平泉駅から盛岡行きの東北本線に乗り、午後5時45分、漸く最終目的地の水沢駅に着きました。既に夕方なのですが、空は広くて、まだ青空です。
イメージ 1
今回、それほど観光地でもない水沢駅(今は町村合併で奥州市)を目的地としたのは、小説家の吉村昭さんの小説「長英逃亡」が好きで、一度、高野長英の故郷に行ってみたかったのと、小生のブログ「大山街道を歩く」でも紹介しているのですが、三河田原藩藩士・家老の渡辺崋山(画家・文人)が大山街道を歩いていて(1831年)、崋山が幼少の頃にお世話になったお銀さんという人を訪ねていることを知り、崋山と交流があった長英に再びアンテナが向いてしまったのです。
渡辺崋山と言えば、優秀な役人でもあったのですが、当時、黒船来航に打ち払い令を国是としていた状況を憂い、高野長英や小関三英らの洋学に関心を持つ知識人と尚歯会という勉強会を開いていて、そのことが幕府に対する批判者として南町奉行の鳥居耀蔵により濡れ衣を着せられ、捕らえられてしまうわけです。世にいう「蛮社の獄」です。結局、渡辺崋山は田原藩に永年蟄居(1839年)させられ自殺いたします。高野長英は、小伝馬町牢屋に永牢となりますが、その後、牢に火をつけ脱獄に成功しますが、そこから長英の厳しい逃亡生活が始まります。詳しくは小説「長英逃亡」をお読みください。
この写真は、高野長英の生誕地近くにある案内板です。
イメージ 2
高野長英旧宅です。
長英が幼少の頃、父親を亡くし、母親とともに母方の実家(藩医)で17歳まで過ごすことになります。ここで蘭学などの手ほどきを受け、江戸に旅立ちます。
イメージ 3
現在も史跡として当時のまま保存されていますが、非公開となっています。
イメージ 4
 
イメージ 5
水沢の路地で見かけたトンボ
イメージ 6
長英は、宇和島や薩摩での逃亡の後、江戸に戻り、自分の顔に薬品をかけ、人相を変えて翻訳や医療を続けますが、江戸青山百人町で捕らえられ、非業の死を遂げることになります。長英が眠る大安寺山門。
イメージ 7
大安寺本堂
イメージ 8
高野長英の御霊は山門を入り左手にあります。
イメージ 9
高野長英の御霊
イメージ 10
貴重な資料が展示されている高野長英記念館は水沢公園にあります。
イメージ 11
 
イメージ 12
シーボルトノキです。長英の恩師のシーボルトの長崎の邸宅に植えられていたクロウメモドキの小枝を分けてもらい挿し木にしたものです。
イメージ 13
シーボルトはアジサイをこよなく愛していました。「シーボルト事件」でシーボルトは国外追放になりますが、妻のお瀧さんを想い、アジサイにHydrangea Otaksa(オタクサ)という学名をつけてヨーロッパに広めたといわれています。
イメージ 14
水沢は鎌倉時代から戦国時代をかけて、留守氏の城が築かれていました。江戸時代になって水沢伊達氏が治めるようになりました。今でも、城下町の名残から武家屋敷や商家の跡を見ることができます。
イメージ 15
 
イメージ 16
 
イメージ 17
 
イメージ 18
 
イメージ 19
土日祝日にのみ走る快速列車で水沢駅を出発しました。
イメージ 20
「行くぜ、東北。」の一人旅はおしまいです。
参考です。覗いてみてください。
○高野長英記念館ホームページ
○「大山街道を歩く」ブログ