棺桶でしか生きられない
戦争には様々な思惑が付きまとう。
それは立場の違いでもあるし、個人の違いでもある。
政治家は、時には経済・時には支持率・時には理念の為に戦争を起こしたり止めたりする。
士官も時には戦略に頭を悩ませ、時には戦術を駆使し、時には功名心から判断を誤る。
市民は時には家族を失い、時には熱狂的に戦争を支持し、時には反対のデモを行う。
そして兵士もまた然り。
兵士も多種多様なタイプが居る。
『ハートロッカー』(棺桶・爆弾による障害者、またそれが起きうるような危険地帯)の主人公も、そんな一人だ。
このような兵士は、きっと他にも居るだろう。
と、同時に全く一般的な存在ではない。
普遍的な特殊性を持った兵士、それがハートロッカーの主人公・ジェームスだ。
冒頭は主人公でない人間の爆破処理から始まる。
これは所謂「普通の」爆破処理班だ。
日差しの熱さ、敵か味方かも分からないイラク人ギャラリー、そんな中を慎重に慎重に進んでいく。
緊張に彩られ、恐怖と猜疑が加速する世界。
幾ら慎重に事を運んだとて、僅かな切っ掛けで辺りは地獄と化す。
爆破処理班の任務は常に死と隣り合わせなのだ。
一方主人公の爆破処理は、冒頭のそれとはかなり対照的に描かれる。
もちろん緊張感が無い訳ではない。むしろそれ以上に肌がヒリつくほどに感じる。
だがそれは周りで見守る人間の話。
主人公の行動はぞんざいで、生死を懸けた任務であるにもかかわらず呑気ですらある……かと思うと突発的な凶暴性を見せる。まるで子供のようだ。
観客の感性は、冒頭のシーンで一般的な爆破処理班の兵士である同僚(厳密には部下)であるサンボーンとエルドリッジに連結されている為にジェームスの危うさに不可解さと危機感を覚える。
しかし、物語が進むに連れて次第に変質していく。
昂揚感、戦場には間違いなくそれがある事を知る。
戦争とはゲームだ。
普通のゲームと違うのは、(望むと望まざるとに関わらず)参加したプレイヤーの掛け金が取り返しの付かないくらいに高く付く事だけ。
命と肉体。
一方でそれは掛け金さえ取られず、やる気さえあれば幾らでも参加しうることをも示す。
だが、その観客たちが共有出来る昂揚感も途中で断ち切られる。
戦争のロクでもなさが示される事で。
分岐点は此処だ。
真実か否かに関わらず、観客はそれを観て嫌な気分に陥るだろう。
ジェームスもそこで漸く人間性のスイッチが入ったかのように見える。
更に続く事件でエルドリッジも敵兵に対して義憤を覚える。
ここで彼らは一度ゲームから戦争へ、兵士から人間に戻されつつあるかのように見える。
しかし、そのエピソードも最後は決定的な差異となって帰結する。
エルドリッジは結局ジェームスを理解出来ない。
サンボーンも、そして観客もだ。
それどころか、恐らくジェームス自身すら半分ほどしか理解していないだろう。
自分の異常性は自覚出来る。しかし、何故違うのかは分からない。
観客やエルドリッジやサンボーンにとっては結局戦争とは厭な物だ。
しかしジェームスにとっては最高……いや唯一の遊技場なのだ。
この映画は『レスラー』に似ているという意見がある。
それはもっともだと思うが、レスラーよりも数段狂気を増していると言っても過言ではないだろう。
それは命の危険性という意味でもあるし、選択肢という意味でもある。
レスラーの主人公・ランディは一度は普通の生活に戻ろうとした。
が、失敗してしまった。その故のリング復帰になる。
彼にとってはレスリングは希望であると同時に逃げ道なのだ。
ジェームスは他の選択肢を選べる。
実生活に失敗した訳でも、葛藤した訳でもない。
もう戦争へ行かなくとも、(不満は残っても)彼はきっと暮らしていけるだろう。
彼が戦地へ足を向ける理由はただ一つ、純粋な楽しみ。単純な欲求なのだ。
爆弾以外は何も愛せなくなってしまった、ただそれだけのこと。
理念などない、人道主義ですらない。
生と死の狭間にその身を置くことこそが願いであり、欲望。
そういう兵士だ。
彼らは居る。
何時の時代も、何処にでも。
多くの兵士は違うだろう。
だから彼らは全く普通の兵士ではないし、少しも一般的な話ではない。
だが、確実に、そこに居るのだ。