伊能忠敬のふるさと佐原編の続編です。街歩きはこのへんにして、もう一つの楽しみは佐原のランチです。佐原と言えば、鰻か蕎麦ですね。事前にチェックしたところ、一番人気の鰻屋さんは「山田うなぎ」か「うなぎ長谷川」です。地元の人に人気が高いのは、「うなぎ長谷川」と知り、地図を頼りに直行。
佐原の住居表示はイ・ロ・ハで示されているんです。なんかいい感じですね。でも、番地表示はどこに?
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大通りから路地に少し入ったところにありました。うなぎ長谷川は天保二年の創業です。
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金曜日の午前11時半でこのくらいの混み具合でした。座敷で上うなぎをお願いしました。すでに並みは売れ切れです。
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久しぶりなこともあって、とても美味しかったです。コク深であっさりしたタレが最高!噂どおり。
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上を見上げると、何と空手チョップで一世を風靡したプロレスの神様「力道山」の直筆の書がありました。「努力」です。
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ランチの後、諏訪神社の近くにある伊能忠敬の銅像を見に行きました。結構、土台が高いので銅像が小さく感じられます。
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利根川沿いに「道の駅 水の郷さわら」があります。新鮮な地場の野菜やお米、お土産を買うことができます。
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道の駅の裏側には、利根川が広がっています。川の向こう岸は茨城県です。
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佐原に行ったら、香取神宮にも寄りましょう。建築物は国指定の重要文化財です。参道には、名物草だんごのお店が軒を連ねています。
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香取神宮の社殿は全体がブラウンに統一されていて美しいです。
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香取神宮から5分程度で東関東自動車道 佐原・香取インターに着きます。東京まで2時間ほどです。帰りに伊能忠敬ゆかりの地を巡りました。ここは、深川にある伊能忠敬の住居跡です。
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伊能忠敬は、55歳から10回に分けて全国測量に出かけました。その間に歩いた距離は約35,000㎞、地球1周分になります。出かける際に必ずお参りしていたのが、自宅の近くにあった富岡八幡宮です。
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境内には伊能忠敬の銅像が建てられています。
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測量した成果は、日本地図「大日本沿海輿地全図」として結実しますが、それは73歳で忠敬が亡くなった3年後のことで、弟子たちの努力によるものでした。忠敬のお墓は浅草の源空寺にあります。
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源空寺の墓地は、史跡墓地として公開されています。
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伊能忠敬のお墓です。
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その隣には、高橋至時のお墓があります。高橋至時は江戸時代後期の天文学者で江戸幕府天文方で、伊能忠敬の師でもありました。
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その隣には、高橋至時の長男の高橋景保のお墓があります。景保は父至時の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天文関係の翻訳などに従事します。また、忠敬が測量した成果を地図「大日本沿海輿地全図」を完成させるのです。しかし、シーボルト事件に係ることになります。シーボルトが所持していた世界地図をもらう代わりに「大日本沿海輿地全図」の写しを渡すことで伝馬町牢屋敷に投獄されてしまい、獄死します。幕府は、塩漬けされた遺体を保存し、あらためて斬首刑に処します。シーボルトは国外追放されますが、「大日本沿海輿地全図」の写しは欧米諸国に紹介されることになり、世界中の人々がその地図の精巧さに驚くのでした。
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最後に佐原のお土産の話に戻りますが、お土産には、天保3年から創業している醤油屋さん「正上」の生醤油にしました。他には、ラー油も美味しいそうです。
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おしまい
佐原は「北総の小江戸」と称されているように、江戸時代の商家の街並みがそのまま残されていて、平成8年に関東地区で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。
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伊能忠敬記念館は、小野川を挟んで忠敬の旧宅前にあります。
伊能忠敬は、50歳を過ぎてから日本全国を測量して歩き、我が国最初の実測日本地図を作り上げた人物です。
忠敬は上総国山辺小関村(現在の九十九里町)に生まれました。そして、17歳の時に佐原の伊能家の婿養子になり、49歳で隠居して江戸に行くまで、この佐原で商人、名主として過ごしています。
忠敬が30年余り過ごした佐原は古くから水郷の町として栄えました。
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これは、記念館の裏に建てられた測量器具「象限儀」のレプリカです。星の高度を測定するのに使用していました。この象限儀を持ち運びながら日本全国を歩いたのです。
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小野川に面して伊能忠敬の旧家があります。忠敬が30年余り過ごした江戸時代の酒造商の店舗の一部と表門、土蔵がそのまま残されています。
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裏庭に忠敬の銅像が建てられています。
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忠敬旧家の前の通りです。この一帯は、昔からの家業を引き継ぎ、今も営業している商家が多いことから「生きている街並み」と評されています。
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木の下旅館は、明治34年創業の初代船宿です。今も営業が続けられています。
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観光用にさわら舟が運航しています。
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中村屋乾物店は、明治25年の建築。店舗は当時最高の技術を駆使した防火構造で、壁の厚さが45センチあります。

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中村屋商店は、安政2年の建築です。現在は、雑貨商の店舗となっています。
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三菱館は、大正3年の建築です。明治の西洋建築の流れをくむ三菱館は、レンガを積み上げた洋館です。現在は、街の観光施設として利用されています。
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続く

平泉駅から盛岡行きの東北本線に乗り、午後5時45分、漸く最終目的地の水沢駅に着きました。既に夕方なのですが、空は広くて、まだ青空です。
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今回、それほど観光地でもない水沢駅(今は町村合併で奥州市)を目的地としたのは、小説家の吉村昭さんの小説「長英逃亡」が好きで、一度、高野長英の故郷に行ってみたかったのと、小生のブログ「大山街道を歩く」でも紹介しているのですが、三河田原藩藩士・家老の渡辺崋山(画家・文人)が大山街道を歩いていて(1831年)、崋山が幼少の頃にお世話になったお銀さんという人を訪ねていることを知り、崋山と交流があった長英に再びアンテナが向いてしまったのです。
渡辺崋山と言えば、優秀な役人でもあったのですが、当時、黒船来航に打ち払い令を国是としていた状況を憂い、高野長英や小関三英らの洋学に関心を持つ知識人と尚歯会という勉強会を開いていて、そのことが幕府に対する批判者として南町奉行の鳥居耀蔵により濡れ衣を着せられ、捕らえられてしまうわけです。世にいう「蛮社の獄」です。結局、渡辺崋山は田原藩に永年蟄居(1839年)させられ自殺いたします。高野長英は、小伝馬町牢屋に永牢となりますが、その後、牢に火をつけ脱獄に成功しますが、そこから長英の厳しい逃亡生活が始まります。詳しくは小説「長英逃亡」をお読みください。
この写真は、高野長英の生誕地近くにある案内板です。
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高野長英旧宅です。
長英が幼少の頃、父親を亡くし、母親とともに母方の実家(藩医)で17歳まで過ごすことになります。ここで蘭学などの手ほどきを受け、江戸に旅立ちます。
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現在も史跡として当時のまま保存されていますが、非公開となっています。
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水沢の路地で見かけたトンボ
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長英は、宇和島や薩摩での逃亡の後、江戸に戻り、自分の顔に薬品をかけ、人相を変えて翻訳や医療を続けますが、江戸青山百人町で捕らえられ、非業の死を遂げることになります。長英が眠る大安寺山門。
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大安寺本堂
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高野長英の御霊は山門を入り左手にあります。
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高野長英の御霊
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貴重な資料が展示されている高野長英記念館は水沢公園にあります。
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シーボルトノキです。長英の恩師のシーボルトの長崎の邸宅に植えられていたクロウメモドキの小枝を分けてもらい挿し木にしたものです。
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シーボルトはアジサイをこよなく愛していました。「シーボルト事件」でシーボルトは国外追放になりますが、妻のお瀧さんを想い、アジサイにHydrangea Otaksa(オタクサ)という学名をつけてヨーロッパに広めたといわれています。
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水沢は鎌倉時代から戦国時代をかけて、留守氏の城が築かれていました。江戸時代になって水沢伊達氏が治めるようになりました。今でも、城下町の名残から武家屋敷や商家の跡を見ることができます。
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土日祝日にのみ走る快速列車で水沢駅を出発しました。
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「行くぜ、東北。」の一人旅はおしまいです。
参考です。覗いてみてください。
○高野長英記念館ホームページ
○「大山街道を歩く」ブログ

松島海岸駅を後に、塩釜駅で東北本線に乗り換え、平泉駅に来ました。
平泉では毛越寺、中尊寺、高館義経堂、柳之御所史跡公園を歩いて巡りました。
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毛越寺は、奥州藤原氏二代基衡公から三代秀衡公にわたり造営が行われました。特別史跡と特別名勝の二重の指定を受けています。特に庭園の遺跡が良好な状態で残されていて、中尊寺とともに世界文化遺産に登録されています。
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境内に入ると、先ず目に入るのが、芭蕉の句碑です。芭蕉が高館で詠んだ「夏草や兵どもが夢の跡」の句碑は、芭蕉の真筆と言われています。建碑は、宝暦7年(1757年)です。
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毛越寺本堂
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境内に広がる大泉が池の築山です。
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遣水は、大泉が池に注ぐ水路です。境内で唯一、平安時代の遺構を残していることが発掘調査で明らかにされています。
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出島石組と池中立石
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観自在王院跡
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毛越寺を後に、平泉に向かう途中に熊野三社があります。
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熊野三社の向かいに平泉文化遺産センターがあります。平泉の歴史や文化遺産の概要を紹介しています。平泉の街歩きのビジターセンターにもなっているので、事前に寄ることができ、理解が深まりました。
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いよいよ、中尊寺をお参りします。
杉木立の参道は、長い上り坂でした。
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前九年 後三年の役の古戦場の跡が一望できる見晴台です。当時の兵どもを想像します。
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中尊寺は、850年に慈覚大師円仁により開山されました。12世紀初め奥州藤原初代清衡公が前九年後三年の合戦で亡くなった命を平等に供養し、仏国土を建設するために大伽藍を造営しました。仏国土を表す遺構を伝える中尊寺は、世界文化遺産に登録されています。
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中尊寺本堂
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金色堂は、国宝第一号です。天治元年(1124年)の建造で、現存する唯一の創建遺構です。中央に初代清衡公、左に二代基衡公、右に三代秀衡公のご遺体と、4代泰衡公の首級が納められています。
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金色堂は、もちろん写真撮影はできません。webから転載させていただきました。
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金色堂覆堂は、国の重要文化財です。室町時代中期に金色堂の覆堂として建造されましたが、現在の新覆堂が昭和38年に建造され、この場所に移築されました。
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現在、秘仏「一字金輪仏頂尊」が御開帳になっています。この座像は、奥州藤原氏三代秀衡公の念持仏でした。目の前で拝顔させてもらえました。お寺の方の説明で知りましたが、視角次第で座像の緑色の瞳がキラッと光ります。これもwebから。
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源義経終焉の地、高館義経堂です。
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北上川沿いに国の指定史跡の柳之御所史跡公園があります。ここは、平安時代の末に平泉を拠点に繁栄した奥州藤原氏が政治を行った場所と考えられています。発掘調査により、遺構とともに、土器などの遺物が発見されました。
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近くに柳之御所資料館が建てられていて、往時の土器などの遺物を見学することができます。
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資料館の入口に平泉の世界文化遺産登録認定書がありました。
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徒歩約4時間で平泉の史跡を巡りました。今度は涼しい時に再び訪れたいと思います。
平泉駅のホームで、盛岡行きの電車を待ちながら、笹かまをつまみに缶ビールで喉を潤しました。最高のひと時です。
今日の宿泊地は、高野長英の故郷 水沢です。

瑞巌寺の後、隣りにある円通院をお参りしました。円通院は、伊達政宗公嫡孫伊達光宗公の菩提寺です。
光宗公は、幼少から文武に優れ、徳川幕府にとって恐るべき逸材だったようです。しかし、19歳の若さで江戸城で亡くなります。死因は諸説あるようです。
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円通院は、松島の名庭園と言われています。また、支倉常長が西洋からバラを持ち帰ったことから建築物や庭園にもバラが生かされています。

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円通院本堂の「大悲亭」は松島町指定文化財です。

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庭園の奥にある「三慧殿」は、
国指定重要文化財です。正保3年(1646年)に建造されました。
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円通院の後、松島瑞巌寺の五大堂に行きました。五大堂は、
国指定重要文化財です。
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五大堂に架けられた朱色のすかし橋は、縦板が2枚貼られていますが、もともとこの板はなく、はしご状でした。
横板の間隔も5寸(約15cm)程有り、江戸後期の紀行文には、恐ろしくて渡る事ができなかった人の事が紹介されています。確かに、橋の隙間からは海が見え、高所恐怖症の方は怖いかも知れません。

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現在の建物は、慶長9年(1604)伊達政宗公が造営したもので、東北地方最古の桃山建築です。
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五大堂の後、観瀾亭に行きました。
観瀾亭は、伊達政宗が豊臣秀吉から拝領した伏見桃山城の一棟で、江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主忠宗が松島に移したと伝えられています。
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観瀾亭は、伊達家の納涼や月見に使われていたといわれていますが、公式記録では、藩主や姫君、側室などの松島遊覧、幕府巡見使などの諸国巡回の際の宿泊や、接待用の施設として利用されていたとされています。
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観瀾亭の敷地内に、童謡「どんぐりころころ」の歌碑があります。
この童謡「どんぐりころころ」は、松島町出身の青木存義が文部省在職中の大正年間に松島での幼い日を偲んで作詞したものです。
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瑞巌寺の杉並木は、津波による塩害で立ち枯れたため、やむなく伐採されていましたが、円通院や五大堂、観瀾亭は津波による被害が見られませんでした。駅の観光案内の方に伺ったところ、津波は足のくるぶし程で建物の被害はほとんどなかったようです。
理由としては、松島湾の小島が防潮堤の役割を果たしたからではないかと言われています。同じ松島湾の中でも、塩釜は甚大な被害がありましたので、やはり、地理的条件なのでしょう。これは、推論ですが、松島は、当初から地理的条件を踏まえ、古来から霊場として築かれてきたのではないでしょうか。
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松島の後、平泉に向かいました。
本当は、石巻に寄って日和山から石巻港を見たかったのですが、時間の関係から止むを得ず立ち寄ることを諦めました。
不思議なこともあるものですが、先ほどの松島の五大堂の前で偶然にも知り合いとばったり会い、その日の日和山から見た石巻港の写真を見せてもらいました。
それが、この写真です。
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9月10日から三井記念美術館で「特別展 松島 瑞巌寺と伊達政宗」と題し、東日本大震災復興祈念 秘仏五大明王像が初公開されます。
http://www.mitsui-museum.jp/exhibition/index2.html


続く