングあり!)

 

        (出発ー9:00  小田原到着ー20:00頃  走行距離:46.9Km)

 

                                                (つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

                 東海道五十三次自転車の旅

 

                    8月13日(第10日目)

 

                 (清水宿?~江尻宿~興津宿(こうづ)~由比宿~蒲原(かんばら)宿

                 ~吉原宿~原宿~沼津宿~三島宿)

 

 清水といえば、「清水次郎長」。侠客として、江戸時代末期から明治にかけて生き抜いた御仁 

仁。また、カツオ等の漁港で清水港は有名だ。(立ち寄れなかったのが、ざんねん!)

 

  

 

  細君、一昨日のハプニングがやや尾を引いて少し痛いのか?可哀そうな出発たなった。

因みに、宿代は3人で20,888円。

 

 ホテルを出て直ぐ江尻宿を通過。興津にさしかかると太平洋の海が迫る。海岸沿いを東名高速と東海道が並行して走り、国道を含めた交通の要所で、平地らしい土地は見えない。

 

   

                     

 交通量の激しい区間だけに、のんびり派しておれないが、歩道(自転車道)は比較的安全なスペースがとられていた。東へ海沿いにひたすら進むばかり。左側は高い山が迫っている。

やがて、大きな寺院にさしかかる。

 

 本陣跡の近くである。この辺りが興津宿清見寺によってみようということになった。交通量の激しい1号線を渡り、東海道線の踏切を慎重に通り抜ける。立札の説明には、この寺に、以前山下清が立ち寄ったことが書かれている。

 

  

 

清見寺の参拝も済み、再び海沿いを東へ。やがて山の中腹がなだらかになり、そこに家が連なって建つ。どうやら、山麓の旧道のようだ。資料を出して見ると「由比宿」のようだ。

 

先ほどと同じように、国道と踏切を渡り、坂道を歩いて登る。やがて、平坦な比較的広い道路にはいる。宿場の旧道に出た。

 

  

 

由比宿は「由比正雪」であまりにも有名。幕府転覆を謀った首謀者だ。失敗に終わったが、幕府を可なり脅かしたことだろう。映画や」本、講談の主役である。通りに小説の生家(正雪紺屋)だと書かれたみせがあった。立派な美術館にたちより、感慨深く茶を戴いた。

 

   

 

 由比の宿場道は住人の生活道で中腹を東へ少しずつ下りながら延びていた。ぺタルをあまり踏まない楽な走行になった。

 

 元の道路にもどると平地は徐々に広がった。やがて、富士川をわたる、富士市に入った。

吉原宿」を過ぎると道は駿河湾に向かう。久しぶりに新幹線の高架をくぐり東海道線を横切ると再び海岸へ。吉原宿から一気に万葉集でお馴染みの「田子の浦」へ出た。一直線の海岸線の美しいこと。富士山はもやって見えにくかったが海の青さと一面の砂浜には3人共自転車を止めてしばらく見いっ ていた。

 

 

 

我々3人は美しい浜辺から内陸部へ進み沼津を過ぎる頃には、今日泊まる三島宿に近づいていた。長沢八幡宮は、見栄えのしない神社である。境内に小さな売店を見つけたが、近くに蜂の巣があるのか多くの鉢を見かける。  

        

      

 

境内の奥まった処にそれはあった。

鎌倉幕府をたてた源頼朝は挙兵後平家と富士川で戦うことになる。貴族化した兵士の戦いぶりは、多くの戦で連敗するが、頼朝の挙兵に呼応して、奥州平泉の藤原氏のもとより異母弟の義経が駆け付けるのだが、この兄弟がこの場所ではじめて顔を合わせることになる。

 

 二人が向かい合って座ったとされる「対面の腰かけ岩」である。

 

 今日も明るい内(15:40)に、宿(HOTEL Ermou Regency)へ到着。

 

                  (出発ー7:30 到着:19:05 走行距離は51.9Km)

 

                                                  (つづく)

 

 

             8月12日 第9日目(快晴)

 

   島田宿(ホテル ユートりー)~藤枝宿~岡部宿~丸子(まりこ)宿~

           府中宿~清水宿(ホテル サンルート シミズ) 

 

東海随一の大河大井川」は近くである。馬琴もこの川止めにあって難儀したことを書いてる。       また、この川止めは両岸の宿場町ばかりでなく、周辺の地域にも様々な潤いをもたらした。川人足達も渡れるからといって、色々な知恵を働かした。わざと深いところを通り余分に渡し賃を取ったという話もある。 何日もの川止めは旅人たちの様々なドラマを作ったのだろう。

 

   

 楽しいこと、辛いこと、悲しいことが渦巻いていただろう。川を渡る為の割附は幅・長3×12

センチ程の油紙を人足に渡すと、人足はこれを髪のもとどりに結び付けて川を渡ったという。

 川を挟んだ両宿にはそれぞれ250人が定められ、川合所の周辺の番宿に寝泊まりしてい

 た。

     

 

  東海道と言えば、駿府である。家康が終焉を迎えたのは、駿府城。

歴史的にも静岡市は府中として、「登呂の遺跡」などからも有名。今川氏はここを根城に強大な戦国大名になった。

 明治維新の時代に府中の地名が不忠につながるとして、「静岡」になったという。

 静岡市に入る手前に安倍川という大きな川があるが、川の名前と金山の金粉に因んで安倍川餅(きな粉)を命名したのが家康とか?

 小生、安倍川餅の大ファン、食べそこなったのが、未だに悔やまれてならない。

静岡は大きな町、車や人が多く、足早?にぺタルを踏んで、余力を蓄えながら通過した。

 さァ、いよいよ清水だ。今日の宿泊地だ。

 その前に、兎に角「三保の松原」が気になった。羽衣の松を見たい!!

 

 

 今日は、順調な走行で、明るい内にホテル到着。明日からの鋭気を回復したい。

 本日の出発ー9:20 到着ー15:40 走行距離:49Km

                                                   (つづく)                                             

 

 

 

 

             東海道五美十三次自転車の旅 

 

                    8月11日 第8日目(快晴

 

              浜松宿(ホテルプケ東海)~見附宿~袋井宿掛川宿~日坂宿

                    金谷宿~島田宿ホテル ユートリー

 

 江戸時代、浜松城はの異名があった。即ち、浜松城の歴代の大方の城主は、幕府で”老中〟等の要職についたという。現地に一夜泊めていいただいた小生にも、少しのおこぼれはないものか?との思いがつのる・・・。
なにはともあれ、今日も元気にホテルを出発して、天竜川橋を渡りながら往時の船渡し場を見る頃には、心は現実に切り替わり・・・。機会があれば、川船で歌にある「天竜くだり」を体験したいなァ。

 

   

 

 「袋井宿」--ここは、東海道五十三次どまん中ーーだ。、幸いなことに大きな看板の公園がある。地元の人が準備してくれたここを訪れる私達旅人への心温まる安らぎの場だろう。まさに、酷暑の中のオアシスに見える。

 休憩を含めて東海道を半分通過したという達成感を味わいつつ、休憩に入る。水道の設備もある。それぞれに交代で顔や腕・足のほこりを洗い流す。昨夜着替えた汗臭い衣類もついでに洗わせてもらう。洗濯物を鉄棒やベンチなどに広げたり掛けたりして、身体も空いているベンチに横たえる。行程時間も気がかりで、やむなく、出発の準備。

 まだ乾いていない洗濯物は荷台の荷物の上に飛ばないように広げて取り付け、乾かしながら走ることにした。(まさに、旅の恥のかき捨てである)

 

     

 

     「袋井宿」は小さな宿場町(現在もこじんまりとした静かな町)だ。

資料によれば江戸時代も住人は少なかったが、旅籠数は意外に多く、3つの本陣があり大きな宿場町に匹敵するくらい賑わったという。ここを通過して掛川へ向かう途中「妙日寺」という、さほど規模も大きくない寺を通りかかる。自転車を止めて覗いて見ることにした。

 この寺は日蓮上人の両親の墓があり、父母それぞれ”妙日尊儀〟、”妙蓮尊尼〟の戒名があるという。

 いよいよ、「掛川宿」、あの良妻賢母で有名な奥方を持つ、山之内一豊の居城だ。(一豊は四国の長宗我部氏滅亡後に土佐(高知県)転封を命じられ、直参と土着の家臣らと共に藩政を打ち立てる。これが二重の武士階級を生みー上級と下級ー、子孫まで尾を引くことになる。幕末になると、坂本竜馬などのの排出で、維新改革の重要な藩になっていく)

 

  

 

 掛川城は最近再建された。小高い盛り土の丘の上まで登り階段が廊下のように延びる、ま新しい白亜の美しい城だ。麓には平屋の豪壮な御殿があり、平屋で20を数える部屋がある。                      

 白坂宿から「金谷宿」への行程は昼も過ぎ、城への歩きなど疲れも手伝ってか大変きつかった。そういえば、細君はアップダウンのきつい城下で重い荷物を積んだ自転車を押している時に、道路わきの溝に足を取られて自転車ごと転ぶというハプニングに見舞われた。(幸い怪我 もなく直ぐに立ち直れた)

           

 

 掛川の農村を抜けてしばらくの行くと、旧道は国道から離れ、山道のような険しい?坂道を登っていく。ようやく下り道に変わり、トンネルが見えてきた。バイパスのトンネルは意外と狭く、坂を下っていく大型車が横を通り過ぎると風圧で吸い込まれそうになった。妻との間を走っている娘がフラフラして走るのを後ろからハラハラしながら追っかけて行く。

 小夜に入り、公園に立ち寄る。そこには、”小夜(さよ)の泣き石〟の表示があり、庇で守られた大きな丸い石があった。

 悲しい物語に目を通している3人共しんみりした顔つきに変わった。

      

 

 「金谷」は大井川のSL列車で有名だ。この旅行が終わって数年後ここを娘と3人で旅行した(寸又峡ツアー)。その列車には、立派な鼻髭の面白い名物車掌がいた。

 「大井川」・・・越すに越されぬ大井川は、江戸時代には幕府の政策でここに橋を作らせず、また渡し船もなく、裸人足が肩車等で、人を運んだ。大雨で水かさが増すと何日も川止めが続いたという。

 今日の旅籠は、島田宿。白坂の険しい行程に時間をとり、午前中はのんびり走りぎた面もあり、ホテル到着は予定時間を可なり過ぎていた。(明日、改めて渡し場を見学することにした)

本日の出発ー7:30 到着ー19:05 走行距離:51.9Km

                                                 (つづく)

東海道五十  三次 自転車の旅

 

8月10日 第7日目 (快晴)


               (吉田宿二川宿~白須賀宿~新居宿舞阪宿浜松宿)


  吉田宿は、吉田城の城下町である。「吉田通れば二階から招く。しかも鹿の子の振袖が」と詠われ、賑わった宿場町である。
  しかし、ここは戦災でほとんどが焼失したとのことだ。


パンク修理2回目     
  愛車が三度目のパンク。携帯の空気入れを片手に、ホテルで借りたバケツに水を入れ、チューブを浸けてパンク箇所を探して修理。

 

 

吉田城・天守閣2


 吉田宿・ウナギや 吉田宿本陣跡 
 
   パンクの修理に手間取ったが、ホテルを出発して、さっそく城址のある公園へ。再建された天守閣近くのコンクリート防護壁に囲まれた一角に、豊川の風光明媚な景色を一望できる場所があった。
  そこに設置されたベンチに腰を下ろす。

  ホテルを出た直後なのに、3人共に公園の登り坂で汗ばんでおり、ベンチでウーロン茶を飲みながら、暫し 朝の城下町を眺めていた。(記念撮影)


  吉田城から眼下を見下ろす 
      
 さぁ 気を引き締めて今日も元気に出発!
 豊橋市内にある二川宿には間もなく到着した。
 ここにある本陣資料館見学は、結構 私たちを楽しませてくれた。
 
 旅人が到着した際の上がりかまちでの洗い」の再現人形を見て、靴を脱ぎ見学。屋内の広いこと。
 数えきれない部屋数、変化に富んだ数々の廊下や床の間・欄間、一段上がった上座もあり、往時の殿様がくつろいだ居間や家来が警備した部屋、多くの資料を集めた陳列ケース設置のコーナー等など。
 そして、本物そっくりの武者人形など、結構みがいのある時間が過ぎた。


二川宿・陣屋跡 吉田宿・資料館1
   

女性たち二人は、きらびやかな大名駕籠に入り、写真撮影したりしてご満悦。
疲れを忘れるひと時だった。

資料館・大名カゴ 吉田宿・資料館2
  
  楽しいひと時を過ごした私たち一行は、次の白須賀宿跡を過ぎ、いよいよ新居関宿に到着した。

  「新居関」は、徳川幕府が重視した有数の関所である。ここでは、「入り鉄砲、出女(でおんな)」を取り締まった所。

    幕府は、全国の大名に参勤交代を命じ、幕府への忠誠を誓わせた。と共に江戸と藩の往復の旅に莫大な経費を使わせて、大名が裕福にならないようにした。そして万一の反乱を防ぐ為に、江戸への武器が入るのを防ぎ、幕府に弓を引くことのないように、人質として奥方(正妻)を江戸の藩邸に常駐させ、逃げ帰らないように厳しく監視した。

新居関・2 

 西の大名、特に有力な外様大名の中には、幕府への強い反感もあり、当然監視の目は厳しくした。

この関所は幕府の直轄の役人を配置して、通行する者を厳しく吟味して、身体検査で隠し持つ武器がないかを調べたり、男装の女性等不審者は、特別な部屋に入れて専従の女性が、身体を検め、詮議したと云う。


 新居関所1 新居関3
   
  
   このように、大規模で大変厳しい関所であった。


浜名湖大橋 浜名湖
  浜名湖・・・海水と真水が合わさるこの湖は、美味しい鰻の産地で知られた所だ。

 
 
 舞阪の松並木 舞阪の松並木2

  浜名湖を通り過ぎてからは、かなり平坦で平凡な道筋だった。 舞阪宿跡を通り、真夏の炎天下をひたすらペタルを踏みながら、三人共無口になっていた。

 

ホテルプケ東海

 
  部屋に荷物つを置くと、我先にホテルを後にした。
 JR浜松駅は新幹線の停まる駅。大きな駅舎だ。入っている店も多い。

 先ず、食べ物の専門店を探す。適当な店に行き当らない。
 仕方なしに、大きなレストランに入った。
 既に、昼過ぎからうなぎを食べる口が出来あっている。「うな重」を注文した。
 
 出てきた料理の「うな重」・・・・やはり、待った甲斐があった。・・・3人共自然に笑顔に変わり、ひたすら口に入れる。・・・・・浜名湖畔の店は、もっと美味しかったかも?

                                  

浜松駅前で夕食  

 

              (本日の出発ー8;50 到着-18:00ころ 走行距離:34.3Km)

 

                                           (つづく)

 


                                                                          


 
 
  
 

 

 

 

  
 
  

 

東海道五十三次 自転車の旅

8月8・9日 第5・6日目 (快晴)

(熱田宿~鳴海宿~池鯉鮒(知立)宿岡崎宿赤坂宿宿吉田宿)

 

  昨日の疲れが残る。朝の寝起きが今一つ。今日は少し距離を縮めて岡崎市までとし、ホテルを探し予約して、さぁ出発!。

  お尻が痛くなった、ということで、ぺタルはゆっくり目に踏む。アップダウンの激しい道筋である。

  道路の片側には住宅が建ち、高台になっている。その石垣沿いの歩道を進むことたびたび。
 
  ところが、歩道に電柱が立っており、、石垣との間のスペースが狭くて、肩幅程のハンドルでも通過できない。自転車から下りてハンドルを斜めに向けてようやく通過できた。・・・何回も繰り返していると、またまた道路行政の貧弱さに腹立たしい思いが募る。

 起伏の中を縫うように走っているうちに、ようやく桶狭間の看板が見えてきた。
 
   10分の1足らずの兵力の織田信長軍に負けた東海一の弓取りと言
われた今川義元の終焉の古戦場
だ。さっそく駐車場に駐輪し、見学。

桶狭間・古戦場 

   今川義元頸塚1 今川義元・頸塚

  
     真夏の太陽の下では、首塚のある木陰がオアシスになった・・・・義元公に感謝。
 出発前にコンビニでかちわり氷を買い、砕いてウーロン茶の容器へ入れる。

  昭和の時代の映画、特に股旅物や大名行列・仇討のシーン等では、居並ぶ「松並木」のすがすがしい景色に感動したものだ。映像技術の発達でシネマスコープや総天然色等が、映画を一層面白くしていった。

  経済の発展は、私たちの生活様式を随分変えた。、砂利道の道路はいつの間にかアスファルトに、道路の周りには電柱や電線が張り巡らされて、自然の風景も様変わりした。街中はもとより、農村までも時代劇の撮影シーンが撮れれなくなり、

では、時代劇のロケは山間部と海岸地域のみになってしまった。

   知立6知立・絵2  

       知立2

 
    往時の映画のシーンに使われたであろう東海道の「松並木」そのものは、車はバイパス道路に移り今も健在だった。でも、いたるところで保存のための修復が行われている。

  矢作川を越えると右にNHK朝ドラでおなじみの「八丁味噌」の建物が目に入るが、その前に、矢作川に架かる矢作橋に到着した。

 

矢作橋・安藤広重 矢作橋・日吉と小六の出会い
   

  ・・・・あの日吉丸と蜂須賀小六の出会ったといわれる場所、たもとには槍を持った小六とその槍をつかんでいる日吉丸とのやり取りの大きな像が目

につく。果たして本当の話・・・・・?

  岡崎城の裏手には大きな公園が出来ており、矢作川が城を取り囲むように城を守る堀の役目を担っている。

 その岸辺に今日泊まるホテルがあった。風光明媚な立地の良い綺麗なホテルである。

   夕暮れからは市をあげての恒例の花火大会が岸辺であるとのこと。 ラッキー。

 

 


岡崎城・天守閣 岡崎公園花火大会 
   
 

 

 

    早朝、矢作川河川敷へ散歩に出てみる。城を見ながらの散策、何時もこんなことが出来ればいいなぁ。
 
    部屋に戻ると、家内が足首にラップを巻いて何やら治療の最中。 そろそろ疲れがきたみたいだ。

   旅は未だ中間点くらい。果たして、3人共元気に目的地(日本橋)まで完走出来るだろうか!?。
  でも、今日も、また 快晴だ・・・。

  荷物を自転車に積んで、先ず近くの岡崎城址へ。地元の人たちと行き交う。朝の散歩を楽しんでいるみたいだ。どこの城下町でも、この光景を見る。


 


岡崎城・矢作川堀 岡崎城・本丸石垣 家康産湯井戸


 岡崎城・家康像 
  

   こんな所へ住めたらいいだろうなぁ

 神君 東照大権現「家康公」のかっぷくある鎧姿の像・産湯の井戸・天守閣・矢作川の水を引いたお堀の一部、何時見ても城の佇まいは重厚さと華麗さを感じる。

  早朝の為、天守閣・歴史資料館には入れず、岡崎公園を後にした。
 
 岡崎市のはずれに藤川宿はあった。宿場跡は文字通り旧村の雰囲気があり、閑静で落ち着いた町並みである。宿場町に多い、通りの両端は街道からは曲がって出入りする。

  これは、町の防衛上できたものである。

 
藤川の宿・常夜灯 藤川の宿・本陣跡 藤川の宿
  

 この宿場では、江戸初期には男性540人、女性673人が住んでおり、本陣・脇本陣ほか302軒と36の旅籠があったと云う。
 

藤川宿

 


   勿論、常夜灯や高札場跡、芭蕉の句碑など、相当な見学時間を要した。

   また、西はずれは三叉路になっており、「吉良道」の道標が立っていた。あの赤穂浪士の敵役になった吉良上野介在所に続く吉良街道である。

  私たちの自転車一行は、宿場跡を後に、次の赤坂宿跡を通り抜けて、「御油」へ入った。

   御油の松並木は道幅が広く巨木の松が多い。道が蛇行しており、余計に雄大さを感じる。片手にビデオを掲げて写しながらペタルを踏む。御油音頭の一節に「・・・御油は名に出たァ昔の宿場ョ 今も変わらぬヤレ松並木 乙女こころは松の色 サッサときわの松の色」と。

 



御油の松並木 御油松原2 
    

       明るいうちに今日の宿泊地に入った。

     この日の目的地、豊橋市(吉田)は城下町である。
     静岡県で有数の大きな街だ。大きなスーパーがあり、立派な商店街もある。
  
      今日は、この街の”旅籠(ビジネス・ハタゴ)”に泊まるのだ!

 

                  (8日目 出発ー7:35  到着ー16:25 走行距離:34.1Km)

                (9日目 出発ー9:30  到着ー18:40 走行距離:37.2Km)

 

                                                 (つづく)                                             
 
  

 










 

 東海道五十三次 自転車の旅

 8月7日 第4日目 (快晴)


(亀山宿庄野宿石薬師宿四日市宿桑名宿熱田宿)

 

 

   荷物を整え、チェックアウト。駐車場の片隅に止めてあった自転車に荷物を括りつける。           さぁ出発という時、我が愛車のタイヤに異常が・・・パンクである。携帯の修理用具を出して修理にとりかかる。
  予定の出発時間が大幅にずれた。近くの木々からは、蝉の鳴き声がうるさくなっていた。

   先ず、亀山城の小天守、石垣と周辺を観て、R1号線に出る。庄野宿では一休禅師の歌名も高き 誓いも重き 石薬師 瑠璃の光は あらたなりけり” を見、次の石薬師宿も通り抜け、四日市の追分(日永)(東海道と伊勢街道の分岐点)に到着。

    冷たい清水を賞味する。


 亀山城址碑  一休禅師
   

        ここでまたもや同じ愛車がパンク。
       唯一の新品自転車が立て続けに故障となり、ショック、近くの店で修理してもらう。
    走り方・乗り方に問題があるのかなぁ?。
 
    気分転換のため、昼食には″サガミ”に入り、久しぶりに贅沢な食事を摂る。


途中サイクスナップ 日永・追分
  

  桑名城址近くに七里の渡という有名な渡し場(史跡)がある。昔は名古屋の熱田(宮宿)までの7里の船旅だったのでこの名がついたと云う。船旅は危険も多く、陸路も多く利用されたと云う。

   今は、観光案内の立て札だけだが、城下町であり、当時の賑わいを思うと「その手は桑名の焼き蛤」の言葉を思い出す。

 

 七里の渡し 七里の渡し・絵 
 

   群雄割拠・戦国時代の終結は濃尾平野から始まった。木曽・長良・揖斐という大きな三川は、南アルプスの山々から雪解け水や土砂などを運び、広大な扇状の堆積平野を作った。
 
   日本列島の真っただ中に位置ているこの平野は、京にも近く立地条件が良い・天下統一の起点になったことが、分かるような気がする。
 
  国道1号線を再び桑名から東へ走る。

  三川に架かる、一つ一つの大橋を渡る。橋上では、多くの大型貨物車が列を成して行き交う・・・すごい重量感がある。騒音と振動で自転車ごと橋は揺れている。
 
  滑り止めした歩道の鉄板の上を走りながら、手摺ごしに下を見ると、海水と混ざりながらも渦を巻いている水面が見える。、目まいを起こしそうなすごい水量である。、
 
   鉄骨のアーチで守られた、丈夫そうに組まれた長い橋梁が続く
 

河川畔店橋梁を走る 
 

    渡り終えた橋のたもとには昔、繁盛したのだろう、古風なそして丈夫そうな看板を掛けた商店?(今は閉鎖されている)が土ぼこりをかぶって残っていた。
 
  いよいよ、名古屋市に入った。荘厳な熱田神宮本殿に自転車を停め、参拝し、観光。
  
   歴代の天皇の継承には、三種の神器が必要とされてきた。安徳帝が平氏滅亡の際、壇ノ浦で剣と勾玉とともに沈んだ。箱に入った勾玉は浮かび上がったが、剣はなくなった。と云われる
 
   勿論、八咫鏡(やたのかがみ)は天照大神を祭った伊勢神宮に、といわれている。現物は人目につかないが、現在も皇位継承には必要とか。
 
  草なぎの剣は熱田神宮に
保存されていたとか。これも、歴史のロマンである。

 熱田神宮鳥居  熱田神宮本殿 
  
    重い荷物を積んだ3台の自転車は、煩雑な街中に入った。とたんに道は複雑で、なかなか地図通りには進まない。何処で迷ったのか元来た道を引き返すことも。
 
  女性2人も疲れているのだろう、ついに愚痴と泣き言が出だした。疲れている自分も、うまく進めず悔しくて、余計にいらいらしてくる。

  ようやく、予約していたビジネスホテルを新幹線の名古屋駅前で探し当てた!見つかった時間には、既に辺りは薄暗くなり、ネオンも点灯していた。
 
  衣類を着替え、近くのコインランドリーへ直行。・・・そして汗と埃にまみれた衣類は綺麗になった。
   すがすがしい名古屋の夜を迎えた。
  
    3人で小じんまりした店に入り、東京名物「もんじゃ焼き」を体験。
 
  長い1日が無事終わった。
 
                             (出発ー6:40      到着ー18:00       走行距離:72.1Km)
 
                                                                                                    (つづく)

 











 

東海道五十三次 自転車の旅

 

8月6日 第日目 (快晴)

(水口宿~土山宿~坂下宿~関宿~亀山宿)

 

  

   朝早く目が覚めた。一人で近所を散歩する。昨日の京都のような雑踏はなく、比較的高所で山が近い為か涼しい感じがする。でも、早朝なのに、やはり散歩している内に少し汗をかいたようだ。部屋に戻ると二人の女性方は洗面を終わって、化粧中。
 
  例によって、朝食は外食なので、涼しいうちにチェックアウトする。今日は鈴鹿の峠越えをして、亀山宿泊まりの予定。

 話に聞く鈴鹿の峠越え、どんな苦難?が待っているのか。(まさか、おいはぎはでないだろう・・・)

  水口は城下町であり、「水口城」が復元されている。確か、代将軍家光が上洛の際に宿にする為にのみ作られた城だ。(その後、将軍が泊まることはなかったのだが、・・・贅沢な話だ)

水口城2 水口城1 水口城3 
 
  
       きれいなお堀の中に、小じんまりとしたが見える。きっと資料館だろう。
  早朝でもあり、中には入れない。(後日再び訪れたが、この時も休館日で入れなかった)

  残念な思いをしながら、お堀の周りを見学して、水口を出発。
 
  「土山宿」案内の標示が見えてきた。ここは、鈴鹿峠に入る最後の宿場町である。

  参勤交代の大名が泊まる本陣・脇本陣や様々な古い店が軒を連ねていたという、教育委員会の立て札を読む。

  江戸時代から残っていそうな古い建物が散見される。文化財も多いようだ。

  新しく出来たのか?、「道の駅」前のR1号線を挟んで、向こう側に大きな鳥居の神社がある。

  「田村神社」である。古代に遡るが、今の東北の反乱鎮圧のために派遣された征夷大将軍「坂上田村麻呂」を祭った神社である。

  蝉の鳴き声が響く深い森の中の境内には、立派な社殿がある。
  真夏だが、お参りを兼ねた観光客の一団を見かけた。
  きれいに整備された、静寂で歴史を感じさせる神社であった。


田村神社 土山祭り・看板 土山宿4 
 
 
    見学後、道の駅に戻り、冷たいものを飲み、用をすませて、いよいよ峠に向けて出発。

  高い大きな鈴鹿の山が前方をさえぎる。「いよいよ峠道だ?」
  勾配のきつくなった山あいの田園道路なのに歩道の幅が広い、きっと冬場の降雪や自然災害に備えた事故防止のための配慮なのか。

  自転車に乗った3人ともに、たまにお尻を上げながら、一生懸命ぺタルを踏む。

  前方にトンネルが見える!峠まで登る必要はなくなった。少し拍子抜けしたが、内心ほっとした。今の時代に、日本でこの有数の幹線道路にして、峠道があるはずがない・・・・・。

  鈴鹿トンネルを出たところに、小さな公園を見つけた。白いガードレール越しに長い大きな看が見える。

  五十三次全ての宿場の名称とさかは照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」にはじまる「鈴鹿馬子唄の歌詞が書かれている。”天下”の鈴鹿峠の観光案内だ。


五十三次宿場の看板 
  昔の東海道 鈴鹿・馬子唄看板 
 
      道路に立って山側・下側を覗くと、可なりの急斜面であることがわかる。そこに獣道のような細い道が見え隠れしている。
 
      案内板によると、これが昔の東海道らしい。人の歩く気配は全くなく、夏草で道が消えかけている。 

      あの芭蕉が、”ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山” と詩った難所である。

  ブレーキが壊れないかと心配するほどの急坂の下り道で、少し油断すると自転車のスピードが上がる。かなり下った中腹あたりで、大きな石灯篭を見つけた。
  旧道らしい横道に入り、停車。 鈴鹿を超えた初めの宿場 「坂下宿」の入口だ。
 
  この宿場町は、慶長6年には、約550人の住民が住み、本陣・脇本陣の他に48軒の旅籠があったという。江戸の逆方向から来たら、鈴鹿越えの最後の宿場だ。

   
   土山宿と同様に、宿場規模の大きさを物語る。

坂下宿看板  坂下宿2  歌川広重・坂下宿

  
    坂をおりきった所に、関宿がある。東海道から大和街道への分かれ道としての西の追分、そして伊勢街道の分岐となる東の追分の、二つの追分が宿場の両側にある

   坂下宿よりもはるかに大きい規模である。
                関宿・宿場町Map 
  
   
     ところで関宿は、“関”という名の付くように、古代には関所があり、鈴鹿の関といった。

   ちなみに古代には、三関というものがあり、福井県(越前)の「愛発(あらち)の関」、岐阜県    (美濃)の「不破(ふわ)の関」とここにあった「鈴鹿の関」のことを云う。

   都に近い街道のため、軍事上の防衛の為におかれた役所だった。ここの関所の位置ははっきりしないが、西の追分付近にあったといわれている。 

関宿・看板 関宿・地蔵院 関宿・郵便局
 

 

    ここには大規模の寺院が多く、高札場跡もある、役人の取り締まりも厳しかったのだろう。

  町ぐるみで、街並みが綺麗に保存されているようだ。明治時代から残る郵便ポスト(出来た当時は郵便をタレベンと読んで、便器と勘違いしたそうだそうだ)が印象に残った。 

  亀山市内に入ると、ここは亀山宿であり、城下町の中心部。名阪国道をくぐり、宿泊予定の亀山第一ホテルに到着。 ホテル近くの和風レストランの冷たい麺類などで腹ごしらえをする。

  意外と変化に富んだ1日だった。3人とも元気な笑顔で会話がはずんだが、早々の就寝となった。 
    亀山第一ホテル 
 
                       ( 出発ー6:45  到着ー15:55   走行距離:38.9Km )
   
                                                        (つづく)