いよいよ、そうちゃんの肉体とお別れする日がやってきた。

天気予報の通り、空は晴れ。そうちゃんがイベントの度に「晴れ男だ」と呼ばれて、周囲を笑顔にしてくれたことを思い出す。

早めに起床して朝食を食べ、喪服に着替えて8時すぎには葬儀社に到着した。

 

建物の中に入ると、既にBGMが流されており、会場入口と待合室に設置された画面で、そうちゃんの写真がスライドショーで映されている。

Mr.Childrenの「しるし」が流れ、最期の時が思い出される。不思議な縁を感じて選曲していたものだ。

続くmiletさんの「Anytime Anywhere」とrionosさんの「Viator」は、ちょうどそうちゃんが生まれた頃から私が愉しむようになったアニメの世界から選んだ曲で、自分自身の癒しにもなるので、病床のそうちゃんにも何度も聴かせていた。(わかる方には共感していただけるかも?)

心魂プロジェクトの「kaito」と「ひとつ」は、昨年末のクリスマスイベントから。少し小さかった音量も調整していただけているのを確認して、スタッフの方々に感謝を思う。

 

祭壇中央には、笑顔のそうちゃんの遺影があった。その左右に喪主からのお花と、両親や職場からの生花が飾られ、ちょうど良い賑やかさになっていた。

 

柩は祭壇の前に横向きに置くのが通常だが、今回は中央に縦向きに置いて、その周りにもお花を飾り、参列者も左右から柩を囲む形を選んでいた。

そうちゃんに、「今日は一緒に頑張ろうね」と声をかける。この告別式は、そうちゃんと一緒に作り上げる最後の時間だと感じていた。

 

支店長が、そうちゃんのエピソードを聞いた印象から、縦20cmくらいある手作りの将棋の駒(紙製)を作ってくれたとのことで、飾ってあげた。

表は名前で、裏には「飛車」と書かれている。

支店長によれば、「そうちゃんは『王将』よりも『飛車』のほうが好きだったように思ったので」とのことだ。確かに、自分の気持ちにまっすぐだった彼を象徴するようだと思った。

 

じきに親族が集い、記名、待合室、座席位置などを案内する。

ややもして、住職も到着した。

頃合いを見計らって支店長から声を掛けていただき、挨拶をする。そこで、そうちゃんの戒名と、その名付けの理由を教えていただいた。

 

院号については敢えてお尋ねできなかったが、子供であり、その存在の尊さを称えて授与していただいたのかもしない。

混じりけのない、清らかな心を表す語が用いられ、そうちゃんの心がどこまでも美しくピュアであったこと、そして家族にとって純粋な愛そのものであったことを象徴しているように感じられた。

戒名というと、これまでは仏教のしきたり上だけで、あまり意味のないものと考えていたが、今回いただいたお名前はとてもしっくりきて、親しみを感じられるものであり、自然と受け入れられるものだった。

 

間もなく開式となり、住職の読経、遺族・参列者の焼香などが執り行われた。

そうちゃんの生前の姿を思い出したり、親族の悲しむ姿などを見るたびに、私の感情も波立ち揺り動かされた。そんな時には、供花の札にある職場の幹部の名前を見て、仕事場での幹部説明の緊張感を思い出すと、平静を保つことができた。

 

喪主の挨拶は私のお役目である。

そうちゃんとのこれまでの歩みを大切に思っていることを伝えつつ、そうちゃんからの御礼も代弁するように、参列者にこれまでのサポートへの感謝を伝えた。

 

その後、葬儀社の司会から、「とある国では死別の悲しみを『親しい友人』と呼ぶのだ」というような話がなされた。

悲しみを友人と呼ぶことで、それが単に苦痛を与えるだけのものではなく、思い出を大切に抱えて生きていくための心の居場所であることを示唆されたように感じた。

 

一旦、家族だけが柩の周りに集まり、写真を撮っていただいたり、副葬品を入れる。

千羽鶴、クラスメイトからのメッセージ、義妹家族からの手紙、私の両親の家で遊んだ紙飛行機、義両親からよくいただいていた思い出のお菓子などを入れ、弟妹たちも一緒に、家族写真を満遍なく置いていき、最後に作っていただいた将棋の駒を中央に据えた。

 

そうちゃんの頭の両脇から顔を出すシャチのチッチとクジラのクロ(ぬいぐるみ)は、最期までそうちゃんと一緒だ。

一度はそうちゃんの形見として持って帰ろうかとも思ったが、彼らが離れる隙はなく、ほとんどいつも一緒だった。どうか今後のそうちゃんの道が寂しくならないように、ずっと側にいてあげてくれと祈りを込めた。

 

それから親族も加わり、静かなオーケストラやピアノ曲のBGMが流れる中、お花入れ、フルーツ入れが始まる。

柩はそうちゃんの顔以外はほとんどお花で一杯になり、口の周りには彼が大好きだったシャインマスカットといちごが乗せられた。

 

お棺の蓋を閉めるということで促され、そうちゃんの額を撫でる。

最終的に私から出てきた言葉は、「ありがとう」だった。

 

出棺の準備が整い始めた頃、スピッツの「楓」が流れ始めた。

住職を先頭に、仮位牌、遺影を持つ両親などと行列を作り、ぴったり曲の終わりで葬儀社を出て、火葬場への車に乗り込んだ。

 

火葬場での出来事は割愛するが、温かい見送りの時間を経て、そうちゃんは小さくなり、これまた綺麗な水色の骨壺に収まって、私たちの自宅へと帰ってきたのだった。

 

この日、Cさんのセッションを久しぶりに受ける機会をいただいた。

前回のセッションからおよそ一年だ。

スピリットガイドにメッセージをいただくことができないか質問するメールを送ると、別枠で時間を作っていただけた。大変ありがたい配慮である。

 

40分のセッション時間のうち霊界と繋がってメッセージを受け取る時間は30分ほどとのこと。
自分のスピリットガイドや霊界の存在から、その時に必要なメッセージが届けられるという形式であり、質問があれば途中で聞いてもよいとの説明があった。

 

セッションが始まると、Cさんはまず、霊界から強く伝えられていることとして、私たち家族が毎日病院へ通っていることなどについて「よくやっている」という言葉を伝えた。

さらに、息子の急変直後の頃を振り返り、当時は藁にもすがる思いで様々な書物を読み、インターネットで調べ、自分たちにできることはないかを必死に探していたと思うが、当時と比べて家族の心の持ち方が変わってきていること、今はどうにかしてあげたいという気持ちはありながらも、より大きなエネルギーに委ねているような感覚があるのではないかと伝えられる。

 

霊界が喜んでいるのは、私たちが霊界の存在を信じていることだという。

見えないものを信じることは簡単ではないが、祈りや愛、そして希望のエネルギーは確かに存在し、それが息子を包んでいるのだと伝えられた。

今、そうちゃんの魂は非常に穏やかな状態にあるという。

病状の経過の中では、数値が大きく上下したり、体調に影響を与える出来事が起きたりすることもあるかもしれないが、私たちが行っている祈りはまっすぐ霊界に届いていると伝えられる。

私だけでなく、妻も祈りを大切にしていること、そして祖父母などの先祖に対しても助けを求める真摯な祈りが届けられているという。

霊界も最善を尽くしているので心配しないでほしいとのことだった。

 

また、家族自身にもヒーリングが必要であるとの話もあった。

家族が元気であることはそうちゃんにも影響しており、家族の持つ活力や愛情のエネルギーが彼のオーラの中に入り、潜在意識のレベルで「頑張ろう」という力になっているという。

そのため、面会の際には悲しみに沈むよりも、明るい気持ちで接することが大切であるとも伝えられた。

 

さらに、友達から届いたメッセージや折り鶴などについても触れられる。

そうちゃんはそれらをすべて愛として受け取っており、言葉や触れること、手を握ることなども含めて、周囲から向けられている愛情をスポンジのように吸収していると伝えられた。

目に見えない言葉や思いも含め、多くの愛に包まれているという。

また、私が近況を周囲の方々に報告し感謝のメールを送っていることなども、親が子に向ける無条件の愛として霊界に伝わっているとのことだった。

 

その後、そうちゃんの一時外泊について2回目を考えているのかと先方から言及された。

そうちゃんの魂も、霊界もそれをとても喜んでおり、家族にとって大変なことでもあるが幸せな出来事でもあると伝えられる。

その時間を大切にしてほしいとのメッセージだった。

 

また、私が行っているヒーリングについても触れられる。

家族に対してヒーリングを行う場合、自分の感情や意識が入り込みやすいが、そうならずに霊界のエネルギーを真っ直ぐ流せていると伝えられた。

仕事や家庭のことを抱えながら学びを続けてきたことも含めて、霊界はその努力を高く評価しているという。

 

「今、お父様が創太くんに何ができるのかって。祈りもしていて、ヒーリングの依頼もしていて、ご自身でもヒーリングをされていて、その崇高な気持ちというか、霊界に対する感謝の気持ちを霊界もわかっている。」

 

できる限りのことを全てやっており、本当によく頑張っていると労いの言葉が繰り返し伝えられた。

さらに、人を励ましたい、同じような状況にある人の役に立ちたいという思いが強くなっているとの話もあった。自分が何かを得るためにやるのではなく、自分も助けてもらっている、自分自身も何かちょっとでも人の役に立てればと思っていることは本当に素晴らしいことであるとのことだ。

 

ここで、私のスピリットガイドについても言及があった。

完全に入れ替わったわけではないが、今まで前面に出ていたガイドが後ろに下がり、この時期を待っていた別のガイドが前に出てきているという。

そして、霊界とのコンタクトをより深めたいという関心が高まっているのではないかとも言われた。

その流れの中で、私には強いサイキック能力の素質があるとも伝えられる。

視覚的に「視る」タイプではなく、感覚で受け取るクリアセンティエンス(感受能力)の性質が強いという。

その能力はまだ芽の状態だが、自然な形で開花していくので焦らなくてよく、そのためには自然に触れる時間を大切にすることが重要とのことだった。

空や風、太陽、土、植物など、自然に意識を向けることで準備が整い、やがて全ての点が繋がる瞬間が訪れるという。

 

これまで色んなことに関心を持ったり、調べて篩にかけてみたりして、これは絶対こうに違いないと思ったところに道を開いている。ガイドさんは、今まで通りに行きなさいと言っている。色んなことを聞いたり目にしたりするかもしれないけど、自分の心に聞きなさいと。でもブレない人だと。一度こっちに行ってもやっぱ違うと思えば真ん中に戻る人だから心配してないんだってことを言ってます。」

 

この言葉はまさに私が何に対してもフィフティーフィフティーで考え、天秤を傾けられるか判断する信条の話をしているようで興味深かった。引き続き、自分自身の理性を用いて信じられることを見定めていこうと思う。

 

一方で、そうちゃんの今後の経過について質問したところ、その点について霊界は答えないという。

人の寿命や将来は神のみが知るものであり、ミディアムであってもそれを知ることはできないという説明だった。

霊界が伝えてきているメッセージは「愛」と「希望」の二つであるとのことだった。

(この時、私は回復が難しいことを直感として感じた。先ほどの、一時外泊の時間を大切にとのアドバイスも思い出され、霊界は時間が限られていることを間接的に伝えているように感じられたのである。)

 

また、現状となった経緯に関連して、原因究明を続けていることについても相談した。

その点についてもアドバイスをいただき、息子のために真実を明らかにしたいという思いで行動していることであり、その気持ちは霊界も理解しているという。

「私からも霊界にお願いしておきますね」との言葉に、心が軽くなる思いだった。

(このセッションの約2週間後に、原因究明に関する重要と思われる発見があり、秋から冬にかけて地道な歩みながら様々な出会いやご協力を受けつつ進展していくのだった)

 

少し前にアガスティアの葉鑑定を受けた流れもあり、カルマの問題についても質問した。

ヒーリングで回復を願う一方で、カルマの制約があるのではないかと考えることがあると伝えたところ、カルマは簡単に解除できるものではないという話があった。

霊界からということではなくCさんの実感から、「カルマの鎖を溶かせるのは愛である」とのことだ。愛を与え、愛を受け取り、気づきを得ることによってカルマは緩和されていくかもしれないと。

そうであれば、家族が互いに支え合い愛を深めている今の状況が、カルマを解いていく過程ではないかと思われたのだった。

 

霊界は愛と希望のエネルギーを送り続けているので、それを信じて進んでいけばよいとの言葉をいただき、セッションは終了となった。

 

このセッションも、会話はスムーズで多くの励ましを受けた。

自分に霊的な能力(の素質)があるという点にはまだ実感がない(ヒーリング時に感じるつながる感覚やエネルギーの波動の感覚は自覚があって、ヒーリング練習では主観的な印象をフィードバックしたりしているが、客観的に本物のものと言えるものではない)。

物理的に多忙な日々が続き、様々な思いが交錯する中、亡くなる前にUPできず、結果的には約半年後に亡くなってしまったのであるが、ひとつの重要な思い出のため記録に残しておく。

ここで語られた「愛」と「希望」は、全てが失われたものではないと信じている。

 

 

※本記事に記載しているセッション等の内容は、当時のメモと記憶をもとに、私個人の体験として概要をまとめたものです。

セッション等の内容の解釈や受け取り方についてはあくまで私個人の理解に基づくものとなります。

本記事は長男の闘病および私の精神的体験の記録として残しているものであり、特定のサービスや人物を紹介・評価する目的で掲載しているものではありません。

 

そうちゃんの一時外泊時に使用していた経口栄養剤「ペプタメン」の賞味期限が迫っていた。

ペプタメンは小分けでの入手が難しく、箱買いするしかなかったため、かなり余ってしまっていた。(1回目の一時外泊時は姉が直接業者に当たって試供品として入手してくれたのだが、2回目の外泊時に不足することがわかったため、思い切って箱で購入した経緯がある)

 

そのまま廃棄してしまうのも気が引けるので、自分たちの料理に使えないか、いくつか試行錯誤してみた。

ペプタメンはエネーボよりはあっさりしているものの、それでもかなり濃厚で、ミネラルも含まれているためか喉ごしに独特の苦味がある。

 

まずは、2倍の牛乳で割って、きな粉か抹茶、それにオリゴシロップを少々加えるドリンクを作ってみた。

まずまず美味しく飲めたのだが、後味に若干の苦味やクセが残る。興味を持った下の子どもたちにもあげてみたが、2人とも全部は飲めず、不評だった。

 

次にシチューに入れてみた。

1200ml中に100ml程度の量でも、全体に甘味が増したのを感じる。子どもたちはペプタメンが入っているとはわからなかったようだが、入れた本人としては、やはり若干の苦味やクセが気になり、それは美味しさを増すベクトルではない。

 

別の日には、ホットケーキミックス(150g)に入れてみた。

クセを隠すためにバナナを1本潰してペースト状にし、牛乳の代わりにペプタメンを100ml入れて生地を作り焼いてみたところ、こちらは子どもたちに好評でしっかりと食べてくれた。

しかし、自分としては思ったより甘味が少なく、バナナの風味も中途半端な気がして、おかわり分の生地はいつもの材料に戻した。

 

そんな試行錯誤の中、私がベストだと思ったのは、ペプタメンを使ったコーヒーゼリーである。

コーヒー本来の苦味が、ペプタメンの独特の苦味やクセを上手に隠してくれて、普通にカフェオレゼリーのような感覚で美味しく食べられる。妻にも好評を得たため、早速追加分も作った。

大量でも食べられそうだが、栄養たっぷりなので、デザートとして少しずつ頂くのがよいだろう。同じように余った栄養剤の消費に困っている方のために、参考までにレシピを載せておく。

 

【ペプタメン・コーヒーゼリー】

コーヒー(無糖) 450ml

ペプタメン 150ml

粉ゼラチン 10g

(お好みで)バニラエッセンス 数滴

 

・コーヒー300mlを鍋にかけ、沸騰させずに60℃程度に温める。

・火を止めてペプタメンを混ぜ、粉ゼラチンを溶かし入れる。

・残りのコーヒーとバニラエッセンスを入れて混ぜ、カップなどの器に注いで冷蔵庫で冷やす。

・3時間程度待てば完成。お好みで練乳やシロップをかけても美味しい。

 

 

それから、そうちゃんの事故があってからずっと手をつけられずにいた、ベビー用品の整理を行った。

親戚から譲り受けてそうちゃんの時から使い、甥や姪に回ってまた戻って来たり、さらに追加されてきた品々だが、長女ももう大きくなり使用できなくなったものがダンボールに山積みになっていた。

 

普段、なかなか物の処分ができない妻も、思い切って不要な品を区分けして袋に詰めていく。しかし、黄色いひよこの絵柄の付いた服だけは、自分が選んで買ってあげたもので、産後退院する時に3人とも着せてあげたものなのでどうしても捨てられないと言う。

もちろん、そういう特に思い出の詰まった品は残しておいてよいだろう。

 

衣類や布製品はまとめて袋に入れ、わかるようにすればリサイクルに回すことができる。それを除いても、45リットルの可燃ごみが2袋、20リットルの不燃ごみが2袋も出た。

使い込んだベビーサークルベッド、ハイローチェア、ベビーバスは流石に粗大ごみで出すしかなく、回収に出せるよう準備をしておく。

 

サークルベッドのダンボールの上に乗せていた、そうちゃんの写真をたくさん貼った思い出のコルクボードも、壁から吊るす形に整えた。

ようやく、一時的にと思って部屋の中央に置かれていたソファーが本来の壁沿いに移動でき、作業部屋が快適さを取り戻した。さらにこの際、ヘタってしまっているソファの座面を交換しようと考え、高反発素材のウレタンを追加することにして業者に見積もりを依頼した。

 

やってしまえば1日で相当作業が進んで、少し気が晴れたような気がした。

しかし、これができなかった日々を思い出し、また、まだ他の進んでいないことを思い出すと、その気持ちも陰ってしまう。

 

妻は最近「寝付きが悪く、よく眠れなくなった」と言う。

子どもたちにまで影響はないと思いたいが、この日は長女も深夜に起きて泣き、怖い夢を見たとのことだった。

 

グリーフケアについて学ぶために本を借りてきたりもしてみたが、集中して読めずにいる。

「時間が解決する」とはよく聞く言葉だが、そういうものでもないような気がしている。

 

少し位置が高くなったが、机の上の壁に収まったコルクボード。

椅子にもたれて見上げると、そこにあるそうちゃんの笑顔に、少しだけ癒された。

そして何ができるのか、何をしていくのか、答えのわからない問いが頭に浮かんだ。


前回に続き、生涯背負う重荷とシルバーバーチが言う「神の公平」に関する不公平感について考察していく。

 

ただ、私自身の経験が特別だとは思っていない。誰にでも、理不尽な苦難が降りかかる可能性はある。

耐えがたい苦痛は、魂の成長のために必要・重要であり、あらかじめ大我(自分のより大きな意識らしい)が決めて人生を始めたとの話と、神は公平であるとされていることについて単純に疑問を抱いたので調べている、という話だ。

 

前回は他人と違う、という横の比較をしてみたが、縦の比較もある。

 

現世の苦難が、前世のカルマの清算や魂の成長につながるとしても、過去の記憶が消されている以上、今現世に生きている私にとっては理由のわからない理不尽な苦痛でしかないのではないかという疑問である。

海の中(潜在意識・大我)には記憶があると言われても、海面に出た氷山(現世の自我)の私にはわからない。

 

シルバーバーチは神の公平な摂理は精密に働くと説くが、それが我々の次元で客観的に検証することが難しい以上、その真実性を確信することは容易ではない。

「来世で報われる」「前世の借金を返した」という説明は、現在苦しんでいる人を納得させるための、反証の難しい説明のようにも見えてしまう。

 

こうした前世やカルマによる説明は、現実社会においても問題を生んできた。

「前世のカルマ」といった話は、それを理由に不幸を説明し、高価な壺などを購入させるような、いわゆる霊感商法などに悪用されてきた歴史があり、抵抗感を受ける人が多いと思う。私もアガスティアの葉鑑定で似たような印象を持った。

 

記憶を消す理由については、実感を持って経験するためだと頭では理解しても、何でもできるはずの全能の神であれば、分霊である私たちが苦痛なく納得できる、別のシステムを作れなかったのだろうか。なぜ苦難に他の感情にはないプラス面が強調されるのだろうか。完全な公平、埋め合わせが起きるとすれば、どのように苦痛のマイナスは計量されるのだろうか。

 

これらの疑問について、明確にこれはこうだから最も合理的で不公平はない等と解消してくれる内容は見つけられていない。

 

それでは神の公平は証明されないからおかしいと、この霊訓を否定するつもりもない。客観的証明ができないものを盲信することの危険は、シルバーバーチ自身が戒めており、以下の箇所では神妙な気持ちにさせられた。もしかしたら、いくらか救いを感じられる方もいるかもしれないので少し長いが抜粋する。

 

「(前略)いかなる体験も魂の成長にとっては何らかの役に立つことを知ります。その認識のもとに一つ一つの困難に立ち向かうようになり、首尾よく克服していくことでしょう。そのさ中にあってはそうは思えなくても、それが真実なのです。あなた方もいつかは私達の世界へお出でになりますが、こちらへ来れば、感謝なさるのはそういう暗い体験の方なのです

視点が変わることによって、暗く思えた体験こそ、そのさ中にある時は有難く思えなくても、霊の成長をいちばん促進してくれていることを知るからです。今ここでそれを証明して差し上げることはできませんが、こちらへお出でになればみずから証明なさることでしょう。

 (中略)探求の歩みを止めてはいけません。歩み続けるのです。ただし霊媒の口を突いて出るものを全部鵜呑みにしてはいけません。

 あなたの理性が反撥するもの、あなたの知性を侮辱するものは拒絶なさい。理に適っていると思えるもの、価値があると確信できるもののみを受け入れなさい。何でもすぐに信じる必要はありません。あなた自身の判断力にしっくりくるものだけを受け入れればいいのです。

 (中略)霊媒の健康状態、潜在意識の中の思念、頑なに固執している観念などが伝達を妨げることもあります。その上に、私たちスピリット自身も誤りを犯す存在だということを忘れてはなりません。死によって無限の知識のすべてを手にできるようになるわけではありません。地上時代より少し先が見えるようになるだけです。

 そこであなた方より多くを知った分だけをこうしてお授けしたいと思うわけです。私たちも知らないことが沢山あります。が、少しでも多く知ろうと努力を続けております。

 より開けたこちらの世界で知り得た価値ある知識をこうしてお授けするのは、代わってこんどはあなた方が、それを知らずにいる人々へ伝えていただきたいと思うからです。(中略)私たちは自分自身のことは何も求めません。

 お礼の言葉もお世辞も要りません。崇めてくださっても困ります。私たちはただの使節団、神の代理人にすぎません。自分ではその使命にふさわしいとは思えないのですが、その依頼を受けた以上お引き受けし、力の限りその遂行に努力しているところなのです」(『六』十二章)

 

また、シルバーバーチは、物質界のミクロな視点での不公平感を地上の人間の尺度で論理的に納得させることは不可能であることも認めている。

 

「本来霊的な問題を物的尺度で解決することはできません。地上生活という極めて短い期間の体験でもって永遠を判断することはできません。神の公正は無限の摂理によって支配されており、その全てを小さいひとかけらだけで持って理解することはできません。

 小さなものが自分より大きいものを理解出来るでしょうか。一滴の水が大海を語れるでしょうか。部分が全体を理解出来るでしょうか。

  宇宙はただただ感嘆するばかりの見事な法則によって支配されております。完璧な叡知によって創造されているからです。法則が狂うということは絶対にありません。時に不公平のように思えることがあるのは全体の一部だけを見ているからです。

全体が見えるようになれば考えが変わります。地上にいる限り、その短い期間で無限を理解することはできません。

  埋め合わせ、あるいは応報の原理は人間には理解できません。霊の世界の豊かさ、美しさ、見事さは、それを譬えるべきものが地上に無いのですから、人間には理解する手掛かりがないわけです。宿命的に判断力が制限され、視野が狭められている人間にどうして地上の裏側の世界が理解できましょう。」(『一』十章)

 

話をまとめると、

私たちが感じる不公平や理不尽さは、魂の長い歩みのごく一部だけを見ていることから生じている――シルバーバーチはそのように説明している。

記憶を持たないまま地上を生きる私たちには全体像が見えないため、不公平に感じられてしまうのだという。

そして、もし過去から未来にわたるすべての経験を見渡すことができれば、そこには完全な公正が働いていると理解できる、という立場になる。

ただ、そうした説明があるとしても、今まさに苦しみの中にいる一個人としては、すぐに納得できるものではない。

とりわけ、記憶が断たれたままカルマを背負うという仕組みについては、同じ「自分」の中で完結しているとは感じにくく、どうしても違和感が残る。

 

シルバーバーチが伝えるこの世界の仕組みそのものに対する疑問は簡単には消えないが、現時点では結論を急がず、この違和感を抱えたまま考え続けていきたいと思う。

 

ちょっと難しい話だったと思うので、少しブレイク記事を入れていきます。

 

前回、シルバーバーチの霊訓によれば、私たちが霊的成長、霊性向上を求めるのは、神の一部であるための宿命であるとされていることを知った。

そこで私は、魂が成長を求めるのは仕方がないとしても、そのスピードはゆっくりでも良いのではないかと考えた。

子どもが若くして事故で亡くなる、その親が子を亡くす苦痛を味わう、というような悲劇を経験してまで急激な学びは必要ないのではないかと。

 

分霊である私たち1人1人の個人が神の表現だとしても、皆が皆、ここまでの経験をするわけではない。このような経験をする個人の負担は重く、他の個人との格差を不公平に感じられてしまうのである。

 

一方で霊訓の中には、「神の公正」が説かれている。

 

「神の公正は完璧です。だますことも、ごまかすこともできません。」(『一』十章)

 

「善因善果、悪因悪果というのも大自然の因果律の一部です。その働きには何者といえども介入を許されません。これは神の公正の証として神が用意した手段の一つです。」(『四』三章)

 

シルバーバーチのいう神の公平があるとすれば、息子がこのような悲劇に遭ったこと、我々も喪失の痛手を負ったことに、帳尻を合わせてくれるようなプラスがあると考えたいものだ。

カルマを説明する文脈では行為の善悪に関するものが多いが、以下の記載からは救いが用意されているように思われる。

 

「悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線に触れた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。(中略)悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。」(『一』三章)

 

「悪戦苦闘すること、暗闇の中に光を見出さんと努力すること、嵐との戦いの末に再び太陽の光を見てその有難さをしみじみと味わうこと── 魂はこうした体験を通して初めて成長するのです。低く身を沈めただけ、それだけ高く飛躍することができるのです。」(『一』十一章)

 

一方で、魂の成長理論は、個人の苦痛を正当化してしまうのではないか?とも考える。

そして、論点が広がるが、魂はそれぞれ輪廻の数が異なったり、成長度合いが異なるという話や、過酷な苦痛を味わえばそれだけ魂が成長し、より高層の霊界に進むことができるとも言われ、霊界に戻ると魂は同じレベルの魂が集まっている類魂(グループソウル)に統合される、との話もある。

 

類魂に統合されてしまうのであれば、グループ内の他の個人(霊)は、苦痛を経験せずとも恩恵を受けられることにならないのだろうか。それは個人間の不公平になってしまわないのだろうか。

 

この点について、シルバーバーチは、霊界に戻って魂が統合される先を「大我(たいが=より大きな自分)」と呼び、現世の私たちが苦難を経験するのは、見知らぬ他人の魂(類魂)にタダ乗りさせるのではなく、自分自身の本体である「大いなる自分」に必要な資質を付加するためであるということらしい。

 

「地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につけるうえでそのコースがいちばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです。

その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを承知のうえで生まれて来ているのです。その人生を生き抜き困難を克服することが内在する資質を開発し、真の自我──より大きな自分に、新たな神性を付加していくのです。その意味では〝お気の毒に・・・〟などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨することもないわけです。こちらの世界は、この不公平や不正がきちんと償われる世界です。」(『一』六章)

 

公平性を考える上で、子どもや自分たちといった個人に注目してしまうのだが、霊界という次元の大きな視点からすると視野が狭いようだ。

 

シルバーバーチは生まれ変わり(輪廻転生)のことを「再生」と呼んでいるが、そのあたりの説明も以下のような形なのである。

 

「再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物とは申しておりません。一個の人間は氷山のようなものだと思って下さい。海面上に顔を出しているのは全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのはその海面上の部分だけです。死後再び生まれて来た時は別の部分が海面上に顔を出します。

潜在的自我の別の側面です。二人の人物となりますが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。霊界で向上進化を続けると、潜在的自我が常時発揮されるようになっていきます。(以下略)」(『六』五章)

 

私たちは霊として肉体を離れても生き続けるのだが、その意識というのはより拡大していて、複数の過去世を統合した存在としての意識になるのかもしれない。

しかし、同じ類魂から同時代に生きる人間が生まれてくることもあるようだし、理解が追いつかない。

 

少し話が広がりすぎてしまったかもしれない。

まとめると、

シルバーバーチの霊訓では、人によって経験する苦難の重さが違うことについては偶然や不運ではなく、それぞれの魂――より正確には「大いなる自分」にとって必要な経験として、自ら選び取っているものだとされている。

また、私たちが見ている「一人の人生」は、氷山の一角にすぎず、本来の自己はもっと大きな存在であり、複数の人生や経験を含んだ広がりの中で成長しているという見方になる。

そう考えると、この人生だけを切り取って不公平だと感じていること自体が、限られた視点によるものだとも言えるのかもしれない。

とはいえ、今この瞬間に悲しみや苦しみを抱えて生きている一個人の立場からすれば、そうした説明だけで納得することは容易ではない。


視野の狭い考えに固執することも本意ではないのだが、この不公平ではないのかという感覚については、もう少し考えてみたいと思う。