ざわついた世相のさなかではありますが、初台ザロフにてミニマルギャラリー(下駄箱サイズ)のプチ個展を開催します。

作品は旧作のハイヒール2点のほか、上記サザエを用いたグッズなどが中心です。

内側の螺鈿質のみ残したサザエにLEDを仕込んで点灯するようになっています。

不肖菊地は不在ですが、4/16-4/25の開催。13時から19時、火・水定休。

お求めの折はマスターの石井さんにどうぞ。

各種ココアや変わったお酒が名物ですが、ギャラリーのみ鑑賞も可。

 

5月個展の方もお楽しみに!!

 

               もも猫工房・菊地信介 拝 画廊・珈琲 Zaroff

 

 

 

 

 

名古屋の大丸松坂屋アートフェアから始まり、個展その他せっせと活動してきた2025年も今年で終了。

皆様ありがとうございました。

来る2026年は1月中旬の'ONE ART Taipei 2026'(台湾)を皮切りに、5月個展、おそらくその前に初台・ザロフにてプチ個展&グッズ販売、夏季グループ展を福島で、秋以降も鋭意検討中。

また、好評だった「青木聖吾論」のパート2を10月くらいに掲載予定。

 

ついでながら今年の青木論6に記述した「彼我の距離」、数年前に同じことを書いていた事を発見。

ネタカブリのないよう注意していきます。

 

5月の個展は21日から25日、他決定次第アップしていきます。

続々制作中の新作アップは例年通り個展後5月下旬から。

来年もよろしくお願い致します。

皆様、よいお年を・・・。

 

                      もも猫工房・菊地信介 拝

 

 

まとめ

 

上の添付画像の様に近年では線分も入り始めて、青木の仕事は更なる展開を見せている。

 

前回の補足として、「画面からの引き、どこまで後ろに下がると鑑賞距離を外れるのか」を考えてみたい。

ダリの作品に「リンカーンの顔」がある。これも有名だから添付不要か?粗いモザイク画のリンカーンが、うんと引くと見えるアレ。

もしもリンカーンを知らなかったら、顔があることに気が付かないかもしれない。

現代の共通理解としての情報・コモンセンスも鑑賞者の「網膜?記憶の中の視覚野?」に用意されていて、脳で見る>記憶で見る事に狙いがつけてあると言う事だ。

どこまでが絵画の鑑賞距離かを考えると、壁画を除き、このことが平面絵画のフレームを特定してくれると考える。

今回は挙げなかったが、青木の仕事にはこの他「星座のシリーズ」もあり、学生時代は版画にも通じていた。

また、近年実際の風景を取り込むタイプも展開してきてなかなか目が離せない。

 

今年はこれで終了とする「青木聖吾論」だが、同時代のランナーとして青木自身も更なる進化を遂げていくだろう。

来年以降も青木論を続けていく次第である。

 

こちらの発表は年明けすぐ台北の'TAIPEI ONE ART2026'、5月個展の予定。よろしくどうぞ。

余談ながらここしばし際限もなく上がっていく日経平均、「100年かけて・・・」などと言ってないで、日銀のETF売りを切望する限りである。狂乱の高騰は一番苦手。

 

 

「彼我の距離」」

作品は最近のもの、丸三角四角は輪郭のみの線描で、今回、中も塗りつぶされている「丸」が登場する。

大きさも各種あり、まる・さんかく・しかくを従えた?ものも見られることから、スクリーン上のイメージから再び「一つ目」のような空間を形作ったようにも見える。

ここで今一つの添付画像、バルテュスを見てみよう。画集からのスキャンで失礼。

一見すがすがしいピクニック風景だが、そこはバルテュス。よくよく人物を見ると、それぞれがバラバラ、あるいは何か禍々しい秘密を共有していて、互いに素知らぬ顔をしているような印象も受ける。

だが、今回注目してほしいのは画面右上部、山稜ぎりぎりに白い点が見えるだろうか?

これは画集でかろうじて確認できるサイズながら「人」なのだ。

「何かが道をやってくる」はブラッドベリイだったかラブクラフトだったか、平らかな水平線のないスイスの風景とあいまって、遠くの家族が手前に戻ってくるような中にも、何やら不穏なものを孕んでいるようにも見える。

青木作品で大きな「丸」が出てきた折、このバルテュス人物における彼我の距離にひとしく、画面内に想定された3次元の奥行の一番奥に小さなまる・さんかく・しかく、一番手前に「丸」と、極端な位置の遠近が登場した。

添付画像では「丸」のサイズもいろいろなので、程よい空間になっている。

また、丸三角四角とも「従えた丸」が、例えば泡が立ち上ってくる経緯のごとき見えかたをする。

極端すぎるものと、途中のグラデーションで文脈がわかるもの。

丁度音楽の音の高低になぞらえれば、極端なものが「驚かし」的な効果を産むことは言うまでもない。

 

青木作品はこの後更に「実際の風景画」に展開して、現在に至る。

次回をもって今年の青木聖吾論のまとめとするが、第一稿において本ブログ開闢以来の56人という多数の閲覧者があった。

青木の広い人脈に感服すると同時に、御縁で拙稿をご覧いただいた皆様、どうも有難うございました。

 

川口アート大賞受賞の頃はこのタイプに戻る。

色々な過程を経て、表現はすっかり自家薬籠中の物となったようだ。

画像の繋いでいる手の部分が赤くなっているのが見て取れる。

ストレートに、人の繋がり・ぬくもりの体温を赤で、王道だ。

当然この部分は赤色のみとなる為、まる・さんかく・しかくの形で変化をつけているのが「後述」と書いた前々回に呼応する。

ここで未だピックアップされていない点として、「三角と四角は隙間なく並べることができる」と言う事で、丸を凝集させても隙間の「地」が見えるけれど、三角四角では「図」のみとなる。これは次のアプローチのヒントになるかも知れない。

世界の構成要素だけなら点や丸でも伝わる。三角・四角を入れた意味、というか価値が追及できる。

さて、こだわってきた「焦点深度無限大」のピンボケ背景だが、平面的にペインタリーなストロークを合わせることで、空気遠近的な三次元空間に見える。そこに直接平面として筆跡を残すことが流行っている理由なのだが、これは昨年色々なアプローチで検証した。

昨年は写真やガラス絵を参考にした訳だが、「鏡・レンズ・モザイクフィルター」などなど、画面の手前に更なるバイアスを施すことで、次の展開を期待できる一方、もともと青木のスタートラインの手前にあった「ブリコラージュ」、基底面のキャンバスそのものを剥がしてしまうことも逆ベクトルのアプローチとして期待できる。

前者が平面絵画を離れてしまうのに対し、後者は平面絵画内の仕事だ。平面作品に鏡が埋めてあったり、レンズが張り付けられていたら、もう絵画とは言えないだろう。

だが、基底面にマイナスベクトルの仕掛けを施す事は、青木の指定する「厳密な鑑賞の原点位置」で十分見て取れることになるだろう。

ケージのプリベアードピアノの様に、例えば乾燥してカイラギやちりめん皺が発生するような地塗りをしておくとか・・・。

そのタイムラグにも絡めて、次回は「彼我の距離」から考えてみたい。

 

ちなみに地元で背中一面にガネーシャの入れ墨をしていた人を見かけた。太目の人だったからよく似合っていたが、この人痩せてしまったらガネーシャが象に見えなくなってしまうな・・・などと要らぬ心配をしてしまう。
 

'SHADOWS'のシリーズ

 

単品では見てのとおり、人影そのものだが、このシリーズは上の様にセットで展示されることが多い。

リヒターの作品で、ケルンの美術館に常設だったと思うが、50枚くらいの人物の顔が少しずつ角度を変えていくものがある。

立体作品単品とインスタレーションに、尚一層の違いを見出すとすれば、それは時間の推移ではなかろうか?

完璧な彫刻があったとして、一人の人間からは片面しか視野に入らない。だが優れた鑑賞者なら見えている表側の整合性から裏側を想像することができる。その意味で絵画のように「一瞬ですべてを判断できる」、それが彫刻だ。

インスタレーションは先の竜安寺の様に、鑑賞者が移動(縁側を歩いていく)していくことで完成する。その時間の経緯も作庭者の狙いであり、屋根の上から庭の全景を見ても作者の問いは完成しない。

ボルタンスキーの作品にも似た部分があるけれど、氏の場合「記憶を過去にさかのぼっていく」というベクトルが、作品テーマとあいまって優れたメッセージを示している。

変わったところでホルバインの「大使たち」、結構有名になってきたから画像の添付は不要か?

画面の手前にある正体不明の羽のようなものが、斜めに引き延ばした頭骨で、首をかしげて展示室を去る折、もう一度作品を振り返ると、その角度でのみ頭骨が見える・判別できるというアレ。

だまし絵的なレベルではよくあるネタかもしれないが、ハンスの超絶描写で真正面から扱われると、優れた仕掛人は洋の東西を問わず、いずこにもいる。という、なにやら地に足がついた満足感を堪能できる。

 

さて、本筋に戻って平面絵画らしきまるさんかくのシリーズとインスタレーション的なSHADOWS、再び平面絵画に戻る。

通常の古典的な絵画においても、細部を見たくて画面に近づいたり、全体感を見るため少し後ろに引いたり、画面に対する垂直方向での移動は誰もがするだろう。

青木聖吾が分解能ぎりぎりのまるさんかくを設定した為、「目の裏」のシリーズにははっきりとした「鑑賞の定点・原点座標」が存在することとなる。

この場合、「丸っぽいもの」ではなく、「まる・さんかく・しかく」の違いが判別できる距離、と言う事で、かなりの精度で原点座標が特定される。

焦点深度の話とあいまって、ここを次回は深堀りしてみたい。

 

 

各論

 

「目の裏・・・」のシリーズは次に添付画像のような展開となる。

この時期の作品では「まる・さんかく・しかく」がそれ自体三次元の立体的な形をとるように見える。

中央の塊りはどこか乳海攪拌とでもいうか、原形質スープの中から原生動物が形作られ始めた様な印象がある。

周囲の緩やかなスポットライトは「視界野」である旨、本人も言っている。

前回、前々回の作品では、まる・さんかく・しかくが画面上のフィルターやフィルム・スクリーンのようにも見える。

すりガラスを通すと画像がぼやける、そのすりガラスそのもの。

本作では前回記したインスタレーション性がかなり薄まり、普通の絵画、あるいは図像の印象が強い。

タイトルも「一つ目」など、ストレートな解釈でいいようだ。

また、サルバドールダリが「牢屋に閉じ込められたらどうするか?」の問いに「眼球を圧迫して、網膜に発生する幻影を楽しむ」と言っている。

この場合、背景は闇になるため、ネガポジが逆になるけれど、上の画像にはそんなイメージもある。

個人的にはこの時期の作品群も気に入っているのだが、模索している可能性の一部だったようで、この後はフィルム・スクリーン的なスタンスに戻ると同時に'SHADOWS'なる別シリーズも開始される。

ただし、'SHDOWS'は素材が紙と色鉛筆になること、モチーフがはっきり人物像になることを除くと、まるさんかくシリーズを補完する同じテーマのヴァリアントと言えるようだ。

そしてそのシリーズは一枚の単品としても成立しているが、複数セットで展示されることが多く、インスタレーション性に強く焦点がある。

この場合の「インスタレーション性」というのは独自解釈ながら、以前竜安寺などを参考にして説明した「鑑賞者自身が定点から移動することを促すもの」の事である。

厳密にいえば立体作品はすべて該当するため、逆にインスタレーション性からもっとも遠いものが平面絵画という、図と地の関係を構成する事となる。

 

 

 部分アップ

 

作品概論

 

さて、青木聖吾最近の仕事である「目の裏の皮膚」、拡大画像を上に。

「まる・さんかく・しかく」、通常の視力で鑑賞距離に立つとぎりぎり判別できるサイズの、丸・三角・四角を基本単位として構成されている。色彩もシンプルなのは御覧のとおり。

「世界の構成要素」として選ばれていて、この解釈は各ジャンルの先達もまとめている。

 

ぱっと見た感じ、まず「皮膚の上の痛点・温点などの分布表」或いは「色盲色弱検査表」(数字が読めるかどうかのアレ)を想起させる。

色彩や丸三角四角の配置は感覚的なものだそうで、数学的なルールなどはないとのこと。

要素をかなり絞って、ミニマルなスタートラインである。

ちなみに彼は、とりわけ静物デッサンにおいてはほぼ最高峰といってもいい手練れで、すいどーばた時代は油彩画ともどもいくつ参考作品としてパンフレットの表紙その他を飾った事か・・・。

このシリーズを始めた時の感想として、「一番の武器を封じてしまうなんて、なんて勿体ない」と思ったものだが、ブリコラージュに対して、ミニマルだからこそ展開していく伸びしろがあるという結果となっていて、彼の細やかな感覚などもしっかり表出して行くこととなる。

作品のテーマに沿って、ある部分に丸三角四角が隙間なく凝集してしまい、色彩で変化をつけられない場合(後述)、要素が三つあることで、全体との整合性に導いていける様だ。

彼がそこまで狙っているかは判らないが、この基本スタイルにおいて、「目の分解能ぎりぎりで判別できる鑑賞距離」を特定している事となる。勿論それは画面に対して視線が垂直に、画面の中心に直交する位置をも特定することは言うまでもない。

ただし、この後に登場するシャドウズはもとより、このスタイルのものでも展示位置の高低で、画面を見上げ・見下げなくてはならないインスタレーションも登場する為、「垂直に直交」に関してはある程度のバイアスを許しているようだ。

と言う事で次回は各論。

 

 

今回は自作ではなく、付き合いの長い造形作家・青木聖吾について記す。

数回に分けて論考、毎年秋にまとめて更新していく予定。

第一回は彼のアウトラインから。

 

青木聖吾、1964年千葉県生まれ。すいどーばた美術研究所にて浪人の後、愛知芸大に進学。

大学院・研修課履修の後、東京に戻り、各美術系講師のかたわら制作発表に余念がない。

川口市アート公募大賞ほか、受賞歴多数。

 

不肖菊地とはすいどーばたで出会い、愛知芸大以降も親交が続いている。

もともとの油彩画から、紙に塗っては剥がす「ブリコラージュ」の手法にて、イナックスギャラリーのおおとりを務めたのち、添付画像のスタイルに移行する。

更に近年では人物のシルエットの'SHADOWS`シリーズと抱き合わせで発表を続けている。

 

「焦点深度無限遠にストローク」という昨年中心に考察してきた、現在の平面の潮流とからめてまとめてみたい。

ブリコラージュ作品でのサブタイトル「狭間から」に続き、今の作品群には「目の裏の皮膚」という題が設けられ、網膜や視覚認識のもろもろに興味があるようだ。

「目で見ているのか、脳で見ているのか」という、リヒターが深堀してきたテーマへの返し歌とでもいったところか・・・。

また、「焦点深度」に洗いだされている「キャンバスなどの基底面に対し、三次元空間をイリュージョナルに展開するのか、キュービズムの箱型空間か、その先を模索するのか?」という課題に対し、基底面自体をモノとして引っ剥がしてしまうブリコラージュの手法からストレートな流れとして現在の「目の裏・・・」の作品に続いているのは必然とも言えよう。

以上、一回目は概要。次回から各論に移る。

参照として彼のホームページと絵画教室のURLを以下に。

 

ホーム - 埼玉県川越市、日高市、絵画教室、「青木美術研究所アトリエ日高」ページ!

Art Works | SEIGO AOKI / 青木聖吾

 

九龍城スパイラル カット

 

という事で、今年の個展における新作アップロード終了。

まもなく福島県のグループ展搬入、秋はまとめて数回「青木聖吾論」なるものをアップ予定。

その他、小ネタがあれば今回アップしていない別カットを添えて折々に・・・。

 

前回の「サンパンハウスや違法建築に魅力を感じる」という事の補足を少々。

本丸ロシアを始め、共産圏を旅行してみて閉口したのは「役人・警官・見かけばかり立派そうな役所の類」という事がある。

融通の全く利かない役人(ごくごくたまに親切な人もいる)、賄賂ばかり目的の警官、そしてデザインからしてファシズムを絵に描いたような建築物。

細部は目も当てられないほど雑なのに、大きさやいかめしさばかり御大層、たまにデザインしようとすると上海のタワーみたいなエレガンスから遥かに遠い代物。

勿論まだまだ貧しい場合、窓ひとつとっても規格の物だけでそろえればコスパはいい。

だがその反面、独裁者の銅像などには金をかける。

 

貧困や庶民の自由な発想からたどり着いた結論には侮れないものがある。

例えがあまりよくないが、米本位制という特殊な状況から商品先物という世界でも類を見ないアイディアが産まれた。

庶民ベースなら頼母子講や無尽など、形を変えて現代でも現役なものもある。

 

「地に足の着いた身の丈を知る事」「手の届く範囲、脚でたどり着ける所まではベストを尽くす」そういう地道な仕事で、来年の個展に向けて、これからも頑張っていきます。皆様これからも御贔屓に・・・。

 

                                 もも猫工房・菊地信介 拝