第八話 風が呼んだから
第八話 こんなに泣いたのは何年ぶりだろう。いや、何十年ぶりかもしれない。湯船につかっても涙がこぼれ、ベッドに入っても目じりから涙が伝い落ちて行く。 朝起きて、覗いた鏡の中の自分は、腫れぼったい目をして最悪のコンディションだった。 けれどめそめそ泣いてばかりいても仕方がない。今日から新しい一歩を踏み出すのだ。佑美のために。そして、多実衣自身のために。 控えめなメイクを施し、紺色のスーツを着る。鏡の前でポーズを作ってみるが、どう見ても地味な就活女性にしか見えない。それでも気を取り直してお気に入りの皮のバッグを肩にかけ、パンプスを履いた。サブのトートバッグには弁当とエプロン。そして、メモ帳と筆記用具を入れた。これで準備オッケーだ。 佑美からのメールを開き、行き先を確認する。最寄りの駅から五駅ほど東にゆき、そこから歩いて十分ほどのところだ。 初めて向かうその目的地は多実衣にとって未知の領域だ。佑美から話は聞いていても、実際にそこに足を踏み入れなければ知りえないこともあるだろう。 多実衣は襟をただし、心してその邸宅のインターホンを押した。「はい、どちらさま」 上品な声だった。想像していたよりずっと若い人のように感じる。「あの、行田です。佑美さんからご紹介いただきました……」「あ、そう。お入りになって」 すると、門の横にあるカーポートと思われる場所のシャッターが、ゴロゴロゴロと鈍い音を立てながら自動で開き始めた。 ということは。門扉を開けて入るのではなく、カーポートを通れということなのだろう。 佑美は大きく深呼吸して背筋を伸ばす。田野原、と墨字で書かれた表札を再度眺め、覚悟を決めた。