精霊の守り人&獣の奏者feat.南極料理人!
食べ物にあまり頓着しない割には食べ物についての本(魯山人とか小泉武夫さんとか)が好きな僕にとって、以前から気になっていた本。
とは言えちょっと薄いしなぁ……なんて思いつつ購入したのですが、買って良かった!
何故なら表紙に共著でチーム北海道と記されているだけだったのですが、序文でビックリ。
(序文引用)
私の頭の中にしかない、異世界の料理を引き受ける人がいるなんて、なんとまあ、奇特な方がおられるものだ、と驚いたのですが、この「ファイティング・スピリッツとフロンティア・スピリッツと、なんとかなるさ精神」を併せ持った不思議な料理人が、西村淳さんとそのお友達のイデ妙子さんだったのです。
な、南極料理人キターーーーーーッ!
獣の奏者(僕はエリンから上橋作品に入ったので)などに出て来る料理を南極料理人が作る!
まさに俺得・夢のコラボレーション!!
スタンド使いは引かれ合うが如く、相変わらず俺の好きな物同士も引かれ合うぜ!
という感じで、メッチャテンションが上がったのでした。
実際作る料理も美味そうなんだこれが。
エリンに出て来るファコ(ジョウンの家で食ったやつ)なんて見ただけで食欲をそそられる。
更にそう言った料理に纏わるエピソードが短いエッセイで記されていて、上橋さんの食べ物についての視点の鋭さに唸らされる。
人類学者にすれば食べ物というのは文化の象徴であり地盤だ。
だから僅かな描写であっても、その中には例えば異文化に接した人間や異文化で暮らさなければならなくなった人間の戸惑い・情感などが隠されている。
それと共に、疲労困憊した状況で人が食べ物に接した時の安心感など、特殊な状況の臨場感を持たせるディテールとしても機能している。
単に美味しそう、だけではなく物語を演出する小道具として存在しているのだ。
ただ、そんな小難しい事を考えなくても普通に「美味しそうな異世界料理本」として読めるのが本書。
上橋さんの豊富な経験と物語的深慮遠謀に膝を打つも良し、「美味そ~、今度作ってみよ」なんてちょっと変わったレシピブックとして使うも良し。
色んな意味で楽しめる本だ。
ヤバイ。ヨハネスブルグヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ。
ヨハネスヤバイ。
まず怖い。もう怖いなんてもんじゃない。超怖い。
怖いとかっても
「マッドマックスくらい?」
とか、もう、そういうレベルじゃない。
何しろ瞬殺。スゲェ!なんか警告とかカーチェイスとか無いの。ホールドアップとかフリーズとかを超越してる。射殺だし超法規。
しかも宇宙人いるらしい。ヤバイよ、宇宙人だよ。
だって普通は地球人と共存しないじゃん。だって文化違いすぎて困るじゃん。トイレの構造おかしいとか困るっしょ。
人が人殺したら裁判になるけど、宇宙人に蹴飛ばされて腕ちぎられるとか泣くっしょ。
だから他の街の人は宇宙人となんか暮らさない。話のわかるヤツだ。
けどヨハネスブルグはヤバイ。そんなの気にしない。移住させまくり。立ち退き交渉とかよくわかんないくらい多い。ヤバすぎ。
宇宙人っていったけど、もしかしたら良いヤツかもしんない。でも良いヤツって事にすると
「じゃあ、基本的人権の尊重ってナニよ?」
って事になるし、それは誰もわからない。ヤバイ。誰にも分からないなんて凄すぎる。
あと超汚い。ゴミ置き場。小便とかゲロだけじゃなくて死体まである。ヤバイ。汚すぎ。赤信号で車止めただけで死ぬ。怖い。
それに超ボッタクリ。超アコギ。それに超頭悪い。宇宙人のパワードスーツと猫缶百個とか平気で取引き。そんで後ろから宇宙人襲ってボリボリ食べて力取り入れる。
ロボと猫缶百個て。食べて力にするって。小学生でも言わねぇよ、最近。
なんつってもヨハネスブルグは火力も凄い。NTW 20とか普通だし。
他なんて対物ライフルとかたかだかハートロッカ-で出てきただけで遠くて上手く扱えないから何度も外したり、観測手置いてみたり、ジュース飲んで持久戦するのに、ヨハネスブルグは全然平気。
対物ライフルを近距離でパワードスーツ用に扱ってる。凄い。ヤバイ。
とにかく貴様ら、ヨハネスブルグのヤバさをもっと知るべきだと思います。
そんなヤバイヨハネスブルグで軍隊とマフィア相手に戦ったヴィカスとか超偉い。もっとがんばれ。超がんばれ。
ヨハネスヤバイ。
まず怖い。もう怖いなんてもんじゃない。超怖い。
怖いとかっても
「マッドマックスくらい?」
とか、もう、そういうレベルじゃない。
何しろ瞬殺。スゲェ!なんか警告とかカーチェイスとか無いの。ホールドアップとかフリーズとかを超越してる。射殺だし超法規。
しかも宇宙人いるらしい。ヤバイよ、宇宙人だよ。
だって普通は地球人と共存しないじゃん。だって文化違いすぎて困るじゃん。トイレの構造おかしいとか困るっしょ。
人が人殺したら裁判になるけど、宇宙人に蹴飛ばされて腕ちぎられるとか泣くっしょ。
だから他の街の人は宇宙人となんか暮らさない。話のわかるヤツだ。
けどヨハネスブルグはヤバイ。そんなの気にしない。移住させまくり。立ち退き交渉とかよくわかんないくらい多い。ヤバすぎ。
宇宙人っていったけど、もしかしたら良いヤツかもしんない。でも良いヤツって事にすると
「じゃあ、基本的人権の尊重ってナニよ?」
って事になるし、それは誰もわからない。ヤバイ。誰にも分からないなんて凄すぎる。
あと超汚い。ゴミ置き場。小便とかゲロだけじゃなくて死体まである。ヤバイ。汚すぎ。赤信号で車止めただけで死ぬ。怖い。
それに超ボッタクリ。超アコギ。それに超頭悪い。宇宙人のパワードスーツと猫缶百個とか平気で取引き。そんで後ろから宇宙人襲ってボリボリ食べて力取り入れる。
ロボと猫缶百個て。食べて力にするって。小学生でも言わねぇよ、最近。
なんつってもヨハネスブルグは火力も凄い。NTW 20とか普通だし。
他なんて対物ライフルとかたかだかハートロッカ-で出てきただけで遠くて上手く扱えないから何度も外したり、観測手置いてみたり、ジュース飲んで持久戦するのに、ヨハネスブルグは全然平気。
対物ライフルを近距離でパワードスーツ用に扱ってる。凄い。ヤバイ。
とにかく貴様ら、ヨハネスブルグのヤバさをもっと知るべきだと思います。
そんなヤバイヨハネスブルグで軍隊とマフィア相手に戦ったヴィカスとか超偉い。もっとがんばれ。超がんばれ。
かつて暗黒大陸と呼ばれた大地の端にある寤(うつつ)の場所
荒野に難民、街に犯罪が溢れる……鬼畜とカオスの理想郷
……人呼んで「ヨハネスブルグ」はそんな街
(CV・銀河万丈)
そんな訳ですげえ映画でした。
正直、そこまで期待していなかった。
設定とストーリーには結構穴があるという事も耳にしていたし、ある意味よくある話かな、とも思っていました。
いや、必ずしもその見解は間違いじゃなかった。
でもヨハネスブルグというこの街が、映画のカラー全てを握って塗り替えるほどの力を持っていたんじゃないかという気にさせられる。
日本(の一部)ではヨハネスブルグコピペ で知られる場所だが、本当にアレを否定出来ない……というかこの場所で無ければ映画も全然違う話になっていた気がする。
物語としては
難民宇宙人(通称・エビ)を第9地区から更に郊外の第10地区に移す仕事を命じられた主人公・ヴィカスが、ひょんな事から宇宙人に変貌する液体を浴びてしまい、第9地区へ逃げ込み、そこの宇宙人と協力して……
というもの。
『アバター』の主客を転倒させた感じだと言えるかもしれない。
『アバター』では原住民が弱者であり、主人公は原住民のフリをしている内に感化される。
『第9地区』では原住民によって、やってきた宇宙人が虐げられ、主人公は嫌々ながら彼らの内に入ってしまうと言う訳。
この宇宙人の設定というのがやや分かり難い。
この映画はどうやらモッキュメンタリー(疑似ドキュメンタリ)として作られているらしく、当時手持ちカメラで撮影したであろう映像、専門家や関係者の証言と、ヴィカス自身が普通の映画の主人公のように登場する映像が交互に出てくる構成になっている。
宇宙人については未だ不明な点も多いようで最後までハッキリしない部分もかなりある。
ただ朧気ながら見えてくる部分を繋げると
・宇宙人は優れたテクノロジーを有しており、それを扱うには宇宙人のDNAを有している個体が必要
・但し社会性昆虫に近い部分があり下層種(働きアリみたいなもん)は頭が良くない。
・理由は不明だが上位種(女王蟻や指令蟻)が死亡
・これまた理由は不明だが地球のヨハネスブルグ上空を浮遊
・その際にコアとなる司令船が脱落
・司令船がないと帰れない
・けど頭の悪い奴ばっかり残ってしまったので計画的な行動もしないでズルズルと時間が過ぎた
・頭が悪くトラブルも多いので第9地区に隔離
・それでも困るので第10地区へ移送
・同時にアイツらの貯め込んだ武器は押収しよう
こんな感じ(ちなみに第10地区は明らかにジンバブエ難民キャンプへの皮肉だ)
そして
宇宙人は技術が発達しているのに、それを運用出来ず頭が悪く共存しづらい、
人間は技術が欲しいのに直接武器などを扱えない。
こういうジレンマが存在すると言うこと。だからこそ半宇宙人になった主人公が重要になる。
当然、宇宙人は黒人など人種差別的なものの暗喩として用いられている。
しかし本編はそんな真面目で社会派なドラマとは一線を画している。
というか、マトモな奴が殆どいない。
人間も宇宙人も、この映画の中ではヨハネスブルジアン(ヨハネスブルグっ子)という同一の存在に見えてしまう。
それくらいカオスなのだ。
主人公のヴィカスは立ち退きに際して「相手のサインを貰わなきゃいけない」という事から、これを押し進める立場にある。キャラとしてはスタッフからも「平凡な小市民」とか「小役人」などと語られている。
しかし僕らが脳裏に描くのは「日本の」小役人である。
ヴィカスもやはりヨハネスブルジアンである以上は「ヨハネスブルグの小役人」なのだ。
だから宇宙人の卵を見つけると嬉々としてチューブ(臍の緒みたいなものだろう)を外す。
「ホラホラ! 変な液体が出てきたぞぉーーー!
このチューブ記念に持っていけよ!」
そして小屋ごと焼き払う
「ヒャッハァーー!
卵の弾ける音がポップコーンみたいだぜぇぇ~!!」
こんな感じ。
明らかに日本のソレとは異質だ。
宇宙人もおかしい。
ゴムとキャットフードが大好物という謎の嗜好もさることながら、それに懸ける情熱も常軌を逸している。
立ち退き隊装甲車のスペアタイヤをそのまま囓り始めるという豪快さ。
人間から武器を向けられればそのまま相手を蹴り飛ばし腕をちぎり、結果撃たれる。
かと思うと、第9地区を仕切るナイジェリア人達の元へパワードスーツを持ち込んで何をするかと思えば
宇「これ(パワードスーツ)と猫缶1万個交換してくれない?」
人「……猫缶百個だな」
宇「オッケー(即答)」
これだ。
なんというか猫缶は麻薬レベルの魅力があるようだ。
そしてナイジェリア人のボス、オバサンジョもおかしすぎる。
宇宙人の武器を引き取って何をするかと思えば、部下がいきなり後ろから宇宙人を襲ってバラバラにする。
そして祈祷師に頼んでまじないを掛けた後、
オバサンジョは宇宙人の腕を生でボリボリ喰い始める!
なんか池のコイをそのまま囓ってる虎眼先生みたいだ。
それでも虎眼先生はまだ料理の材料になりうる物を喰っていたが、エビとか言われてるにせよ相手は宇宙人で見るからに不味そう。ぶっちゃけエビというより虫に近い。
『HEROMAN』のスクラッグを細くして緑色っぽく染め上げたような奴なのだ。
スクラッグ
エビ
その腕を何の躊躇いもなく食い始めるオバサンジョ。
どうやら宇宙人を喰うことで呪術的に相手を取り入れ、宇宙人の武器が使えるんじゃないかと思ったらしい。
なんか色々言いたくなるが、ビジュアルやら動機やらがあまりにも凄すぎて逆にツッコめない。
こういう奴等がぞろぞろ出てくる……と言うよりも基本的にこんな奴等ばかりなのがこの映画のヤバ過ぎるところ。
そして主人公も否応なしにこの混沌へ巻き込まれていく。そこで自己言及的になったりする部分もあり、それでもヘタレだったりというバランスがまた面白く、最後の方まで基本ダメ人間なのが素晴らしい。
宇宙人の兵器がまた凄くて、人間が原型を止めないほどに吹っ飛ぶのがデフォ。
肉片がカメラにぶつかるという演出もしょっちゅう。
プロデューサーを務めるピーター・ジャクソンの出世作である『アレ』 等とは色々異なるものの、その魂は受け継いでいる感じがする。
最終的に主人公がパワードスーツを着てドンパチを始めるが、さっき触れたようにヘタレ部分が残っているのも面白いし「虫製パワードスーツで人間と戦う」なんて捻った展開は『宇宙の戦士たち』に対するオマージュにも思える。あと『アバター』に出てきた大佐っぽいファシストオヤジが敵のボスみたいな感じなんだけど、なんつーかアバターより確実にみんなイカレてるので、戦法とか含めてマトモじゃない。
やられ方もよく分からない、けど笑える。
こんな感じで鬼畜&カオス&血風怒濤な映画だが、ラストはちょっとしんみりしていて哀愁漂う。
客観的にはあまり良い状況じゃないけど必ずしもバッドエンドという訳でもなく、様々な感慨をもたらす良い終わり方だった。
題材的にコレでオスカーは明らかに無理だったと思うが、エンターテイメントとしてはムチャクチャ面白い。
評価高いのが不思議だったが、観て納得だった。
確かにお話や設定には色々と不自然だったり無理矢理感があるが、
ヨハネスブルギッシュにパワー溢れる面白さを魅せてくれた。
よ~し、こうなったら次は宇宙人と人間が一緒にサッカーW杯を目指す映画だな!
荒野に難民、街に犯罪が溢れる……鬼畜とカオスの理想郷
……人呼んで「ヨハネスブルグ」はそんな街
(CV・銀河万丈)
そんな訳ですげえ映画でした。
正直、そこまで期待していなかった。
設定とストーリーには結構穴があるという事も耳にしていたし、ある意味よくある話かな、とも思っていました。
いや、必ずしもその見解は間違いじゃなかった。
でもヨハネスブルグというこの街が、映画のカラー全てを握って塗り替えるほどの力を持っていたんじゃないかという気にさせられる。
日本(の一部)ではヨハネスブルグコピペ で知られる場所だが、本当にアレを否定出来ない……というかこの場所で無ければ映画も全然違う話になっていた気がする。
物語としては
難民宇宙人(通称・エビ)を第9地区から更に郊外の第10地区に移す仕事を命じられた主人公・ヴィカスが、ひょんな事から宇宙人に変貌する液体を浴びてしまい、第9地区へ逃げ込み、そこの宇宙人と協力して……
というもの。
『アバター』の主客を転倒させた感じだと言えるかもしれない。
『アバター』では原住民が弱者であり、主人公は原住民のフリをしている内に感化される。
『第9地区』では原住民によって、やってきた宇宙人が虐げられ、主人公は嫌々ながら彼らの内に入ってしまうと言う訳。
この宇宙人の設定というのがやや分かり難い。
この映画はどうやらモッキュメンタリー(疑似ドキュメンタリ)として作られているらしく、当時手持ちカメラで撮影したであろう映像、専門家や関係者の証言と、ヴィカス自身が普通の映画の主人公のように登場する映像が交互に出てくる構成になっている。
宇宙人については未だ不明な点も多いようで最後までハッキリしない部分もかなりある。
ただ朧気ながら見えてくる部分を繋げると
・宇宙人は優れたテクノロジーを有しており、それを扱うには宇宙人のDNAを有している個体が必要
・但し社会性昆虫に近い部分があり下層種(働きアリみたいなもん)は頭が良くない。
・理由は不明だが上位種(女王蟻や指令蟻)が死亡
・これまた理由は不明だが地球のヨハネスブルグ上空を浮遊
・その際にコアとなる司令船が脱落
・司令船がないと帰れない
・けど頭の悪い奴ばっかり残ってしまったので計画的な行動もしないでズルズルと時間が過ぎた
・頭が悪くトラブルも多いので第9地区に隔離
・それでも困るので第10地区へ移送
・同時にアイツらの貯め込んだ武器は押収しよう
こんな感じ(ちなみに第10地区は明らかにジンバブエ難民キャンプへの皮肉だ)
そして
宇宙人は技術が発達しているのに、それを運用出来ず頭が悪く共存しづらい、
人間は技術が欲しいのに直接武器などを扱えない。
こういうジレンマが存在すると言うこと。だからこそ半宇宙人になった主人公が重要になる。
当然、宇宙人は黒人など人種差別的なものの暗喩として用いられている。
しかし本編はそんな真面目で社会派なドラマとは一線を画している。
というか、マトモな奴が殆どいない。
人間も宇宙人も、この映画の中ではヨハネスブルジアン(ヨハネスブルグっ子)という同一の存在に見えてしまう。
それくらいカオスなのだ。
主人公のヴィカスは立ち退きに際して「相手のサインを貰わなきゃいけない」という事から、これを押し進める立場にある。キャラとしてはスタッフからも「平凡な小市民」とか「小役人」などと語られている。
しかし僕らが脳裏に描くのは「日本の」小役人である。
ヴィカスもやはりヨハネスブルジアンである以上は「ヨハネスブルグの小役人」なのだ。
だから宇宙人の卵を見つけると嬉々としてチューブ(臍の緒みたいなものだろう)を外す。
「ホラホラ! 変な液体が出てきたぞぉーーー!
このチューブ記念に持っていけよ!」
そして小屋ごと焼き払う
「ヒャッハァーー!
卵の弾ける音がポップコーンみたいだぜぇぇ~!!」
こんな感じ。
明らかに日本のソレとは異質だ。
宇宙人もおかしい。
ゴムとキャットフードが大好物という謎の嗜好もさることながら、それに懸ける情熱も常軌を逸している。
立ち退き隊装甲車のスペアタイヤをそのまま囓り始めるという豪快さ。
人間から武器を向けられればそのまま相手を蹴り飛ばし腕をちぎり、結果撃たれる。
かと思うと、第9地区を仕切るナイジェリア人達の元へパワードスーツを持ち込んで何をするかと思えば
宇「これ(パワードスーツ)と猫缶1万個交換してくれない?」
人「……猫缶百個だな」
宇「オッケー(即答)」
これだ。
なんというか猫缶は麻薬レベルの魅力があるようだ。
そしてナイジェリア人のボス、オバサンジョもおかしすぎる。
宇宙人の武器を引き取って何をするかと思えば、部下がいきなり後ろから宇宙人を襲ってバラバラにする。
そして祈祷師に頼んでまじないを掛けた後、
オバサンジョは宇宙人の腕を生でボリボリ喰い始める!
なんか池のコイをそのまま囓ってる虎眼先生みたいだ。
それでも虎眼先生はまだ料理の材料になりうる物を喰っていたが、エビとか言われてるにせよ相手は宇宙人で見るからに不味そう。ぶっちゃけエビというより虫に近い。
『HEROMAN』のスクラッグを細くして緑色っぽく染め上げたような奴なのだ。
スクラッグ

エビ

その腕を何の躊躇いもなく食い始めるオバサンジョ。
どうやら宇宙人を喰うことで呪術的に相手を取り入れ、宇宙人の武器が使えるんじゃないかと思ったらしい。
なんか色々言いたくなるが、ビジュアルやら動機やらがあまりにも凄すぎて逆にツッコめない。
こういう奴等がぞろぞろ出てくる……と言うよりも基本的にこんな奴等ばかりなのがこの映画のヤバ過ぎるところ。
そして主人公も否応なしにこの混沌へ巻き込まれていく。そこで自己言及的になったりする部分もあり、それでもヘタレだったりというバランスがまた面白く、最後の方まで基本ダメ人間なのが素晴らしい。
宇宙人の兵器がまた凄くて、人間が原型を止めないほどに吹っ飛ぶのがデフォ。
肉片がカメラにぶつかるという演出もしょっちゅう。
プロデューサーを務めるピーター・ジャクソンの出世作である『アレ』 等とは色々異なるものの、その魂は受け継いでいる感じがする。
最終的に主人公がパワードスーツを着てドンパチを始めるが、さっき触れたようにヘタレ部分が残っているのも面白いし「虫製パワードスーツで人間と戦う」なんて捻った展開は『宇宙の戦士たち』に対するオマージュにも思える。あと『アバター』に出てきた大佐っぽいファシストオヤジが敵のボスみたいな感じなんだけど、なんつーかアバターより確実にみんなイカレてるので、戦法とか含めてマトモじゃない。
やられ方もよく分からない、けど笑える。
こんな感じで鬼畜&カオス&血風怒濤な映画だが、ラストはちょっとしんみりしていて哀愁漂う。
客観的にはあまり良い状況じゃないけど必ずしもバッドエンドという訳でもなく、様々な感慨をもたらす良い終わり方だった。
題材的にコレでオスカーは明らかに無理だったと思うが、エンターテイメントとしてはムチャクチャ面白い。
評価高いのが不思議だったが、観て納得だった。
確かにお話や設定には色々と不自然だったり無理矢理感があるが、
ヨハネスブルギッシュにパワー溢れる面白さを魅せてくれた。
よ~し、こうなったら次は宇宙人と人間が一緒にサッカーW杯を目指す映画だな!
不思議の国のティム・バートン
不思議の国の独特なビジュアルとキャラクタを楽しむ映画と言うところだろうか。
バートン映画常連のジョニデ扮するマッドハッターはユニークで素敵なキャラクターになってる。
この映画では男の主人公格と言っても過言ではない。
僕は吹き替えで観たんだが、殆ど全てをベテラン勢が固めていてなかなか豪華。
声優たちを楽しむ映画としても充分機能出来る。
特に赤の女王は朴王路美さん、側近のハートのジャックは藤原啓治さんがやっている。
赤の女王は結構なロクデナシなのだが、ヘレナ・ボトム=カーターの芝居と朴さんのお陰でとてもキュートに見えて憎めない。
アリス演じるミア・ワシコウスカもかなりの器量よしなので、そういう部分を楽しむのもアリか(声優は舞台俳優がやっているようなので、微妙かも)
転じて考えるに、お話は微妙というか凡庸で御都合主義的風采が強い。
よくある異世界勇者物という奴で、予言の書に記された勇者が悪を撃つ……みたいなアレだ。
途中で妙な方向に曲がったりする部分はあってそれは楽しかったけれども、やはり結局この異世界勇者譚から外れずに予言の通りのことをして終わってしまう辺りは残念至極。
それは子供も含めて観る映画としてまだ良いと考えたにせよ、赤の女王の対抗勢力でアリスの後ろ盾となる白の女王がマジで終わってるのは戴けない。
赤の女王は姉、白の女王は妹であり、両親の寵愛は頭でっかちでヒステリックな赤よりも穏和な白が受けていたようだ。そのせいか本来の領主は白だったんだけど、赤がジャバウォックで襲撃を仕掛けクーデターを起こして政権奪取したという訳。
赤は強権で押さえつけるような政治をしている。
だからみんなは白を推戴して実験を取り戻そうとする。
で、敵勢力の隠し球・ジャバウォックを倒せると予言されたのがアリスだったのだ。
ここら辺は王道展開なのでなにも言わない。
ところがアリスはジャバウォックと戦う決意が持てずに、戦の寸前で白へ問い掛ける。
「何故貴方がジャバウォックと戦わないの? その力があるのに」
白は答える
「生き物を傷付けないと誓ったの」
えぇ~!?
お前、人には戦わせようとしてるだろ!?
自分が傷付けなきゃそれでいいのかよ!!
生き物を傷付けないとかいう誓いはご立派だけどさ、だからって厭なこと他人にやらせんなよ。
お前のワガママだろソレ!
「力が及びません」
って方が千倍はマシだぞ。
戦いに勝った後に白の女王の厭らしさはより明確になる。
「貴女の罪は死に値します、が、誓いがあるのでこの世界が終わるまで辺境に追放します」
この台詞だけならまぁむべなるかなという部分もあるんだが、戦いの中で白の女王はマジで何もしない。
何もしないにも関わらず、ちゃっかり王冠は頂いて、頂いた瞬間命令し始めるのだ(一応開戦前に赤へ戦う必要は無い……と忠告はしてるけど)
彼女は赤を評してこういう。
「私はあの人の頭の中で何かが育っていると思うの」
これが赤の頭部が普通より肥大していることを言っているのか、それともヒステリックな面を言っているのかは分からない。
ただ、素で赤を異形だと捉え、おかしい存在だと考えて(恐らく見下して)いるのは確かだ。
白は多分恵まれていたのだろう、美しくて、如才なくて、簡単に人望を集められる立場に居た。
だから苦労しなくても他人が厭なことを請け負ってくれて、自らの手を汚さずにその結果だけを手に入れるなんて行為は、彼女の中では当然。逆に醜くて癇癪持ちで、臍曲がりの姉は何かに寄生された生き物としか思えなかったのかもしれない。
でも本当は、そうじゃない人間のが多い。
白はそれに気付かない。
無垢なままに他人を踏みにじって、他人にもそれを当たり前だとさせる容姿と力を持っていたのだから。
パンフレットなどでは白の女王の危うさが書かれてはいる。
「遺伝子的には赤の女王と同じで、ただ違うのは行き過ぎない分別を持っているからだ」というように。
映画の中で表現出来ていなかったのか、僕がスルーしてしまったのかは分からないが、観て感じたのは
「コイツは無垢な顔のままにっこり笑って他人を利用しながら、それすら自覚出来ない女だ」
という事だった。
赤の女王も困った女ではある。
でも彼女の方がずっと人間的だと思う。
容姿に優れ、人望があり何から何まで手に入れられる妹。
自分はどんなに望んでも、決して彼女と同じにはなれない。
そのコンプレックスが武力蜂起を起こさせ、また他者を信用出来ず(つまり他者を惹き付けられると信じるほど自分を信用出来ず)に「打ち首!」と極刑ばかり下してしまう。
こっちの方が、ずっと共感出来る。
そして決定的だったのはやはり声優。
何故かアリスは舞台俳優、白の女王は深田恭子が担当している。
他はみんな大御所レベルなのに。
僕は演技に関してあまり神経質ではないが、朴さんの生き生きした演技と赤の女王のエキセントリックなキャラの前に深田恭子と白の女王みたいな一見穏和だけど腹黒い奴が出てきても太刀打ち出来る訳がない。
まぁ、これは仕方のないところでもあるとは思うのだが。
ともあれ、この白の女王さえ居なければダークな色彩の王道ファンタジーとして観ることが出来たかもなぁ。
原作では確か白・赤ではなく「ハートの女王」というのが居るだけなので、ここら辺はイラン改変だったかなぁと思わないではない。
不思議の国の独特なビジュアルとキャラクタを楽しむ映画と言うところだろうか。
バートン映画常連のジョニデ扮するマッドハッターはユニークで素敵なキャラクターになってる。
この映画では男の主人公格と言っても過言ではない。
僕は吹き替えで観たんだが、殆ど全てをベテラン勢が固めていてなかなか豪華。
声優たちを楽しむ映画としても充分機能出来る。
特に赤の女王は朴王路美さん、側近のハートのジャックは藤原啓治さんがやっている。
赤の女王は結構なロクデナシなのだが、ヘレナ・ボトム=カーターの芝居と朴さんのお陰でとてもキュートに見えて憎めない。
アリス演じるミア・ワシコウスカもかなりの器量よしなので、そういう部分を楽しむのもアリか(声優は舞台俳優がやっているようなので、微妙かも)
転じて考えるに、お話は微妙というか凡庸で御都合主義的風采が強い。
よくある異世界勇者物という奴で、予言の書に記された勇者が悪を撃つ……みたいなアレだ。
途中で妙な方向に曲がったりする部分はあってそれは楽しかったけれども、やはり結局この異世界勇者譚から外れずに予言の通りのことをして終わってしまう辺りは残念至極。
それは子供も含めて観る映画としてまだ良いと考えたにせよ、赤の女王の対抗勢力でアリスの後ろ盾となる白の女王がマジで終わってるのは戴けない。
赤の女王は姉、白の女王は妹であり、両親の寵愛は頭でっかちでヒステリックな赤よりも穏和な白が受けていたようだ。そのせいか本来の領主は白だったんだけど、赤がジャバウォックで襲撃を仕掛けクーデターを起こして政権奪取したという訳。
赤は強権で押さえつけるような政治をしている。
だからみんなは白を推戴して実験を取り戻そうとする。
で、敵勢力の隠し球・ジャバウォックを倒せると予言されたのがアリスだったのだ。
ここら辺は王道展開なのでなにも言わない。
ところがアリスはジャバウォックと戦う決意が持てずに、戦の寸前で白へ問い掛ける。
「何故貴方がジャバウォックと戦わないの? その力があるのに」
白は答える
「生き物を傷付けないと誓ったの」
えぇ~!?
お前、人には戦わせようとしてるだろ!?
自分が傷付けなきゃそれでいいのかよ!!
生き物を傷付けないとかいう誓いはご立派だけどさ、だからって厭なこと他人にやらせんなよ。
お前のワガママだろソレ!
「力が及びません」
って方が千倍はマシだぞ。
戦いに勝った後に白の女王の厭らしさはより明確になる。
「貴女の罪は死に値します、が、誓いがあるのでこの世界が終わるまで辺境に追放します」
この台詞だけならまぁむべなるかなという部分もあるんだが、戦いの中で白の女王はマジで何もしない。
何もしないにも関わらず、ちゃっかり王冠は頂いて、頂いた瞬間命令し始めるのだ(一応開戦前に赤へ戦う必要は無い……と忠告はしてるけど)
彼女は赤を評してこういう。
「私はあの人の頭の中で何かが育っていると思うの」
これが赤の頭部が普通より肥大していることを言っているのか、それともヒステリックな面を言っているのかは分からない。
ただ、素で赤を異形だと捉え、おかしい存在だと考えて(恐らく見下して)いるのは確かだ。
白は多分恵まれていたのだろう、美しくて、如才なくて、簡単に人望を集められる立場に居た。
だから苦労しなくても他人が厭なことを請け負ってくれて、自らの手を汚さずにその結果だけを手に入れるなんて行為は、彼女の中では当然。逆に醜くて癇癪持ちで、臍曲がりの姉は何かに寄生された生き物としか思えなかったのかもしれない。
でも本当は、そうじゃない人間のが多い。
白はそれに気付かない。
無垢なままに他人を踏みにじって、他人にもそれを当たり前だとさせる容姿と力を持っていたのだから。
パンフレットなどでは白の女王の危うさが書かれてはいる。
「遺伝子的には赤の女王と同じで、ただ違うのは行き過ぎない分別を持っているからだ」というように。
映画の中で表現出来ていなかったのか、僕がスルーしてしまったのかは分からないが、観て感じたのは
「コイツは無垢な顔のままにっこり笑って他人を利用しながら、それすら自覚出来ない女だ」
という事だった。
赤の女王も困った女ではある。
でも彼女の方がずっと人間的だと思う。
容姿に優れ、人望があり何から何まで手に入れられる妹。
自分はどんなに望んでも、決して彼女と同じにはなれない。
そのコンプレックスが武力蜂起を起こさせ、また他者を信用出来ず(つまり他者を惹き付けられると信じるほど自分を信用出来ず)に「打ち首!」と極刑ばかり下してしまう。
こっちの方が、ずっと共感出来る。
そして決定的だったのはやはり声優。
何故かアリスは舞台俳優、白の女王は深田恭子が担当している。
他はみんな大御所レベルなのに。
僕は演技に関してあまり神経質ではないが、朴さんの生き生きした演技と赤の女王のエキセントリックなキャラの前に深田恭子と白の女王みたいな一見穏和だけど腹黒い奴が出てきても太刀打ち出来る訳がない。
まぁ、これは仕方のないところでもあるとは思うのだが。
ともあれ、この白の女王さえ居なければダークな色彩の王道ファンタジーとして観ることが出来たかもなぁ。
原作では確か白・赤ではなく「ハートの女王」というのが居るだけなので、ここら辺はイラン改変だったかなぁと思わないではない。
という訳で三話まで視聴終了。
ケータイからの記述なのでフォント演出はありません。
その2までに書いた部分がほぼそのまま扱われていた事に吹いてみたり、修正も考慮してみたり。
一番重要な点は生徒会長が天使でない可能性が出て来た……というか最初から彼女自身はそう言ってたんですが、取り敢えずゆりの思い込みであったのが明確になりました。
ただ僕としても生徒会長が天使では無いにせよ何物かの意志を代理で遂行する存在だとは考えていたのですが、もしかしたらそれすら違う可能性があるのです。
彼女が特殊な存在である理由は超能力を有していたからです。
しかし、その超能力は銃の開発と同じ仕組みだった(どんな仕組みか私に聞かないでください)
つまり誰にでも……とまでは行かなくとも、SSSの人間にも出来ることだったのです。
これで超能力はあっても強制力が無い理由は分かりました。また手を抜いている(最初から全力を出さない)理由にもなりえます。
彼女は誰かから権限を与えられているのではなく、あくまでもゆりや音無と同じ立場でより進んだ事をしているに過ぎないのではないか……だから能力も自己開発だったのではないか、それがゆりの考えた推論です。
生徒会長もまた「流れを統治したい」という願望を持っただけのプレイヤーキャラクターに過ぎないのかもしれません。
とは言え、自意識で世界ルールを改変する事が出来る以上は我々の世界とは異なりますし、ファンタジックなAB世界と我々の世界は共に存在しているようですからAB世界が誰かの手によるもの、という可能性は大いにあります。
それがプログラマか神かは、分かりませんが。
そして流れだけでなく満足しても消滅する。前日譚に明かされていた設定ですが、正にヨブ記と構造を同じくする従来の麻枝作品のパターンです。
ゆりの中で流れに乗るのはアウトで満足するのは良いのか、それとも個人の自由として受け入れているのかは判然としません。ただこれもAB世界の恣意性を裏付ける要素であるのは確かだと思います。
その目的は何か、また本当に輪廻なのか、或いはそういうプログラムなのか。
果たして納得出来そうなドラマと答えが明示されるのでしょうか。
ケータイからの記述なのでフォント演出はありません。
その2までに書いた部分がほぼそのまま扱われていた事に吹いてみたり、修正も考慮してみたり。
一番重要な点は生徒会長が天使でない可能性が出て来た……というか最初から彼女自身はそう言ってたんですが、取り敢えずゆりの思い込みであったのが明確になりました。
ただ僕としても生徒会長が天使では無いにせよ何物かの意志を代理で遂行する存在だとは考えていたのですが、もしかしたらそれすら違う可能性があるのです。
彼女が特殊な存在である理由は超能力を有していたからです。
しかし、その超能力は銃の開発と同じ仕組みだった(どんな仕組みか私に聞かないでください)
つまり誰にでも……とまでは行かなくとも、SSSの人間にも出来ることだったのです。
これで超能力はあっても強制力が無い理由は分かりました。また手を抜いている(最初から全力を出さない)理由にもなりえます。
彼女は誰かから権限を与えられているのではなく、あくまでもゆりや音無と同じ立場でより進んだ事をしているに過ぎないのではないか……だから能力も自己開発だったのではないか、それがゆりの考えた推論です。
生徒会長もまた「流れを統治したい」という願望を持っただけのプレイヤーキャラクターに過ぎないのかもしれません。
とは言え、自意識で世界ルールを改変する事が出来る以上は我々の世界とは異なりますし、ファンタジックなAB世界と我々の世界は共に存在しているようですからAB世界が誰かの手によるもの、という可能性は大いにあります。
それがプログラマか神かは、分かりませんが。
そして流れだけでなく満足しても消滅する。前日譚に明かされていた設定ですが、正にヨブ記と構造を同じくする従来の麻枝作品のパターンです。
ゆりの中で流れに乗るのはアウトで満足するのは良いのか、それとも個人の自由として受け入れているのかは判然としません。ただこれもAB世界の恣意性を裏付ける要素であるのは確かだと思います。
その目的は何か、また本当に輪廻なのか、或いはそういうプログラムなのか。
果たして納得出来そうなドラマと答えが明示されるのでしょうか。