東洋バザールの宇宙象レプリカ

 

これはかつて初台の画廊珈琲「ザロフ」にて巨匠の作品オマージュというお題を頂いた折の物。

いうまでもなくダリの宇宙象。個展では今回初出品。

 

さて、先日ラトゥールの件を挙げて、「もう一つのアプローチ」とした。

今月の月刊ギャラリーの、同じく海老塚耕一対談コーナーでろうそくの件が出てきて驚いた。

前々号あたりでも「事実は一つだけど、真実はたくさんある。ひとの数だけ真実はある」という自分の言葉をほぼ同じに語っている作家がいて驚いた。

この程度はパクリなどと野暮なことは言わず、優れた作家が自分と同じ結論に至っていることを大いに寿ぎたい。

オマージュではなくパクリの横行するアート界ではあるが、真実のシンクロニティや美を求める同志もまた少なくはないことに意を強くする次第である。
 

歌を孕む赤出目金

 

先述の黒出目金と対。来年用の「月を孕む青出目金」も間もなく完成。

 

先日動画のベスト集成(戦闘妖精雪風・神林長平)を見ていたが、いわゆる初音ミクのポップがよく合っている事に感心した。

動画は少々古いながらも(メーターがアナログの針だったり)近未来のSFで、戦闘機のドッグファイト等に定評があった。

映像と特定の音楽が定番のセットになっているものは多いけれど、成人男性の合唱による「グレゴリオ聖歌」は厳かな響きがかえってあだとなり、映画などで使用されるときは決まって惨劇が粛々と行われる場面の定番BGMだ。

映画や演劇では、音楽・効果音・セリフ・間など、聴覚だけでも色々工夫出来て楽しい。いい曲に出会ったりすると、どんな場面に合うかなど妄想したりする。

高校の頃、FMをよく聴いていたが、ラジオドラマでは聴覚のみなので、かえってよく練り込まれて感服したものだ。

美術も制約は多いが、個人で出来る仕事。ますます頑張らねば。

 

謎を孕む黒出目金

 

毎度の金魚シリーズ。こちらはお腹に方程式を入れてあるので「謎を孕む」後述の赤出目金は楽譜とピアノ鍵盤入りで「歌を孕む」。

方程式も楽譜も私には読めない代物だ。

高2の折の微積と対数が限度、勿論今はわすれてしまった。

楽譜は読んだだけでメロディーが流れるには程遠い。殆ど小学生レベル。

今年の分も制作中、「時を孕む桃出目金」と「月を孕む青出目金」。

100円ショップのセリアはステンシルなどちょっとした素材がとても充実している為、ちょいちょい覗いている。特にネイル系の新作など見逃せない為、このむさくるしい男がコスメコーナーでためつすがめつ・・・。

 

ハマーヘッド・後から

 

以前「デザインの現場」にあった「稠密の法則」について書いた。

高級感を求めると唐草模様などが複雑化するが、最高級品だとかえってシンプルになるというもの。

「悪の~」にも似た事がいえる。

色が黒くなり、爪や角が長く尖り、曲がる・或いは枝分かれするが、ラスボスになるとかえってシンプルに、むしろ白く、美しくすらなる。

変形学生服にも似たことが言える。

暴走族の趣味と少し被るから、今でも若干は生き残っているのだろうが、私の学生時代は全盛期だったかもしれない。

学生服の裾がどんどん伸びてコートのようになる。袖のボタンが増加して、詰襟の幅が広くなるが、その後一転して短ラン・襟も短めが流行る。

ラスボスはやはりシンプルかも・・・。

元々はイギリスの軍服あたりから派生したもの故、階級章が複雑化するのはいいとして、タカラヅカのように日本独自の進化を遂げるのは興味深い。

元禄時代のかぶきものも似たような自家中毒を起こしていたらしい(参・杉浦日向子)ので、後天的に定着したのかもしれない。

 

索嬢駆艇/Hammerhead stream

 

今回のメイン作品のひとつ。足をフィンにしたストリーム系の4作目。

シュモクザメ型の水中バイクに女性ダイバーが乗っている。

サメの頭部の左右に張り出したシュモク部分がハンドルになっている為、実物でないとハマーへッドは判りにくい。

 

さて、こうして文章を書いていると、メールの語尾に「。」を付けるかの話が納得いく。

以前映画のタイトル「渇き。」だったか、意図的に句読点を入れたものがあり、気にはなっていた。

勿論日本語にはもともと句読点はないので、犬儒的な物言いをする気はない。

むしろツールにそぐった語感が進化していて悪くない。

今ではすっかり日本語として通用する「?・!」を語尾にした場合、クエスチョンの後に更に「。」を付けると蛇足的になるのを懸念していた。

また、キーボードで半角が普及した現在、文頭ヒトマス開けは半角でもよくないか?

括弧もそう。犬儒的にいえば「」と『』が日本の物であとはせいぜい()までが文部省的限度だろう。

しかし数学の文法では{}も含め正式な決まりがあるし、「・-/」など文章に入れると最少の字数で複雑な構造を表現できる便利な記号もある。

小姑的な事を云うとすれば、むしろ絵文字の使い過ぎの方がある種ジャーゴニスティクであろう。

 

電脳はるのぶ 消灯時

 

透視図法に関して版画家の海老塚耕一が「ファシズムだ!」と驚いた話は納得できる。

理性のパースペクティブの元にすべてを統一させることは、東洋的な感覚からすると全体主義にも見える。

キリスト教もまたバチカンを世界の頂点にして(カソリック)、全世界をキリスト教徒にしたいという、他宗教からするとファシスティックな野望を持っているように見える。もっともどの宗教でも同じであろうが・・・。

 

さて、ここでラトゥール(ジョルジュ)に焦点を当てたい。

ご存知の様にラトゥールの代表作には室内にろうそくの明かりが煌々と輝いている作品が多い。

「ともしび」そのものに同じ意味があるのだが、透視図法を使わずとも取り分け室内ならば、すべてはろうそくの光源に反映を受ける。

ここで大事なのはろうそくの位置を変えると反映もすべて変化するし、本数を増やすと光源も増える。

屋外日中の空間ならば、反映というよりさんざめく光のハーモニーとなる為、これは東洋的な「神の遍在・八百万な万物心霊」的ヴィジョンであろう。

「無限遠の空間にストローク」という、今日流行している絵画のパターンに色々考察をしてきたが、とりあえずここで一旦擱筆とする。

 

電脳はるのぶ

 

鈴木晴信から髪型だけ借りてきた。4層ほどの「レイヤー」で、ひきめかぎばなの晴信顔に対し、好きなように顔を描いた。

アクリル板には殆ど絵具が乗らない為、まだ検討の余地がある。

LEDでライトアップしたので、今回のネタに関連する。

 

たそかれ時・かわたれ時、英語だとトワイライトゾーン。

照明が炎しかなかった時代に対して、今日ではこの「逢魔が時」にはネオンサインが輝いて、時に夕暮れ空と明るさが同じになり、ハレーションを起こす事もままある。

特に強い光はこのトワイライト・トーンの元では残像を残す事がある。

丁度ペンライトの類を振り回すと、ストロークが印の如く残る。

これは丁度「無限遠の表面ストローク」に近似し、まじないの印の如くでもある。

陰陽道のドーマンセーマンだの、仏像の結ぶ法印、慄いた子供の握りしめる「エンガチョ」の類。

両手が届く範囲には人知も及ぶが、決して届かない無限遠には子供ならずとも慄くばかり。

透視図法をもって、永遠を手に入れたかに見えた西洋絵画も再び混迷に戻るかの様。

ここでもう一つの図法をもって、次のヴィジョンに繋げてみたい。

 

続いて鏡に関して。

鏡を描く事の面白さは「アルノルフィニ夫妻」や「ラスメニナス」など、多くの巨匠が取り組んできた。アンソニーグリーンも然り。

大學の恩師のひとりである設楽智昭が、鏡を版としてドローイングをして、ドローイング部分だけを刷り取るという仕事をしていた。

また、福田美蘭の一連の仕事の中にも鏡を使ったものがあった。

ここでもガラスや写真同様、完全に塗りつぶしてしまうと意味がない一方、描いている最中の、否応なく映っている自分の姿は、描いているドローイングにも多大な影響があり、鏡面が絵具で見えなくなっても「見えなくなった自分の映像」は凸型として残っているとも言えよう。

ガラスの場合は自分の正面、鏡の場合は自分の背面が「無限遠」に相当する。

両面からのこの挟撃に晒された自分の在り方について、今日ではちょっと面白い現象を見ることが出来る。トワイライトゾーン・トワイライトトーンの事である。

 

スケアクロウ

 

日本ではスズメだが、欧米ではカラス除けが主の案山子。

カラス脅しで「スケア・クロウ」。

本作はテリーギリアムの邦題「未来世紀ブラジル」に於ける、ファシズム社会の警察・番兵の偉そうな姿が印象的で、新たにメッシュ網を主たる素材に選ぶにあたり、テーマ的にピッタリなのでトライしてみた。

ワイヤー・コードによるすかすかから、面材のすかすかに。

偉そうにふんぞり返っているが、後ろにはつっかえ棒(案山子だし)・中身は空っぽ・頭も空っぽ・眼は節穴ということで揶揄。

愛国を謳う者は直ぐに言葉尻に噛みつくが、ちょっと高度な表現になると何も言わない。そこまで脳みそが付いていないと思われる。

共産圏の旅行中は折々に出会ったが、右に行ってもファシズム社会はそっくり。

 

さて、無限遠の話にもどる。

ガラスに続いて「写真の上に描く」パターン。

これは写真が普及した折、至る所で行われた事だろう。

過去の一場面を切り取った写真には、現代から介入する事は出来ず、表面を撫でるだけなのは自明である。

より巧妙な捕彩により、場面の捏造を試みる。これも頻繁に行われた事だろう。

絵具で写真の全面を塗りつぶしてしまった時、聡い者なら何をしたのか実感したと思われる。

無限遠の絶対空間を自分の行為で全否定してしまったのだ。

塗りつぶす最後の部分が何かを訴えていることに気づいた時、今日流行している無限遠のスタイルに繋がる訳だが、写真の黎明期からすると、随分長い時間がかかった様だ。

  

「焦点深度無限遠」の話に戻る。

東京芸大の木津文哉教授が授業の一環で「モチーフの影を落とす」というレクチャーをしているとの事。

仮に「無限遠」がリヒターの発案だったとして、そこに見出された新しさを人々は様々な角度から検証していく。

「影を落とす」という事は影を結ぶ基底面があるという事で、無限遠とは少し違う。

ここで「無限遠とストローク」に対し、何等かの関係を持つものとして、「ガラス絵」を考えてみたい。

ガラス絵はガラスの内側に直描きするもので、最初の一筆が二筆目・三筆目より前に来て、表側から見ながら描くにしても、アプローチが逆な為なかなか厄介な代物だ。

そして無限遠と違い、画面を裏から埋め尽くした絵具は表から見ると、ガラスのすぐ裏側という、全く等価な位置を占め、筆跡同志が重なっている部分のみ前後関係が判る。

ある意味、ガラス面に塗り残しの余白があった場合、表から見ると絵具が乗っていない余白が無限遠とも言える訳で、これは絵画として成立していない。

参考としてウェッセルマンの仕事などがある。

余白の「見える向こう側」をもやもや絵具で埋めると「無限遠」になる為、ガラス絵というものは無限遠に至る触媒という事をあろうか?