リュウセイグン -10ページ目

リュウセイグン

なんか色々趣味について書いています。

長文多し。

そんな訳で、早速考察その2に取りかかります。
正直言うとこちらを優先したかったのですが、普通の考察が長びいたので分割致しました。

前エントリでも触れたように、僕は麻枝作品(Key作品)が好きではない……有り体に言って嫌いです。
この奇妙な展開は一体何なんだろう? この現象はこう解釈されていたりするけど本当だろうか?
ABはまだ序盤なので判断は起きますが、他作品でも作中で明示する事が余りにも少ない為に奔放な推測と解釈を許す変わりに、どれも「これだ!」と言うほどの確信も得られない。
ファンの中ですらそういう状態が見受けられます。
シチュエーションに感動はしているのは確かですが、ファンの記述を読むとその解釈はバラバラで、殆ど神学論争の感すらあります。


だからこそ人気もあるのかもしれませんけれど、僕のような人間はそこに「奇跡で救済とか、展開重視でやってるんじゃないの?」という疑念が生じてしまいます。お話として、人間ドラマや感動ドラマは考えているけどバックグラウンドがどれほどしっかりしているかは心許ない。そんな気持ちになります。


ちゃんと観たのはAIRだけですけれども、アレも「全部観れば価値が分かる」と言われ全部観れば「分からない奴はバカ」とか今度は「ゲームをしろ」などとと言われる始末でした。
アニメで6時間弱を費やし徒労感を持った人間に、何十時間も掛かるゲームをすれば分かる……という態度はちょっと戴けません。アニメは自分の意志で観たのだから仕方ないにしても、作品の評価を高める為にそれ以上の苦行を押し進めるのは如何なものか……と感じました。
そんな訳もあって他の作品に触れることもなく、クラナドは遠ざけていたのですけれども、ABは一般的な注目作でもありまた意欲作だという話なので視聴する事になった訳です。
死んだ世界なら、単純な意味で死んだから感動という手は使えない訳ですしね。

ABが楽しいかと言われれば楽しくないのですが、面白くなるかもしれないし、最近の冨樫の教え(つまらない作品を観て自分なりに改善するのが物語作りに繋がる)もあることですし、全部観ようと思います。

そんな中、少し面白い事を発見しました。
切っ掛けは懇意にして頂いているピッコロさんのブログに寄せられたコメント です。
麻枝さんはOPなどに展開を予期させるような歌詞を織り込むんです……というような物でした。
そこでクラナドって確か……と、直接観た訳では無いにせよ記憶の残滓を辿りました。

ある女の子に惚れて付き合ったけど出産時に死んじゃって、その後子供も死んじゃって、
でも過去に戻った時に同じ女の子と出会う道を選ぶことを決意すると
女の子も娘も死ななかった人生が訪れた


感動した方には申し訳ないですが、ザックリ纏めるとこんな感じだと思います。
(光の球とか入れると分かり難くなるし繁多なので省略)
最後の決断部分とかその結果とかに色々言いたくもなりますが

女の子と付き合うことで自他に不幸や悲しみが訪れると認識していても、
それでもその子と一緒に生きることを選んだ

ここがキモだと思う訳です。
で、これを思い出した時に僅かな既視感を覚えたのですね。

あれ? 俺……この話知ってるぞ?

クラナドは観てませんしやってません。
でも明らかにこういう話を知っている。

なんだったか……そう、それで辿り着いたのが


旧約聖書『ヨブ記』


だった訳です。

ヨブ記
ウィキペディア・概略掴む用

松岡正剛の千夜千冊・旧約聖書『ヨブ記』
ヨブ記の感想・より詳細な内容用


ヨブ物語
荒川教会の牧師さんの解説・最も詳細だがメッチャ長く読むのは骨。
キリスト教徒じゃないと掴みにくい部分も多い



リンク先を参照して頂ければ良いのですが、敢えて語るならばヨブ記とは

後ろ暗いことが何一つ無いにも関わらず
神によって苦しみを与えられた男の物語

です。
サタンが「神の愛する篤信者・ヨブといえど、実のところは利益があるから神を信仰しているのだろう」
と語るので神はサタンが本人の命を奪わないと言う条件でヨブを苦しめることを許可します。
そこでサタンはヨブの財産を失わせ、子供やそのその嫁までも死なせてしまいます
しかしヨブの神に対する侵攻は揺らぎません。
そこでサタンはヨブを病気にして苦しめます
当初は神に対して疑いを抱いていなかったヨブも、神を疑い始め見舞いに来た友人達と神についての論争を始めます。
友人達は「苦しみを受けたと言うことは、ヨブが罪を為しているのだ」と言います。
しかしヨブは「私に罪はないけれども、神は私を苦しめるのだ」と語ります。
常識的に考えるならば友人の指摘は真っ当至極というべきでしょう。

友人の言葉が間違っているのならば「神は正しい者をすら苦しめる存在」であり得るからです。

ところが事象のみを追求すれば、サタンの言葉を受けて愛するヨブを苦しめる許可を出した神はまさにその通りの存在なのです。当然、此処には神学上の様々な解釈がある訳ですが、その辺りは上記にリンクした本職のヨブ物語解説をお聞き頂くとしましょう。

最終的にヨブは神と対面し、神を疑ったことを恥じます。

僕はヨブ記を山本弘さんの『神は沈黙せず』にて触れたのですが、山本さんは誤訳という解釈(この説を信じているとは限りません、小説のネタとして用いただけという可能性もあります)を加えて「ヨブが神を弾劾し、神に勝利した物語」として解釈します。信憑性は兎も角、ヒューマニストの山本さんらしい考えです。

ただ色々触れてみると、キリスト教的な観点からのヨブ記の重要さは「苦しみに喘ぎ、世俗的な利益や明確な神の言葉がないにも関わらず信仰と神に対する愛を貫き通す」点にあることが分かります。
実利が得られるから信仰するのではなく、むしろ苦しい目に遭ったとしても、神の真意が図りがたくても「神が神であるから・正義が正義であるから」それを信じ愛するところの姿を示すことが尊いとされるのです。
信仰心が無い人間にとっては奴隷根性というか、尻の座りが悪い部分もあるかとは思います。

けれども、これを人間レベルの愛で解釈してみたらどうでしょう。
キリスト教徒が聞いたら怒りそうですが、神を異性に置換してしまうのです。

一般的な恋愛観では相手の容姿や富裕さ、性格などで決まるでしょう。
しかし愛情の深い部分というのはそれだけでは定まりません。
一度愛してしまった人間が例えば醜くなったり貧乏になったり、性格に困ったところが出てきたらどうか。
或いは、愛する状況自体が苦難に満ちあふれ、相手の心がしれない状況に陥ってしまったらどうか。
もちろん殆どの人は嫌いになったり、諦めたりするでしょう。

けれど苦難に満ちあふれ、愛することが本人に利益よりもむしろ悲しみをもたらす者だとしても相手を愛する人は存在するはずです。

(ここでストーカー話になってしまうと色々とズレる部分もあるので置いておきましょう。
ストーカーもそういう傾向の部分はありますが、同時に自己愛に依る物も大きいからです)

受け入れやすく分かり易い例として『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』でも使われた楽曲アメイジング・グレイスの作詞者の話を引いておきます。

ジョン・ニュートンの物語

ジョン・ニュートンは一目惚れをした少女の為に、様々な苦難に遭います。
何度も引き離され、その度に求め、失敗します。
彼の悩みの原因は偏に初恋の少女によるものです。
普通の人間なら何処かで愛することを諦めるでしょう。そちらの方が余程楽なはずですから。
愛することを諦めれば普通に船員として暮らせるし、もっと条件の良い女性に出会えるかもしれません。
更に少女は最初からジョン・ニュートンを愛してくれた訳ではありません。

相手を愛することで苦労を負い、相手の心が分からないにも関わらず、彼は初恋の人を愛し続け、結果その愛を全うするのです。

これはキリスト教としては卑賤な例えになってしまうかもしれませんが、ヨブ記に通じる想いの強さがあります。
ちなみにジョン・ニュートンも、その苦難の人生から無神論者に近かったようですが、その自分すら救われたという思いから信仰心を強くしアメイジング・グレイスを作ったそうです。


此処まで長々とまどろっこしい文章を読んでくださってくれる方は、何の話か忘れていらっしゃるかも分かりませんから元に戻します。

クラナドの話ですね。

クラナドに於いて主人公が見せた姿勢は、まさにヨブが神に示したものジョン・ニュートンが初恋の女性に示した物と相似です。踏み込んで言えば、自分のみならず相手にすら不幸を負わせるにしても、共に生涯を全うすることを願ったのです。

思えば『AIR』にも似たような部分があったのではないでしょうか。
苦難を敢えて受け、肯定することで、脱却するという構造。

翻って考えるに、『Angel Beats!』にも同様の部分が見受けられます。
そう、今のゆりは神を疑うヨブから一歩進んだ、神を呪うヨブなのです。

これが果たして回心の一歩手前として描かれるのか、
それとも本当の意味で神への反抗者として描かれるのか


前者であれば従来の部分を踏襲していると言えるでしょうし、後者であれば自覚しているか否かにかかわらず新境地と言えるのかもしれません。

まぁ、それを私がアニメとして、物語として面白いと思うかは別の問題ですがw
個人的にはヨブの立場は信仰者として大した物だと思いますが、やはり神の立場などに疑義を抱きたくなります。
また麻枝作品の奇跡の起こし方も多様な解釈によって深みを与えるというよりも御都合主義的な側面を強く感じてしまいます。

この感慨はヨブ記との関連性を見 出す前も、後も同じです。

しかし麻枝作品に通底する要素として、ヨブ記のような物語構造が見え隠れしているのはとても興味深く感じました

麻枝作品に限らず物語の源流は聖書にありという話も聞きますし、聖書に限らない神話体系に原型を見出す事もあるでしょう。そういう部分から様々な物語を観ると、アニメそのものだけを評するのとはまた違った物が見えてくるかもしれません








※ 注
今回のエントリは内容の関連性からキリスト教っぽい部分が多分に出てきますが、僕は興味を覚えこそすれ信じるつもりはありませんので悪しからず。
好きではない、或いは明白に嫌いな作品に対しても過剰に考察を加えるというのがこのブログの芸風の一つな訳ですが、これは作品を理解した上で肯定も否定もしたいという欲求から生じる物です。

ABに関しては過去の麻枝作品が明白なまでに嗜好に合わなかったのでハナから期待はしていません
けれども、これもまた作品考察せしむる余地を多大に残しています。
また巷間で様々な考察がなされていますが、これもまた明解な論拠に基づく物というよりは細かな要素から想像の翼を広げるという類のものであり考察と銘を打つには甚だ心許ないものです。
よってここで深く鑑みてこの作品に対する理解を得た後に、様々な判断を下す指標として序盤の考察を行ってみたいと思います。



ところがぎっちょん



AB作品には既にしてかなり困惑せざるを得ない部分が横たわっています。
決定的既成事実がない
この一点です。

このブログでは従来考察をしてきたとおり、作品に示される様々な要素を包括し、作中に於いてその描写が必然たらしむる事を目的として考察を加えてきました。
また時には私自身が持ちうる「物語の法則」のようなものに照らし合わせて、ややメタながら物語が辿りうるであろう、または辿るべき筋道を考えてきた訳です。

それは例えばガンダム00の最終回創作であり、化物語異聞と題した二次創作の何物語であり、またはハガレンの人柱に関わる記述であり、DTB流星の双子最終回後に於けるDTB世界の合理的解釈であり、ソラノヲトに纏わる一連の流れを考えた箇所でした。

或いはオリジナルからは外れつつも本来の精神や合理性を反映させ、オリジナルの流れを指摘しつつも作者の手腕によって超克され、逆に手腕よって貶められてきました。

しかしながら作中要素を基に理解・分解・再構築するという点に於いては何ら変わりがないのです。

ところがABは作中要素そのものに信を置くことが出来ないという要素を孕んでいます。

この作品の序盤の特徴は

・主人公はAB世界に対する知識や認識が確立していない
・AB世界は何物かの恣意によってもたらされた世界であると推測されている


この二つです。
この二つ、取り分け後者の存在が全ての要素に信を置くこと、また真である証しを拒否させます。
まず最初の部分についてですが、主人公が物語開始時点で既にこの世界に対して一定の価値観を持っていたのならばある程度の信頼が置けるかもしれません。
それは視聴者へ「主人公がこの世界の前提としていること」として伝わるからです。
ところがこの作品の主人公は視聴者と同様、何も分からない状態で世界に置き去りにされます。
彼にとってこの世界を規定する物は、他者……取り分けヒロインである「ゆり」の言葉だけなのです。

ここは死後の世界である
諦めなければ存在し続けられる
死んでも死なない
天使を負かし、神を倒す
流れに乗れば消滅する

この内で、少なくとも現時点(2話)で主人公が目にした、或いは体感した事象は

死んでも死なない

という一点だけでしかないのです。
ゆりの言葉には二重、いや三重の問題が隠されています。

一つはそれが本音か虚偽か分からないと言うことです。
流れに乗れば消滅すると言いますが、NPCが本当の意味で自我を喪失しているかどうかは分かりません。
消滅という状態が何を意味するのかも分かりません。
ゆりが音無を引き入れる為に虚偽を語っていたとしても、今のところ音無にそれを判別する術は存在しません。
神に抗う動機としても同じです。過去はあくまで彼女の自己申請でしかなく、それが本当かを確かめる術は音無にはありません。

もう一つは、本音を語っていたとしても真実かどうか分からないと言うことです。
例えばゆりは銀髪の少女を「天使」と呼称します。しかし本人は「天使ではなく生徒会長」だと言います。
これはすぐにバレる性質の物ですから、ゆりが意図的に虚偽を語ったとは思えません。
しかし、ゆりは自称・生徒会長を天使だとします。
そう思い込んでいるのです。しかし実際はそうかもしれないし、違うかもしれない。自称生徒会長が通常世界の人間を超越する力を持っているという以外に彼女を天使とする根拠はありませんし、超越する力を持っていたとしてもそれが天使だか らという理由だとは限りません。
また死後の世界についてはゆにも生徒会長も同様に語っていますが、ゆりが思い込みで生徒会長が虚偽を語ったという可能性もあるのです。

真偽の不確かさをを象徴するかのように、ゆりは自らがAB世界の流れに反しつつも音無には「あるがままを受け入れろ」と命令をします。本当の意味でそれをしてしまった のなら、即ち消滅である……とゆり自身が語っているにもかかわらず、です。彼女は意図的にか無意識的にかは分かりませんが、虚偽・或いは自己矛盾を口走っているのです。


と、この様に語ってきた訳ですが、実のところこのレベルの話はどんなお話にも通じます
他者の言う事は嘘かもしれないし、本当と思い込んでいるだけかもしれない。
これはABに限りません。


但し、ABには主人公・音無自身がファンタジックな世界観の法則性の正しさを前提として知らない存在であることと、もう一つ何物かの恣意的な世界である可能性が作品理解に大きく立ちはだかるのです。
これがゆりの言葉に関わる最後の問題になります。
何物か、というのはゆりの主観では「神」です。
この作品は生徒会長の能力に二進法の影響が見える部分、そして校舎の傷などが修復されている部分の描写からゲーム的世界、バーチャルリアリティなのではないか……と疑念を持たれています。
二進法の演出などを明示しているのなら作中でもそれに関するエクスキューズが出るだろうと考えます。
しかし出さない。これはコッソリ入れている演出なのです。
ですから個人的にバーチャルリアリティ解釈はあり得ると感じます。

しかしながら、バーチャルリアリティか死後の世界かというのは、神かプログラマかという固有名詞レベルの置換さえ済ませば構造は同じなのです(ただ物語展開としては筋道が多少異なるだろうと予想されます)

現時点で重要なのはこの世界が何物かの恣意が介入して構築された世界であろうという、その一点の前提です。
これも実証はされていませんが、死んでも死なない・死んだ時の記憶を有する・生徒会長の超常的な力と行動などである程度の信憑性を孕みます。
同時にこの世界を統べる何物かは世界を操作出来る可能性を孕みます。
それはつまり登場人物に対する記憶や性格の書き換えであり、世界に関するルールの書き換えです。

だから、この世界では前提が成り立たないのです。

ゆりが如何に主観的真実を語ろうとも、生徒会長が如何に自他を規定しようとも、音無が何を感じようとも、それが「何物かによってそう思い込まされているのだ」という仮定が出来る限り、いとも簡単に覆される。

すなわちこの作品の設定はあって無きが如し、なのです。

もちろん全部嘘でした、ではつまらなすぎますから、ある程度の真実は提示されているのでしょう。
しかしどれが真実かは我々には判断が付かず、論理的に確定したとしても「嘘でした」が為し得るのがこの世界観です。

よって現段階でABに関する考察は殆ど不可能です(メタ部分を取り入れた解釈は出来ますけれども)
ただ、この世界には不可解な部分が多数ありますのでそれを並べてみましょう。

生徒会長の行動は非常に奇妙です。
そもそも何を目的としているのかも分かりません。
逸脱者に対抗するというのと戦闘とは殆ど関係がありません。
少なくともこの世界に於いては。

戦闘の結果逸脱者を排斥出来れば良いのですが、死なない世界ではせいぜい殺しまくることで相手を諦めさせる事くらいしか出来ません。彼女は超常的な力を持っているにも関わらず逸脱者に対して強制力を有していないのです。また超常的な力にしても必ず攻撃されてから発動させています。

理由は不明ですが、生徒会長は敢えて手を抜いています

更に例えば生徒会長に対して暴力ではなく論理を持って相対したら実際どうなるかも分かりません。
必ず人間側から攻撃しています。
ゆりが言うように最初は勧告程度ならば、攻撃しなければ何も起きません。
敵対行動は個人によって蓄積されうるのか? それも違うようです。
1話の食堂でゆりが「食事をしているだけ」だから天使は来ない旨を語っています。
敵対行動が蓄積されているならば、逸脱行為をしている個人は現在進行形で食事をしようが何をしようが罰されなければ奇妙で、安易に食事などしていられなくなるのです。

ギルドの箇所も奇妙です。何故今になってギルドに侵攻してきたのか。トラップが天使に対して足止め程度の効果しかないことは実証されていました。つまり天使は今までギルドに本気で手を出したことはなかったのです。
気付かなかったのか、しかし今まで気付かなかったら今回気付く理由が分かりません。
彼女の行動は極めて謎めいています。

他にもこの作品には非常に奇妙な出来事や概念、行動が多々あるのですが、これ以上長くするのもアレなので今回はこれくらいで終わりたいと思います。

果たしてこの奇妙な部分が単なる御都合主義なのか、将又何かしら物語としてキチンとした理由があるのか、それはこれから明確になってくることでしょう。
有頂天という皮肉



ジェイソン・ライトマンは若いのに既にしてコメディの大物という風格がある。
『JUNO/ジュノ』の場合は脚本の腕に依るところも大きいとは思ったが、ああいう言語的な突飛さが多くなくても台詞まわしやシチュエーションの組み方、細かい演技などで十二分に面白い(もちろん原作力もあるんだろうけど)

お話としては人間関係を取るか、仕事を取るかというような比較的よくあるパターンではある。
面白いのがリストラに関わるコンサルタントという職業で、主人公がバック一個で生きつつマイレージを貯めようとする設定補完と共に、他者に宣告を下しつつも希望を与えるという矛盾した要素を兼ね備えさせている。

そして主人公ライアンとヒロインの一人であるナタリーの関係は『プラネテス』ハチマキとタナベを思い起こさせる。

ところがここでも少し捻りが利いている。

人間関係に関してはライアンの方が他者に壁があって愛情とか家庭を遠ざけている。
しかし仕事に関してはナタリーの方が合理性を強調して人情を考えていない。

だからこの二人はロマンチストな個人主義的男性プラグマティストな恋愛主義的女性という対比として描かれている。

彼ら同士が安易に恋人としてくっついてしまう訳ではないところがまたポイントかな。



超映画批評の前田さんなんかは『ハートロッカー』『マイレージ、マイライフ』もアメリカ頑張れ映画だとしているが、どうもあの人は時として偏りすぎるきらいがあるなぁと思うところも。

『ハートロッカー』その嗜好が特殊で強固すぎて自己完結している男の物語だ。
最後は彼が満足しているにも関わらず、その感覚は観客と一致している訳ではない
ジェームスは地獄のようなあの惨状を知りながら、むしろ楽しそうに帰投していく。

一方『マイレージ、マイライフ』自己完結に気付き、疑問を抱くようになりつつも、後戻りが難しくなってしまった男の話。だから愛情や家族関係が物語の核心にはなるけれど、ライアンは完全な意味ではそこに入れない。

有頂天で地に足が着かない生活をしていたら、
宙ぶらりんな状態になっていた

(有頂天=地に足が着かない=宙ぶらりん=それぞれ原題『Up in the Air』の訳語)

家族や愛情といった人間関係は大切だが、それは主人公が手に入れられる物として描かれるのではなく、羨望しても届かない皮肉や悲しさが中心になっている。
だから間接的な意味ではポジティブなガンバレ映画に捉えられるかもしれないけれども、主題的な意味ではむしろ悲しさや寂しさを出した切ない映画なんじゃないかと思う。

ライトマン自身もパンフで脚本を書いていたのは好景気の時期であり「リストラコンサルタントという職業は皮肉のつもりだったが、笑えなくなってしまった」と語っている。
他に前田さんが挙げた『スラムドッグ$ミリオネア』がポジティブなガンバレ映画なのは同感だが、『ハートロッカー』『マイレージ~』は主人公の姿を皮肉に描いているので、それを承知した仕事人間は『マイレイージ、マイライフ』(と『ハートロッカー』)を観て反省することはあっても積極的に頑張ろうとする事はあまり考えられないような気がする。

もしガンバレ映画と捉えるとしたら、現実が結果的に映画に倣ってしまい、寂しく感じる筈の所を笑えないから希望を見出そうとしている……という感じなのかなぁ。

閑話休題。

皮肉が効いていて読後感、というか視聴後がやや寂しい映画なのは確かだが、全く暗い映画ではない
そこがライトマンの凄いと思うところで『JUNO』の時も、学生で未婚の妊婦とその里親探しという設定的には暗い話も、実にユーモラスに見せてくれていた。
序盤の空港シーンではキビキビしたライアンの動きを編集で上手く見せており、ここから「コイツ撮るの上手いなぁ」という印象を与える。
後にナタリーを加えた後のモタモタ感との対比にもなっており、そのシチュエーションだけで笑いを産み出す。
ネット面接解雇を提唱して明らかに「ムカツク小娘」然としたナタリーが、メールで彼氏に別れを告げられた後に号泣するのも笑ってしまうが、その後にライアン自身に加えライアンと「気軽な関係」なアレックス(女だよ)に慰められるシチュエーションも最高。
アレックスの「理想の彼氏」像を聞く度にライアンを確認するかのようにちらちら目線を向けるナタリー、同じ言葉に表情を複雑に変えるライアンという三者三様の細かい演技が凄く笑える。

妹の結婚式用に写真を撮る為、嫌々妹たちの写ったパネルを持ち歩かなければならない状況も楽しいし、この結婚式の過程もユーモラスながら作品の重要なターニングポイントになっている。


まずナタリーの教育が上手く行った事で、結果的にネット面接解雇が採用されて出張が廃止へ。
この時点で既にかなりの皮肉が効いている。
マイレージの為に出張を願うライアンが、出張廃止へ手を貸してしまった部分も皮肉ながら、出張廃止=ライアンの存在意義の減少~消失に繋がる部分も目が離せない。
恐らくライアンはこの宣告を受けた時、解雇と同じような衝撃を受けている。
ナタリーと同様、自分のやったことが自分に返ってくるという構図は、この作品の最後まで通底する。

出張廃止で仕事以外にめが向いたライアンはアレックスを伴い結婚式に出席するが、姉は夫と別居中であることが判明。
そして各地で撮った写真を貼ろうとするも、既に大量に貼ってある。
更にライアンは妹のエスコートを申し出るも新郎のおじさんがやることになっていると断られる。

ここでライアンは家族とも疎遠であることが分かる。
彼の写真が必要ないほどに妹の人間関係は豊かで、新郎のおじさん>実の兄ライアンという扱いだ。

ところが式当日、新郎がマリッジブルーになってしまう。
新婦じゃなくて新郎なのがまたちょっと笑えるが、ここでライアンが説得をする羽目に。
姉が別居中なのと、ライアンが今まで家族を無下にした部分が効いてくる。
ライアンは新郎に上手いことで言いくるめ、あからさまにその場しのぎをしたかのようにも見えるこのシーンで、ライアン自身が自らの言葉に感化されてしまっている。

「アレ? 今てきとうに取り繕ってみたけどこれって事実じゃね?」

みたいな感じになっているライアン。
仕事の(リストラ者に希望を与える)シーンと似て非なる状況や本人が半分無自覚なのがまた良い。
そこから明確に今までと違う人生を意識するが……そこでまた二重三重の皮肉がライアンに、そしてナタリーに覆い被さる。

前述してきたように、この映画は全体的に皮肉が効いていて読後感はやや寂しい。
それは確か。
また、単純な意味でポジティブなガンバレ映画じゃない。
でも決してネガティブで陰惨な映画でもない。

ラストシーンでライアンの乗る飛行機のように、夜に輝く光はある。
それが凶兆か吉兆かは誰も知らないけれど。

最後のシーンは『ハートロッカー』に似ている。
決定的に違うのは主人公の気持ち
自分のやっていることに満足しているジェームスに比べて、疑問を持ちつつも簡単には変われなかったライアン。

でも

パンドラの箱の底には希望が残る。
リストラされた人間にだって希望はある。
ライアンだって、ナタリーだってこの先は分からない。

なぜならば、未来は

Up in the Air
(何一つ定まっていない状態)

だから。
アニメの話題全然書いてないので書くことにするぜ!


今期注目……というか応援したい作品はボンズの『HEROMAN』だったりする。
第1話を観る限りは真っ当すぎるほどに真っ当で、普通に言えば取り立てて凄くなるような感じはない。

だけれども、妙な可能性を期待してしまう。

なぜならばこの物語、昨今(要するにエヴァ以降という意味ですね)のアニメとは大きく異なり非常に単純化された世界観
つまり極端に言えば第二話で敵性宇宙人さえぶっ飛ばしてしまって、それで終われるような感じ。
逆に言えば、敵性宇宙人とのバトルさえ描けばあとはどんなエピソード、どんなテーマを盛り込んでも構わない……という大きな枠組みを持った作品だと言える。

ウルトラや戦隊物なんかは今もそういう傾向にあって30分でも凄い濃密な話があったりする(平成ライダーはしばしば謎めかして失敗する)けれども、ああいう単純な枠組みの話というのは実は話の作り手如何で幾らでも深みが増せるという強みがあるのだ。
加えて原作者はスタン・リー。

作品設定は
両親不在でお婆ちゃんと暮らすナードの主人公、クイーン・ビーのヒロインにジョックの兄ちゃん……なんて、


まんまスパイダーマンやんけ!


というツッコミを入れたくなってしまうが、もしもサム・ライミのスパイダーマン(特に2)のテーマを今の日本アニメ界でやってくれるのだったらそれだけで歓迎したい
だって目に付く作品が

悉く纏め切れもしない癖に
奇を衒い過ぎなんだよ!



ボンズにも耳が痛いだろう、きっと。

で、ヒーローマンは、この世界観にしてシリーズ構成は大和屋暁氏なので、これは期待出来るか……!?
と思ってしまうのですね。
当然ながら無難なヒーローものに終始してしまう可能性もあるし、そういう意味からも予断は許さないのですが、大いに望みを懸けたい一作です。
棺桶でしか生きられない


戦争には様々な思惑が付きまとう。
それは立場の違いでもあるし、個人の違いでもある。
政治家は、時には経済・時には支持率・時には理念の為に戦争を起こしたり止めたりする。
士官も時には戦略に頭を悩ませ、時には戦術を駆使し、時には功名心から判断を誤る。
市民は時には家族を失い、時には熱狂的に戦争を支持し、時には反対のデモを行う。

そして兵士もまた然り。

兵士も多種多様なタイプが居る。
『ハートロッカー』(棺桶・爆弾による障害者、またそれが起きうるような危険地帯)の主人公も、そんな一人だ。
このような兵士は、きっと他にも居るだろう。
と、同時に全く一般的な存在ではない。
普遍的な特殊性を持った兵士、それがハートロッカーの主人公・ジェームスだ。
冒頭は主人公でない人間の爆破処理から始まる。

これは所謂「普通の」爆破処理班だ。
日差しの熱さ、敵か味方かも分からないイラク人ギャラリー、そんな中を慎重に慎重に進んでいく。
緊張に彩られ、恐怖と猜疑が加速する世界。
幾ら慎重に事を運んだとて、僅かな切っ掛けで辺りは地獄と化す。
爆破処理班の任務は常に死と隣り合わせなのだ。

一方主人公の爆破処理は、冒頭のそれとはかなり対照的に描かれる。
もちろん緊張感が無い訳ではない。むしろそれ以上に肌がヒリつくほどに感じる。
だがそれは周りで見守る人間の話。
主人公の行動はぞんざいで、生死を懸けた任務であるにもかかわらず呑気ですらある……かと思うと突発的な凶暴性を見せる。まるで子供のようだ。
観客の感性は、冒頭のシーンで一般的な爆破処理班の兵士である同僚(厳密には部下)であるサンボーンとエルドリッジに連結されている為にジェームスの危うさに不可解さと危機感を覚える。
しかし、物語が進むに連れて次第に変質していく。

昂揚感、戦場には間違いなくそれがある事を知る。
戦争とはゲームだ。
普通のゲームと違うのは、(望むと望まざるとに関わらず)参加したプレイヤーの掛け金が取り返しの付かないくらいに高く付く事だけ。

命と肉体

一方でそれは掛け金さえ取られず、やる気さえあれば幾らでも参加しうることをも示す。

だが、その観客たちが共有出来る昂揚感も途中で断ち切られる。
戦争のロクでもなさが示される事で。

分岐点は此処だ。

真実か否かに関わらず、観客はそれを観て嫌な気分に陥るだろう。
ジェームスもそこで漸く人間性のスイッチが入ったかのように見える
更に続く事件でエルドリッジも敵兵に対して義憤を覚える。
ここで彼らは一度ゲームから戦争へ、兵士から人間に戻されつつあるかのように見える。

しかし、そのエピソードも最後は決定的な差異となって帰結する。


エルドリッジは結局ジェームスを理解出来ない。
サンボーンも、そして観客もだ。



それどころか、恐らくジェームス自身すら半分ほどしか理解していないだろう。
自分の異常性は自覚出来る。しかし、何故違うのかは分からない。
観客やエルドリッジやサンボーンにとっては結局戦争とは厭な物だ。
しかしジェームスにとっては最高……いや唯一の遊技場なのだ。

この映画は『レスラー』に似ているという意見がある。
それはもっともだと思うが、レスラーよりも数段狂気を増していると言っても過言ではないだろう。
それは命の危険性という意味でもあるし、選択肢という意味でもある。
レスラーの主人公・ランディは一度は普通の生活に戻ろうとした
が、失敗してしまった。その故のリング復帰になる。
彼にとってはレスリングは希望であると同時に逃げ道なのだ。

ジェームスは他の選択肢を選べる。
実生活に失敗した訳でも、葛藤した訳でもない
もう戦争へ行かなくとも、(不満は残っても)彼はきっと暮らしていけるだろう。
彼が戦地へ足を向ける理由はただ一つ、純粋な楽しみ。単純な欲求なのだ。
爆弾以外は何も愛せなくなってしまった、ただそれだけのこと。

理念などない、人道主義ですらない。
生と死の狭間にその身を置くことこそが願いであり、欲望。
そういう兵士だ。

彼らは居る。

何時の時代も、何処にでも。
多くの兵士は違うだろう。
だから彼らは全く普通の兵士ではないし、少しも一般的な話ではない。
だが、確実に、そこに居るのだ。