本格的なGW初日、私の両親が住む山口に帰省することとなった。

そうちゃんのことがあって以来、遠方への移動はできなくなっていた。また、それ以前も、長期休みに手術が入ることを希望していて、いつ病院から「手術ができます」と連絡が来るかわからなかったため、なかなか旅行の予定を立てられずにいた。

そのため、家族にとっては実に3年半ぶり、長女にとっては初めてとなる泊まりがけの旅行である。

 

久しぶりすぎて、まず新幹線のチケットの取り方から戸惑った。

行きの新幹線を予約する際、最初は特急券のみで予約したのだが、往復割引がなくなっていること、回数券もなくなって金券ショップで格安の乗車券を買うという昔ながらの方法が使えなくなっていることを知り、かなり混乱した。

もはや、乗車券と特急券を分けて買う意味はほとんどないのではないかと思う。

行きは「えきねっと」で予約したが、パスワードを入力してもログインできず、パスワードを変更してもダメだったので何度も繰り返す状況となり、今は「スマートEX」というチケットレスの予約システムもあることを知り、復路はそちらを使って乗車券と特急券を同時に購入した。それをきっかけに、なかなか作れずにいた次男用のSuicaも作ることができた。

 

GW初日ということもあり、予約を取るのも一苦労だった。希望の時間は取れず、行きはお昼近い時間の新幹線を選ぶしかなかった。

 

ただ、結果的には余裕のある時間設定でよかったのかもしれない。子連れ移動では、余裕がそのまま安心につながる。

実際、出発直前から予定どおりにはいかなかった。

 

出発の前に、長女が私の枕に入っていたビーズをリビングにぶちまけてしまい、家族全員で片づけることになった。その時点で少し出発が遅れた。

 

ようやく家を出ると、今日に限って引っ越し業者が大きな荷物をエレベーターに入れている(無人であることに戸惑う。そんなやり方普通してましたっけ)。妻と次男は階段で下りることにした。

 

さらに階段を下りたところで、最後に玄関の扉を閉めた妻が「鍵を閉めたか不安」と言い出し、妻は確認のために戻ることになった。戻ったら戻ったで、またエレベーターが使えず、別のエレベーターから下りてくることとなり、さらに少し遅れた。

 

駅に着くと、パン屋も行列だった。それでも子どもたち用のパンは必要なので並んで買ったが、その分時間がなくなり、大人の弁当は東京駅で買うことにして電車に乗った。

 

カレンダーどおりで5連休となるGW初日だったためか、10時半頃の上り電車は混んでいた。

乗り込む時は何とか入れたので長女をバギーに乗せたまま乗り込んだものの、途中駅でも乗客は増える一方で、押しつぶされるような状態になってしまった。奥に入り込んだ妻は途中で座れたようだが、電車で酔ってしまったほどだった。次男も電車酔いが心配だったが、片足で立つような状態になりながら、よく頑張っていた。

 

そして東京駅で、押し出されるように降りようとしたところで、思わぬ事件が起きた。

長女の右足の靴が、ホームと電車のわずかな隙間から線路に落ちてしまったのである。

本当に、吸い込まれるように消えた。

 

電車が行った後に覗き込むと、靴はすぐに確認できる場所に落ちていた。しかし、GW初日の交通に迷惑をかけるわけにはいかないため、自分で線路に降りて拾うわけにはいかない。すぐ近くにいた駅員さんに声をかけると、駅員さんは了解して、ホームの反対側へ行ってしまった。

 

東京駅での乗り換え時間は35分。余裕を見ていたはずだった。

しかし、駅員さんはなかなか戻ってこない。

しびれを切らしてホームの反対側まで行き、改めてお願いすると、次に電車間隔が空くタイミングで対応するとのことだった。結局、靴の回収だけで15分ほどロスしてしまった。

 

そこから大人用の弁当を買って、新幹線に乗るだけのはずだったが、新幹線口までの通路も大混雑で、ゆっくりしか進めない。

東海道新幹線の改札を通過した時点で、すでに発車4分前になってしまった。

 

弁当は買えなかった。

 

何とかギリギリで新幹線に駆け込むことができたが、GW初日を少し甘く見ていたのかもしれない。それにしても、なぜこんなところで靴を落とすのか。しかも、あのわずかな隙間に入るタイミングで、と思うが仕方がない。

東京駅で買う弁当は毎回の帰省時に概ね決めたものがあり、楽しみにしていた分、ショックは大きかった。

 

新幹線に乗ると、長女がすぐにパンを食べたがり、子どもたち用に買っておいたパンを出して、大人は手元にあったお菓子を食べることになったが、出発して間もなく、ほぼ食べ尽くしてしまった。繁忙期には全席指定になった状況でも、昔のような車内販売は行われていない。こんな時こそ、あってほしいサービスだった。

 

次男は最初に少し寝たこともあり、岡山までは塗り絵をしたり、アニメを見たりして、比較的順調に過ごしていたが、もう大丈夫だと油断をしてSwitchのゲームをしたところ、酔ってしまった。新山口のホームに降りても気持ち悪さはやまず、しばらく休むことになった。

そこからバス停まで移動し、バスに乗った。バスでは、最後の10分ほどでようやく長女が寝た。私も次男も、30分くらいは眠れただろうか。

バス停には私の父が待っていてくれて、そこからはスムーズに実家へ到着した。

到着して甘味をいただき、ようやく落ち着くことができた。

 

先に送っていたお土産を仏壇に供えると、そこにはそうちゃんの戒名が書かれていた。そうちゃんも一緒に祀ってくれていることをありがたく思いつつ、おりんを鳴らして手を合わせた。

 

山口に帰ってきたのは約4年ぶりで、その時はそうちゃんもいた。長女が生まれる少し前のことだ。そうちゃんは次男の出産時に一時預かってもらったこともあって、私の両親も初孫であったそうちゃんとは思い出が多く、残念だろう。

リビングには幼い頃のそうちゃんの写真が拡大印刷されて飾ってあったものだが、気を遣って片付けてくれていた。

 

そんな感じで、ここでもそうちゃんがいなくなったことを様々なものから感じた。これは、帰省先での特別なことではなく、日常生活の中で延々と繰り返されてるお約束のようなものだが、その度に心が傷ついたり、穴が開いてしまうかのようだ。

そうちゃんは魂の存在となって、一緒に旅行して、一緒に帰省したと思っていたはずなのだが…。

 

その後、一足先に到着していた姉と一緒に、祖父の家の敷地内でさくらんぼ狩りをした。

それから、お隣の叔母家族の家にお土産を持っていくと、家に入れてくれて、久しぶりにゆっくり話をすることができた。

 

夕食後。母がそうちゃん用に昔買ってくれたシャンプーハットを、長女用に用意してくれていた。そうちゃんが使っていたものを今度は長女が使う。そうちゃんはもう使う年ではなかったから、それには喪失感はなく、嬉しい気持ちになる。

長女にシャンプーハットを被せると、長い髪が見えなくなるからか、そうちゃんに似すぎていて笑ってしまった。

 

夜になると、長女の足や手に発疹が出てきた。ワームやキンカンを塗って対処しようとしたが、夜中も何度もかゆみを訴えて泣き出し、私も妻もよく眠れなかった。

そういえば、新幹線に乗っている時から、かゆみを訴えることがあった。もしかすると、電車の中で一度靴を脱いでしまい、脱げやすい状態になっていたのも、そのかゆみのせいだったのかもしれない。

隣の部屋を寝室にしていた姉は、長女の泣き声でほとんど眠れなかったという。申し訳ない。

 

翌日は午前中に、長女の塗り薬を買いに最寄りのドラッグストアへ行ったが、雨天だったため、基本的には家の中で過ごした。

風が強く、表に植えてある紅葉の木の枝が折れてしまった。

 

家では、私が小さかった頃のアルバムを見ながら昔話をした。

2階の書斎に小学校の文集があったのでそれも読んでみると、ランドセルを忘れて登校した失敗談をユーモラスに展開させる親友の文集を読んで改めて頭の良さに気付かされたり、自分の文集には、今となっては完全に忘れていたことが書かれていて驚きの発見があった。文章はひどいもので、読書感想文を書かせてコメントやアドバイスをしている次男に対してちょっと言い過ぎていたかなと申し訳なく思ったが、その時にしか書けない素直さがあって、大人になってから読むとそれはそれで価値のあるものだと感じた。

 

それから、姉にタロット占いをしてもらった。姉は少し前からタロット占いができるようになっていて、機会があれば気分転換と好奇心で占ってもらっている。

この日は、一番気になっていることの今後の展望について聞いてみると、

現在の状況として「ペンタクルスの8」

結果として「ソードの7(逆位置)」

助言として「ワンドのナイト」

が出た。

 

姉によるカードの解釈を聞くと、今の状況や自分が感じていることに重なる部分が多く、納得できる内容で、偶然とは思えないようなカードの並びに、不思議なものを感じた。

 

3年半ぶりの家族旅行は、楽しいだけの旅行ではなかった。

移動は大変で、靴は落ちるし、弁当は買えないし、子どもは酔うし、長女は夜中にかゆみで泣いた。

しかし、そうちゃんを喪った家族が歩みを進める一歩になったのではないかと思う。

 

そうちゃんが旅立ってから42日ほど経った、3月上旬の夕方。

 

この日、そうちゃんが通っていた小学校から、校長先生、教頭先生お二人、そして2年生から5年生までの担任の先生方、計6名が弔問に来てくださった。 祭壇には前日に友人から届いた黄色や紫色を中心とした生花を飾っていたが、この日は学校からもピンクと白の花を中心にした大きなアレンジメントをいただいた。

祭壇の周りがさらに華やかになり、部屋の空気まで少し柔らかくなった気がした。

事故当時、3年生の担任をされていた先生は、焼香の前から涙をこらえきれない様子だった。校長先生も目を潤ませておられた。 そうちゃんのことを今もそれだけ大切に思ってくださっていることが伝わってきて、胸に響いた。

 

皆さんに焼香していただいたあと、リビングに用意した席へ案内した。

これまでの経緯や、闘病中のそうちゃんの頑張り、自宅への一時外泊ができたこと、その限られた時間が家族にとってどれほど大切だったかなどを簡潔にお話しした。

校長先生からは、ご家族にとても愛されていたことが伝わってくることや、学校でもたくさんの子どもたちに愛されていたこと、できることなら今の5年生のみんなと一緒に卒業し、中学校へ進んでほしかったといった温かい言葉をいただいた。

また、担任の先生からは、これまで学校で預かってくださっていたそうちゃんの資料一式を受け取った。

 

その後、リビングで流していたそうちゃんを撮影した写真のスライドショーを一緒に見ながら、少しだけ思い出話をした。

以前、一時外泊の際に先生方が来てくださった時には、スマホ写真のHEIC形式を古い機械が読み込めず、最近の写真を映すことができなかったのだが、今回はあらかじめJPG形式に変換しておいたので、入院中の様子や、自宅で過ごした最近の写真も見ていただくことができた。

バギーに乗ったそうちゃんの姿を見て、背が伸びましたね、という声があがる。

また、いつも一緒だったシャチとクジラのぬいぐるみ(チッチとクロ)を見た校長先生からお魚が好きだったのかと聞かれ、水族館によく遊びに行っていたことや、海の生き物が好きだったことを話した。

そして、リビングに飾っていたそうちゃんの絵も見ていただいた。教頭先生がその絵をすごく上手ですねと褒めてくださると、3年生の担任の先生がすぐに、「学年代表です。総合展にも行きました。」と誇らしげに補足してくださった。そうちゃんが学校で過ごしてきた時間が、先生方の中にもちゃんと残っていることを感じた。

 

話の終盤には、教頭先生からクラスメイトたちへの伝え方についてのお話もあった。 学校では、生徒への心理的影響やご家庭ごとの受け止め方にも配慮しながら、ケースごとに慎重に対応しているとのことで、場合によっては亡くなったことを伝えない選択をすることもあるという。

確かに、小学生にとって死は重く、受け止め方もそれぞれだ。学校として慎重になるのは自然なことなのだろう。

 

ただ、我が家の場合は、次男が同じ小学校に通っており、そうちゃんの同級生たちとも小さい頃から交流があった。事故後には、次男が友達からそうちゃんのことを聞かれることもあったという。

年度末も近づいていたこともあり、友達やこれまで関わってくれた子どもたちには、きちんと伝えたいという思いがあった。何より、そうちゃん自身の立場で考えた時、ただ何となく忘れられていくよりも、これまで寄せ書きやビデオメッセージ、千羽鶴などで支えてくれた同級生たちへ、家族として感謝を伝えることには意味があるように思えた。

 

そのため、両親からの手紙を学校で代読していただく方向でお願いすることになった。ただ、年度末の時期に伝えるとそのまま春休みに入ってしまい、生徒たちへの心のケアが十分にできない可能性があるとのことで、そのため、新年度が始まり、学校生活が少し落ち着いた頃に伝えていただくこととなった。

私たちは、新年度最初のクラス分けの時点でそうちゃんの名前がないことから、子どもたちに伝わってしまうのではないかと思っていたのだが、学校側から、伝達の日まではこれまで通りの形を保てるよう、クラス分け名簿にもそうちゃんの名前を載せ、クラスでもこれまでと同じ対応をしてくださるという。形だけだったとしても、その配慮は本当にありがたかった。

 

先生方は30分ほど滞在されただろうか。最後は校長先生が長居してしまってすみませんと声をかけられ、この日は散会となった。

 

その後も、先生方は新年度の異動(校長と教頭1名はご異動された)を挟みながら、さらに何度も足を運んでくださった。メールでも丁寧に連絡をくださり、学年全体への伝達についても最後まで真摯に対応していただいた。

今回の出来事に、学校側が関係しているわけではない。それでも、ここまで心を寄せ、丁寧に向き合っていただけたことに、驚きと深い感謝を感じている。

 

後ほど、担任の先生から受け取った資料を改めて確認した。

そこには、そうちゃん自身が名前や絵を書いたファイル、作品バッグ、健康カードなどが入っていた。

 

その中に、「夢を育てていこう キャリア・パスポート」と書かれたファイルがあった。

1年生の頃から、自分の似顔絵、好きなこと、できるようになったこと、その年の目標、将来の夢。運動会や学期の終わりごとの振り返りなども含め、少しずつ積み重ねられていた。

6年生まで綴じられるようになっていたそのファイルは、3年生の秋で止まっていた。その先に続くはずだったページの余白を見つめながら、やりきれない気持ちになった。

 

さらに時が過ぎ、GW明け(106旅日)。

学校では6年生全体を集め、校長先生から私たち両親の手紙を代読していただいた。

手紙には、闘病中にいただいた支援への感謝、逝去の報告、学校生活の思い出、同級生たちへの感謝とエールを綴っていた。

約1週間後に届いた教頭先生からのメールには、突然のことで皆驚き、思わず涙を流す児童もいたが、手紙の代読を聞く中で、そうちゃんに思いをはせ、真剣に黙禱する姿があったこと、今のところ変わりなく過ごしている様子であることが書かれていた。

 

無事にステップを踏めて良かった。

また一つ、心残りを減らすことができたのではないかと思う。

 

そうちゃんの祭壇は、自宅に帰って来た日の夜に、使っていなかった小さなテーブルを出して仮位牌、遺影、骨壺、生花を乗せ、暫定的にこしらえていた。

しかし、手を合わせることはできても、お線香もなければチーンと鳴らすこともできず、次第に仏具の必要性を感じ始めた。

 

この日、義父が妻の実家から持ち帰るのを後回しにしていた荷物と会葬御礼品の残りを運んでくれた。そんな話をしたところ、高速道路の出口から自宅までの間の道に仏具店があったとのことで、早速行ってみることになった。

 

とりあえず必要なのは、火立(ローソク立て)、線香差し、香炉(火災予防のため横に寝かせる皿タイプが良いと思った)、そして、おりん(チーンと鳴らすもの)だ。

ローソクやお線香自体は100円ショップにもある。

 

店内に入ってすぐ左手に、お目当ての小物仏具が置かれたスペースがあり、手に取ってみたり鳴らしてみたりしたのだが、展示されている種類は多くなかった。

 

改めて店内を見渡すと、ほとんどのエリアに立派な仏壇が置かれている。

そこに店員がやってきて我々に状況を聞き、「仏壇がないなら、まずは仏壇が必要ですね」と、モダンなものを中心に案内を始めてくれた。

 

仏壇はもちろん、あるに越したことはないのだろう。しかし、それほど広くもない借り家暮らしに仏壇を置くスペースは想像できない。

床置きではなく、箪笥などの上に置けるコンパクトなタイプもあるが、家の中でボール遊びをすることのある子どもたちが落下させるシーンが想像され、地震のリスクもある。そして何より、予算的にも想定外のお値段となっている。

 

「とりあえずどんなものがあるか見に来ただけ」という我々の消極的な態度を受けて、店員も無理に勧めずに戻っていった。

 

お店を回っていると位牌のコーナーもあったが、多くが5万円以上するお値段で、一般的な相場を知り少し驚いた。

 

結局、店内を一周して、最初に見た小物仏具が置かれたスペースに戻ってくる。現代では手元供養やコンパクトな祭壇を望む人も多いはずなので、この小物スペースをもっと充実させて選択肢を増やせば良いのではないかと感じた。

そして、ネットでも販売されているだろうと思ってスマホで検索すると、安価で豊富な品揃えが確認できたので、自宅に戻ってゆっくり検討することとした。

 

なお、おりんについては、個人的にはコロンとした丸いフォルムの『たまゆらりん』の音が好みだった。

しかし、小さな子どもたちが遊んで「りん棒」が紛失してしまうことがないよう、りん棒を本体の穴に立てて置ける、さくらんぼのような形の『チェリン』という商品を選んだ。こちらも綺麗な音がする。

 

何も買わずにお店を出ることにはなったが、仏具店でそれぞれのおりんの実際の音を確認できたのはありがたかったし、一般的な仏壇や本位牌の金額相場を知ることができ、とても勉強になった。

 

後日、ネットで注文した仏具が届き、ようやく、手を合わせるための形が整った。

 

すっかり桜も散って、新緑が眩しい季節になった。

前回、告別式の記事をUPして気持ちに一区切りついたこと、様々な調べ事等があり多忙となっていること、そして、最近の悲しい事件や事故の報道に触れる中で気持ちが沈むこと等があり、更新が遅延してしまっていた。

 

今日は3点目のことで感じるところの大きかった点について、報道等から得られる情報と、自分自身の経験の範囲で考えたことを書いてみたい。

 

連日のように報道されている京都府南丹市の行方不明事件は、対象となった子どもがそうちゃんと近い年齢であったことなどもあり、気になっていた。

結果は非常に痛ましいものとなってしまったが、報道の範囲で事情を知るにつれ、その背景の重さを感じた。どのような事情があったとしても、ご家族にとって計り知れない出来事であることに変わりはない。周囲から十分な支えが届くことを願わずにはいられない。

 

また、沖縄の辺野古沖でのボート転覆事故では、修学旅行中の高校生が亡くなるという出来事があった。

本件では3月末頃から、ご遺族(父親)が周辺への取材の抑制、誤情報や誹謗中傷を訂正するなどの目的で、noteという媒体を使って「辺野古ボート転覆事故遺族メモ」を執筆されている。

報道だけでは伝わらない部分を自らの言葉で補おうとする試みは、今後同様の状況に置かれた方にとって、一つの参考になるのではないかと思う。

一方で、このような発信は多くの目に触れ、さまざまな意見や批判、ときに誹謗中傷にさらされる側面もある。情報の正確さと同時に、伝え方の難しさも強く感じさせられる。

 

政治的な主義主張は関係なく、何が原因で誰に責任があるのか、しっかりと追究されるべきだろう。

そして責任云々は別として、愛する家族の事故に、周囲がどのように対応してくれたか(真摯に向き合ってくれたか、逃げたか)は、被害者家族の心に強烈な印象を残す。

父親の投稿記事の中に以下があり、この一文には強い思いが込められていると感じた。

 

「ここで書いた数日間、私はただそこにいることしかできませんでした。~私はこれを、どう理解すれば良いのでしょうか。」(「事故後からの流れ 3月19・20日」投稿記事)

 

 

もう1件。先週報じられた長野県での小児心臓手術後の死亡事例についても、関心を持った。心臓手術後に当時1歳の長女が死亡し、ご両親が損害賠償を求めて提訴をしたとの報道である。

報道だけでは事実関係の詳細までは分からず、個別の評価をすることはできない。しかし、記事のコメント欄を見ると、病院側を擁護する意見が大半を占めていたことが印象に残った。

 

「心臓手術なら当然受け入れるリスクだ」、「失敗に賠償が認められれば誰も医師にならなくなり医療崩壊につながる」といった意見である。

 

もちろん、そのように感じること自体は自由だと思う。ただ、自分も当事者に近い立場を経験している者として、どうしても引っかかる部分があった。

 

あくまでも私自身の経験や調べてきた範囲での認識として、医療訴訟について感じていることを下記のとおり示しておきたい。

 

【患者側から見た医療訴訟の現実(個人的な認識)】

・実際に病院側にミスがあったと考えられる場合でも、見解が相違し、病院側はミスを認めない傾向がある(明らかなミスでも認めない実例についても聞いている)

・医師が皆、倫理観があり誠実に対応してくれるわけではない(責任回避のために様々なことをした医師に遭遇した経験がある)

・病院が原因究明や再発防止のための事故調査をしてくれることもある(病院側が選定する外部委員が加わることもある)が、その調査結果の公正性や妥当性を判断してくれる第三者機関はない(病院有利になるのが普通と聞くし、実際経験がある)

・当事者間での話し合いだけでは解決に至らないケースも少なくないが、納得できなかったら裁判をするしか道がない

・医療訴訟の原告(患者側)の勝訴率は20%程度しかない(医療訴訟以外は80%程度あるそうだが)

・医療訴訟は原告側に立証責任があり、負担が大きい

・証拠の多くは病院側にあり、構造的に情報の非対称性が存在する

・勝訴の見込みがなければ弁護士も受任してくれない(初回の相談は無料であったり1時間1万円程度だが、次のステップに進むためには通常、調査料(30万円程度)が必要になる。調査の結果裁判を断られることもあり、それを2次被害と感じることもあると聞く)

・提訴には、医学的観点から問題を指摘する専門医の「意見書」を用意することが一般的だが、専門分野によって世界が狭く、横のつながりが強固なため、意見書を書いてくれる協力医が見つかりにくい(心臓外科、特に小児心臓は難しいと聞いた)

・さらに裁判においても、専門家ではない裁判官は鑑定(専門医の意見)を求めるが、上記のとおり狭い世界であり、評価する医師にとっても「次は我が身」と考える構造から、明らかなミスでなければ同業者を庇う意見になりやすいと聞いた

・民事裁判では原因究明をしてくれるわけではない

・民事裁判の賠償金は病院や医師が加入している保険から支払われることが多い

・「医療事故調査制度」というものが10年前に開始されたが、死亡事例に限られ、報告が病院長の判断に委ねられているなど、限定的にしか機能していない

・時間的・経済的・精神的負担が非常に大きい

・結果として、多くの医療過誤被害者は泣き寝入り状態になるか、長い裁判でさらなる苦痛を受けるケースが多いのが現実である

 

 

医療訴訟は感情的に起こされていると思われがちだが、実際には制度的に極めて高いハードルがある。

いつ誰が巻き込まれてもおかしくないところ、被害者救済の環境整備が足りていないと感じる。

上記のような圧倒的に原告不利な背景がある中、それでも提訴にまで到達しているのであれば、原告側の主張には、病院側が悪いと思われるべき客観的事実が含まれているのではないかと私には思われる。

(なお、このような記事で目を引く損害賠償請求額は、一般的に使われる算定式のようなものによって計算され、患者・遺族がいくら欲しいと決めるものではない。)

 

自分や家族が病気にかかれば、治療してくれる病院や医師の存在は頼りにしたい存在であって、その社会的インフラがより良い形で維持されてほしいと思うのは自然な感覚であろうが、被害者側の立場を想像できているとは思い難く、報道で限られた情報しか出ていない段階で評価が固まってしまうことには違和感が残った。

 

コメント欄を見たご家族の心情を想像すると、やりきれない思いになる。

 

意見を発信する自由がある一方で、その言葉がどのような立場の人に届くのかという視点は持っておかなければならないと感じる。

自分自身の経験を通じて、被害に遭われた方やそのご家族の立場に思いを寄せることの重要性を、以前よりも意識するようになったのかもしれない。

 

他者の痛みや心情に寄り添うことの重要性を伝えたいと思ったので取り上げさせていただいた。

 

本記事で触れた事件・事故に関わられた方々のご冥福と、ご家族の平穏を心よりお祈りいたします。

 

いよいよ、そうちゃんの肉体とお別れする日がやってきた。

天気予報の通り、空は晴れ。そうちゃんがイベントの度に「晴れ男だ」と呼ばれて、周囲を笑顔にしてくれたことを思い出す。

早めに起床して朝食を食べ、喪服に着替えて8時すぎには葬儀社に到着した。

 

建物の中に入ると、既にBGMが流されており、会場入口と待合室に設置された画面で、そうちゃんの写真がスライドショーで映されている。

Mr.Childrenの「しるし」が流れ、最期の時が思い出される。不思議な縁を感じて選曲していたものだ。

続くmiletさんの「Anytime Anywhere」とrionosさんの「Viator」は、ちょうどそうちゃんが生まれた頃から私が愉しむようになったアニメの世界から選んだ曲で、自分自身の癒しにもなるので、病床のそうちゃんにも何度も聴かせていた。(わかる方には共感していただけるかも?)

心魂プロジェクトの「kaito」と「ひとつ」は、昨年末のクリスマスイベントから。少し小さかった音量も調整していただけているのを確認して、スタッフの方々に感謝を思う。

 

祭壇中央には、笑顔のそうちゃんの遺影があった。その左右に喪主からのお花と、両親や職場からの生花が飾られ、ちょうど良い賑やかさになっていた。

 

柩は祭壇の前に横向きに置くのが通常だが、今回は中央に縦向きに置いて、その周りにもお花を飾り、参列者も左右から柩を囲む形を選んでいた。

そうちゃんに、「今日は一緒に頑張ろうね」と声をかける。この告別式は、そうちゃんと一緒に作り上げる最後の時間だと感じていた。

 

支店長が、そうちゃんのエピソードを聞いた印象から、縦20cmくらいある手作りの将棋の駒(紙製)を作ってくれたとのことで、飾ってあげた。

表は名前で、裏には「飛車」と書かれている。

支店長によれば、「そうちゃんは『王将』よりも『飛車』のほうが好きだったように思ったので」とのことだ。確かに、自分の気持ちにまっすぐだった彼を象徴するようだと思った。

 

じきに親族が集い、記名、待合室、座席位置などを案内する。

ややもして、住職も到着した。

頃合いを見計らって支店長から声を掛けていただき、挨拶をする。そこで、そうちゃんの戒名と、その名付けの理由を教えていただいた。

 

院号については敢えてお尋ねできなかったが、子供であり、その存在の尊さを称えて授与していただいたのかもしない。

混じりけのない、清らかな心を表す語が用いられ、そうちゃんの心がどこまでも美しくピュアであったこと、そして家族にとって純粋な愛そのものであったことを象徴しているように感じられた。

戒名というと、これまでは仏教のしきたり上だけで、あまり意味のないものと考えていたが、今回いただいたお名前はとてもしっくりきて、親しみを感じられるものであり、自然と受け入れられるものだった。

 

間もなく開式となり、住職の読経、遺族・参列者の焼香などが執り行われた。

そうちゃんの生前の姿を思い出したり、親族の悲しむ姿などを見るたびに、私の感情も波立ち揺り動かされた。そんな時には、供花の札にある職場の幹部の名前を見て、仕事場での幹部説明の緊張感を思い出すと、平静を保つことができた。

 

喪主の挨拶は私のお役目である。

そうちゃんとのこれまでの歩みを大切に思っていることを伝えつつ、そうちゃんからの御礼も代弁するように、参列者にこれまでのサポートへの感謝を伝えた。

 

その後、葬儀社の司会から、「とある国では死別の悲しみを『親しい友人』と呼ぶのだ」というような話がなされた。

悲しみを友人と呼ぶことで、それが単に苦痛を与えるだけのものではなく、思い出を大切に抱えて生きていくための心の居場所であることを示唆されたように感じた。

 

一旦、家族だけが柩の周りに集まり、写真を撮っていただいたり、副葬品を入れる。

千羽鶴、クラスメイトからのメッセージ、義妹家族からの手紙、私の両親の家で遊んだ紙飛行機、義両親からよくいただいていた思い出のお菓子などを入れ、弟妹たちも一緒に、家族写真を満遍なく置いていき、最後に作っていただいた将棋の駒を中央に据えた。

 

そうちゃんの頭の両脇から顔を出すシャチのチッチとクジラのクロ(ぬいぐるみ)は、最期までそうちゃんと一緒だ。

一度はそうちゃんの形見として持って帰ろうかとも思ったが、彼らが離れる隙はなく、ほとんどいつも一緒だった。どうか今後のそうちゃんの道が寂しくならないように、ずっと側にいてあげてくれと祈りを込めた。

 

それから親族も加わり、静かなオーケストラやピアノ曲のBGMが流れる中、お花入れ、フルーツ入れが始まる。

柩はそうちゃんの顔以外はほとんどお花で一杯になり、口の周りには彼が大好きだったシャインマスカットといちごが乗せられた。

 

お棺の蓋を閉めるということで促され、そうちゃんの額を撫でる。

最終的に私から出てきた言葉は、「ありがとう」だった。

 

出棺の準備が整い始めた頃、スピッツの「楓」が流れ始めた。

住職を先頭に、仮位牌、遺影を持つ両親などと行列を作り、ぴったり曲の終わりで葬儀社を出て、火葬場への車に乗り込んだ。

 

火葬場での出来事は割愛するが、温かい見送りの時間を経て、そうちゃんは小さくなり、これまた綺麗な水色の骨壺に収まって、私たちの自宅へと帰ってきたのだった。