<既に年末年始を過ぎ、2026年が始まりました。

今年も日々のやるべきことを優先しつつ、ブログはマイペースに更新していきたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

以下、昨年末の思い出し日記に戻ります。>

 

この日は、14時から病院で開催されるクリスマスイベントに参加する予定で、準備のためお昼前には病院に到着し、食堂で食事を済ませてから13時頃に病室へ向かう。

この日の日勤担当は、先日、誕生日の時にバギー移乗が遅れた時と同じ看護師さんだった。

到着すると、これから肺ケアとネブライザーを始めようとされていた。

確認したところ、そうちゃんがイベントに参加することが肝心の日勤看護師に共有されていなかったようで、リーダー看護師が謝罪に来られた。

その後、担当看護師は休憩時間に入ってしまったのかいなくなったが、担当ではない4名の看護師さんたちが集まって手伝ってくださった。

急いで準備をしたものの、結局、開演から10分ほど遅刻してしまった。

 

クリスマスイベントの会場である1階の会議室に着くと、遅れてきたにもかかわらず中央の前列に案内していただいた。(平坦な普通の会議室なので、私たちの後ろにいた方々には視界の妨げになってしまったかもしれず、申し訳なく思う)

私たちの到着を待ってくださっていたのか、止まっていた進行が再開すると、そこからのパフォーマンスは圧巻の一言だった。

 

世界を旅行しながらたくさんの歌を歌っていくというストーリーなのだが、演者お一人お一人の声量が素晴らしく、圧倒される。

加えて、「ひとりじゃない」「自分を褒めて」「100点満点だよ」といった温かい言葉を繰り返し伝えてくださるので、その愛の深さにしばらく涙が止まらなかった。

ふと見ると、そうちゃんも涙を流していた。

 

後で調べてみると、元劇団四季のご夫婦が立ち上げられた「心魂(こころだま)プロジェクト」という団体の公演であった。

同団体は、普段外出が容易ではなく劇場などに来られない難病児や障害児に向けて、病院や施設に出張してイベントを行われているそうだ。

動画などを拝見すると、公演料を低額に抑えるために機材の運び込みなども自分たちで行われているとのこと。

本当に貴重でありがたい活動であり、このような活動に尽力されている方々を尊く思った。

 

終演後、少しお散歩をしてから病室に戻ると、今度は病棟の看護師さんたちがそうちゃんを囲んで、ハンドベルと歌で少し早いクリスマスを祝ってくれた。

心温まるひと時を、そうちゃんと一緒に過ごせることの幸せを噛みしめる。  

 

 

最近のそうちゃんは、数か月前と比べて不明熱が生じないでいる。

コートリルというステロイドを多く服用している効果と考えられるが、その副作用もあってか、特に上半身の浮腫みが顕著だ。

顔やお腹が丸くなって、手がぱっつんぱっつんになることも珍しくない。体重は約30kgにまで増え、バギーに乗せるのも一苦労である。

栄養量は少し減らしたものの、栄養科の判断ではまだ十分量あるとのことだ。

 

前日に行われた血液検査では、先日3桁となっていたAST、ALTの値は改善傾向にあった。

しかし、前回4まで下がっていたCRP(炎症反応)が28に急増していたほか、アルブミン値が1.3まで低下してしまっていた。

高い炎症の影響でアルブミン値が低下していると考えられるが、これが低くなると血管内に水分を保持できなくなり、浮腫みもどんどん増してしまう。

 

この浮腫みは内臓にも影響しているようだ。消化能力がやや落ちており、10月頃には鼻から戻してしまう状況があったため、11月初旬からはゆっくり長く入れる持続注入に変更している。

肺の浮腫みは血中酸素濃度の低下につながり、11月頃からは酸素を1.5リットル以上投与している日がほとんどになった。

さらに心配なのが血圧だ。 朝方(4時頃)に血圧が40台まで落ちるということが、この1週間で2度も起きている。

血圧の急低下はショック状態につながり、命に関わる事態だ。

 

このような状況もあり、急いで医師との面談を希望した。(先日面談した医師ではなく、日頃細かい対応をしていただいている医師である)

 

要望は以下など。

・むくみの悪循環を止めるため、水分量を減らす調整をして頂きたい。

・水で半分に薄めている栄養剤について、水の割合を減らせないか。

・コートリルの量を減らせないか。

 

医師の回答として、コートリルの量を減らすことは現状できないとのことだった。

水分調整については、消化への負担や腸管が固まるリスクなどを指摘されつつも、「血管から血管外に出る水分量もそれなりにあるので影響は軽微」との考えも示され、栄養の割合を5割から6割に変更(濃くする)ことに同意いただけた。

また、数日後には微量元素補給のために使っていた「テゾン」(週3回)を、「ピーシーテン」(週4回)に変更するという提案もあった。少しタンパク質が多いようだ。

先生なりに何かできないかと考えてくれたように感じられ、感謝する。

 

先日、主治医に推奨された「薄いジュース」とは逆の対応であり、何が正しいかわからない状況ではあるが、この選択がそうちゃんのプラスになることを祈る。

 

この頃、青山圭秀氏の書籍を読み、インド占星術や「アガスティアの葉」の神秘について関心を持っていた。

 

「アガスティアの葉」とは、インド南部に伝わる個人の運命が記された予言書のことである。

紀元前に実在したとされる聖者アガスティア(やその弟子等)が、太古の昔に全人類の過去・現在・未来の運命を「椰子の葉」に書き残したという伝説に基づいている。

葉を見に来る運命にある人の分(それも、見に来る時点)だけ葉が存在し、その人の全生涯(寿命、仕事、結婚、病気など)が記されているとされる。鑑定方法は事前に自分の親指の指紋(男性は右手、女性は左手)だけ提出し、古代タミル語で書かれている葉を読める専門の読み手(ナディ・リーダー)の質問にYes、Noで答えていく。すると、指紋である程度絞られた複数の葉の束の中から自分の予言書が見つかる、というものである。

以前は現地まで行くことが前提だったので本当に限られた導かれし人や余程行動力のある人しか経験できなかったものだが、今のご時世、オンライン鑑定に対応されている。

 

そんなことが現実にあるわけないだろうと思いつつも、ネットに上がった経験談などを見ると私もまた理性が揺らいだのだ。

そして、アガスティアの葉の鑑定で特徴的なものが、その内容の中にカルマ解消に関する章があることである。

その内容はガンジス川での沐浴や寺院での拝礼儀式であるとかなのだが、オンライン鑑定では現地のお坊さんに代行してもらえるサービスも有料オプションで付けられる。

お金でカルマが解消できる、というのも胡散臭さMAXなのだが、魂の世界もあると思えば、現世に何らかの裏技要素が絶対にないと完全否定することは私のポリシーではない。

 

以前の記事で、息子へのスピリチュアル・ヒーリングの可能性や、その障害となりうるカルマについて触れた。

『シルバーバーチの霊訓』には、カルマ的負債が治癒力の障害になるという記述がある。

もし、息子の回復を妨げているものがあり、それがこんな裏技によってでも取り除けるのであれば、どんなことでもしてやりたいと思う。それが親心というものだ。

そこで、まずは父親である私が実際に鑑定を受け、その信頼性を検証する必要があると考えたのだった。

 

しかし、結論から言えば、今回はカルマ解消の依頼は見送ることにした。なぜそのような判断に至ったのか、客観的な事実とともに記録しておきたい。

 

某大手サイトから申し込み、Zoomでの面談が行われた。

アガスティアの葉といえば、親や妻の名前が葉っぱに書かれていて、それをズバリと言い当てられるという話が有名だ。

しかし、実際の面談は全く驚くものではなかった。例えば、父の名前を特定する際の流れはこのようなものだ。

 

「M, K, Y, Tから始まる?」(Yes)

「M?」(No)

「Y?」(No)

「K?」(Yes)→ 頭文字「K」確定

「次はAかO?」(Yes)

「カ、ケ、コ?」(Yes)

「カ?」(Yes)→ 「カ」確定

「次はZかT?」(Yes)

「カズ?」(Yes)→ 「カズ」確定

「カズエ、カズコ、カズシ、カズト?」(No)

「8文字以上?」(No)

「6文字?」(Yes)

「カズの後はK, Y, T?」(No)

「カズの後はMかN?」(Yes)

「カズマ?」(No)

「カズム?」(No)

「カズ○?」(Yes)→ 特定完了

 

事前にYes/Noを繰り返して選択肢を絞り込んでいくバイナリ・サーチのような方法ということは理解していたが、父の名前に行き着くまでに、実に17回の質問が必要で、流石に言わされている感覚しかなかった。(母は9回、妻は8回だった)

 

日本人の名前は、「A,K,M,Y,S,T,H,N」の8字で頭文字の約80パーセントをカバーできるらしいから、2回ほど4つのアルファベットを並べて聞けば、概ね最初の1字は特定できる。

父の名前の特定にかかった17回の検索は、日本中に存在する13万種類以上の名前リストからランダムに1つを特定する作業と同等の手間をかけていることになり、数学的な確率・統計の範囲内の作業と同等ということだ。

(母や妻の名前も日本人としては推測しやすいもので、驚く回数ではない)

 

こちらの反応を見ながら、その場で情報を確定させていく作業に付き合わされているという印象が拭えなかった。

 

それから、鑑定の信頼性を測るため、私はある種賭けのようなことをした。

現在の長男(そうちゃん)の状況は少なくとも当ててほしかったので、ナディ・リーダーから「お子さんは学校に行っていますか?」と聞かれた際、私はあえて事実を詳細には話さず、「Yes」(籍はあるので)とだけ答えた。

もし、本当に個人の運命が見えているなら、ここで「長男は試練の中にいる」「活動が止まっている」といった言及があるはずだ。もしくは、私の葉が見つからない、という答えになっても仕方がないと思っていた。

しかし、リーダーは私の葉があったと特定し、長男の現在と未来をこう語った。

 

「健康状態は良好です」

「最初のお子さんは大学に入学します」

「60代の頃には、最初のお子さんの結婚が決まるでしょう」

 

私が「学校に行っている(=通っている)」という前提でYesと答えた瞬間、彼の中で「一般的な子供の成長ルート」というテンプレートが適用されてしまったようだ。息子のリアルな現状は、そこには全く反映されていなかった。

最後に改めて健康面を質問したが、「この葉っぱにはこれ以上の情報は出てこない。詳しくはお子さんの葉(別料金)を見る必要がある」とかわされてしまった。順調な未来は断言できるのに、直近の重大な問題は見えない。これは大きな矛盾と言わざるを得ない。

 

今回の鑑定で言われた自分や両親、姉、妻の健康などの未来に関する情報、そして私の前世の話などは(信憑性もないし)割愛させていただくが、最後にカルマ解決法として、インドの寺院への寄付と儀式(約27万円)が提示された。

 

誤解のないように言えば、私はアガスティアの葉という文化自体を全否定するつもりはないし、詐欺だと糾弾するつもりもない。エンターテインメントとして、あるいは心理的な安心感を得るために利用する人がいることは理解できる。

また、かつて青山圭秀氏が紹介したような神秘的な体験をする人が、世界のどこかにいる可能性も否定はしない。(今回の業者が悪かっただけかもしれない)

ただ、私の個人的な体験としては、全く神秘を感じられず、自分の考える真偽の天秤を「偽」のほうに遠慮なく傾ける。

この事実と判断を書くことが、私の見えない世界に対する敬意でもある。

 

自分の鑑定を試金石にしたことで、そうちゃん自身の葉を読むことになって不必要な介入を防げたことは良かった。27万円を遠い国の儀式に使うよりも、そうちゃんや子供たちのために直接なるものに使ってあげよう。

そして、毎日病院に通い、息子の手足をマッサージして、心地よい音楽を流して語りかける、その時間を大事にしようと思ったのだった。

 

12月も半ばを過ぎ、病室の窓から見える景色もすっかり冬めいてきた。

最近のそうちゃんは、以前に比べて心拍数がやや上がりベースラインで90〜100台で推移している。

私たち家族としては、持続注入にしてからは大きな変動もなく落ち着いていると感じていたし、胃残も少なく消化もできていると認識していた。しかし、医療者の捉え方は少し違うようだ。

この日、主治医との面談があった。今回の話の主軸は終末期医療の撤収(栄養の減量)についてである。

医師からは、そうちゃんの全身、特に腸管や肝臓に強いむくみが出ており、現状の栄養量は彼の身体にとって苦痛を与えているのではないか、という重い指摘を受けた。
医師の言葉は、これまで以上に踏み込んだ鋭利なものだった。

「お父様とお母様は、個人的には割と罪深いことをされているなと思っています」

その言葉に、時が止まったような感覚に陥る。

医師の主張はこうだ。

・浮腫により内臓機能が低下しており、消化吸収自体が身体の負担になっている。

・自分自身に置き換えて想像してほしい。お腹がパンパンに張って苦しい時に、無理やりご飯を食べさせられたらどう思うか。

・頑張った先に何か解決策があればよいが、彼にはない。「頑張った先に何もない」ということは分かっていただかないといけない。ゴールのないものを頑張らせるのは両親の思いではないか。

・これ以上何か積極的な治療を過剰に行って、その稼いだ時間が何になるのかと考えた時、時間だけのために頑張らせることに全く意味を感じない。

・彼が一時外泊やこの1年という時間を得たことが本当に幸せだったのかどうか、個人的には疑問がある。

・栄養に関しては、私はもう少し撤収してあげた方がよいと思っている。半分に減らして、薄いジュースにしてはどうか。

医師は「思考停止してはダメだ」「毎日、自分のこととして考えてください」と繰り返した。 

医療者として「これ以上苦しませたくない」という正義感の思いからの発言であることは頭では理解できる。

しかし、私たちに向けられた強い言葉は、親としての愛情や、必死に命を繋ごうとしてきた日々を全否定されたように重くのしかかる。

意味のない時間のために毎日病院に通い、そうちゃんに話しかけたり、ケアしてあげたり、お散歩をしたり、先日の一時外泊もしていると考えられているのだろうか。

私たちは、何も考えずに栄養を入れているわけではない。

40ml/hの速度であれば嘔吐もなく消化できていた実績があるし、心拍数だって以前はもっと高い時期もあったが乗り越えてきた。

現在のむくみは、体内の炎症によりアルブミンが減少していることが影響していると考えられるが、アルブミンの生成には栄養が必要であり、栄養の減量は考えにくい。

医師が言う「限界」と、私たちが日々肌で感じている「まだ頑張れる」という感覚の間には、埋めがたい溝がある。

医師は「未来はない」、「回復はあり得ない」と断言し、医学的な正義(苦痛の除去)を説く。

薄いジュースにして、静かにその時を待とうと。それが慈悲であり優しさという考え方もあるかもしれない。

しかし、私たちにとっての正義は、そうちゃんの意思を代弁し、望む限り家族の時間を共にすることだ。

(確かに苦痛は嫌だろうが、だからといってそれなら死にたいと彼が望むとは到底思えず、我慢しても家族と一緒にいたいと頑張る姿のほうにリアリティを感じるのだ)

私たちはまだ、そうちゃんの生命力を信じている。苦痛があるならもちろん取り除きたいが、それは命を縮めることとイコールではないはずだ。

そうちゃんの意思を代弁した親の思いは、医師から見れば親のエゴであり罪なのかもしれないけれど、医療事故によって健康な体を奪われ、物言えぬ状態にされたのはそうちゃん自身だ。その原因を作った病院側から苦しんでいるだろうから楽にさせるべきと強要されることに理不尽さを感じる。

 

また、このタイミングで急に面談を求められ、強硬に延命を否定されたことに拭いきれない違和感がある。

現在、私たちは医療事故に関する院内報告書の内容について病院側と質問・回答のやり取りをしている。

こちらの指摘に対して回答の一部を削除させることの同意を得たものの、修正版を1ヶ月も出してこないのだ。

友人に相談すると、「看取りの方針に同意させたら死因を上書きできるから、センター調査を免れようとの意図じゃないか」といった意見もあった。


医師との平行線は続く。

それでも私たちは、そうちゃんの代弁者として安易に流されることなく、彼の命を引き続きサポートしていこうと強く思う。

たとえそれが、医師にとって理解しがたい価値観だとしても。

 

中学生時代に共に生徒会に所属し、同じ高校に進学した友人がいる。
去年の年始頃、当時の別の友人からの連絡をきっかけに、私から十年以上ぶりに連絡を入れたのが再会の始まりだった。
彼女は医師ということもあり、私たち家族の状況を深く理解してくれ、そうちゃんのためにと巣鴨のとげぬき地蔵の御守りを送ってくれるなど、当時からとても温かい心遣いを寄せてくれていた。

先日、近況を伝えたところ、病院までお見舞いに来てくれることになった。現在、病室での面会には制限があるため、お散歩という形で、1階で会わせることにした。

そうちゃんは、1か月ほど前に栄養剤を鼻から戻してしまったことがあった。1日3回の注入では負担が大きいのだろうと「持続注入」に切り替え、一旦は休憩時間を設けられるよう注入速度を「55速」まで上げたのだが、再び鼻から出てしまったため、現在は最低速度の「40速」に固定されている。 肺への誤嚥の影響はほどなく回復したものの、浮腫みが強い影響もあってか呼吸状態があまり良くなく、1.5リットルの酸素を要するようになっている。お散歩時に酸素ボンベが必要になることはこれまで少なかったので、トラブルがないようにと気を引き締める。

自宅のほうでも体調不良が続いていた。次男が風邪をひき、妻もそれがうつったのか気管支炎を疑うほど喉の調子が悪化し、私も一時体調を崩した。数日後に次男が発熱し、病院を受診させると溶連菌への感染が判明した。さらに長女が通う保育園では、職員や園児の家族も含めて一時20人以上のインフルエンザ罹患者が出るなど、「大丈夫か」と案じる日々だったが、幸い長女は感染せずに済んだ。そのような状況がなんとか落ち着き、友人もお子さんも含めて体調は良好とのことで、無事に当日を迎えることができた。

当日は妻に先に病院へ向かってもらい、私が駅で友人を出迎えて病院へ案内した。病院に着くと、そうちゃんの体調ならすぐにお散歩に出られそうだと妻から連絡が入った。準備が整うまでの間、食堂で待ってもらいながら、友人にそうちゃんへのクラスメートからのメッセージ集や、11歳の誕生日に看護師さんが作ってくれた手作りアルバムを見てもらった。

病室に向かうと、そうちゃんは既にバギーに移乗していた。呼吸器などの機材を手早くバギーに積み込み、1階へ下りる。いつもお散歩に利用している別棟の待合スペースで、友人とそうちゃんを会わせることができた。

1時間程度、そうちゃんの昔の映像などを見せながら、妻も交えて話をすることができた。 彼女はそうちゃんに優しく声をかけ、左手や左腕を長い時間触れてくれていた。自分の職業柄、そうちゃんの状態がどういうものであるかは理解しているはずだ。ふと、自分だったらできるだろうかと思ってしまう。その上で、こうして直接足を運んでくれたことに、改めて感謝の思いが湧き上がるのだった。

その後、そうちゃんをベッドに戻し、友人を駅まで送って一緒に昼食をとった。食事中、資料を見せながら病院とのやり取りや現状を共有させてもらった。専門外のことをこれだけ調べ上げ、それでも病院から不誠実な対応をされているという事実に、彼女は涙を流して共感してくれた。

「自分のことだったら、あるいは諦めるほうが良いのではないかと思うこともあるけれど、子どものことなので」
私のその言葉に、深く納得してくれたようだった。

数日後、こちらからの感謝のメールに対し、彼女から返信が届いた。そうちゃんが彼女に伝えてくれたこともあったのかもしれない。

「お見舞い、私「自分は部外者だから」と結構覚悟決めて行ったつもりだったけど、それでも泣けてしまいました。 ただただ、(そうちゃん)君のパパママの深い愛を感じた次第です。 私は…夫妻の側に居たいと思います。」

クリスマスプレゼントとして、子どもたちにと頂いた3人お揃いのコップ。それを見るたびに、またひとつの愛情をそうちゃんが吸収してくれるような気がして心が温まる。
 

そうちゃんの病室の床頭台には、5年生の国語と道徳の教科書を入れてある。 保育士さんに読んでいただくために持ち込んでいるのだが、この日はふと、私も道徳の教科書をめくってみた。

 

そこには、社会の中で互いに気持ちよく生きていくために、「公平・公正・社会正義」や「正直・誠実」の大切さがテーマとされていた。 具体的なエピソードや、自分ならどうするかを考えるシチュエーションなども載っている。

 

障害者に対して配慮してあげるシチュエーションもあり、大人でも少し考えさせられてしまった。

 

これを学ぶ小学5年生の成長を立派だと思う反面、現実社会では、この美しい道徳がいとも簡単に踏みにじられていることに気づき、大人の世界の薄暗さを感じずにはいられない。

 

金銭や地位、名誉といった現世利益。「自分が今、得をするかどうか」だけで判断する利己主義。それらを背景とした不公正や忖度は、私たちの見えないところで密かに処理されていく。そして私たち大人もまた、それを「仕方がないこと」「世の中そういうものだ」と、どこか割り切ってしまっているのではないか。

 

現世利益への欲求や利己主義は、「持たざる者」だけが執着するものではない。むしろ多くのものを「持っている者」こそ、競争や他者との比較、そして今あるものを失う恐怖から、強烈な自己保身に走るのだと思う。彼らは社会的に立派な外観をまとっているだけに、その内面の倫理観の欠如は、いっそう異様な違和感として映る。(これらを考えると、「足るを知る」ことや「中庸」という言葉の重みが、改めて身にしみる。)

 

子どもたちに、そんな厳しい現実を教える必要もいつかはあるだろう。けれどもやはり、伝えるべきは教科書にあるような理想の道徳であってほしい。誰もがその心を大切にすれば、世界は確実により良い場所になるはずだから。

私たち大人は、他者を犠牲にしてまで利己主義を押し通すことの卑劣さに、もっと自覚的であるべきだ。

 

最近、私がスピリチュアリズムの思想に重きを置いていることは既に述べてきたことだが、「この世に生まれ、人生を体験するのは魂を磨くため」だと捉えるならば、利他の精神を貫き、愛を学ぶことこそが、私たちが生きる本当の意味なのだろう。

 

もし、そうちゃんが医療事故という被害に遭わなければ、見えなかった世界や考え方かもしれない。

当事者になったからこそ、同じような境遇の方や、ニュースで報じられる理不尽な事故の被害者に、心から寄り添うことができるようになったと感じるのも事実だ。(寄り添えると思うことは傲慢かもしれないが、その権利を得たように感じる)

 

ヒーリングをしてくださる方々の深い愛や、損得勘定抜きで私たちを助けようと動いてくださる方々の姿は、まるで神の使いのようにも思う。

そんな方々から、我々のそうちゃんへの献身や様々な努力に敬意を払っていただくのだが、とても恐縮してしまう。

 

自分にも何かできることはないか、本当に大事にすべきことは何なのか。

 

病室の片隅で、改めて深く考えさせられつつ、今日もそうちゃんにヒーリングを送る。