以前の記事「なぜ人によって苦難の重さが違うのか」の中で、私は苦難の個人差について考えるにあたり、シルバーバーチの霊訓が語る「魂は転生前に自らの人生の大まかなコースを選び取る」という考え方を取り上げた。
そこで鍵となったのが、「大我(だいが)」という概念だった。
シルバーバーチによれば、魂は地上に生まれてくる際、潜在的大我の発達に必要な資質を身につけるために、自らに適した人生を選ぶという。
では、その「大我」とはいったい何であり、今、私が「自分」だと思っている存在とどのような関係にあるのか。
そして、今世を生きながら、その大我の視点に少しでも近づいて生きることはできるのだろうか。
シルバーバーチは、私たちが普段「自分」だと思っている意識について、次のように語っている。
「自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどのものでしかありません。」(『シルバーバーチの霊訓(一)』第一章)
「ピンの先ほど」という表現には驚かされる。
私たちは、一生をかけて知識を増やし、さまざまな経験を積み、記憶を重ねながら、「自分」という存在を形づくっていると思っているが、シルバーバーチの世界観では、それさえも本当の自分のほんの僅かな一部にすぎないらしい。
氷山の比喩も以前に取り上げたように思う。
シルバーバーチは別の箇所でも、地上で表現される「パーソナリティ」と、本当の自我である「インディビジュアリティ」を区別している。地上で現れている人物像は、本当の自我のごく小さな部分にすぎないという。
このインディビジュアリティを、日本語で理解する際の一つの表現が「大我」なのだろう。
「大我」を理解するには、「小我」と対比して考えるとわかりやすいかもしれない。
「小我」の概念は、今の身体、感情、欲望、社会的立場、記憶、経験などを通して認識している個人的な自己であり、それに対して「大我」は、それらを包含しながらも、今の私の意識をはるかに超えて存在するより大きな自己とされる。
なお、スピリチュアルの世界では「ハイアーセルフ」という言葉もよく使われる。
私も当初は、大我とほぼ同じ意味なのかと思っていた。
ただ、一般にハイアーセルフは「現在の自分より高い視点を持ち、自分を導く高次の自己」といった意味で用いられることが多いようで、シルバーバーチのいうインディビジュアリティや大我とは、完全に同じ概念として扱わない方がよさそうだ。
さて、シルバーバーチは、地上へ生まれてくる際の人生選択について、こう語っている。
「地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につけるうえでそのコースがいちばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです。」((一)第六章)
ここで大切なのは、人生で起こる出来事の一つひとつを、あらかじめ細部まで選択しているという意味ではないことだ。
同じ箇所でシルバーバーチは、「私が〝魂は知っている〟と言う時、それは細かい出来事の一つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースを辿るかを理解しているということです。」とも説明している。
つまり、より大きな自分が、魂の発達のために必要となる人生の大きな方向性や条件を選び、その中で今世の私たちが自由意志を使いながら生きている、そう捉えるのがよいと思う。
以前の記事で考えた「なぜ人によって苦難の重さが違うのか」という問いも、この考え方とつながるのかもしれない。
それぞれの魂が必要としている経験や、開発しようとしている資質が異なるのであれば、人生の条件や直面する課題が一人ひとり異なっていてもおかしくはない。
さらにシルバーバーチは、霊的進化についてこう述べている。
「霊的進化はひとえにインディビジュアリティの限りない開発です。個性を失っていくのではありません。反対に増していくのです。」((九)第十三章)
その後には、神性が発現するにつれて潜在的資質が発達し、知識が増え、性格が強化され、完全へ向けた進化が無限に続いていく、と説明されている。
つまり霊的進化とは、自分という存在を消して神の中へ溶けてしまうことではない。
むしろ、本当の自分をますます発見し、その可能性を開いていくことらしい。
そう考えると、大我の発達とは、個としての可能性を永遠に開花させていく過程と言える。
また、大我やインディビジュアリティを考えていくと、「類魂(グループソウル)」という概念にも行き着く。
シルバーバーチは、地上で表現されるパーソナリティを、大きなインディビジュアリティの一側面として説明し、さらに霊的な親族関係をもつ魂の集団として「グループソウル」を語っている。
このあたりは非常に複雑で、私自身も完全に理解できているとは思わない。それでも大まかに図式化するなら、
「今世の私」
↓
「より大きな自我(大我・インディビジュアリティ)」
↓
「類魂(グループソウル)」
↓
「大霊(神)」
という、何層にも広がる構造としてイメージすることができるのかもしれない。
しかしながら、今回私が本当に考えたかったのは、ここから先である。
大我という概念を知識として理解したとしても、大切なのは、そこから何を得てどう生きるかだろう。
もし、今の私よりはるかに大きな自分が、魂の成長を目的として、この地上人生の大きなコースを選んできたのだとしたら。
そして、その人生の中に苦難までも含まれているのだとしたら。
この人生で経験することをできる限り無駄にせず、大我が意図したであろう魂の成長に役立てたいと思う。
そうちゃんとも天国で再会した時に、
「大変な人生を生き切ったね」
「苦しくて悔しかったけれど、意味があったね」
と、今回の舞台を振り返って一緒に喜ぶことができるように。
これまでシルバーバーチの霊訓を読んできて、繰り返し出てくる言葉の一つに「神性」がある。
人間の内部には神性が潜在しており、それを地上で少しずつ発揮していくことが霊的成長につながると説かれている。
「無限なる愛がある以上、そこに慈悲が無いはずはないでしょう。なぜなら慈悲心、思いやり、寛容心、公正、慈善、愛、こうしたものはすべて神の属性だからです。」((一)まえがき)
「嫉妬心、口論、諍い、殺人、戦争、混乱、羨望、貪欲、恨み、こうしたものを地上より一掃することは可能です。そして、それに代わって思いやりの心、親切、優しさ、友愛、協力の精神によって生活の全てを律することができます。」((一)第一章)
「その霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げる事を通して得られます。言いかえれば内部の神性が日常生活において発揮されて初めて成長するのです。
邪な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。」((四)第一章)
「最高の指針となるのは人のために役立つこと、思いやり、謙虚さ、寛容心、協調性といった形で表現される愛です。」((十一)第三章)
これらの語られていることを考えていくと、人生で本当に問われているのは、「何を達成したか」「どんな肩書きを得たか」「どれだけ所有したか」ではないように思えてくる。
むしろ、なぜそれをしたのか、どういう思いで行ったのかという「動機」が、とても重要ということだ。
シルバーバーチは、こうも述べている。
「動機が純粋であれば、どんなことをしても決して被害をこうむることはないということ。もう一つは、人のためという熱意に燃える者には必ずそのチャンスが与えられるということ。この二つです。」((一)第三章)
「動機が大事」ということには以前から気づいていたつもりだった。
けれども、大我という視点から改めて考えてみると、その意味が少し違って見えてくる。
日々の行動、言葉、選択、判断の中に、できる限り神性に属する動機を置く。
それが、大我の方向へ自分を少しずつ合わせていくということなのかもしれない。
もちろん、完全にできるはずはないのだが、「今の自分は何を動機としてこれをしようとしているのか」と、一度立ち止まって考える習慣をつけていくことはできるかもしれない。
大我の視点を想像するということは、こうして一段高いところから自分自身の動機を見つめることのように思う。
そして、もう一つ、シルバーバーチが繰り返し説いていることが「人の役に立つこと」である。
ここでいう奉仕は、必ずしも大きな社会貢献を意味しない。
誰か一人を励ますことでもよい。苦難の中にいる人に寄り添うことでもよい。
自分にできる範囲で、誰かのためになることをする。
シルバーバーチは、非常に端的にこう述べている。
「人のために尽くすことに勝る宗教はありません。病める人を治し、悲しむ人を慰め、悩める人を導き、人生に疲れ道を見失える人を手引きしてあげること、これは何にも勝る大切な仕事です。」((一)第六章)
私は、この言葉には大我の視点がかなり表れているように感じる。
小我の視点では、どうしても「自分にとって得か損か」「自分がどう評価されるか」「自分が傷つかないか」ということが中心になりやすい。
けれども大我が、今の自分よりはるかに広い存在なのだとすれば、他者のために何かをするという行為は、小我の境界を越える行為でもある。
だからこそ、奉仕が霊的成長と結びつくのかもしれない。
ただし、「他人のために生きる」ということと「自分を犠牲にする」ということは、同じではない。
自分自身もまた、守られ、大切にされるべき存在である。
だから私なりには、「自分か他人か」という二者択一ではなく、できる限り自他の双方に対してためになる選択をすることと考えた方が理解しやすいと思う。
一方で、現実には、その選択が簡単ではない場合もある。
自分が正しいと思うことが、より力を持つ者や組織の論理と衝突することもあるだろう。
ある一人を守ることが、別の誰かの利益と対立することもある。
何もしない方が自分は楽でも、それでは納得できない場面もある。
そういう時こそ、「私はなぜこれをするのか」を繰り返し自分に問うべきなのだろうと思う。
もし人生に起こるさまざまな出来事が、単なる無意味な偶然ではなく、魂に何かを問いかける機会でもあるのだとしたら、困難に直面した時の見方も少し変わってくる。
「なぜこんなことが起きたのか」だけではなく、「この状況の中で、自分はどうありたいのか」という問いが生まれる。
出来事そのものを選ぶことはできなくても、その出来事にどう対応し、どう受け止めるかについては、今の自分に選択の余地がある。
その選択の積み重ねこそが、大我の潜在的な資質を今世に表現していく過程なのかもしれない。
愛、思いやり、寛容、善意、奉仕といった言葉は、あまりに正しく聞こえるがゆえに、大人になるほど綺麗ごとのように感じてしまうこともある。しかし、大我という視点から考えてみると、むしろそうした当たり前に見えるものを、現実の難しい場面でどこまで選べるかが問われているのかもしれない。
反対に、目の前の損得や怒り、恨みだけに支配されて生きてしまえば、大我がこの人生に託したものを十分に生かせないまま終わってしまうのかもしれない。
そのことを肝に銘じていこうと思う。
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本記事は、シルバーバーチの霊訓をもとにした個人の考察です。特定の思想や宗教を推奨・勧誘することを目的としたものではありません。
※引用は近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓』シリーズによります。巻・章については本文中に記載しました。版によってページ番号等が異なる可能性がありますので、引用に際してはお手元の書籍でもご確認ください。