年度も替わり、毎春恒例の「もも猫工房・菊地信介」個展が始まります。

 長年の会場だった「すずらん通り・檜画廊」休廊の為、会場を新たにJRお茶の水駅徒歩1分の「KS46wall」と「ギャラリー蔵」に移し、会期も5月下旬に変更。

 新生「樹の会」の賛助も得、グレードアップしての再スタートです!!

  例年通り作者菊地は常駐、また、蔵は19時までですが、遊歩道KS46wallは

常時展示、19-23時の会場終了後もライトアップされています。

 JR・地下鉄ともにアクセス良好! 皆様のお越しをお待ちしております。

 

                      もも猫工房・菊地信介 作家敬白

先ずは地図から。

5/20(月)から5/25(土)、檜画廊から会場をお茶の水駅すぐの「お茶の水ソラシティ」ギャラリー蔵とKS46wallに変えて、「もも猫工房・菊地信介個展」と「樹の会」第一回展示が開催されます。

「樹の会」というのは不肖菊地の母校、鎌倉学園高等学校の美術部OB会に、ゆかりのある方々を加えた集まりです。

 遊歩道脇のショーウィンドウであるKS46wallは悪天候の場合、鑑賞環境としては不十分なため、天候の穏やかな5月下旬に会期を変更。

まだ3か月も有るため、とりあえずの更新です。

諸連絡の為、こちらのメールアドレスを以下に挙げておきますが、最近本ブログを見て下さる方が増えてきた様子。ご質問などありましたら受けております。

今回も新作多数と、旧作に改良を加えたアーカイブコーナーも作ります。

皆様どうぞお楽しみに!!

 

もも猫工房・菊地信介 sin@kza.biglobe.ne.jp

あけましておめでとうございます。

写真は昨年のチューリッヒアートフェアの様子。

今年はドイツ・マンハイムで5か月作品委託の予定。

個展は会場が替わるため、5月下旬に変更。

お茶の水駅徒歩1分の「ギャラリー蔵」と「KS46ウォール」なる遊歩道脇のショーウィンドウ。

檜画廊のすずらん通りを凌ぐ通行量が期待できるが、鑑賞者は吹き曝しとなるため、穏やかな5月とした。

年後半の予定は未定なれど、とりあえず新しい個展会場への対応で多忙な前半となる。

新作も続々とできているけれど、アップロードは6-7月にまとめて大量に。

と、いうことで今年もよろしくお願いします。

( 二伸・最近このブログを見て頂いている方、ありがとうございます。)

バニーガール アップ

 

 沸点なり融点なり極まった状態、考えやすいので、器の中の融点にある水が氷になる最初の氷分子一個。一個だけ氷分子になれる温度。

 ほんの僅かでも温度が上がれば水に戻る、そのぎりぎりにおいて、その器の中で固体化する最初の一個の結晶が器の中の各所に現れたり消えたりすることはあり得る筈だ。

 敷き詰めたビー玉がお盆一杯で、一個だけ飛び出してしまうとして、その一個を押し込むと別の一個が飛び足してしまう、位の例えがより簡単か。

 お盆を真横から見ると、一個だけいろいろな場所に現れたり消えたり・・・。

 

 先に述べた「高次元からの投影」とは、固体にならないとあるように見えない世界=3次元で、命や様々な事象は死んだり滅びたりするのではなく、えにしが結ばれたりほどけたりしているだけだ、という事で結びとしたい。

 ヒッグス粒子も同じように光速を超えてワープ・テレポートしたように見える。といのうはどうだろう?

 ちょうど全出品作もアップできたので、今回はこれで手じまいとする。

 

 今後の予定としては、国内では福島県のグループ展、海外は台北とシンガポール、チューリッヒのアートフェア。 年末にマンハイムでの長期展示納入などもある。

 今回の個展がらみはこれで終了。

 またイベントや新ネタなど思いついたら随時ご紹介します。有難うございました。

 

ストリームサーキュレーション 横から

 

 承前

 ・・・地をシェアしあっている事による副産物とは、遺伝病や犯罪者の子供、といったカルマから解き放たれるのではないか?という事で、一個人や血脈が背負うことになってしまったものを社会全体でシェアしあう、カースト制度の逆。

 シングルマザーの苦労やネグレクトなどの結果を子供に負わせるのは酷すぎる。

 かつて水見稜というSF作家が「遺伝子の組み合わせを時系列で捉えて、個体ではなく遺伝子列で生き物として捉える」というヴィジョンを示していた。

 植物や原生動物に、どこからどこまでが一つの個体なのかはっきりしないものがある。

 高次元からの投影が3次元では一人ひとりの個体にも見えるし、偶然の出会いの不思議な縁にも見える、というヴィジョンはどうだろう?

 個体や血脈を横断していくカルマ?ゴースト?のフレーム。

 次回でとりあえずまとめ。

 

 アプサラ アップ

 

 ・・・人の縁も一緒で、「魂を電気信号とするならば」の回に「電流が通れば直交する磁界ができるから、凹型ができる」と書いた。

 そしてその凹型は肉体や人生という「占有された時空間」と「図と地」の関係を作る。勿論凹型は「地」の方で、個体・個人という「図」に対して他のすべての「図」に対しても大部分をシェアしあっている関係になる。

 これは3次元空間の話で、そもそも電流が通る事自体が「電子が移動>電荷を帯びた極細の空間がその性質を隣に受け継いでいく」という事らしい故、より高次のレベルではなるべくしてなっている縁と言えるのではないだろうかめ?

 とてつもなく遠距離に散らばった鏡が反射鏡として焦点を結んでも、鏡を確認できないと、突然あるポイントが高熱になる、というたとえの方が解りやすいかも。

 従って「縁」というのは高次の関係の3次元下の投影といえるし、上の「地」のシェアリングで考えると、個体が滅びても命が滅びる訳ではない、と言えないだろうか?

 これには別の副産物も生じるので、次回にもう一度考察して今回のまとめとしたい。

 

 Welcome! アプサラアンコール

 2020年制作

 h58.5xw57.5xd12.0cm

 

  タイトルはその昔、アンコールワットのあるシェムリアップに宿泊した時のゲストハウス、それでWelcom!

 実際このポーズのレリーフが摸刻されていた。

 ちょっとグニャグニャにして、バリ島に繋がるカンボジアンダンスの手足のそりかえりを展開してみた。

 さて、ヒッグス続き。

 光速を超える、時間を超えるという観念が科学者をして否定に向かわせるのだが、

なまじ科学には進まなかった私にはイメージで捉えるのみだから自由だ。

 ある粒子(ヒッグス)が、ほぼテレポートして違う場所に現れると捉える事自体が間違いのもとなのではないだろうか?

   世界が必要とする粒子が正反の対であったり、必ずどこかにひとつはなくてはならない場合、ある場所の粒子が存在し得なくなると、何かの道理により、どこかに発生する。という、肯定側からの論理を捏造してしまう事に、妄想の楽しみがある。

 11次元もあれば何でもありのような気がするけれど。

 人の縁についても似たようなヴィジョンでいけるのではないだろうか?という事で、以下また次回。

 

 ノマド、別カット

 

 ヒッグス粒子の存在が云々されていて、人間が五感で感じている時空間を根底から覆すヴィジョンであることが科学に通じている人ほど直感するのか、否定的な見解を示す人が少なくない。

 ノストラダムスのせいで小学生の内から「死」「滅亡」、何より「死んだらどうなるか」的な実存への恐怖、「宇宙の果てはどうなっているか」との二大絶望・不安と向かい合い、すっかり免疫が出来上がっている私にとっては、美術を中心にセルフ宗教を捏造してきた人生ともいえるので平気。

 「時間が過去から未来へと流れていく」という絶対の真実と思われていることが、実はかなりあやふやで、少なくとも一次元上だと並列でアクセスできる。

 空間も同様で、言ってみれば数学と量子力学以外の学問ではいまだにニュートン力学の範疇なのかもしれない。

 これもまた幼少期からSFに慣れ親しんできた私には、上のヴィジョンそのものもお馴染みのもので、自分の生きているうちにシンギュラリティックなイベントに立ち会えるとすれば、ときめくものを禁じ得ない。

 このネタはあと2-3回かかるかも。いったん擱筆。

 

 

 ディーゼルノマド2073・焼肉屋台

 2022年制作

 h19.5xw32.8xd21.2cm

 

 ディーゼルノマド2作目。

 途上国ではよく見られる食べ物屋台。

 

 インドのカジュラホであった日本の若者と、数週間後にデリーでバッタリ会ったことがある。

 距離もかなりあるし、何より人間だらけのインドでは天文学的な確率だ。

 これを偶然というよりは、人と人には不思議な縁があると考えたい。

 霊感商法やオカルトで判断力を失うことは良くないが、今日の合理性から偶然だけで割り切るのもかえって非科学的にも思える。

 量子力学の最前線で、9次元まででは解けなかった解が、11次元まで設定すると整合性が取れたとの話があった。

 勿論この場合の4次元5次元というのは数学的な意味で、オカルト的な4次元とはおよそ異なるものであろう。

 時空間の在り方が解かれつつあるのに、不思議な偶然を頭ごなしに否定するのはどうだろう?

 量子のゆらぎ、量子もつれなど、極めて面白い仮説があるようなので、次回以降考えてみたい。

 

 大地への道 後ろから

 

 量子コンピューターの実現という話が聞こえてくるようになった。

 関連して「シュレーディンガーの猫」の話もちらほら。

 この猫の話を始めて聞いたのは、学生時代に購読していたSFマガジンで山田正紀の「宝石泥棒」の続編の中だったと思う。

 当時から思っていたのだが、この猫の例えはあまり適切ではないのではあるまいか?

 素粒子レベルで起こる現象なら、もう少し何かいい例えがありそうなものだが、数式の解らない私に理解が及ばないだけかも知れない。

 パラレルワールドを基底にした理論が、コンピューターとして現実に開発できるのだろうかとの疑念もある。技術的にまだまだ遠いような・・・。

 数学と量子力学だけが突出して世界の実像に肉薄している様だが、科学の他のジャンルとの乖離も気になる。

 生命の捉え方も、「肉体という空間と人生という時間を占有している」とのフォーカスから全く離れられない。

 特にキリスト教がらみでは、先端の生物学者自身が「結局魂は脳の神経細胞内に宿る」と言ったり、JPホーガンですら晩年に聖書回帰の様相を呈したり、西洋文明の限界なのだろうか?