東海道五十三次 自転車の
 

8月5日 第2日目 (快晴)

 (三条大橋大津宿~草津宿~石部宿~水口宿)

 

 

    2日目の朝を迎えた。昨日の疲れは、あまり残っていない。「まだまだ若い!」と ホッと一安心。 
  朝食は、走行の途中で摂ることにしているので、洗面他 身支度を整え、荷物を整理しチェックアウトし、駐輪場へ。
 
  道路はさすがに京都、早朝にも関わらず、特に三条大橋付近は通勤者も多く、なんとなくあわただしい。。

  先ず、大橋たもとの弥次さん・喜多さん」像をバックに記念撮影。この旅は東海地方に関わることが多いので、折角だから 織田信長のいる本能寺に挨拶 ? に行った。

 


弥次・喜多像 

 

 

 

 

 

 本能寺 高山彦九郎 蹴上インクライン

    再び 元の大橋に戻り、橋を渡って東山方面に向けて Go.

   すぐに、京都御所に向かってうやうやしく平伏している「高山彦九郎」像に気付いた。
自転車を停めて、カメラでパチリ。 
  

  下り坂も勾配がきつく、長くなると可なり疲れる。坂の中腹で「蝉丸神社」という小社があり、小休憩することにした。琵琶の名手で盲目の歌人「蝉丸」を祭ったこの神社の近くには「逢坂の関」跡がある。

   蝉丸が歌った ”これやこの 往くもかへるも別れて 知るも知らぬ 逢坂の関”が有名。・・・・

 

逢坂山関所跡 蝉丸神社

 

     休憩が予定時間をややオーバーしての 出発。

   大津市は天智天皇の大津宮跡があり、滋賀県最大の都市である。近畿の水瓶 琵琶湖の送水口であり、流れ出た水は京・大阪の台所を潤す。

   また、歴史的にも瀬田の唐橋はじめ日本の中世以後は、要衝の地であった。

 瀬田の唐橋1
    
  

 

義仲寺  
  

  歴史を観、刻んできた大津には歴史のロマンを感じる。また、美しい郷愁を誘う「琵琶湖周遊の唄」もある。 港には、美しい観光船ミシガンが停泊していた。
 
  大津を過ぎるころから、1号線をはずれ、資料をもとに昔の東海道の道を走ってみた。
  アップダウンが多く、女性たちには負担も大きく、ややいらだちを感じたようだ。近江富士の軟らかい自然の風景に癒しを感じながら、ようやく草津に入る。

近江富士 

 

   ここから、道は旧北国街道(R8)と亀山(鈴鹿)方面に向かう東海道(R1)に分かれる。

  栗東(りっとう)を貫く日本の幹線国道と名神高速が交錯する、広大なインターを通り抜けるのには大変苦労だった。この辺りから道路事情が変わってきた。というのも、幹線国道と言いながら、自転車は勿論歩行者にとって、歩道の設備の貧弱なこと。
 
  道路行政の所轄を、以前は「建設省」といった。国の発展の為には経済成長は欠かせないことだが、より良い物流を目指した交通機関最優先の政策には、道路建設に莫大な税金が必要だ。、税金を投入すべきことをことを、国民はよく知っている。昨今でもすごいスピードで全国に高速道路が建設され続けてている。
 
   まさに、産業最優先の道路行政! この旅行全体を通じて貧弱な歩道行政を痛感した一面であった。

 

                              ( 出発ー6:00    到着ー17:35  走行距離:54.1Km ) 

                                                                                           (つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東海道五十三次 自転車の旅
 
 
8月4日 第1日目 (晴)

 

                                          (大阪の自宅~京都)
 

 

    以前に、私の幼い頃からの二つの「夢」実現!理由を紹介した。また、年齢的限界を感じ、先行して自作の「ログハウス」作りについても紹介した。これは男のロマンとしては、日曜大工などと言う趣味を超えた、余りにも高価なものになってしまった。”おもちゃ”より程遠い贅沢な代物だった。             
 
それだけに、その後15年余り経った今、維持のためのメンテナンスに四苦八苦している。
 現実は厳し~ぃ!。
 
 ログハウス製作に遡ること3年前に、もう1つの?「夢」を実現していた。
 
 昔の「東海道」の”弥次・喜多道中の現代版”である。

 家族を持つ身、良心というものがあれば?配慮のかけらは大切なもの。1人旅では万一、家族に迷惑や心配もかける。出来れば、同一行動をとれば・・・。これこそ、“運命共同体”だ。
 
  女房には若い頃から、自分には子供の頃から夢実現、云々について何回も話の種にしてきたが、もう年齢に後がない。ついに、「東海道を京都三条大橋から、東京の日本橋まで一緒に歩く」相談を打ち明けたが、いとも簡単に拒否された。これであきらめないのが”自分のいいところ”と自負している。

  作戦を練り、考えた挙句100歩譲って?”自転車”で、という案を提示、やむなく?同意を得ることが出来たのである。

   幸い?なことに、就職が決まった大学4回生の次女が、この計画に乗ってきた。嬉しくなったが反面、女性二人を伴っての自転車旅行である。走行距離には無理が出来ない、当然走破の日程には無理がないか?、という大きな課題が出てきた。

  無難な行走行工夫の一つとして、大阪日本橋携でワイヤレスポータブル無線機を購入。常時会話が可能なようにマイク・レシーバーを帽子にセットした。娘を挟んで、先頭を私、しんがりを女房が走るというルールを決めた。(今であれば携帯電話が便利なのだが・・・)

  学校に勤める自分にとって、幸い夏休みというグットタイミングがある。

  旅の資料を揃え綿密な下準備が始まる。計画書を見ながら、既に頭の中では旅行が始まっている楽しいひと時だ

 旅程の大まかな計画によると、約600Kmを2週間が必要、との結論が出た。そして、盆休みをセットにすれば、あとは職場に迷惑の掛からないように有給休暇をいただいた。
 
   ママチャリに近い安っぽい自転車を3台揃え、それに着替え等の荷物を準備して、8月4日、先ず起点である京都に向けて、自宅を後にした。・

   

   さあ、出発!

  自宅のある柏原市は大和川の堤防付近で国道25号線と旧170号線(平安時代から使われた官道高野街道の一部=退職後この街道は京都から高野山まで一人で完歩した)が交わる所に位置する。

今日は、この街道をひたすら京都へ。
  
  初日とあって、3人ともはつらつとペタルを踏む。昭和40年代に外環状線のバイパスが出来て久しく、旧道に格下げになった沿線はやや寂れている。

 2車線ではあるが、道幅は狭く大型車が行き交うと自転車を止めて、通り過ぎるのを待つこもしばしば。でも、今日は余り気にならない。元気いっぱいだから。

  生駒山系を右に見ながら並行して走る道は、麓の比較的高所にあるため、大阪市のビル群が途切れた家屋やまだ畑の残る所から見え、目を癒してくれる。

 近鉄奈良線の瓢箪山稲荷・商店街を通り抜け、楠正成の四条畷神社・野崎観音を過ぎ、昼近くには枚方市に入る。

  牧野を過ぎて、枚方市で国道1号線と合流。やはり、広く整備された1級道路は気分的になごむ。

  秀吉と光秀の天下分け目の戦いの時。どちらにつくか思案した筒井順慶のエピソードが残る洞ヶ峠に向かって坂道を登る。洞ヶ峠の藁ぶきの準和風「レストラン」で昼食をとる

  いよいよ、京都府だ。 

  洞が峠茶屋              鳥羽大橋 
 
    鳥羽大橋を過ぎると間もなく五重塔がそびえる東寺の門前にぶつかる。
  休憩を兼ねて、境内散策に自転車で乗り入れる。(その後、柵が出来て拝観料が必要になったが、当時は自由に出入り出来た) 
    カメラ係りの家内、VTR係りの私、じっくり時間をかけて、境内の雄大で美しい景観を画像に収める。

   東寺境内 東寺3 東寺1
     京都の街中は相変わらず賑やかだ。観光客が溢れている。観光バスやタクシーの多いこと。そして定期バスが右往左往しているように見える。
    親子連れの連なった3台の自転車は鴨川に出て橋を渡り、左岸の歩道を整然と上流に進む。

  数日前に予約したホテルは、平安神宮の赤い鳥居の近くにあった。思ったより明るいうちに到着。

  さっそく、荷物をおろしてホテルにチェックイン。猛暑の中の自転車走行で、既に衣類は汗まみれほこりまみれである。

 自転車に取り付けた距離計は50Kmを僅か超えていた。 就寝・・・・

           ホテル内 
     
                  ( 出発ー6:15  到着ー15:35  走行距離57.9Km)
                                                                                                                                                                                                                                   (つづく)







 

 

 

 

  現役退職後に気付いたこと

   
   現役時代、「趣味」を育てるのに、時間が少なすぎることで、憂鬱だった。もっと自由な時間がほし
い!!  と。職場ではある程度責任のある立場であったので、忙しさも人一倍であった
  自分の時間を作り、気分転換をしての「ログハウス建設」だった。今、こんなに元気に出来る自分
はまだ若いのだ、という自負心もあった。休業日にはほとんど現地に出向いて、工事に携わった。一
つ一つ 物が出来るたびに歓びと、新しい夢が広がった。
  退職という大きな節目が過ぎて、「時間はタップりあるんだ」と思っていた。ところが、手塩にかけて
作ったハウスは気が付いてみると何か薄汚れた建物に変わっていた。完成してわずか5年なのに。
  ログ材の一部は防腐剤があせて色がはがれ、16センチ幅の松のログ材に多くの亀裂(割れ目)を
発見した。太陽・雨・霧・雪そして風、これら生き物への恵みの栄養剤が、加工された材木に対しては
むごい仕打ちを繰り返していた。
 竣工僅か5年目にして、ログハウスは治療を待っていた。

 

    5年前の足場用に使った杉材に「番線」を巻いて垂木を組む。防腐剤塗布には女房も手伝ってくれた。

  

  あり合わせの足場材は傷みがひどい。でも決してずり落ちる心配はないように!自分が乗るんだから!

      

 さすがに屋根部分は「男の仕事」である。命綱を張りめぐらして高所へ挑戦。足元には自然と力が入ってしまう。

  地上から見た目よりは、ドーマーを囲ったログ板部分(ここには柱状ではなく、幅2センチ位の板張り)
は朽ちていた。向こう1年も経たずに穴が開くかもしれない。擦ると表面がボロッとはげおちた。
  正に、最適なタイミングだった。時間はたっぷりあるので、数日の泊まり込みを開始。高価ではあるが
浸透性の強いドイツ製の”キシダデコール”1斗缶2本を塗り、ログ全体の塗装が完了した。
   準備を始めて2週間目の10月13日から南側の壁から西回りに順次足場を組み直して、10月31日の丁
度一か月間で工事は終了した。(時間的余裕はあるが、なぜか体力と気力に限界を感じた工事だった) 

  
            早速、孫たちも集結。(祝)五周年のパネルを?製作してくれた

                        

11月の連休当日には家族も参加、特に建設時に随分お世話になったお二方も駆けつけてくれた。
     例によって、バーべキューの「祝賀会」である。
   当方からの、足場作りや塗装の苦労談が終わるのを待ちかねたように、ログハウス建設の時の思い
出話に変わると、つい、時の過ぎるのも忘れ話し込んだ。孫や家族の大半は屋内に引き上げていた。
           
        〈そして、またたく間に10年が経った〉

   平成26(2013)年、いつのまにか?古稀を迎えることとなった。10年前に全面塗装して既に10年の歳
月が経った。あの時、風雨の当たりやすい北側よりも太陽の日を受ける南側、また西日がさす西側の傷
みがひどかった・。
  デッキのフェンスは腐食がログの中身を蝕み、一部が重さに耐えられず落下したのである。フェンスは
長いボルトで支えているが、そのボルトをすり抜けての落下であり,手で押すとゆらゆらと動いた。危険性
を感じた。
    屋根のスレートの色ははがれ、灰色のコンクリートが見えるような痛々しいまばらな屋根に変わった。
   大治療が必要になったことを感じた。
  この年齢では、もう10年前と同じことはできない。・・・どうしたものか?!・・・
 
  命がけでメンテナンスに挑戦

    前に使った足場の杉材はとっくになくなっていた。いや、その後の建築法には安全で強固な材料を求
めている。「鉄パイプの組み立て式の足場」である。業者のレンタルは、途方もない費用である(借用期
間にも制限がある)如何に安く そして、腕力の衰えた自分に間に合うことは何か? 早速、ホームセンタ
ー通いが始まった。”最低の予算で効率よく” をモットーに、壁の一面のみの鉄製のポール・足場台・付
属のアタッチメント・細パイプなどを購入、ホームセンターの軽トラを借りて運搬終了。

      
  土台の高さ調整がポイント       今回も女房に助っ人を依頼          順次場所を移動、組み立て 

     

足場移動中も女房の1階塗装       ドーマー部分の足場作り           板の腐食をトタンで補充 
 
     ドーマーを囲っている薄いログ板の腐食は、予想以上に痛んでいた。斜面の一番工事の難しい 南
側は採寸やトタンブリキの切断に予想以上に苦労した。すくんだ足を梯子にからませて固定しての貼り
付けだった。
  特に、北側壁の傷みは少ないものの、「これが最後の機会」だけに、思い切って処理した。地上約15
メートルの高さが、嫌でも恐怖心を誘い、採寸・貼りつけ etc   が南側以上に思うようにいかずいっそ"あ
きらめようか?” ・・・途方に暮れながらの格闘の末ようやく取り付けを完了した。

     最も危険個所で、難儀なスレート(屋根瓦)への防護剤塗布

   最後に、一番嫌な工事となった。足場を支える鉄パイプは地上からは届かない。むしろ届いても鉄柱
を支える膨大な資材が要る。手持ちの僅かな資材では到底不可能である。
  もちろん当初からそれを予測して、デッキに固定する方法をかんがえていたのだが・・。「もし、工事中
に屋根から転んだらどうしよう・・・」体重とその衝撃を支えるためには、どの程度の 頑丈さが必要か?
そんな計算や使う用具は私にはわからない。
  取りあえず、屋根 の反対側から登山用のザイルろ引いて柱を支え,命綱にすることに。準備するのに
まる1日かかった。女房は「何をゴチョゴチョしているんだろう」とあきれていたかも知れない。
  万一落下し、重症あるいは死亡となると、笑い話にもならない。という、不安があった。

   

     デッキにパイプ支柱を固定         軒に固定し、ザイルで縛りつける       塗料が白く剝げたスレート

      

  傷みのひどい所の下塗り       梯子階段を作り順次上へ       頂上付近では、神経集中

    

        このスタイル、この勇気、私にとって今生最期の「パフォーマンス
 
  どうやら、事故なく屋根の塗布終了。作業が終わってデッキに帰ってきた時、正直、「生きてて良か
った」と思った。
  壁周りの防腐剤塗布が一段落した女房は、この15年間でくすんできた屋内備品のイメージチェン
ジ(再生)を図るべく、果敢に化粧にとりかかる。・・・
                                                     ― つづく ―
 
 
 
 

 

  追加工事と備品整備・・・・

  平成11年6月、ログ部材がフインランドから搬入されて丁度1年、ようやく内装・外装が
ほぼ完成した。一心不乱の格闘の末の出来ごとであった。ほんの一瞬の出来ごとのよう
であり、手を取り合って喜ぶ程の感動はなかった。
ただ、38段のログの積み上げ、台風の来襲、棟上げ、雨の中で濡れながらの工事の最中、
バール(釘抜き)が水で滑り、とがった部分がおでこに当たり額から鮮血が吹き出し、前方が
見えないくらいの怪我で女房を驚かしたこと、階段の取り付け・・・等など その場、その時の
一喜一憂には数えきれないものがあった
  その”楽しみ?!” も一段落ーーー改めて見直すと、”これからが、本番!”
「味付け」のスタート! スタート!
                              
  折角の広いデッキも収納庫に占領される ↑ 完成の収納庫   庭にモダンなガーデンライト
 

  孫の歓びの顔を見たいが為の、屋内・外のブランコや砂場など楽しい  遊具

      小さいピンポン台が本格的な卓球台に(初期)の目的だった地下室の設

                                ログ建設中は資材置き場だったが、さっそく地下遊技センター工事に着手。3か月で完成
書棚・卓球場を部屋にして、表面をスライドドアで全開可能にして、広いテラスにはバーべキュー
兼囲炉裏を設置(普段は蓋をした板間)
                                                                              
  
    孫が「流しソーメン」係   水道水がとゆを流れる  祖父がすくってすする・・・変な光景
    
庭 メイン通路:石畳を敷いて→芝生を敷く     庭中央部にモダーンアーチ  

                                         ホームセンターで鉢植えのかわいらしい藤を購入、試験的に藤棚を製作・・・・そして2~3年後には ↓

    都会の雑踏から逃れ、閑静で心身の落ち着くこの地、改めて心のふるさとの
匂いがする。大阪では探すことが難しい夜空の北斗七星も、ここでは、自分だけのもの。
孫たちと星座表を見ながら夜空の星の神秘を語り合う。 自然っていいなぁ。  

       
     開墾・耕作(きゅうり、なすび、トマト、 キャベツ、白菜、ねぎ、ピーマン、とうもろこし、スイカ、いちご、
等など) 楽しい野菜作り。

    

  
             
  いかが?我が猫の額?程の大農場?の素晴らしいこと。自然と神に改めて、感謝・・・・
 
 歳月の過ぎるのは、速く、瞬く間に5年・10年が経つ。平常は標高500mの景観豊かな
大和高原ながら、澄んだ空気に差し込む夏季の厳しい太陽、琵琶湖方面から高原を吹き
抜ける過酷な寒風は零下10度近くになる。降雪も積もればしばらくは溶けてくれない。
 そして、自然ののいたずら達は、容赦なく防水のログまでをむしばむ。・・・・

次回は自然のいたずら達と闘う(メンテナンスーマン)の格闘模様? を、紹介します。 

                                                                                                  -つづくー

 

 

 

 

 

 

 

 

 
― 外装 -

 

 基礎工事に入ってから、もう半年が過ぎた。我ながら順調に進み、うれしい「棟げ」を目前にしていた矢先の、あの忌まわしい台風の襲来だった。倒木で通行禁止の道を迂回して、ようやくたどりついた現場の無残な姿に茫然と佇む夫婦の姿だったと思う。建設途中の暑い8月、ダボ(楔)を打つ音にご近所から苦情を受けたり、ログ材の組み合わせが上手く出来ず、途方に暮れこともあった。二人で励ましあってここまでこられた思いが「再生」への決意を呼び起こした。

    
         垂木へのボードはり                     足場つくり
  先ず、雨露をしのぐ屋根張り。傾斜45°の勾配、特に西側は急坂の断崖の真上で、一歩間違えば生命に関わる”難工事〟が続く。
   
    
  
    これぞ素人が作った足場・複雑怪奇!    でも、すばらしい!ドーマーも様になっている

                 
  広いデッキも出来ました           いつの間にか冬が近づき、ハウスも雪景色に

       

  女房も防腐剤塗装に大活躍 浴室の窓作り(ログの切断) ボイラー器の取り付け   

海抜500mの大和高原は琵琶湖方面からの北風が身にしみる。12月中旬を過ぎた頃、
居間を予定していた6畳間が完成。温かい布団に包まれたやぐら炬燵が入り、休憩の
一と時に「幸せ」を感じる。


― 内装 -

 棟上げが10月という季節を迎え、短い日中時間を有効に使う為、早朝・日没後は内装に専念する。

       
 ロフト(2階)の床張り(1階天井)・内壁装飾  女房は床張り後、塗装(ウレタン)を敷く      

  特に、ドーマー(屋根を高くして柱を入れ、天井を高くした部屋)部分の製作に手間取ったが、広々とした空間が出来上がる。照明効果、将来のオーディオ鑑賞のためのスピーカーの埋め込み、低い隅部分の収納庫、吹き流しスペースにシーリングファン 等々凝った?装飾に時間をかける。

     
  床張り工事の合間にも仲間と工法談義に花が咲く 重量約100キロの階段を釣り上げる

 
 暇を作って仲間が手伝いや、様子を見に来てくれる。会話の中からも勇気と知恵が湧いてくる。「文殊の知恵」とは、このことだ。
 すごいことだと思う。、人の思いやりは。・・・作りかけの出窓からは粉雪がちらつ、きある時は向こうの山の景色も見えないくらいの「しんしんと降る」雪に励まされる。 
 購入した部材を並べて、図面のない階段作りに着手。孫の結構の遊び場になるだろう”階段〟と思うと事故が起こらないように慎重な作業になる。ようやく形が出来上がり、非力な女房の力にも頼って二人で滑車に通した紐を少しづつ引っ張る。
・・・・2日がかり?で完成(きしむ音もなく成功!)

                         キッチンシステムとカウンター  徳島石を貼りつけて石風呂に  ロフトの非常階段

                
"高所用〟の大型ストーブを収納して見栄えのいい暖炉に       見学で観察したテレビのログケース
 

  ログ材(25t)が到着して、丁度1年が経った。本業の合い間を利用しての”格闘〟だった。が、壁にぶつかった数えきれない悩みもあったが、家で休む時や、仕事の合い間に様々な構想を練り、アイデアを蓄えて現場に行き、ベストな方法を採る格好の時間を与えてくれた。素人でも取り組める方法、便利で高価な道具を持たない自分にとって、後悔しない確実な作業として進めることが出来たと思う。仲間も言葉で言い表せない程協力してくれたが、何時も側には、女房がおり二人の共同作業だった。だから、ほぼ完成をみた1年後の暑い7月には二人が手を取り合って喜びあう程の新鮮味はなかったようだ(一つ一つの取り組みが感動の連続だった) ”泰然とした雰囲気〟で「工事が終わった」という思いがある

 
全国に離れている「きょうだい」夫婦が完成祝いに駆けつけてくれる  
(この時を機会に毎年「きょうだい会」が始まる)
  

 完成後、間もなく下の娘も嫁ぎ、生まれた孫達との楽しいログ(別荘))で過ごすことになる。いかに豊かな生活を過ごすか、そのために新しいロマンを求めて、地下室の遊技場工事など再び底知れない作業にのめりこんでいくのである

                                                

                                         ― つづく ―   

                                                               平成10年10月10日落成の自作「ログハウス」                                                                 


 「悠楽山荘」構想~完成」までの道のり  


第1段階 見学・設計図作り~棟上げ 


 平成8年「結婚25周年」を機に、大学生の次女の参加もあり、3人で東海道を京都の三条大橋

を起点に東京の日本橋までの569Km(13日間)の自転車旅行完走。   

勢いに乗って、子供の時代からのもう一つの「夢」だった、別荘建設を目指す。暇を見つけて大阪

近隣の別荘をくまなく見学。ようやく「ログハウス」建設を決意。仕事の片手間という条件もあり、

自宅から車で1時間以内という条件の場所に用地を確保。 ログハウス製作を猛勉強。メーカー

と一緒に設計図完成。フインランドへ発注。

  いよいよ基礎工事開始(H10.4)                                                                                                                                                                                             


鉄骨基礎づくり                          
                                                                                                 
近隣の別荘地見学に奔走   自宅から適当な場所に土地購入 急坂のため地滑り対策を重視
                                                       
 
鉄骨組み立て完成
寒冷地で北向き斜面のため、防寒対策に万全を期す。鉄板を張りセメントを約10cm流し込む。
                        
              宿泊小屋
            完成1年後を予測して工作兼宿泊小屋を建てる

ログ材到着 組み立て前の部材整理 部材の運搬

 はるばるフインランドから、船便で約1カ月かけて届いた約25tのログ材、仕分けして運搬。




 ログハウスは、文字通り柱を横積みにするため

  ①全て1段ずつ同時に積み上げながらコーナーで組み合わせる

  ②垂直(縦)の力は強いが、水平(横)の力に弱い

  ③そのため、「ダボ」という木の楔で横にはたらく力に対応する

  ④その上、適当な場所に長いボルトを通して横力に対応する。

  ⑤雨水の浸水防止に切り込みを入れ、なおゴムで柱間を密着させる

 ログ材の積み重ねを始めて、約1カ月余り、ようやく1階部分が建ち上がる(14段)
 2階(ロフト)部分も全てログ材をつみあげる。(計38段) ところが・・・・・・


平成10年9月22日紀ノ川をさかのぼってきた台風は室生寺の三重塔を壊したが、建築中の我が
ログハウスを直撃、2階のロフト部分をなぎ倒し、建築資材を痛めつけた。途方に暮れた一瞬だった。

 

 平成10年10月10日大型クレーン車で300kgの棟木の取り付け完了。-棟上げ・祝杯ー


家族・親戚は勿論、職場仲間、教え子等協力いただいた全ての方たちに、感

  
                                                  -つづく-