ディーゼルノマド2073・焼肉屋台

 2022年制作

 h19.5xw32.8xd21.2cm

 

 ディーゼルノマド2作目。

 途上国ではよく見られる食べ物屋台。

 

 インドのカジュラホであった日本の若者と、数週間後にデリーでバッタリ会ったことがある。

 距離もかなりあるし、何より人間だらけのインドでは天文学的な確率だ。

 これを偶然というよりは、人と人には不思議な縁があると考えたい。

 霊感商法やオカルトで判断力を失うことは良くないが、今日の合理性から偶然だけで割り切るのもかえって非科学的にも思える。

 量子力学の最前線で、9次元まででは解けなかった解が、11次元まで設定すると整合性が取れたとの話があった。

 勿論この場合の4次元5次元というのは数学的な意味で、オカルト的な4次元とはおよそ異なるものであろう。

 時空間の在り方が解かれつつあるのに、不思議な偶然を頭ごなしに否定するのはどうだろう?

 量子のゆらぎ、量子もつれなど、極めて面白い仮説があるようなので、次回以降考えてみたい。

 

 大地への道 後ろから

 

 量子コンピューターの実現という話が聞こえてくるようになった。

 関連して「シュレーディンガーの猫」の話もちらほら。

 この猫の話を始めて聞いたのは、学生時代に購読していたSFマガジンで山田正紀の「宝石泥棒」の続編の中だったと思う。

 当時から思っていたのだが、この猫の例えはあまり適切ではないのではあるまいか?

 素粒子レベルで起こる現象なら、もう少し何かいい例えがありそうなものだが、数式の解らない私に理解が及ばないだけかも知れない。

 パラレルワールドを基底にした理論が、コンピューターとして現実に開発できるのだろうかとの疑念もある。技術的にまだまだ遠いような・・・。

 数学と量子力学だけが突出して世界の実像に肉薄している様だが、科学の他のジャンルとの乖離も気になる。

 生命の捉え方も、「肉体という空間と人生という時間を占有している」とのフォーカスから全く離れられない。

 特にキリスト教がらみでは、先端の生物学者自身が「結局魂は脳の神経細胞内に宿る」と言ったり、JPホーガンですら晩年に聖書回帰の様相を呈したり、西洋文明の限界なのだろうか?

 

 大地への道

 2022年制作

 h3.05xw50.5xd18.5cm

 

 シーラカンス。

 シーラカンスにはまだ完全な背骨が出来上がっておらす、古代魚の形質を残しているそうだ。中の赤いはらわた的コードは縄跳び縄で、ちょっとそんな情報からイメージしたもの。

 2種類の自転車のかごでつくったボディ、ウロコの雰囲気がぴったりだと悦に入っている。

 様々な素材を組み合わせてキメラを作っているかの如く、職業キメラブリーダー・・・これは円谷プロの巨匠に譲るべきか・・・。

 アーキタイプ・祖型の伸びしろには、その不格好さが逆の魅力に見えてしまうから不思議だ。

 ウルトラマンのシリーズも後年、「昔作った怪獣をばらして寄せ集めたのではないか?」という、どこか見覚えがあったり、デザイン的に際立っていないものが増えてきて、年齢的にも卒業となった。

 現在も続いている様だが、シン・ウルトラマンが出てくるところを見ると、旧作を凌ぐものがないから、庵野監督自ら作ってしまったということか・・・?

 

ホエールシャーク(じんべいざめ)後ろから

 

 先の話に関して、形骸化が進んで名前が独り歩きしているケースでは、「もったいぶって溜める」という現象がよく見られる。

 最初から進化を求められていないもの(例えば日本のテレビドラマ)では、「お約束」として紋切型を逆手に取る。これは歌舞伎の大見得のように、消費財としてのエンターテインメント。

 進化は求められず、更新のみでOK。

 映画になると、寅さんのケースもあるが、先のジョンウィックのように前作を越えなくてはならない宿命にあるものが多い。

 もともとジェイソンボーンシリーズあたりから始まった、やたらタイトでリアルなアクションの路線ゆえ、進化は義務付けられている。

 無暗と「溜め」たがる、昔の007があぶり出した陰画とでも云おうか「なんでそこで撃たない?」

 

 ステラの生み出したシェイプトキャンバスが、アンソニーグリーンに至った様に、むき出しのアーキタイプを受け止めて先に繋げていこうとすれば、形骸化からは遠くなる。

 「一門の流派、その秘伝」にしてしまうと、悪い意味での工芸に留まってしまう。

 (尚、この場合の「工芸」は、かなり狭い意味限定で、工芸美術を軽んじるつもりはない)

 

 

 

 WHALESHARK

 2023年制作    

 h25.5xw36.0xd19.5cm

 

 団体展のサバイバルが切実なようだ。

 政治政党のように合併も出てくるだろう。

 日展のように、派閥の争いが自民党そっくりな構図もある。

 これでは衰退していくのもやむを得ない。

 

 当初は印象派のように、はっきりした芸術理念の元に同志が集まっていたものだ。

 政治というよりロックバンドの集合離散に似ている。

 はっきりした個性のぶつかり合いの中から名曲が産まれ、その役割を終えた時には潔く解散してそれぞれの道を続ける。

 団体展とは別に、数人でアートユニットを組む場合がむしろ今日では一般的か。

 それにしても終わらせる時に終わらせないと形骸化する。

 解散したかに思えても、ロキシーミュージックやフリートウッドマックのように、10年も経ってから突然再結成して名曲を残すようなケースもあった。

 取り分け美術といのうは個人作業ゆえ、いつでも基本二の足だけが頼り。

 自分の身の丈以上のものに酔うと本末転倒になりがちだ。

 

 

 今日ありとあらゆるものが値上げしてきて臆面もない。

 人間は単なる消費財とみられ、ため息で呼吸しているかのよう。

 カソリックでがんじがらめにされていた、ルネサンス以前の中世暗黒時代の様だ。

 日本での知名度は低めだが、正教会・オーソドックスというものもある。

 神田のニコライ堂がそうだ。

 カソリックのように組織構造はあるのだが、一国一教会で、ギリシアや東ヨーロッパに多い。

 教義そのものは共通しているが、国の方針とセットになりがちなのが微妙なところだ。

 しかし、国家間でのやり取りには正教会同士の横の繋がりがあるのは、通商協定的な構造としておもしろいかもしれない・・・。

 

 Mornning Glory

  2021年制作

 h16.3xw14.2xd6.0cm

 

  先のナイトメアと対なので、朝のイメージ。

 

 今年もナショナリズムに関する話が多くなってしまう。

 究極の夢は独裁者になりたい連中が持ち寄って共有しているコンセンサスがナショナリスムなのではないだろうか?

 自我の拡大というか、死んだ後も敬愛され続けたい割に、それを強制したがる。

 キリストを始め死後も人々に愛され続ける人物は少なくない。

 およそその資格がないのに、自分の偉大さをアピールしたがる。

 何度も書くが、大切なのは文化であり、国家はむしろ多様性を規制したがる。

 LGBTの問題をみれば判る。云々する程の識見など到底持っていないような連中がルールを作りたがる。

 多様性を失った文化は衰退する。

 マナーが行き届けばルールなしでも結構カバーできる。

 Be Gentleで足りる世界は人間には無理なのか?

 

 ナイトメア 側面

 

・・・砂場ですべて学んだ」という本が20年位前にベストセラーになった。

 タイトルを見るなり納得して実際には読んでいない。

 イソップ同様、大切なものは足元にある。

 子供の頃に好きだった遊びは「缶蹴り・陣取り・鬼ごっこ」だった。

 陣取りで自分の陣を作ることに夢中になっていると、相手が飽きてしまい、結局どんな陣を作っても水泡に帰する。

 国のソブリンとなって領土拡大を謳う者は陣取りの感覚かもしれない。

 先の阿呆船では陣取りパズルをしながら制作していた感がある。

 地球という球体の上に色々はめ込んでいると、球体の表面に限りがあることをつくづく感じた。

 実際の地球も同じ。半径たったの6000km、陣取り遊びをしているゆとりなど全くないのに・・・。

 

NIGHTMARE 

2021年制作

h16.5xw13.8xd6.0cm

 

 カラフルなアクリルなどをポリエステルで固めると無難にきれいになるので、今回は黒い染料であえて濁らせてみた。(つま先とかかとの部分)

 タイトルもふさわしく「ナイトメア」。

 ネガティブなものも扱わないと作品の世界が半分になる。

 パンドラの箱で悪夢がほとばしり満ち溢れ、最後に希望が出てくるから希望の価値が高まる。

 中国の故事成語に比べるとひねりがもう一つなれど、イソップ物語は解りやすく、特に子供に伝えたい人類の遺産だ。

 ちなみにオリュンポス一番の醜男は鍛冶屋の神・ヘパイストス。

 だが彼のワイフは美の女神アフロディーテ、モノを作り上げる者は美を司る。

 

 ハマーヘッド 後ろから

 

 承前

 これも以前書いた記憶があるが、問題はホワイトのばらつき具合。

 コマのエッジぎりぎりにしずくが飛んでしまうこともあり、それこそが自然な星空に見える原因なのだ。

 人間の作為が入ると、どうしてもコマの縁は無意識に憚ってしまう 。

 似たようなものにテレビと映画のトリミングがある。

 かつてテレビと映画画面の縦横比にはっきりした違いがあった折、映画のテレビ放映時のとこか不自然な感じと、テレビ番組には不自然さがないことを不思議に思っていた。

 答えは勿論画面の縦横比の違いから、映画テレビ放映の折は各種の作為で横長画面からより四角いテレビ用にトリミングしなくてはならないからだ。

 

 のらくろの時代から手塚治虫、さらにトキワ荘の漫画家たちがアカデミズムより遥かに劇的な進化を繰り返した来たサブカル、今日でも更なる表現が現れている。

 今度は美術サイドが彼らから多くを学ぶべきだ。

 サブカル侮り難し。