瑞巌寺の後、隣りにある円通院をお参りしました。円通院は、伊達政宗公嫡孫伊達光宗公の菩提寺です。
光宗公は、幼少から文武に優れ、徳川幕府にとって恐るべき逸材だったようです。しかし、19歳の若さで江戸城で亡くなります。死因は諸説あるようです。
イメージ 5

円通院は、松島の名庭園と言われています。また、支倉常長が西洋からバラを持ち帰ったことから建築物や庭園にもバラが生かされています。

イメージ 6

イメージ 7

円通院本堂の「大悲亭」は松島町指定文化財です。

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 15

イメージ 10

イメージ 13

イメージ 11

イメージ 12

庭園の奥にある「三慧殿」は、
国指定重要文化財です。正保3年(1646年)に建造されました。
イメージ 14

円通院の後、松島瑞巌寺の五大堂に行きました。五大堂は、
国指定重要文化財です。
イメージ 16

五大堂に架けられた朱色のすかし橋は、縦板が2枚貼られていますが、もともとこの板はなく、はしご状でした。
横板の間隔も5寸(約15cm)程有り、江戸後期の紀行文には、恐ろしくて渡る事ができなかった人の事が紹介されています。確かに、橋の隙間からは海が見え、高所恐怖症の方は怖いかも知れません。

イメージ 17

現在の建物は、慶長9年(1604)伊達政宗公が造営したもので、東北地方最古の桃山建築です。
イメージ 1

イメージ 18

五大堂の後、観瀾亭に行きました。
観瀾亭は、伊達政宗が豊臣秀吉から拝領した伏見桃山城の一棟で、江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主忠宗が松島に移したと伝えられています。
イメージ 4

イメージ 2

観瀾亭は、伊達家の納涼や月見に使われていたといわれていますが、公式記録では、藩主や姫君、側室などの松島遊覧、幕府巡見使などの諸国巡回の際の宿泊や、接待用の施設として利用されていたとされています。
イメージ 3


観瀾亭の敷地内に、童謡「どんぐりころころ」の歌碑があります。
この童謡「どんぐりころころ」は、松島町出身の青木存義が文部省在職中の大正年間に松島での幼い日を偲んで作詞したものです。
イメージ 20

瑞巌寺の杉並木は、津波による塩害で立ち枯れたため、やむなく伐採されていましたが、円通院や五大堂、観瀾亭は津波による被害が見られませんでした。駅の観光案内の方に伺ったところ、津波は足のくるぶし程で建物の被害はほとんどなかったようです。
理由としては、松島湾の小島が防潮堤の役割を果たしたからではないかと言われています。同じ松島湾の中でも、塩釜は甚大な被害がありましたので、やはり、地理的条件なのでしょう。これは、推論ですが、松島は、当初から地理的条件を踏まえ、古来から霊場として築かれてきたのではないでしょうか。
イメージ 19

松島の後、平泉に向かいました。
本当は、石巻に寄って日和山から石巻港を見たかったのですが、時間の関係から止むを得ず立ち寄ることを諦めました。
不思議なこともあるものですが、先ほどの松島の五大堂の前で偶然にも知り合いとばったり会い、その日の日和山から見た石巻港の写真を見せてもらいました。
それが、この写真です。
イメージ 21

9月10日から三井記念美術館で「特別展 松島 瑞巌寺と伊達政宗」と題し、東日本大震災復興祈念 秘仏五大明王像が初公開されます。
http://www.mitsui-museum.jp/exhibition/index2.html


続く