リュウセイグン -8ページ目

リュウセイグン

なんか色々趣味について書いています。

長文多し。

理想的なSFライトノベル



紫色のクオリア (電撃文庫)/うえお 久光
¥641
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良い評判を耳にしていた『紫色のクオリア』を読了しました。
色んなSFのおいしいとこ取りというか、その上でオリジナリティを確立しています。

人間がロボットに見える不思議な少女、毬井ゆかりと親友波濤マナブの物語。

元ネタっぽいものは

アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』
グレッグ・イーガンの『宇宙消失』『万物理論』
小林泰三『玩具修理者』

ケン・グリムウッド『リプレイ』もしくは映画の『バタフライ・エフェクト』

ってところか。

イーガンの長編は積読なんでコレは受け売りです、ええ。
そういや『リプレイ』もまだ読んでないな~。

ともあれ、



ちょっと変わった少女の日常コメディを皮切りとして

サスペンス&ちょっと不気味な話へ走り

ガチSFへ跳躍した後に

青春物として着地する



という、贅沢なんだかメチャクチャなんだかよく分からないけれどもとても良い小説でした。
その全てにクオリア(感覚質)という概念が包括されているのがまたステキ。
このネタでここまでやるのか! という驚き。
部分的にはよくある話だけどここまで広げるか! という衝撃。
破天荒ながら分かり易くて説得力がある
(僕個人が全部キチンと理解出来ているかは不明だけど)
ある意味、僕がライトノベルという分野に関心を寄せる理由が織り込まれた小説だったと思います。

展開早いし、ドラマとしての盛り上げなんかはもうちょっとずっしり書いて良かったんじゃないかという気もしますが、兎に角発想で突っ切った。突飛なキャラが乱造され、キャラ設定だけで胸焼けがしてしまいがちなライトノベルの残った良心と呼べる作品かもしれない。
(もちろん冲方さんや桜坂洋、山形石雄なども良心的)

語り手である波濤マナブの独善性も特筆すべき物がある。
最終的に彼女の行動・努力は必ずしも全肯定される訳ではないが、同時にあの状況に到達するのは彼女が全てを、本当の意味で全てを懸けてゆかりを救おうとしたからだ。
途中で諦めて世界を確定させてしまえば、それきりだったに違いない。
あの足掻きこそが重要だったのだ。
そしてこれは僕の価値観だが、たとえ傲慢だって独善だって越権だって大切な人を救いたかったら救う。
それで良いんだ。『バタフライ・エフェクト』みたいに、途中で投げずよくあそこまでやりきった!(別にバタフライエフェクトの批判ではありません、正直疑問は残ったけど)
波濤マナブは最高に男らしい!
まぁ設定は女なんだけど




最後はライトノベルらしく青少年のアイデンティティの問題にクオリアを絡めて帰結させるところも良い。
中高生の読み物なんだから、小難しく辛気くさい終わらせ方をする必要なんて無いのです。
バカにしている訳じゃない。複雑にすれば高尚だという発想に拘らなくていいんだって事。
人間の精神に対し誠意を込めて書き、しかもテーマにガッチリ合ってれば問題なし!

そんな訳でとても気持ちよく読める作品でした。
こういうのもっと増えてくれると嬉しいんだけどな~。


















追記というかおまけ


ちょっと他の感想見回ってたら、小さいツッコミが気になった。
エピローグに三寒四温という言葉が入っているのが解せないという事らしい。

ここまでの話をしておきながら、寒い温かいの概念とは何か、と。

ううむ……ぶっちゃけ「寒い」「温かい」それ自体がクオリアの筈なんだよな~。
それにこれをツッコむと、三寒四温に限らず名詞・動詞まで含めて全部書けなくなっちゃう……。


批判するつもりは毛頭ないが、思考実験として面白いから考えてみよう。


俺も正確に理解しているとは口が裂けても言えないけれども、概念としてどういう構造になっているか朧気には分かるつもり。
これは言語との対応の問題でもある。本人が「温かい」と実感した、それそのものがクオリアなのだ。
※ 「温かい」を「冷たい」と覚えてしまうなどの言語的ミスは生じていない物と仮定。本当はそれすら不確定な気もするが訳が分からなくなるので単純化。


人物Aの「温かい」というクオリアと人物Bの「温かい」クオリアは厳密には異なると思われる。
それどころか人間には感覚器官の慣れがあるので、例えば1月1日のAによる「温かい」クオリアと1月2日のAによる「温かい」クオリアすら実のところ違うはずだ。


しかしながら、多くの人の中にはそれらを包括して「温かい」という概念が形成されている。
作中解釈によると、全ての自身の可能性の中で共通して「温かい」という概念が一定の像を結ぶ、それをクオリアとしている。主観の中ですらズレはあっても、共有されている概念。
他人もまた同じ……とまでは言えなくても状況は似ている。


人間にある程度高い温度が入力、「温かい実感(クオリア)」が認識され、概念として把握する。
後に学習で、その状態~それに近い状態を「温かい」と言語化する。


で、ぶっちゃけ言語化した場合にも完全に一致する必要はない。
むしろズレているにも関わらず経験上何となく他人とのクオリアが共有出来て居るであろう部分の上澄みを言葉として「温かい」と称しているだけに過ぎない。だから言語に表す場合は自他のクオリア多かれ少なかれずれているが、被っていると思しき部分を言葉として共有していると思われる。


そして人間がロボットに見えるゆかりと他の人間による認識の差異みたいに、被っていない場合にお互いが確認して初めて「違っている」ことがある程度分かるに過ぎない。

まぁ、そこまで極端じゃなくても誤差が認識された時って事ですね。
「美味しい」とか「面白い」みたいな部分で考えた場合が分かり易いだろうか。
同じものを食べて同じ物を観て「美味い・不味い」「面白い・つまらない」というのが差異として生じる。
ただ「寒暖」は物理的に「温度が高い・低い」で表現出来るが、「美味い」とか「面白い」はそうはいかない。
だからたとえ話では分かり易いにしても、クオリアとしては複合的で複雑になってしまうかもしれない。


更に話を発展させてみたい。


『虎よ、虎よ!』を引き合いに出してしまうが、終盤に主人公ガリヴァー・フォイルは共感覚者になる。
その上で、たとえば温度変化は音の高低として示されるとしよう。
そして甘さが温度として感じられるとしよう。
分かり易くする為に感覚器官は我々基準で。

我々が温かいと感じる時、彼は高い音を聞く。
高い音、それが彼にとって他の人間が「温かい」と言語化したクオリアだ。
逆に我々がその感覚の違いを(誤差はあれども)ある程度把握して

「フォイルさんが砂糖を口に含んだ時の感じが、我々にとっての「温かい」なのです」

と間接的に説明することは可能だ(もちろん確認する術が無ければ間違っている可能性もある)

この場合フォイルにとっての三寒四温は、音階が部分的にやや戻りつつも全体としては高くなっていく音調である。そしてフォイルに我々にとっての三寒四温を疑似体験させる為には、部分的にやや戻りつつも苦い物からだんだん甘い物を与えていくような形になるだろう。



我々の「温かい」クオリアはフォイルの「高音」クオリアであるから、フォイルが温度を音に捉えているという意味では違うけれど、我々の認識する「温かい」の時とと同じ刺激が入力されたという意味に於いては同じである。

逆に我々の「温かい」クオリアとフォイルの「甘い」クオリアは入力された刺激としては異なるが、その結果として生じる感覚はある程度共通すると考えられる。

本編に比べて差異の少ないケースではあるものの、つまりはそういう違いであって、言語化してしかもそれがある程度共有出来ればさほど異ならないと言えるし、少しばかり異なっていたとしても誤差の範囲内に過ぎないのだ。

そして本文の記述から波濤マナブの発した三寒四温は波濤マナブのクオリアとしても、我々のクオリアとしてもそう大した違いは無いはずだと推察出来る。あれだけの経験をして居るんだから違いが生じないのがおかしい……と思われたらもうしょうがないが、マナブはエピローグ時点で可能性を拡大させた時の記憶や感覚を喪失しているし、



なにしろあたしは話のオチを、こう締めくくるつもりなのだから。「すべてはあたしの夢でした、ちゃんちゃん」と。
(『紫色のクオリア』 113頁)



と語っている。
だから別にそのクオリアが常人のそれと似通っていても全く不思議ではない。
しかしこう考えるとクオリアって本当に面白いですね。
科学と言うより哲学的な概念にも思えてしまう。
(敬称略でお送りします)
過ぎた話題の感もありますが『勝間・ひろゆき対談』 について少々感じた事を。



対談の流れは概ねケンカを売る勝間にひろゆきがツッコミを入れる感じで、ひろゆきに軍配を挙げる人が多かった印象(ネット世論だからというのもあるでしょう)

僕個人も動画ではなく文章で読んで、勝間は大上段に構えて隙が大きく、ひろゆきはその間隙を突いてたんだな……ってのがある程度のイメージ。
またネットの匿名性やら企業論については必ずしも話題に明るく無いので雰囲気としての判定がし辛い一面もあります。

ただ、物凄く引っ掛かったのが幸福論。



勝:日本の中で幸せで、起業しなくても幸せで、多少失業率
が高くても

ひ:先生すいません(笑)、起業 しないと幸せになれないんですか?


勝:起業はとりあえず放っておいて良いです。


ひ:ああ、はいはい。


勝:若者は今の現状の中で幸せなんでしょうか。


ひ:自分は幸せだと思う選択肢を取っているだけで、
起業 するというのは幸せになる選択肢で はないというだけだと思いますよ。


勝:でも今現在若者と呼ばれる若年層の人たちというのが閉塞感を感じているような、


ひ:それは歳取った人も感じてるんじゃないですか?


勝:じゃあこれは何故ですか?


ひ:だって世界経済 不況 じゃないですか。


勝:でも日本だけが特に不況ですよね。


ひ:ん~。特に不況って、その感覚値の問題なので、


勝:いや数値の問題として


ひ:確かに経済としての不況は数字になりますけど、そのどれくらい不幸なのかっていう不幸さっていうのは個々の主観の問題なので




勝間が日本の不幸性を挙げると、ひろゆきは「幸せの感覚」について反論します。
不況の中で日本に閉塞感があるのだと主張する勝間は金や起業という「客観」から幸福を語るのに対し、ひろゆきは幸福は「主観」であるから……と対抗した形です。
ここまでは良い。
その後、ひろゆきに対して勝間は幸福度調査を例に出します。



勝:不幸も全部これ統計 データを取る限り日本は様々な幸福度調査において必ず下位ですよ。



この調査が信用出来るかどうかはいざ知らず、これは少なくとも日本人の「主観」としての幸福論の根拠になります。

しかし、これを受けて、ひろゆきは


ひ:ええ、だからそれは本人たちがそう言っているわけで、じゃあそのジンバブエ 人とどっちが幸せかと言ったら、日本の方が割と幸せだと思いますよ。


と語るのです。


……ん?




ジンバブエが大変な国(不幸な国)なのは分かります。
でもこの大変さは「客観」としての大変さであって、即ち金銭等を幸福の寄りどころとする考えに通じます。途中でOECD諸国に移ったりしますが、要は同じ事。
さっき幸福とは「主観」によりけりと語っていたのでは?
だから勝間は主観的な幸福度調査を出して来たのでは?


勝間はこういう部分を無視して真っ向から喰らいついてしまうので、このツッコミはスルーされたのですが、僕としてはとっても気になります。

この後の話でも


ひ:いや、だから僕は水と安全が確保されているということが大事で、で後は別になんか給料が低いとかって言うのは生きていく上でそこまで重要ではないと思 うんですよ。


このファクターはひろゆきが勝手に決めたもの
ファクターを決める事自体は自由だと思うのですが、こういう一方で



勝:幸せにはいくつかファクターがありまして、昨日より今日、今日より明日が良くなるとか、自分の能力が自分の最大限発揮されてそれに対して、まさ しく家族ができて友人できて社会が喜んでくれるとか、様々な私たちの幸福度を左右する物があるんですけど、そういうものに対して、あまり少なくとものこの 10年、20年を見た場合に若者達の状況が良くなっているとは思えないんですけれども、


ひ:そもそもそのファクターが、勝間 さんのファクターで、他の国だと死なないとか襲われないとかレベルから幸せが始まっているのに、日本ってそれは当たり前だよね、でその上って話になって




ひろゆきは勝間の設定したファクターにはツッコミを入れています
でも自分のファクターも諸国を引き合いに出しているとは言え、

勝手な基準じゃないのか?


勿論、最低限な分だけ勝間よりはずっと普遍性があると思いますが、このラインで果たして幸福足りえる人がどれだけ居るんだろう。
更にひろゆきは現状に幸福を感じない日本人を



ひ:ええ。そのなんか要は、不幸せだというように言いたがる人種だとは思うんですよ。



と言ってしまいます。

……それは人種や民族性って言うより
段階的に富裕化した人間の性質なんじゃ?


「水と安全だけあれば」、なんて部分にも通じますが、短期的には水と安全が有れば満足出来るかもしれないけど、それが常態化すればもっと上を求めたくなるのは不思議な話では無いと思います。
マズローの欲求段階設 とかですね。


これらは、


勝:でもそれを他の国と比較した場合に幸せだから、じゃあ10年前、20年前よりも不幸せで良いという議論になっちゃうんですか?


ひ:別に構わないと思いますけど。そんななんか、いつでも世界中でトップレベルで幸せにならなきゃいけないっていう方がおかしいと思いますよ。



という下りや、ひろゆきのブログに記された幸福論 からも分かるように、彼の価値観を反映している部分もあるでしょうが、それ以上に主観幸福論を主張した直後、ジンバブエよりまし……と語っていることから、この場では単に勝間の言い分を否定したいが為に適当な繰り言を述べているようにも見えます。


自分の幸福ラインを最低限にでも主張するなら、勝間のラインもまた否定出来ないだろう。
個人的には幸福論としてみた場合、ひろゆきに共感しますし勝間は押しつけがましいなぁとは思います。
でも、結局ひろゆきも自分の幸福論のラインを正しいとして、勝間の意見を下してしまうので平行線なんですね。


ひろゆきみたいなスタンスで居る場合、お金が無くても幸せという主観的幸福論が成立すると共に、勝間のお金が重要という客観的なようで実はけっこう主観的な幸福論としてのファクターも必ずしも否定出来なくなります
水と安全を確保するには必然的に社会全体の経済的な安定が必要不可欠なんじゃないかという気もするし。

安全という定義問題もあるしね。
究極的には犯罪や事故が一切起きない事まで「安全」に入る訳ですから。


ぶっちゃけ、ただ押しつけがましいから反抗したのかもしれません。
自己で幸福を規定するのは構わないけど、それを無理強いしないでくれ……みたいな。


そんな訳で、ディベート結果の印象としては確かにひろゆき有利でしたが、(他の部分も含めて)どちらかというと勝間の論調が拙かったからひろゆきの詭弁みたいな言説が通った……って感じを受けました。
戦争の中の栄光


グローリー [DVD]/マシュー・ブロデリック,デンゼル・ワシントン
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勧められたので視聴。


素晴らしい映画だ。
戦争物というのは多数あって、その解釈もスタンスも多数有る。
批判的に描いたのも多いし、それは当然だろうと思う。
僕も戦争は嫌いだ。

だが同時にこの物語はとても貴重で、しかも戦争というものが無ければ存在し得なかった事もまた確かだろう。



黒人志願兵部隊の司令官に任ぜられた白人ロバート。
差別主義者ではない。むしろそれと戦う男達の話だ。
しかし兵士になるには訓練が必要であり、結果としてそれは黒人奴隷の再来のようにも見えてしまう皮肉。
ロバートの意図は「黒人を本当の意味で兵士として役立てること」だが、それ故訓練は激化、軍律の為に友人とも対立し、奴隷時代に鞭で打たれた傷を持つ脱走兵に懲罰として鞭打ちを科さねばならない。

この鞭打たれる黒人(若き日のデンゼル・ワシントン)の涙が辛い。
彼は鞭の痛みに泣いているのではない。むしろ鞭に打たれている痛みに対しての反応は無いに等しい。
だからこそ、その涙には自由を求めてやってきた軍隊で奴隷と同じように打たれることの悲しみが見え隠れする。

だが、ロバートも軍隊として脱走者を糾さなければならない苦悩。この辺りは見ていて本当に辛い。
補給将校にゴリ押しする辺りから司令官と黒人部隊の関係は好転するが、北軍からすら黒人達が信用されていない現実。侮られる事実。
どう考えても訓練不足と偏見なのだが、当時の認識としては拭いがたいものがあったのだろう。

不満をぶちまけるトリップ(デンゼル・ワシントン)以前からロバートと仲の良い黒人トマスを罵倒し、曹長のローリンズ(モーガン・フリーマン)にも突っ掛かる。

ローリンズは言う

「彼らは私達の為に戦って死んだ、
だから私も共に戦いたいと思った」


「(トマスは)黒人じゃない、黒人はお前(トリップ)だけだ」
(ここで言う黒人は恐らく蔑称の意味を含む物だと思われる)

単純にして明解な真理。
そしてトリップ自身が黒人としての自身を卑下していることへの鋭い指摘だ。

最終的に、ロバート率いる54連隊は要塞突入の先陣を志願する。
間違いなく部隊が壊滅するであろう程の任務に。
出陣の際に、ある白人兵が「頑張れよ!」と声を掛け、他の男達も呼応する。
以前、黒人部隊として貶してきた男だ。


これもまたローリンズと同じく単純にして明解な真理。


命を懸けて戦う者に、敬意は払われる。


肌の色などは関係ない、
流す血の色は同じなのだ。




そしてラスト、本当の意味で血路を開くロバートと、最後の最後でそれに応えるトリップの行動が素晴らしい。



結末は必ずしもハッピーエンドではない。
だが彼らは間違いなく未来を切り開く礎となった
それは一つの要塞攻略などよりもずっと大きい影響を与えた。



これこそが戦争にかける人間ドラマ



何が言いたいかというと(いつもの通りでお恥ずかしいが)



部活動みたいな軍隊生活しか送っていなかったヤツがラッパ吹いただけで戦争行動止めさせるとか

死んでも生き返る部活動みたいな銃乱射ごっこして取って付けたように不幸自慢を繰り広げるとか



彼らの誠意に対してみれば、

そんなのを「戦い」と呼称することすら烏滸がましい


って話に思えてくる。
Once Upon a Time in Japan
~天地明察~



天地明察/冲方 丁
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やはり冲方丁の実力は確かだ。
従来SF~ライトノベル分野でしかも設定や文体が難解な部類に入る彼が、時代小説とは!
しかしそこは冲方丁。
思えば『ピルグリム・イェーガー』『シュヴァリエ』時代伝奇物とも呼べるジャンルだった。
そういった素養に加えて本物の風格漂うエンターテイナーの才覚
それは如何なるジャンルの文芸作品についても同じであることを認識させられた思いだ。

話は、江戸時代の棋士にして貞享暦 の製作者、渋川春海 の一代記。

時代小説の面白さというのは、まず第一にキャラクタとその行蹟の面白さ(これは完全なフィクションにも共通するだろう)そしてそれ以上に重要なのが一つ一つの事実を埋める発想力だ。
歴史人物というのはピンキリあれども記録の中にしか残っていない。
つまり人物の情報が欠損していると言うことでもある。

その人物の情報を歴史的事実や情勢と繋ぎ合わせて、あたかもそれが真実であるかのように思わせ、物語やテーマに深み、面白味を与えることこそが時代小説の魅力だと思う。

飯嶋和一の『雷電本紀』や浅田次郎の『壬生義士伝』などは非常に面白い時代小説だが、正直読んでいて「こりゃねーだろwwwww」というほど鮮烈でドラマティックな場面に遭遇する。
実際、浅田次郎に至っては壬生義士伝の虚構性について自らカミングアウトしているし、他の作品でも明らかに無理矢理な解釈をしている部分が見受けられる。『蒼穹の昴』に至っては西太后が悲劇のヒロインみたいに描かれている。

だが、史実など二の次だ。
(もちろん土台として参照しているのは前提、調べた上での虚構性こそが面白い)
その解釈の面白さ、本当ッぽさこそがエンターテイメントとしては重要なのだ。
それがリアルとリアリティの違いでもあると思う。

冲方丁はまさにその肝心な部分を掌に収め、渋川春海という風変わりな男の人生を構築せしめている。

まず春海は天才ではない
客観的には才気煥発で英明な男なのだが、どうもパッとしないのらりくらりとしたキャラとして描かれる。
侍のような立場にもなじめず、棋士としても迷いがあり、しばしば己を恥じたり情けなく思ったりする。
頭がいいけどちょっと抜けてる憎めない男だ。

それに対するのが関孝和で、こちらは後半まで直接登場しないにも関わらず圧倒的な凄味と存在感を持ったキャラとして描かれる。

彼らは間接的に交流し、後には直接対面することになるのだが、史実に載りにくい(公的な場ではない)エピソードが主流になっているので恐らくこの辺りも大半は創作であろう。
春海の碁に対する迷い、関孝和への尊敬と劣等感などは冲方が考え出した春海像なのだ。
『天地明察』の春海にとって関孝和はなくてはならない存在で、天に輝く太陽の如き男としてある。ここに登場人物のドラマ性が非常に強く出ており、関孝和に対する憧れも畏れも、読者は我が事のように感じられ、心を打たれる。
春海という名前の由来にしても、恐らく種々の資料を参考にしてはいる。
けれどもその裏にある感情は冲方丁が文献を読み込んで眼光紙背に徹した上でその心を汲み取ったものだろう

だからこそ春海の心情は切実で、その一喜一憂は我々の心にも染みる
碁打ちとしての初手天元という打ち方に関する逸話の解釈からもそれは分かる。

暦というものに関する特殊性、様々な時代の鼓動、それに関わる男達を重ね合わせ織り交ぜて、『天地明察』は創られているのだ。
登場人物がまたいちいち男らしくて泣ける。
時には優しく、時には厳しく春海に接し、春海もまた彼らに感銘を受けて成長していく。
ここには誠意がある。
冲方丁の作家としての誠意であり、江戸草創期の一大事業に懸けた男達の誠意が。




こんな作品が面白くない訳がない。




作中で、春海が柏手を打つシーンがある。




左手は火足すなわち陽にして霊。
右手は水極すなわち陰にして身。
柏手とは、陰陽の調和、太陽と月の交錯、霊と肉体との一体化を意味し、火と水が交わり火水(引用者注・ふりがなは「かみ」)となる。柏手は身たる右手を下げ、霊たる左手へと打つ。己の根本原理を霊主に定め身従う。このとき火水は神に通じ、神性開顕となって神意が降りる。
手を鋭く打ち鳴らす音は天地開闢の音霊、無に宇宙が生まれる音である。それは天照大御神の再臨たる天磐戸開きの音に通じる。
柏手をもって祈念するとき、そこに天地が開く。そして磐戸が開き、光明が溢れ出る。




関孝和の稿本を前にしての柏手である。春海の孝和に対する敬意が伺える名シーンだ。
この解釈は神道の文献によっているだろうが、ここにはもう一段入った意図もあるのではないだろうか。
冲方丁の名の由来は「冲」は氷が割れること、「方」は職業「丁」は火がはぜる意との由。


つまりこの柏手は冲方丁自身でもあるのではないだろうか
彼はその名に引っ掛けて、

霊性を作品という形に宿し、
小説という名の天地を開闢することを職と為す


……という自負を込めてこの部分を書いたのではないか。

私が思うに、それは決して傲慢などではない

彼は実際に自身の世界を開闢し、今なお広げ続けているのだ
ネタバレ全開でお送り致しますのでご注意下さい。















大スターと大監督が織りなす○○なサスペンス!
















すんげー残念な感じの映画。
僕は演技とか演出とかに極端には拘らない所もあるのですが、まぁレオ様ことディカプリオとスコセッシなのでそこら辺は手堅くやっていると思います。レオ様の華が削がれてるとかなんとかって意見もあるみたい。でもそこは気にならない。



何が残念だったかって話が残念でしたよ、ええ。
どんでん返し映画と言うことで、どんなネタなのかを結構期待してたんですよ。
なんか「この映画には色々ヒントがあるよ~」とかいう思わせぶりな字幕とか有るし。
結果として具体的なヒントはあまりチェック出来なかったとは思います。



でもね、正直言わせて頂くとそんなん何のヒントにもならない。



だってこの映画、設定見ただけでネタバレだもん



設定
孤島に作られた精神病院で一人の患者が行方不明になったから、
連邦保安官(ディカプリオ)が派遣されました。




ハイ、これでどんでん返し映画のストーリーを考えてください。



制限時間は三十秒。



……出来ましたか?
今あなたがこの設定で思い付いたどんでん返し映画。
1本しか思い付かなかった人もいるかもしれません。
5本くらい思い付いた人は凄いですね。

でもどっちだって構いません。

一番最初に思い付いたネタを使いましょう。



それはきっとこの映画のオチと一緒です。


なんってヒネリが無いんだ!


こんなん90年前から同じもん があるわ!!!!!



一番分からないのはスコセッシが何故これを監督して、ディカプリオが出演ようと思ったかだな~。


それにこの映画(もう明言しても構わないだろう)精神病患者の妄想とその治療だとしても無理がある設定
暴力的な精神病患者を治療する為に、そいつを二日も野放しにせんだろう、常識的に考えて
ガチで脱走患者のいる閉鎖病棟に入っていく時も、野放しにしているヤツ&逃げたヤツ両方に明らかに危険が伴う。だから間違っても一人にはさせない。でも何故か一番肝心な時に相棒(の振りした監視役)がいなくなる
監視役も妄想と現実が混同されていたのかもしれない。
でも、いなくなってたら監視役の意味がねー!

つまりレオ主観でシーンごとに「居ないはずの相棒が存在する」という設定にしていたとしても、現実には相棒ではなくて監視役だからレオの居るところには必ず存在していなくては治療としてフリーダム過ぎる
でも居なくなるんだよ! それとも居るのに認識していないと言うアレだったのか?

というか初めて会ったバディ役に何年間も一緒の主治医を配置するのも無理があるし、実は病院側に思い込まされただけで本当に陰謀論だったんだよ! な、なんだって~!! みたいなオチのが納得出来た気がする。
妄想オチって何でも出来るから、逆に縛りを厳しくしないといけないんだよね。

ラストは「ん?」という状態で、他の感想読んで意味を理解した。

これについては真意を汲み取れずちょっと反省

もう一回どんでん返しあるだろう、という前提で見てたというのは言い訳じみてるか。