世界観と美術に関しては一級品
去年から注目していたシェーン・アッカーの『9』を観て参りました。
アカデミー賞の短編部門でノミネートされ、ティム・バートンなどを一目惚れさせたというこの作品。
荒廃した世界でちょっと不気味で可愛い人形たちが、不思議なデザインのクリーチャーと戦いを繰り広げる物語ですが、なにより秀でているのはそのデザインや世界の描き方でしょう。
公開前にPVのような形で本編の一部が公開されていたのですが、それでもう惚れ込むには充分でした。
布で作られた人形と、ガラクタを組み合わせたようなモンスターのバトルは、こりゃ確かにティム・バートンも惚れ込むわな……というレベルで暗い感じながらも厭らしさが無くどこかファンシー。
モンスターハンターみたいなシーンもありましたが、やっぱりあのクリーチャーがグリグリ色んなギミックが動いて襲ってくるのはカタルシスだったなぁ。
他方で、不思議な設定だと思っていたのがストーリーラインとか見ていくと案外普通だったというか、短編をそのままスタンダードに引き延ばした印象。謎というか、この状況で何を為せるのかが分かりにくい部分もあり、このテーマと描き方ならもう少し突っ込んだ話が出来たんじゃないかなぁ……と思ってしまう部分も。
とは言え続編作るのも難しそうだ。
キャラで言えば7がメッチャ美味しいところを攫って行きまくったw
ヒロイン補正なのかもしれないけれども、ぶっちゃけ単純な武勲で言えば9よりも上だった気がする。
短編でも9の役割は頭脳戦だったからな~。
一方ジャイアンこと8はどうも見せ場が少なくてちょっと可哀想だったかも。
磁石でラリってるところとか好きだったのに。翼竜に包丁投げたところが一番輝いているシーンだったとは……。
物語としてはちょっと引っ掛かる部分もあるが、クリエイターとしてはかなり期待出来そうなのでシェーン・アッカー監督の次回作にもご期待下さいという感じですね。
10年間の集大成?
映画サイトを観ていると堤幸彦監督作品というのは非常に貶されている印象がある。
まぁ近年の事に関して言えばそれはむべなるかなで、僕も殆ど見に行ってない。
彼はそれなりにはヒットメーカーではあるのだが、それはTVドラマの話で大作の映画監督に向いているかと言えば首を傾げる向きもある。
それでも『サイレン』なんか鄙びた島の感じとかオリジナルをスクリーンにして引っ掛ける辺り案外嫌いでもないんだけれどwww
秋元康の仕事仲間という経歴もあって、特に町山さん辺りからは忌み嫌われているのだけれど、これについても僕の見解は少しばかり違う。
まぁ取り敢えずは、TRICKの話だ。
映画だから多少大掛かりになっていたりはするけれども、TRICKは良くも悪くもいつもながらの雰囲気でした。
シリーズ自体がけっこうな話題作になった為か勘違いされる向きもあるが、TRICKの面白味はある意味どうでも良さとかしょうもなさにある(人それぞれにしても)
くだらないギャグ、怪しい村の雰囲気、しょうもないトリック……全作ほぼ全てを揃えている自分としてはそういう物に対して失笑するのがTRICK的な笑いだと思っている。
その質もシリーズで上下する部分はあって、劇場版3は最上でも無いが最下でもない……というところかな。
順番にすると
シリーズ2>シリーズ1>>>劇場版1>>>シリーズ3>スペシャル2>劇場版3>スペシャル1>劇場版2
こんなところか。
トリックはやや単純で、ペイズリーもそこまで面白くはなかった。
けど、やっぱマツケンが白馬に乗って走っていく所なんかはそのトリックのいい加減さと相まって吹いちゃうんだよなぁ。
双子の脱出トリックに関しては手首の描写を見落としてしまったのと、そういう使い方をするという頭がなかった。
ただ普通で有ればそれにしたって「誰もが思うやっちゃいけないトリック」なので怒っても致し方ないところではあるのですが、僕個人としては「お、このネタで来たか。懐かしいなぁ」みたいな感覚だった。
それはシリーズ1に於いて佐伯日菜子が双子トリックで出演していたから。
他にも話の筋は劇場版1に近いし、貞子ネタを振ってくるのは劇場版2、冒頭の妖術使いはシリーズ2の最後、フーディーニのエピソードが引用されるのもシリーズ1、ガッツイシマッチューはシリーズ3からと、今までの要素がふんだんに盛り込まれている。
更にはマツケンの動機をフーディーニに加えて福来&御船千鶴子の千里眼事件にも絡めてきたのは印象深い。
フーディーニは奈緒子の父親・山田剛三のモデルであり(つまり奈緒子からすればマツケンは父親の鏡像でもある)千里眼事件は『リング』のモデルだ。
そこへ山田の貞子ネタに、佐伯日菜子出演時の双子ネタとくればもうこれは確信犯だろう!
と言いたくなる訳だ。
更にマツケンが死ぬ時に妻の幻影を観た相手が山田里見で、これは里見が本当に霊能力を持っていたと解釈出来る描写であると同時に、マツケンは里見に亡き妻の幻影を見て、里見は亡き夫と酷似した男を最後に救ったという描写にも取れる。
また母の泉の「おかあさま」との因縁を明かすなど、ファンにはなかなか嬉しい部分も多かった。
が、コレはあくまでファンだからこそ反応出来る所で、他の人はある程度TRICKを知っていてもあまり意味が分からないはず。と言う訳で、大勢の人にはあまり向かないだろうって気がする。
そもそもTRICKなんてのは大作嗜好からはかけ離れた作品で、それが下手に話題作になってしまったもんだから勘違いされているような印象がある。
トリックがショボい?
そんなの昔からですよ!!!
いつもみたいに無駄に複雑と言うより、単純な物を使う傾向にあったから「よくもまぁ手間の掛かることを」みたいな部分もないのはちと残念だったかも。
ただこういう部分で批判されると「変な雰囲気のもんじゃ焼き専門店が有名になったから色んな人が高級料理店と思って訪れた挙げ句にダメ出しする」 みたいな悲しさがある。
ここは変なもんじゃ屋であってそれ以上じゃないんだよ!!
しっかり勉強してから出直してこい!
みたいな。
いや……局自体が大々的に宣伝してるからそう言われても仕方ないし、確かにシリーズ通してもそこまで出来は良くないんだけどさ。そこら辺が昔ながらのファンとしてはですね、色々思うんだな。
で、そこら辺に至って堤論に戻ろう。
この人はトレンディ系の首魁の一人と思われているが、実は全然それとは違うんじゃないかと思っている。
『ケイゾク』にしたって植田Pの「社内をビックリさせてやりたい」という要望を聞いて作ろうと思った作品で、ギャグを含みつつもかなりバイオレンスで暗い話だし、『TRICK』なんかキャスト・主題歌含め新人や旬を過ぎた人間が中心で注目作品としては扱って貰っていなかった。
また2002年W杯は『最強伝説黒沢』ばりのかなり厭な視点で見ていたようだ。
そして原作付きの作品を観ても分かるが、色々な物を「壊したい」という欲望も見え隠れする。
だからスペシャルで秋元康を出しても持ち上げる訳じゃなくて酷い扱いをするwww
またケイゾクでもTRICKでも、オチはかなり暗くてシビアな話が多い。他の作品もバイオレンス描写は結構ショッキングだったりするしね。
どうも堤監督の破壊願望みたいな物が過剰な演出として表現され、付随するギャグ・バイオレンスには(極論として)明確な意味が存在しないので、そこら辺が嫌がられる(または好かれる)一因なのかもしれない。
総括すると、TRICKとしても質はあまり高くなかったが、今までをちゃんと押さえている人には面白い部分も多い、と。ついでに堤さんには大作映画じゃなくて、初期のTRICKみたいなしょうもなくてパッとしない感じのTVドラマを作って頂きたいなぁと思うんですね。そっちのが向いているんじゃないかと。
映画サイトを観ていると堤幸彦監督作品というのは非常に貶されている印象がある。
まぁ近年の事に関して言えばそれはむべなるかなで、僕も殆ど見に行ってない。
彼はそれなりにはヒットメーカーではあるのだが、それはTVドラマの話で大作の映画監督に向いているかと言えば首を傾げる向きもある。
それでも『サイレン』なんか鄙びた島の感じとかオリジナルをスクリーンにして引っ掛ける辺り案外嫌いでもないんだけれどwww
秋元康の仕事仲間という経歴もあって、特に町山さん辺りからは忌み嫌われているのだけれど、これについても僕の見解は少しばかり違う。
まぁ取り敢えずは、TRICKの話だ。
映画だから多少大掛かりになっていたりはするけれども、TRICKは良くも悪くもいつもながらの雰囲気でした。
シリーズ自体がけっこうな話題作になった為か勘違いされる向きもあるが、TRICKの面白味はある意味どうでも良さとかしょうもなさにある(人それぞれにしても)
くだらないギャグ、怪しい村の雰囲気、しょうもないトリック……全作ほぼ全てを揃えている自分としてはそういう物に対して失笑するのがTRICK的な笑いだと思っている。
その質もシリーズで上下する部分はあって、劇場版3は最上でも無いが最下でもない……というところかな。
順番にすると
シリーズ2>シリーズ1>>>劇場版1>>>シリーズ3>スペシャル2>劇場版3>スペシャル1>劇場版2
こんなところか。
トリックはやや単純で、ペイズリーもそこまで面白くはなかった。
けど、やっぱマツケンが白馬に乗って走っていく所なんかはそのトリックのいい加減さと相まって吹いちゃうんだよなぁ。
双子の脱出トリックに関しては手首の描写を見落としてしまったのと、そういう使い方をするという頭がなかった。
ただ普通で有ればそれにしたって「誰もが思うやっちゃいけないトリック」なので怒っても致し方ないところではあるのですが、僕個人としては「お、このネタで来たか。懐かしいなぁ」みたいな感覚だった。
それはシリーズ1に於いて佐伯日菜子が双子トリックで出演していたから。
他にも話の筋は劇場版1に近いし、貞子ネタを振ってくるのは劇場版2、冒頭の妖術使いはシリーズ2の最後、フーディーニのエピソードが引用されるのもシリーズ1、ガッツイシマッチューはシリーズ3からと、今までの要素がふんだんに盛り込まれている。
更にはマツケンの動機をフーディーニに加えて福来&御船千鶴子の千里眼事件にも絡めてきたのは印象深い。
フーディーニは奈緒子の父親・山田剛三のモデルであり(つまり奈緒子からすればマツケンは父親の鏡像でもある)千里眼事件は『リング』のモデルだ。
そこへ山田の貞子ネタに、佐伯日菜子出演時の双子ネタとくればもうこれは確信犯だろう!
と言いたくなる訳だ。
更にマツケンが死ぬ時に妻の幻影を観た相手が山田里見で、これは里見が本当に霊能力を持っていたと解釈出来る描写であると同時に、マツケンは里見に亡き妻の幻影を見て、里見は亡き夫と酷似した男を最後に救ったという描写にも取れる。
また母の泉の「おかあさま」との因縁を明かすなど、ファンにはなかなか嬉しい部分も多かった。
が、コレはあくまでファンだからこそ反応出来る所で、他の人はある程度TRICKを知っていてもあまり意味が分からないはず。と言う訳で、大勢の人にはあまり向かないだろうって気がする。
そもそもTRICKなんてのは大作嗜好からはかけ離れた作品で、それが下手に話題作になってしまったもんだから勘違いされているような印象がある。
トリックがショボい?
そんなの昔からですよ!!!
いつもみたいに無駄に複雑と言うより、単純な物を使う傾向にあったから「よくもまぁ手間の掛かることを」みたいな部分もないのはちと残念だったかも。
ただこういう部分で批判されると「変な雰囲気のもんじゃ焼き専門店が有名になったから色んな人が高級料理店と思って訪れた挙げ句にダメ出しする」 みたいな悲しさがある。
ここは変なもんじゃ屋であってそれ以上じゃないんだよ!!
しっかり勉強してから出直してこい!
みたいな。
いや……局自体が大々的に宣伝してるからそう言われても仕方ないし、確かにシリーズ通してもそこまで出来は良くないんだけどさ。そこら辺が昔ながらのファンとしてはですね、色々思うんだな。
で、そこら辺に至って堤論に戻ろう。
この人はトレンディ系の首魁の一人と思われているが、実は全然それとは違うんじゃないかと思っている。
『ケイゾク』にしたって植田Pの「社内をビックリさせてやりたい」という要望を聞いて作ろうと思った作品で、ギャグを含みつつもかなりバイオレンスで暗い話だし、『TRICK』なんかキャスト・主題歌含め新人や旬を過ぎた人間が中心で注目作品としては扱って貰っていなかった。
また2002年W杯は『最強伝説黒沢』ばりのかなり厭な視点で見ていたようだ。
そして原作付きの作品を観ても分かるが、色々な物を「壊したい」という欲望も見え隠れする。
だからスペシャルで秋元康を出しても持ち上げる訳じゃなくて酷い扱いをするwww
またケイゾクでもTRICKでも、オチはかなり暗くてシビアな話が多い。他の作品もバイオレンス描写は結構ショッキングだったりするしね。
どうも堤監督の破壊願望みたいな物が過剰な演出として表現され、付随するギャグ・バイオレンスには(極論として)明確な意味が存在しないので、そこら辺が嫌がられる(または好かれる)一因なのかもしれない。
総括すると、TRICKとしても質はあまり高くなかったが、今までをちゃんと押さえている人には面白い部分も多い、と。ついでに堤さんには大作映画じゃなくて、初期のTRICKみたいなしょうもなくてパッとしない感じのTVドラマを作って頂きたいなぁと思うんですね。そっちのが向いているんじゃないかと。
スットコドッコイな宇宙人と人類の熾烈な争い
結構ね、みなさん誉めてらっしゃったんですよ。
たぶちっぷさんは勧められないって言ってらっしゃったんですよ。
後者が正解でしたね、少なくとも僕にとっては。
破壊屋さんも高評価だった気がするし、故・伊藤計劃先生の熱弁を先に読んでいたのですが、それでも僕は認めない。
誉める時の話としては「逃げる人から見た怪獣映画」としての視点について評価されている場合が多かった記憶があります。でもね、コレ怪獣映画として中途半端なんですよ。
怪獣映画の見所の一つは「破壊」、これは論を俟たないでしょう。
怪獣が町を ドカーン! バカーン! とやるのが楽しい。
ここで重要なのは、基本的に怪獣は人間個々人はどうでもいいってこと。
もちろんモスラやキングコングみたいに特定の人間を取り戻す為だったり、自然破壊に怒っていたりする場合はあります。あと食い物、とかいう場合もあるか。でも、その他大勢の人間は怪獣的に眼中になく、要するに邪魔だから歩いている内に死んでるとかそういう存在なんですね。
まさに虫けらな訳ですよ。
逆に、宇宙人が侵略する場合には大抵の場合恒星間飛行技術を持っているであろう宇宙人のが頭がいい。
頭がいいから計画的な侵略だったりする訳です。マヌケに見えても何らかの必然性が欲しい。
宇宙人も彼らの文化や生態があるので、その結果人間をぶっ殺したりという事情でも良いので。
ともあれ、怪獣映画とかの場合はその案配が大切かなと思うんですね。
これは主義主張と言うよりも、物語技法としての破壊感や絶望感を与える為に重要な部分なんです。
ゴジラもガメラも途中からはお祭り映画として扱われていましたが、やはり本当のところはパニック映画。
恐怖や絶望、そして破壊という背徳的な爽快感を与える存在だと思うのですね。
その為に、パニック映画としての怪獣は後先を考えない災厄のような暴力性、宇宙人は狡猾さや悪辣さを求められるのです。
しかしながら宇宙戦争の宇宙人は実に中途半端。
熱線自体の攻撃力がショボい。
薙ぎ払えばもっと凄かろうと思わないではないが、一人づつピーピーと照射する感じが如何にもせこい。
人間も灰になってしまうのでグロさが無く、むしろシュール。
これは恐らく(原作の設定に準拠して)一般市民が主人公であるという部分に由来する。
第三者目線であれば、徹底的な破壊が行えるが、主人公が単なる見物人として参加しているので圧倒的な攻撃では主人公が逃げられる道理がない。
恐らくはその為に一人づつ潰し回るような展開になったのだろうが、やはり見てくれのショボさは否定出来ない。
これが一番の問題だと思う。
宇宙人が本気で人間を攻撃してきたら物凄い大破壊になるはずだが、この映画ではどうも気泡緩衝剤を潰すような手段で人間を殺そうとしている。19世紀では熱線が出た時点で スゲー! という感じなのかもしれないけれども、やはりVFXが進んだ昨今、ピンポイントビームは無い。
宇宙人の攻撃手段が変遷しているのも微妙だ。
原作でも途中から熱線と毒ガスの併用になるらしいが、殺すという目的では一致しているし隙間に入り込むガスを使うのは残党狩りには向いているとも言える。
しかし、映画では
初期→ビーム
中盤始め→触手でひっくり返したり捉えたり(その後は不明)
中盤終わり→触手で捕まえてその場で吸血して植物の肥料(?)に
終盤→触手で捕まえて変なカゴに入れた後、更に触手で引きずり込む。
こういう変わり方をしている。中盤始めと終わりは同一かもしれないが、描写がないので分からない。
ビームの時点でちまちましていたのに、その後はもっとちまちまするのだ。
フェリーに乗ろうとしてる時にビームで薙ぎ払えば一網打尽なのに。
捕まえようとしたのだろうか? それでも人が密集している時ならガッツリ持っていけるはず。
一人一人触手で襲う必要はない。……主人公が生き延びられる理由作り以外には。
植物の肥料にする理由もよく分からない。
食い物なのか? しかし喰ってる描写もないし、その植物が宇宙人にとっての何だったかもわからない。
そして最後に触手で捉える→カゴ→更に触手という経過を辿るのも意味不明だ。
さっきはダイレクトで吸ってたじゃん! 何で今更やり方を変えるの? これも分からない。
主人公が上手く敵機を爆破出来る理由作り以外には。
民間人の一人称視点に準拠しているので分からないことだらけなのは良い。
しかし宇宙人のやり方はちっとも合理的じゃない。
100万年も前から計画立ててるのに!!!!!
そもそも、100万年前に侵略しようとしなかったのは何故だ?
わざわざトライポッド埋めておいて文明が発達してから侵略する理由は?
つまりコイツら100万年前の自分達の機械を使って侵略しようとしたって事だよね?
その意味は何?
そして100万年も掛けて計画練ってるのに防疫体勢ゼロで泥水ダイレクトドリンクなのはどうして?
そう、言ってしまおう。
この宇宙人はバカだ。『サイン』の宇宙人波並に。
もしこれで100万年前からの計画と言わなければ、(ステルス)トライポッドごと降下して来れば。
まだ考える余地はあった。
自身の種族が危機的状況であって、可及的速やかに地球を征服しなければいけなかったとかね。
或いは宇宙人も政権交代とかして公約に則って(100万年前に頓挫した)地球侵略を持ち出してきたのかもしれないなぁ。で、医療装備担当の大臣が外遊とかして防疫体勢が整わずに出発しちゃった訳ですよ。
もうこの映画はギャグ映画として捉えた方が楽しめるんじゃないだろうか。
ダメオヤジとダメ宇宙人のへっぽこバトル!
なるほどこれは楽しそうだ。
ギャグ映画だから死んだと思ってた人間もロクな理由もなく生き返ったりする訳ですよ。
だから怪獣映画・宇宙人映画としてはアレかなぁ。
エメ公の『ID4』とかアメゴジのが良いと思いますわ。
結構ね、みなさん誉めてらっしゃったんですよ。
たぶちっぷさんは勧められないって言ってらっしゃったんですよ。
後者が正解でしたね、少なくとも僕にとっては。
破壊屋さんも高評価だった気がするし、故・伊藤計劃先生の熱弁を先に読んでいたのですが、それでも僕は認めない。
誉める時の話としては「逃げる人から見た怪獣映画」としての視点について評価されている場合が多かった記憶があります。でもね、コレ怪獣映画として中途半端なんですよ。
怪獣映画の見所の一つは「破壊」、これは論を俟たないでしょう。
怪獣が町を ドカーン! バカーン! とやるのが楽しい。
ここで重要なのは、基本的に怪獣は人間個々人はどうでもいいってこと。
もちろんモスラやキングコングみたいに特定の人間を取り戻す為だったり、自然破壊に怒っていたりする場合はあります。あと食い物、とかいう場合もあるか。でも、その他大勢の人間は怪獣的に眼中になく、要するに邪魔だから歩いている内に死んでるとかそういう存在なんですね。
まさに虫けらな訳ですよ。
逆に、宇宙人が侵略する場合には大抵の場合恒星間飛行技術を持っているであろう宇宙人のが頭がいい。
頭がいいから計画的な侵略だったりする訳です。マヌケに見えても何らかの必然性が欲しい。
宇宙人も彼らの文化や生態があるので、その結果人間をぶっ殺したりという事情でも良いので。
ともあれ、怪獣映画とかの場合はその案配が大切かなと思うんですね。
これは主義主張と言うよりも、物語技法としての破壊感や絶望感を与える為に重要な部分なんです。
ゴジラもガメラも途中からはお祭り映画として扱われていましたが、やはり本当のところはパニック映画。
恐怖や絶望、そして破壊という背徳的な爽快感を与える存在だと思うのですね。
その為に、パニック映画としての怪獣は後先を考えない災厄のような暴力性、宇宙人は狡猾さや悪辣さを求められるのです。
しかしながら宇宙戦争の宇宙人は実に中途半端。
熱線自体の攻撃力がショボい。
薙ぎ払えばもっと凄かろうと思わないではないが、一人づつピーピーと照射する感じが如何にもせこい。
人間も灰になってしまうのでグロさが無く、むしろシュール。
これは恐らく(原作の設定に準拠して)一般市民が主人公であるという部分に由来する。
第三者目線であれば、徹底的な破壊が行えるが、主人公が単なる見物人として参加しているので圧倒的な攻撃では主人公が逃げられる道理がない。
恐らくはその為に一人づつ潰し回るような展開になったのだろうが、やはり見てくれのショボさは否定出来ない。
これが一番の問題だと思う。
宇宙人が本気で人間を攻撃してきたら物凄い大破壊になるはずだが、この映画ではどうも気泡緩衝剤を潰すような手段で人間を殺そうとしている。19世紀では熱線が出た時点で スゲー! という感じなのかもしれないけれども、やはりVFXが進んだ昨今、ピンポイントビームは無い。
宇宙人の攻撃手段が変遷しているのも微妙だ。
原作でも途中から熱線と毒ガスの併用になるらしいが、殺すという目的では一致しているし隙間に入り込むガスを使うのは残党狩りには向いているとも言える。
しかし、映画では
初期→ビーム
中盤始め→触手でひっくり返したり捉えたり(その後は不明)
中盤終わり→触手で捕まえてその場で吸血して植物の肥料(?)に
終盤→触手で捕まえて変なカゴに入れた後、更に触手で引きずり込む。
こういう変わり方をしている。中盤始めと終わりは同一かもしれないが、描写がないので分からない。
ビームの時点でちまちましていたのに、その後はもっとちまちまするのだ。
フェリーに乗ろうとしてる時にビームで薙ぎ払えば一網打尽なのに。
捕まえようとしたのだろうか? それでも人が密集している時ならガッツリ持っていけるはず。
一人一人触手で襲う必要はない。……主人公が生き延びられる理由作り以外には。
植物の肥料にする理由もよく分からない。
食い物なのか? しかし喰ってる描写もないし、その植物が宇宙人にとっての何だったかもわからない。
そして最後に触手で捉える→カゴ→更に触手という経過を辿るのも意味不明だ。
さっきはダイレクトで吸ってたじゃん! 何で今更やり方を変えるの? これも分からない。
主人公が上手く敵機を爆破出来る理由作り以外には。
民間人の一人称視点に準拠しているので分からないことだらけなのは良い。
しかし宇宙人のやり方はちっとも合理的じゃない。
100万年も前から計画立ててるのに!!!!!
そもそも、100万年前に侵略しようとしなかったのは何故だ?
わざわざトライポッド埋めておいて文明が発達してから侵略する理由は?
つまりコイツら100万年前の自分達の機械を使って侵略しようとしたって事だよね?
その意味は何?
そして100万年も掛けて計画練ってるのに防疫体勢ゼロで泥水ダイレクトドリンクなのはどうして?
そう、言ってしまおう。
この宇宙人はバカだ。『サイン』の宇宙人波並に。
もしこれで100万年前からの計画と言わなければ、(ステルス)トライポッドごと降下して来れば。
まだ考える余地はあった。
自身の種族が危機的状況であって、可及的速やかに地球を征服しなければいけなかったとかね。
或いは宇宙人も政権交代とかして公約に則って(100万年前に頓挫した)地球侵略を持ち出してきたのかもしれないなぁ。で、医療装備担当の大臣が外遊とかして防疫体勢が整わずに出発しちゃった訳ですよ。
もうこの映画はギャグ映画として捉えた方が楽しめるんじゃないだろうか。
ダメオヤジとダメ宇宙人のへっぽこバトル!
なるほどこれは楽しそうだ。
ギャグ映画だから死んだと思ってた人間もロクな理由もなく生き返ったりする訳ですよ。
だから怪獣映画・宇宙人映画としてはアレかなぁ。
エメ公の『ID4』とかアメゴジのが良いと思いますわ。
- 早逝の天才
- 虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)/伊藤計劃
- ¥756
- Amazon.co.jp
名前の難解さ(どうやら『プロジェクトA』から来ているらしい)と物々しいタイトルで避けてたけど、優れた作品らしいので手に取ってみる。
虐殺を引き起こす謎の男と、それを追う特殊部隊大尉の物語。
世界観はリアリティに溢れており、尚かつ相当ハード。
911後、サラエボで核テロが起きてしまった為に世界はID認証製が取り入れられ、アメリカでは暗殺が政治的手段として用いられている状態。
世界各地を飛び回っている話の筈なのに、閉塞感が付きまとう。
特殊部隊の装備は人工筋肉を用いた侵入鞘や、オルタナと呼ばれる液状のスクリーン(?)等を用いており
如何にも……といった近未来装備を思わせるSF設定と、潜入行動はそれだけで引き込まれる。
他方、主人公自身とその語りは非常に繊細で、血腥い描写が多数有るにもかかわらず優しげな印象を持たせ「僕」という一人称と共に、どことなく少年のような感覚すら受ける。
このミスマッチさが本作の魅力の一つかもしれない。
大森望氏は「劇パト2&地獄の黙示録」と喩えているが、まさにその通りで僕も劇パト2は考えなかったが、『地獄の黙示録』は想起した。それ以上にテロと暗殺が謳歌し、虐殺が蔓延る世界という意味に於いては、やはり大森望氏が解説しているように今の世界を切り取っているところも大きいだろうか。
「虐殺器官」の正体については、その設定と冒頭に於ける主人公の語りから何となくは予想が付いた。
それに対するSF解釈という意味では、驚かされる部分もあったけれども、ある程度予想の範囲内……というところか。京極堂(むしろ堂島大佐?)が本気になって世界を混乱に陥れようとしているって感じだろうか。
正直僕も内容をキチンと把握出来ているかは怪しいところもあるので、あまり自分の言葉では語りにくいが、虐殺器官の構造と相対化させるような形で、兵士のメンテナンスという部分も取り入れてイーガ ン的なテクノロジー(脳機能)と精神を取り入れている辺りも面白い。
ただ気になってしまう部分も結構ある。
小松左京氏の選評に置いては誉めると共に虐殺器官の詳細や、男の動機、主人公の行動について難色を示していたが、僕も同感してしまう部分がある。
虐殺器官の詳細については言語学の具体例を出しては語りにくい部分もあるだろうし、また色々と推測出来る部分も多い。(虐殺器官に対する単純な意味での方法も想定出来てしまうが)
しかし男の動機と主人公の行動はどうもなぁ……と首を傾げてしまうような部分も否定出来ない。
これは彼ら自身が虐殺器官の影響下にある……という想定をする事でもフォロー出来るものの、一番気になるのが虐殺を起こしたとして実際に他の土地の政治情勢が安定するのか、という疑問に由来する。
統計を出してはいるが、ほんの触れる程度であり、これはあまり説得力があるとは言えない。
また男は正気である、と結構露骨に描写されているので誇大妄想狂という想定はしにくい。
そもそも虐殺器官は自然発生的な要素を抽出して技術化したものであるから、例え他方を混乱させて局所的に人為的に平和を産み出そうとしても、自然に生じてしまえば元の木阿弥になりかねない。
だから、もう少し掘り下げてこの部分を構築しないと男がこういうやり方を選んだのも納得出来ないし、主人公が選んだ行動も承伏しかねる。
加えてID登録による追跡可能性の如何についても疑問が残る。
抑止力としての追跡可能性の否定とシステムの抜け穴について示されてはいるが、追跡可能性は抑止力としてのみ働く物だろうか。
一度はテロを「上手く」起こされてしまう可能性は否定出来ないが、テロリストの行動を追跡することにより、その人物が関わった人間に注目し警戒や予防策を講じることも可能なはずだし、そこから更に組織にたどり着き一網打尽にする事も出来るだろう。
テロリスト側としてもそれを考慮しての抑止力の意味はあるのではないか。
警戒の薄いルートをマッピングして割り出す、ということにしてもこれは要するに警戒の薄さであるからには対策を立てることは可能だ。加えて逆にそこを張る」、なんて事も出来る。
こういった部分は比較的些末な問題であり、本来的には作品に影響するとは言い難い部分もあるのだが、『虐殺器官』は極めてリアリティに飛んだ、素晴らしい小説であるだけに、逆にこういう部分が障ってしまうところはあったかもしれない。