人形町といえば、東野圭吾さんがお書きになった小説「麒麟の翼」が映画化され鍵を握る重要な場所として登場してきます。今回は、映画「麒麟の翼」のロケシーンに重ねて、人形町界隈や日本橋七福神をご紹介します。

 

 

 

 

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小説では、「その男が日本橋交番の脇を通過したのは、間もなく午後9時になろうかという頃だった。」という書き出しから始まります。

映画のシーンでは、日本橋の欄干にもたれかかる男(青柳武明 : 中井貴一さん)を、巡査が目撃するところからです。男の様子がおかしいことに気づき、近寄ってみると男の胸にはナイフが刺さっていた。どうやら男は死にかけた状態で、ここまで歩いてきて遂に力尽きたよう・・・。
結局その後、男は病院で死亡してしまう。・・・こうしてミステリアスなドラマは展開していきます。
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日本橋は、明治44年に架けられた国の重要文化財です。
現在の橋は慶長8年に架けられた初代の木造の橋から数えて19代目にあたるそうです。
欄干にある「日本橋」の題字は徳川慶喜によるものです。
麒麟の像は、彫刻家渡辺長男氏(わたなべおさお)の作で、「繁栄」を表しているそうです。
小説や映画の中で事件の謎を解く鍵は、この「麒麟の像」にありました。
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この写真は、日本橋三越側から銀座方向に撮ったものです。明治44年に架けられた石造二連アーチの日本橋は、関東大震災や東京大空襲にも耐えてきました。
橋を覆う首都高速道路は昭和39年の東京オリンピックの開催に向けて首都圏の交通網を整備する目的で急遽つくられたものです。
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使用された石材は、茨城県笠間市で採掘された稲田石(花崗岩)です。橋の裏側には、「関東大震災」の際に着いた焦げ跡が、そして、橋の欄干や歩道には、今も「東京大空襲」の際の焼夷弾による爪痕が残されています。歴史の生き証人ですね。
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水天宮の斜向かいにある「カフェ ドルチェ」は、映画の冒頭で加賀恭一郎という刑事役の阿部寛さんが、看護士役の田中麗奈さんとお茶を飲みながら、口論するシーンに使われたところです。この日は、残念ながらクローズでした。
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ここは、殺害容疑者とされた八島冬樹役の三浦貴大さんが発見された場所「浜町緑道」という公園です。
青柳武明の鞄や財布を持って、茂みのなかに隠れていたため、不審者として八島冬樹は見回りの巡査に職務質問を受けるのです。
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「浜町緑道」は昭和25年まであった「浜町川」を埋め立てた跡に作られたものです。
「浜町川」は、江戸時代初期に神田川と大川(隅田川)を結ぶ掘割として開削された川でした。
小説では、思ったよりも小さいと紹介されていましたが、緑道内には、勧進帳の弁慶像があります。歌舞伎発祥の地を記念して建てられました。
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容疑者八島冬樹は、巡査の手を振り解き、新大橋通を渡ろうとしたところをトラックに轢かれ亡くなってしまいます。容疑者の死により、事件の真相はまたしても闇に入ってしまうのです。
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次のシーンに登場するのは、青柳武明が殺害される場面です。場所は、野村証券のビルに隣接した江戸橋南の首都高速入口左脇にある地下道です。
この地下道は首都高速を潜らせるために作られた歩道の一部です。
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地下道の突き当りの場所で、青柳武明は犯人の男にナイフで腹部を刺され、ナイフが刺さったまま出血しながら日本橋の麒麟の像に向かうのです。
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真相を究明するために警察本部は日本橋付近の捜査を始めます。
まず、刑事の加賀恭一郎が訪ねたのは、人形町の甘酒横丁にある「日本橋ゆうま」さんという民芸品を販売するお店です。映画では、「ほおづき屋」として登場します。
被害者の青柳武明が所持していた眼鏡ケースはここで購入したという設定になっています。店前には、映画「麒麟の翼」のポスターが貼られていました。
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次に捜査のために入ったのは、小説では「あまから」という店名になっているお煎餅屋さんの「草加屋」さんです。
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このお店は、「草加屋」さんの隣にある老舗の「人形町亀井堂」さんです。
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このお店も甘酒横丁で有名なたい焼き屋さんの「柳屋」さんです。
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(続く)
映画「麒麟の翼」に登場してくる場所をマップにしています。
https://goo.gl/maps/3bEEtSJFNxt
大岡越前といえば、かつては名優、加藤剛さんと決まっていましたが、何年か前から東山紀之さんに代わりました。段々と見慣れてきた感じがします。
そこで本日は、大岡越前守こと、大岡忠相にまつわる史跡を訪ねてみたいと思います。
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大岡忠相は、8代将軍徳川吉宗に推され江戸町奉行(南町奉行)に就任しました。享保の改革にも携わり、小石川養生所や町火消制度の設置をしたことは有名です。能力が認められ、寺社奉行となり、1748年には、西大平藩(三河)の大名となります。
大岡越前守の屋敷は、赤坂にありました。
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大岡家では、三河時代より豊川稲荷を信仰していたといい、越前守の時に、江戸の下屋敷に?枳尼天を勧請して祀ったといわれています。その後、大岡家の下屋敷が赤坂一ツ木に移転となり、豊川稲荷も引き続き移転先の屋敷で祀られることになります。江戸では稲荷信仰が盛んであったため、大岡邸では毎月「午の日」と22日には門を開けて、一般庶民の稲荷への参拝を許していました。その後、文政11年(1828年)、信徒の要望により、妙厳寺が一ツ木の大岡邸の敷地の内、4分の1(約250坪)を借り受け、豊川稲荷の江戸参詣所を建立したのが、東京別院の創建とされています。この写真は、甲州街道を歩き始めた日に撮ったものです。
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私は、商売繁盛、家内安全の神様と思い込んでいましたが、豊川稲荷東京別院は、曹洞宗寺院なのです。

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南町奉行所は、東京都指定旧跡とされ、現在、有楽町駅前に史跡が建てられています。この写真は、今日撮ったものです。
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随分と来ないうちに、有楽町駅の駅前はすっかり変わってしまいました。

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この2段に積まれた石は、ベンチではありません。この辺りを発掘調査した際に掘り起こされた当時のお奉行所の遺構なのです。
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大岡忠相は、1748年に西大平藩(三河)の大名となります。
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この写真は、2年ほど前の東海道53次ぶらり旅の時に撮ったものです。
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大岡氏の出自はもともと三河で、松平家に仕えていましたが、徳川家康が関東に入ると、高座郡堤村(茅ヶ崎市)に知行を与えられ、大岡忠相系統は相模国高座郡高田村(茅ヶ崎市高田)を分与されたそうです。

墓所は代々の領地のある茅ヶ崎市堤の窓月山浄見寺にあります。
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江戸の市中行政のほか、地方御用を務め広く知名度があったことなどから、大岡忠相が庶民の間で名奉行、人情味あふれる庶民の味方、正義の武士と評価され、後世に伝わったのでしょう。多くの方がお詣りにみえています。
日本のふるさと探訪!日本民家園の紹介の最終回です。
この建物は、菅原家住宅です。湯殿山麓の田麦俣(たむぎまた)集落やその周辺には、ハッポウ造と呼ばれる独特の民家が分布しています。養蚕のために二層三層をつくり、屋根に高窓(ハッポウ)を設けて採光の工夫をしたその姿は、非常に特徴的です。
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菅原家住宅を見学する中学生。
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この住宅は、民家としては神奈川県で最初に国の重要文化財に指定されたもので、この家の保存運動をきっかけに誕生したのが日本民家園です。
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この建物は川崎市麻生区の東光院境内にあったもので、養蚕(ようさん)の神「蚕影山大権現(こかげさんだいごんげん)」を祭った宮殿(くうでん)と、その覆堂(さやどう)から成っています。
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この舞台は、もと志摩半島の漁村の神社境内にありました。建てられたのは江戸時代末期の安政四年(1857年)です。屋根は正面が入母屋造、大棟(おおむね)には凝った鬼瓦を配しています。これに対し背面は切妻造で、鬼瓦も小さく単純です。こうした外観は、正面性を重視する舞台建築の性格をよくあらわしています。国の重要有形民俗文化財に指定されています。イメージ 6
鬼瓦や軒先瓦につく「若」の字は、舞台建築に若者組という伝統的青年組織が関わったことを記念するものです。
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舞台装置としては、直径三間(5.4m)の回り舞台、スッポン(せり上がり)のある花道、高所作業用の簀子(すのこ)等、歌舞伎芝居のために必要なものはほとんど備えています。
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年に一度、国指定重要文化財の古民家で行う人形浄瑠璃の公演があります。今年は9月18日に公演が予定されています。間もなくですね。今回の演目は「御所桜堀川夜討 弁慶上使の段」です。
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建物の前には、観客席があります。約200人ほどの収容が可能のようです。
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日本民家園の中には、伝統工芸館という施設が入っています。伝統的な藍染めを手軽に体験できる施設で、日本民家園の西門も兼ねています。川崎市の紺屋の技術を継ぎ、8基の「藍がめ」を管理して、藍染め体験、ミニ展示、講座などを行っています。
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伝統工芸館の内部の様子です。
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体験して作成した藍染めです。お土産も置かれています。
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伝統工芸館を出て、階段を下りる途中に、民家園を見渡せる場所があります。
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園内の地図です。全部見学するとなると半日ほどみていた方がよさそうです。
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歩き疲れたら、山下家住宅にあるお蕎麦屋さんで休憩するのもよいかもしれません。
私もいただきましたが、素朴でとても美味しいお蕎麦でした。
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アクセスです。これから秋の紅葉の時期が良いかもしれませんね。
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おしまい
関東地方では、迷走した台風が過ぎ、再び残暑が戻りました。東北・北海道では大きな被害がもたらされたようです。一刻も早い復旧を祈るばかりです。
前回に引き続き、日本のふるさと探訪!と称して、川崎市北部の生田緑地にある野外博物館「日本民家園」から全国各地から移設された古民家をご紹介させていただきます。
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この合掌づくりの棟は、岐阜県白川村の山下家住宅です。白川から五箇山にかけての民家は、巨大な合掌を急勾配にかける工法で知られていますが、それを強調して、「合掌造り」という呼称が広まったようです。高大な屋根裏には、養蚕に利用され、冬季には、食糧や薪などの貯蔵庫に使われていました。この建物は、神奈川県指定文化財となっています。19世紀初期のものです。現在は、一階に蕎麦屋の店舗があり、2階は展示室となっています。合掌造りに狙いをつけている銃は、防火設備です。
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山下家住宅の前に建っている民家は、野原家住宅です。富山県利賀村から移設されています。この建物も「越中五箇山」に属しますが、他の合掌造りと異なり、間取りや構造に地域差が現れていて興味深いものがあります。この建物も、神奈川県指定文化財となっています。18世紀後半のものです。
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「でえ」という客間には、織物の機材が置かれていました。長い冬の時期に生活を支える仕事として使用されていたものでしょうか。
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この建物は、千葉県九十九里町作田にあった作田家住宅です。いわし漁で栄えた九十九里の網元の家です。しかし、漁師の家という雰囲気は感じられません。海岸べりにある建物は、漁具小屋で、集落は内陸部にあったからなのです。この建物は、国の重要文化財に指定されています。17世紀後半から18世紀後半に使用されていました。
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建物の外観で特徴的な部分として、棟と棟との間に取り付けられた木製の雨樋があります。
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天井を張らない二十四畳ほどの板の間からは、曲がりくねった梁組越しに高大な屋根裏が一望できます。
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大きな囲炉裏のほかに、仏壇や押板を備え、網元としての日常生活に用いられた格式のある部屋となっています。
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建物の北側に面した屋根は、一面苔むしていて、元気よく植物も生い茂っています。
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この変わった建物は、沖永良部の高倉です。高倉と言いますと東大寺の校倉造が有名ですが、沖縄・奄美諸島、九州南端、八丈島など黒潮の流れに沿った地域には、柱の上に茅葺屋根をのせた高倉が分布しています。
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ネズミなどから作物を護るため、太い円柱の柱には、ネズミ返しの工夫が施されています。
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この建物は、川崎市多摩区の清宮家住宅です。屋根は寄棟造りの茅葺き屋根で、屋根の頂上を土の重さで押さえ、その土が散乱しないように草花を植えた「芝棟」は武蔵西部の素朴な農家の姿を伝えています。神奈川県指定文化財に指定されています。17世紀末から18世紀初の建物です。
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梁組は、この家の大きな見どころとなっています。特に土間の梁組は、曲りの強い太い材を巧みに組み合わせています。
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この建物は、多摩川の「菅の渡し場」に置かれていた船頭小屋です。船頭が客待ち、休憩、川の見張りに使用されていました。外周りの柱には、丸太を通して担ぐための大きな鉄の輪が取り付けられていて、川の増水に応じて、小屋を移動させるために用いられていたようです。
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台風の名残でしょうか、結構強い風が吹いていました。麦わらの傘を差した可愛らしい風鈴が大きく揺れていました。
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続く



日本民家園の宿場ゾーンです。ここでは、奥州街道、柳生街道、伊那街道沿いに建てられていた古民家を見ることができます。
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この建物は、鈴木家住宅です。奥州街道の宿駅、八丁目宿の旅籠(はたご=宿屋)でした。南部駒(なんぶごま)を白河(福島県)方面の競り市(せりいち)に出す馬喰(ばくろう=馬商人)や、馬を世話する馬方(うまかた)を泊めた馬宿(うまやど)で、馬は土間(どま)に、馬方は中二階に、馬喰や武士は一階の座敷に宿泊しました。この建物は、神奈川県指定重要文化財となっています。旧所在地は、福島県福島市松川町本町で、19世紀初期に建てられたものです。
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この建物は、井岡家住宅です。奈良の柳生街道(やぎゅうかいどう)に面した商家でした。古くは油屋を営み、のちに線香屋としてその製造販売を行っていました。外観は正面に庇(ひさし)を設け、吊上げ式の大戸(おおど)、格子(こうし)、揚見世(あげみせ)を備えており、商家の面影を伝えています。この建物も、神奈川県指定重要文化財となっています。旧所在地は、奈良県奈良市高畑町で、17世紀末期~18世紀初期に建てられています。ほのかな灯りがとても印象的でした。イメージ 3
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この家は囲炉裏がなく、かまどで生活をしていました。中央の大かまどは荒神(火の神)を祭るもので、正月の餅つきのとき以外は使いわないそうです。以前、伊豆韮山の江川邸を見学した際も、お正月に元家来が集まり、現在の42代江川氏が正月行事を行っているとガイドさんが紹介されていたのを思い出しました。
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この建物は、佐地家の門・供待です。もと名古屋城の東南にあり、禄高(ろくだか)二百五十石の武家屋敷の出入口でした。門は棟門(むなかど)と呼ばれる形式です。両袖部に突出している小屋根は、提灯(ちょうちん)を吊るすためのものです。供待(ともまち)はお供が主人の帰りを待つための施設で、内部は土間(どま)、門番部屋、囲炉裏(いろり)のある板の間(供待)からなっています。供待が一つの建物として建てられるのは珍しい事例です。屋敷外は漆喰(しっくい)仕上げとして城郭(じょうかく)風であるのに対し、内側は中塗りまでとして軒裏(のきうら)も木部を露出させた簡素な仕上げにするなど、体面を重んずる武士の家らしさが現れています。この建物は、川崎市重要歴史記念物に指定されています。旧所在地は、愛知県名古屋市東区白壁で、19世紀初期の建物です。イメージ 4
この建物は、三沢家住宅です。中山道(なかせんどう)から分かれる伊那(いな)街道の宿駅、伊那部宿(いなべじゅく)にありました。農業を主とし、代々組頭(くみがしら)をつとめてきましたが、江戸時代の末に製薬・売薬業を始めて成功しました。外観上の特徴は、石置板葺(いしおきいたぶき)のゆるい切妻造(きりづまづくり)屋根と上手の門構(もんがま)え、それから式台玄関(しきだいげんかん)です。板葺の屋根は良材に恵まれた山間部の地域性によるものです。間取りにはこの宿場の半農半商的性格が現れています。この建物は、神奈川県指定重要文化財となっています。19世紀中期に建てられました。イメージ 5
園路には、馬頭観音や庚申塔が置かれています。
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この水車小屋は、長野県長野市上ケ屋に建てられていたものです。水車は使用目的によって二種類に分類できます。ひとつは灌漑(かんがい)などで水を上げるのにつかうもの、もうひとつは動力として用いるものです。この水車は後者で、米つき、粉ひき、蕎打ちなどに利用していました。車輪の直径は3.6メートルあります。この水車は、川崎市重要歴史記念物に指定されています。19世紀中頃に使用されていました。
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水車小屋の脇に六地蔵さんと道祖神がありました。
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続く