風が呼んだから



第一話





「行田(ゆきた)さん、中道(なかみち)さん、もう帰っていいよ」


 ちょうど夕刻の五時。社長の終業の合図はどんな精度の高い時計より正確


だ。


 電気ポットの上にある掛け時計は、電池が切れたわけでもないのに、時に激


しく遅れたり何時間も残業したかのように先に進んだりする。今となってはもう


誰もあの時計を信じたりはしない。


 書類棚の上にあるどこかの会社があいさつ代わりに置いていった最新式の


電波時計は、目をそらさずじっと針の動きを見ていなければ、その瞬間を逃し


てしまう。パソコン画面の右下に表示されるデジタル時計が十七時を示したとし


ても、もはや社長の一声以外には脳が反応しなくなっている。


 社長はいかなる時にでも五時きっかりに声をかけてくれるのだ。ずっと時計を


見ているわけでもないのに、それはもう見事なまでに狂いがない。これだけは


社長の特技として認めざるを得ないだろう


 品草川食品工業株式会社。これが行田多実衣(たみい)が勤めている会社の正


式名だ。通称は品食工。地元ではこの呼び名で通じるそこそこ有名な会社だっ


た。


 多実衣がこの会社に就職したばかりの頃は従業員も五十人ほどいて、活気


に満ち溢れていた。性格は気に入らないがすこぶる仕事が出来る先輩もいた。


多実衣を慕う健気な後輩もいた。


 時が経ち、ネット商店が台頭し始めるのに合わせるかのように、品食工の規


模が縮小されていった。


 仕事はできるが性格が合わない先輩がどこかに引き抜かれて職場を去り、


かわいい後輩は寿退社をしていく。


 気付けば、社長と副社長、経理を担当している社長夫人と営業の三人と事務


の中道、同じく事務の多実衣の八人になってしまった。


 昔からの取引先にも、いつ切られるかわからない。新規に開拓した小売業者


も小口の取引しかない。


 次は多実衣が退職を決断する立場に追いやられるのは目に見えていた。


 独身、三十九才。


 家族の大黒柱になっている他の社員より、身軽な多実衣が肩たたきに会う可


能性は高い。ひとつ後輩の中道も多実衣と同じく独身だが、多分、副社長が離


さない。社長の息子である副社長は若くして妻と離婚し、どうも中道とただなら


ぬ仲であるのは誰の目にも明らかだった。


「では、お先に失礼します」


 まだやり残した仕事があるが、社長の目は早く帰りなさいと言っている。それ


もこれも残業代節約のための苦肉の策なのだろう。


 のらりくらりと帰宅準備をする中道を残し、多実衣は唯一の贅沢品であるオー


ダーメイドの皮のバッグを持って、そそくさと会社を後にした。