家具屋姫のちからこぶ感動日記

こんにちは。


家具屋に嫁いで三姉妹のママとなり、いつのまにか自慢のちからこぶができました。

感動屋で涙もろい家具屋姫は、年中無休で全力奮闘中。

家族におこった出来事や、家具屋のエピソード、悲喜こもごもの日々を綴ります。


もちろん、家具屋と主婦とママの20年の経験から選ぶ家具にはとっても自信がある家具屋姫、

おすすめ家具もたくさんご紹介します!

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おうちばあばの入院2013

2012年の出来事(1)の最後で触れた通り…
3月に、おうちばあばの入院という事件がありました。

3月20日に咳がはじまり、翌日に受診し、風邪との診断、
服薬するも、咳がひどくなるばかりなので、24日の日中、2年間の研修医を終えようとしている次女に電話で相談すると、
次女は旅行先からその日の夜のうちに、聴診器持参で駆けつけてくれました。

次女曰く、肺の音が悪く肺炎の疑いがあるので、もう一度受診して、念のためレントゲンと血液検査をしてもらうように、とのこと。

翌日、診察までの待ち時間、おうちばあばの様子に異変を覚えた家具屋姫、看護師さんにお願いしてベッドで待たせてもらいました。

レントゲンと血液検査の結果、家具屋姫の懸念通り、次女の診察通り(?)、肺炎との診断、そのまま入院となってしまいました。

これは一大事!

おうちばあばは8年前、2008年に階段から転落して、足の親指にヒビが入って2週間ほど入院したことがあり、今回の入院はそのとき以来のことでしたが、
実はおうちばあばの認知症の始まりは、前回のその入院がきっかけだったと思っているのです。
(よくあるパターンですね)

8年前の退院後、おうちばあばは足の痛みを理由にテレビの前でお不動さんとなり、リハビリも頑なに拒否し続け、
結果、現状認識力、会話の理解力が急激に低下し、言動にも異常が多くありました。
(これもパターンですね)

やはり、何よりも動くことが大切、というより、このままお不動さんを続けるといずれは寝たきりまっしぐら、という危機感があったので、
すてきな杖を贈ったのですが、杖は使いにくいと言われてしまい、それならと、手押し車を贈ったところ、「おばあさんみたいで嫌だ」と言われてしまい…
(だって十分におばあさんなのに…)
だけど、家具屋姫はめげずに、手押し車で外を歩けとは言わないので、せめて家具店の広い店内でリハビリとして歩いたらどうですかと提案、
おとっつあんや次女などのサポートもあり、嫌々ながら少しずつ歩き始めるおうちばあば。
そのうちに手押し車への抵抗感もなくなり、スーパーまでひとりで買い物に出かけるようになりました。

85歳のおばあさんが手押し車で往復するには短くはない距離でしたが、あえて手助けを我慢して見守るうちに…
これがやはり奏功し、元通りとまではいかずとも、認知症の症状はかなり改善したのです。

ということが以前あったということをふまえての、今回の入院。

前回との違い…、それはやはり年齢。

単純に、高齢なので、肺炎でも万が一のことも覚悟しなければなりません。

それから、認知症の問題。
おうちばあばは現在90歳、前回との5歳の差は、大きな意味を持ってきます。
さらに、おうちばあばはすでに認知症であり、認知症になるかどうかではなく、認知症がどれだけ進んでしまうかという不安がありました。

ともあれ、入院が決まるとすぐに、「入院セット(おとっつあんの肺気胸入院以来常に用意してある)」を取りに帰り、その日の夕飯時にはおとっつあんが見守りました。

おうちばあばは食事にうるさいので、食事時に合わせて面会に行きます。
朝夕はおとっつあんが、昼は家具屋姫が、十分な食事量を食べてくれるように横で応援します。
入院中の水分補給にはスポーツドリンクがいいと聞いたのですが、おうちばあばが嫌がるので、沸かした麦茶をステンレスボトルに入れて持って行きます。

実をいうと、退院までの間に、家具屋姫はおうちばあばの風邪をもらい、おとっつあんにおすそわけし、さいばあにもうつしてしまって、順に寝込んだりしててんてこ舞いだったのですが、
毎日三度の食事の介助は欠かすことなく、なんとか退院にこぎつけることができました。

退院後、懸案の認知症の悪化については、あいかわらず病み上がりを理由にデイサービスを嫌がるおうちばあばでしたが、
多少強引に行ってもらったりすることで、比較的スムーズに入院前の生活リズムに戻ることができ、
想像していたよりは入院のダメージは少なかったと思います。

ところで、おうちばあばが入院中一番辛かったこと、なんでしょう?
おそらく、ネネちゃんに会えなかったことでしょう!
そしてネネちゃん、おうちばあばがいなくて、やっぱりさみしそうでした。
ひさしぶりのご対面でのおうちばあばの笑顔、無事に帰って来てくれて、ありがとうございます、感謝!

2012年の出来事(1)

最後の更新から、あっという間に1年が過ぎ…2年が過ぎ…ないうちに、2012年の出来事を振り返りがてら、ざっと記録しておきたいと思います。


まずは、おうちばあばの認知症問題がありました。

2011年末から認知症と思われる症状の進行が見られたのですが、年明け以降、足腰の痛みをますます頑なに主張するようになり、
一日中ほとんどの時間をテレビの前で過ごすようになってしまいました。

するとみるみるうちに認知症の症状が進み、6月に入るころには言動もおかしくなり、失禁も多くなりました。

家にいるのに「もう家に帰らないと、あんた早く連れて行ってちょうだいよ」と繰り返したり、実子の顔が認識できなかったり、急須やプラスチック製の湯たんぽを直接ガスの火にかけてしまったり…ということも、このころ頻繁にあったことです。

おとっつあんはおうちばあばの隣の部屋で寝るようになり、毎晩入浴の介助をし、夜中も一二時間おきに様子を確認している状況でしたが、
ある夜、おうちばあばがベッドの脇で失便して座り込んでしまっているのを発見しました。

それ以後、おうちばあば自身の生きる気力の糸が切れてしまったのか、さらに急激に症状が進行し、
言葉の理解力が極度に低下したため、会話によるコミュニケーションが難化し、夜間だけでなく日中も排泄介助が必要になり、もともとの入浴介助に加えて、衣服の着脱、食事さえも介助なしではできないような状態になり、
おとっつあんが文字通り一日中、文字通り一生懸命に献身的に、介護をする日々でした。

専門医の診察を受けたところ、寝たきりになるまで間もない可能性があるとも言われました。

おうちばあばは良くも悪くもとても頑固な性格なので、今までは、どんなに勧められても、必要と言われても、散歩や体操、その他からだを動かすことのほぼ全てを拒否し、
デイサービスなどの類いも、「呆けているひとたちと一緒にいるのはつまらない、自分はそういうひとたちとは違うから必要ない」と言い、拒み続けてきました。
そのため、おうちばあばが外に出る機会は、週に二三度のスーパーへの買い物以外にはほとんどなかったのです。

ですが、おうちばあばはもともと大きな家具店を夫に代わって仕切っていたこともあり、外部の人や社会と接することは、おうちばあばにとって特によい刺激になるのではないかと常々思っていた家族は、最後の望みをかけて、
もう拒むことすらできなくなった、拒む意思すら持てなくなってしまったおうちばあばを、週に3度のデイサービスに送り出しました。

おうちばあばを初めてデイサービスに見送ったあと…
テレビの大音量が消えた真っ暗な居間で…
おうちばあばがいない家…おうちばあばがあのしっかりもののおうちばあばではなくなってしまった現実…その現実やそれ以上の未来を受け入れる覚悟…奇跡が起こってほしいという一縷の祈り…
家具屋姫はひとり涙ぐみながら、お仏壇に手を合わせました。

それから、3ヶ月ほど経ち…
なんと、おうちばあばの症状に劇的な改善が見られるようになったのです!
記憶、記憶力、現状認識力、思考力、それぞれが少しずつ回復し、ほぼ元通りの状態にまで戻ったのです!

おうちばあば、奇跡の復活!!!

一時は覚悟を決めた家族も、親戚も、一安心、こんなに嬉しいことはありません。

でもその反面、復活の副作用もあり…

復活を遂げたおうちばあばには、その数ヵ月間の記憶がほとんど何もありません。

だから、おとっつあんが、おうちばあばの介護に専念しやすいように、家具やものを移動、処分したことや、
再度症状が進行しないようにデイサービスやリハビリに行くように勧めることや、なるべく規則正しい習慣で生活するように箴言することに対して反感を強め、
周囲に対して「息子が好き勝手にいろいろなものを捨てたり、いじめられている」というようなことを言いふらしたり、疎遠になっているひとにまでもわざわざ電話をかけたりしてしまい、
さすがにおとっつあんも、心身ともに疲労困憊の毎日が続きました。

しかし、だからといって介護を投げ出すわけにはいきません。
実際、おうちばあばの頑固に折れて、何度かデイサービスやリハビリを休んで家に引きこもるようなことが2週間も続くと、また言動におかしな兆候が出てきてしまうのです。

数ヵ月かけてその恨み節も次第に下火になりましたが、消火することはなく、いまだにことあるごとに「いじめられる」と吹聴しています(苦笑)

しかし、その甲斐あって、2011年末には一から十まで手取り足取りでようやく2012年用の年賀状を書き終えたおうちばあばでしたが、
2013年分は、まっさらな年賀葉書を渡しておいたら、いつのまにか宛名も裏面もひとりで立派に書き上げていました。

その後、今年2月に風邪をこじらせた肺炎でおうちばあばは2週間入院しました。
91という高齢なので、万が一のことも想定はしましたが、わりとあっさり完治し、
大きな懸案だった、入院中および退院後の認知症諸症状の再悪化もあまりなく、一同再び一安心を得ました。

そして今…
入浴は見守りが必要ですが、そのほかはたいした介助なしでできることが多く、食事の際には自分でお茶を入れたり、ご飯を炊いたりおかずを温めたりすることもできます。
現状認識や理解力も年齢にしては上等です。
あいかわらずデイサービスやリハビリを嫌がったり仮病を使ったりして、困ることも多々ありますが、それは元気な証拠と思って、時に諦め(笑)、時になだめすかして(笑)、なんとか通っている状況です。

おうちばあばの2011年後半~2013年現在までの記録、それをとりまく家族の対応などを記しました。

2012年の記録(2)に続く…


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悲惨な入学式

嬉しい来訪がありました。

あたたかな午後、お隣の若奥さまが珍しいスーツ姿で、かわいらしいお嬢さまとご子息と一緒に、お赤飯を持って来てくれました。

今日はNちゃんの小学校の入学式だったのです。

きれいなお洋服を着たNちゃんを見て、家具屋姫は思い出しました。
あの悲惨な日のことを…

あれはもう24年前、長女の小学校入学式の日の朝、
長子の小学校入学式というのは、両親にとって、いろいろな意味で一際特別なものだと思いますが、
家具屋姫は運悪く持病ともいえる偏頭痛に苦しんでいました。

薬を飲んでなんとか出掛けたものの、式が終わるころには薬効が切れてしまい、
猛烈な痛みで、いまにも吐いて倒れそうな絶不調、もはや家に帰るだけで精一杯の状態でした。
帰り着くなり寝込んでしまったほどで、その日一日の記憶があまりありません。

結果、長女の入学式の写真は、お友達のお母さんからいただいた一枚のみしか残っていません。

今と違って、フィルムも現像代も高価だった時代なので、仕方ありません、
が、ことあるごとに悔やまれます…

ちなみに、長女の入学式に着たお洋服は、淡いピンクの、水玉模様の、すてきなすてきなワンピース。
今もたまにうっとりと眺めることがある度に、苦い記憶がよみがえります。

いつか孫娘にこのワンピースを着せて、写真を撮りまくり、悲惨な思い出を塗り替えられたら…
そんな夢を見ています。

ヒナちゃんとお別れ

8月15日、ヒナちゃんが亡くなりました。



13日の夜までに、三姉妹がそれぞれ帰郷し、

お義姉さんも愛犬モカを連れて遊びに来てくれていて、賑やかな盆休みです。



翌14日の楽しい夕餉が終わった真夏の夜、

家具屋姫はあとかたづけのあとかたづけを、

おうちばあとお義姉さんは歓談しながら食休み、

三女はアルバイトで不在、

長女と次女は、お義姉さんの次男である従兄弟の結婚式の余興の練習を始めました。



22時を過ぎたころ、長女がふとサッシの向こうのヒナちゃんの異変に気付いて外をのぞくと、

ヒナちゃんが横たわり、激しい痙攣が起きていました。



家族が集まり、見守る中、痙攣は激しさを増し、呼吸もままならないヒナちゃん、

止めどなく溢れる涎をぬぐい、時折開いた口に水を含ませ、身体をなで、声をかけ続けます。



ヒナちゃんは、高齢なことは間違いありませんが、正確な年齢はわかりません。


というのは、ヒナちゃんは、11年前、2000年3月3日に、

顔に落書きをされて校庭をさまよっていたところを、

小学五年生の三女に拾われたからです。


首輪もなく、すでに成犬だったため里親も見つからず、

結局ひな祭りにちなんで「ヒナ」と名づけ、飼うことにしました。



ヒナちゃんは、美人ではありませんでしたが、

先達のファルコンに対する配慮の態度を示したりするような、

穏やかで、謙虚で我慢強い性格でした。


通りがかりの子ども達にも優しく、よく遊んでもらっていました。



我が家に来てから半年も経たない、7月21日、三女の小学校の夏休みの初日には、

ヒナちゃんは、7匹もの子犬を出産しました。

避妊手術を急がなかったことを一瞬悔やみましたが、

7匹の子犬たちはとてもかわいく、成長が楽しく、

みな幸せに里親にもらわれていき、家族のよい思い出になりました。


ひなちゃんの子育ての様子は、甲斐甲斐しく、たくましく、ほんとうに立派なものでした。

母性という本能をまざまざと見せられ、同じ母親として尊敬の気持ちさえありました。



一度、不審な、中年の酔いどれが、ヒナちゃんにけして小さくはない石をいくつも投げつける事件がありました。


そのときヒナちゃんはふだんのヒナちゃんからは考えられないほど歯を剥いて非常に激しく吠え立て、

おとっつあんが気が付き止めに入りましたが、

そのヒナちゃんの怒りやかなしみがなんとはなしに堂に入っていたような様子もあり、

おとっつあん曰く「ヒナちゃんはうちに来る前に、きっとそうとうな苦労があったのだろうよ」との言葉に、

妙に納得がいったものでした。



ヒナちゃんはかなり老齢であることは間違いないでしょうが、

数年前には視力を失い、1年ほど前に聴力も失いました。

ここ半年は特に、食も細くなり、目に見えて痩せ衰え、歩行も困難だったので、

苦しそうに悶えるヒナちゃんを囲みながら、来るべきときが来たのだと、覚悟しました。



23時過ぎに三女が帰宅し、

年に数えるほどしかない、家族が勢揃いするこの日に、ヒナちゃんが最期のときを迎えようとしているという事実に、

もっとしてあげられることがたくさんあったという後悔もありましたが、

まるでヒナちゃんが家族みなにお礼を言いたかったのではないかと思えてならず、

ヒナちゃんらしい健気さに、心を打たれました。



しかし、ヒナちゃんの痙攣と呼吸困難は一向に止むことはありませんでした。

見ていて、こちらの心も身体も引き裂かれそうになるほどの、苦闘でした。

賢く、身体も丈夫だったヒナちゃんは、そのいのちの強さゆえに、なかなか楽になることができませんでした。



病院に連れて行こうかという話にもなりましたが、

お盆休みのこと、田舎の動物病院はお休みで、

救急を受け付けてくれる病院まで運ぶにしても、そこまでもつかどうか、

たとえ病院までたどり着いても、できることも限られているでしょう、

息も絶え絶えのヒナちゃんにとっては、動かされるほうがよけいにつらいかもしれません、

やっぱり、このまま家族で看取ってあげようということになりました。



ヒナちゃんの苦しみは夜が明けても終わらず、午前9時半ころ、ようやく息を引き取りました。



自分の運命を受け入れ、最期の最期まで苦しみに苦しみながらも、懸命に命を全うしようとする様子には、

それがただ本能によるものなのか、心のつよさにもよるものなのか、わかりませんが、

同じ「生きとし生ける物」として、頭が下がる気持ちでした。


奇しくも、ファルコンが亡くなってしまった同じ年に、ヒナちゃんも逝きました。

天国で、赤い首輪をした2匹が並んで、楽しく散歩をしていることを、願います。



ヒナちゃん、11年間、うちで過ごしてくれて、ありがとう。




次女の悩み

地方の医学部を卒業し、地元で研修医として働く次女。



不規則でハードな仕事なので、勤務先の病院の近くにアパートを借りて、一人暮らしをしています。



先日、ついに担当患者さんをもつ運びとなりました。



多忙を慮って、家具屋姫も連絡をひかえていましたが、

昨日、久々に電話でゆっくり話しました。



病状が軽い患者さんだけでなく、重篤な患者さんも診ることになり、

気負って頑張っている様子を聞き、

家具屋姫は、立派に医師としてのスタートをきった次女の近況に、感動。



でも、ひとつ、気になることがあったのです。



「ねえ、患者さんたちは、○○(次女の名前)ちゃんが担当で、不安そうじゃない?」



なにを隠そう、次女は、とびっきりの童顔なんです。



まったくメイクをしないことも多く、素顔はとくに、中学生のときと変わりないと言っても過言ではないくらいです。



理想や志、人間的な心の広さ、深さなど、医師としてのたいせつな素養にかけては、

親のひいき目でなくても、素晴らしい資質を持ち合わせている次女ですが、

なにしろ、子供のような顔立ちなので、

「この子が担当医師なんて、大丈夫なのだろうか」

と患者さんに思われたりしないだろうかと心配になったのです。



家具屋姫「ほら、○○ちゃんは童顔だから、あまりお医者さんに見えないでしょう?

患者さんは不安がったりしていない?」



次女「・・・そりゃ、そうでしょう!!!」



次女「自覚してるから、自己紹介は慎重にするんだけどね、

まあ、直接は言われないけど、表情に出てるから・・・

そりゃ、私が担当医だと突然言われたら、不安でしょう!!!」



次女の妙な断言に、苦笑するしかない家具屋姫でした。

お風呂も一緒

一週間に一度のペースで、ネネちゃんと一緒にお風呂に入ります。



ネネちゃんももう慣れたもの、心得たもので、

「洗いどき」になると、自分でお風呂場のあたりをうろうろして待っていたりします。



ネネちゃんとお風呂が一緒のときは、

まず、ふたりで浴槽につかってあたたまり、

ネネちゃんの犬かきなどを誉めてあげたりします(笑)



それから、タイルの上でネネちゃんをだっこしながら、

もくもく泡をたてて、顔から足先まで洗います。



ネネちゃんの泡をおとしたら、

ついでに自分のからだや髪も洗い、

ネネちゃんはその間、バスタブのふたの上で自分で「水きり」などしながら、家具屋姫を待っています。



からだを拭き、ネネちゃんをバスタオルでつつんだら、

部屋で自分の髪とネネちゃんをドライヤーで乾かします。



お風呂上がり、乾かしたてのネネちゃんは、

あたたかくて、ふわっふわで、い~いにおい!



それにしても、こうしてネネちゃんの世話をしていると、

三姉妹を同じようにお風呂に入れていたときのことなど思い出して、

4人目の子育てをしているような気分になったりします。



でも人間の子供の三姉妹に比べると、

やっぱりネネちゃんは手間もかからず、手を焼くことも少ないので、

家具屋姫は楽ちんです(笑)

なまけもの

最近は、家具屋姫とおとっつあんとふたりで食卓につきます。



ネネちゃんも、食事のときはたいてい嗅ぎつけて、指定席にちょこんと座っています。



でも、今朝は、朝食の席に、ネネちゃんがいません。



昨日からの雨で、久々に肌寒い朝なので、

まだ家具屋姫のベッドの中で寝ているのです。



そこで・・・



「ネネちゃ~ん、ごはんですよ~!」

と、2階の寝室に向かって、階下の台所から呼びかけました。



すると・・・



まもなく、ネネちゃんが寝ぼけ眼で、のそのそと階段を降りてきました。



そして・・・



ネネちゃんは、自分の朝食を摂ると、

ふたたび、おもむろに、のっそりと、階段を上って、

ベッドにもぐりこんでしまいました。



ほんとうに、人間みたいな、なまけもののネネちゃんです。



ファルコン、ありがとう。

15年前のクリスマスイヴの夜、

三姉妹へのサンタさんからのプレゼントは、

三人の頭数に対して、ダンボール箱がひとつ。



開けてみると、

真っ黒な、ちいさな、ぬいぐるみ・・・

ではなく、おとなしい子犬でした。



子犬の一挙一動を見つめる三姉妹のはじける笑顔を、いまでもよく覚えています。



すぐに、名前をつけなきゃ!という話になり、

家族みんなで観た映画「ネバー・エンディング・ストーリー」から次女が思いつき、

「ファルコン」は新しい家族の仲間入りをしました。



そのファルコンが、今日、亡くなりました。



15歳と4カ月でした。



その間、ファルコンは、すてきな思い出をたくさん残してくれました。



ある日、ひさしぶりに大雪が降って、家族総出で雪かきをしました。

まだちいさかったファルコンが、雪の上を大喜びではしゃぐ姿はとびきり愛らしかったです。



ファルコンと一緒に、サイクリングに出かけたこともありました。

三姉妹が順になって先導して、家具屋姫が自転車に乗りながらファルコンのリードを持って、

まっすぐにのびる新緑のサイクリングロードを快走しました。



そのサイクリングロードに続く散歩道は、ファルコンのお気に入りの散歩コースでした。

車道を離れ、ひと気のない田園風景で、ときどきファルコンのリードを外してあげると、

あぜ道を全速力で駆けまわっていました。



それに、ファルコンは、優秀な番犬でもありました。



うちに来て2か月もすると、玄関先で立派に吠えるようになり、

新聞屋さんや郵便屋さん以外の来客を、いつも確実に知らせてくれました。



そんなファルコンがいたので、睡眠が浅くなりがちな家具屋姫も、安心して眠ることができました。



近所の猫に反応して吠えてしまうのが玉にきずでしたが、

それでも、ファルコンはとてもよく家具屋姫を助けてくれました。



晩年は聴覚がなくなり、目も悪くなり、不便が多い様子でした。

呼びかけても気がつかず、注意深くそっと触れても驚かせてしまったり、

お互いにもどかしく、さみしかったです。



今年の正月には、まだ軽やかなステップで散歩ができていましたが、

3月くらいからあきらかに衰弱しはじめ、

散歩でも足がふらつくようになりました。



食事の量も減って、あたたかい鳥がらスープにだけ口をつける日もありました。



そして、今日、4月25日の朝、

9時ごろ家具屋姫がスープをもって行くと、

からだを起してスープを飲もうとするものの、結局受けつけず、

10時ころふたたび様子を見に行ったときには、もう息がありませんでした。



亡骸は庭に埋め、花を供えて、

三姉妹にそれぞれメールを送りました。



ファルコン、うちに来てくれて、ありがとう。



たくさんの、たのしい、うれしい、思い出を、ありがとう。



ありがとう。

第105回医師国家試験 桜咲く

とっておきの、嬉しい知らせ。



次女が、6年間の苦学の末、第105回医師国家試験に合格しました。



学費や生活費など自分でまかなうために、アルバイトにも精を出し、

ボランティアや課外活動にも力を入れ、

同学年の友人たちだけでなく、教授や関係団体の方々とも有意義な人間関係をつくり、

それらをきちんと学業と両立させた次女。



我が娘ながら、ほんとうによく頑張りました。



本人曰く、試験の出来はよくなかったとのことで、多少心配はしましたが、

ふたを開けて見れば、結果も上々、言うことなしです。



試験は2月の12・13・14日に行われたのですが、

家具屋姫は、2月1日から毎日、お百度参りのごとく、お墓参りをして、お題目を108回唱えて、

次女の頑張りへの力添えを祈ってきました。



そして今日、次女と一緒に、ご先祖さま方々にお礼参りをしてきました。

よい報告ができるのは、本人の努力と、現世の方々の力強い応援だけでなく、

彼岸からのあたたかい見守りがあるおかげだと思っています。



実は次女の学舎は、今回の東北関東大震災の被災地エリアにあり、

卒業式や謝恩会などもすべて中止になりました。



次女にとっては第二の故郷が大変な状況にあることはかなりの気がかりな様子で、

家具屋姫も諸手をあげて喜ぶ心境にはなりませんが、

とにかく、これで次女も一人前の医師の道を歩き出すことになり、

彼女自身の目標や夢に、また、ぐんぐん近づくことができます。



桜の季節にはまだすこし早いですが、

家具屋姫にとっては春満開を告げる、うれしいうれしい知らせです。

三姉妹帰国

三姉妹がロンドン・プラハ旅行から帰ってきました。



万が一のため、3人一緒に同じ飛行機に乗らないようにと言い含めておきましたので、

まずは長女と次女、その翌日に三女が帰国しました。



残念ながら、家具屋姫の古い友人のアイリーンとは、

彼女の転職時期と重なり、引き継ぎや歓送会の慌ただしさの中、再会は果たせなかったそうですが、

三姉妹は日本から持参したお土産を、郊外に住む彼女の自宅宛に郵送してきたとのこと。



それを受け取ったアイリーンからメールが届き、懐かしい写真やいくつかの品々は喜んでもらえた様子。



なにはともあれ、アイリーンとのコンタクトが復活して、嬉しい限り。



それぞれが撮った写真を見ながら土産話を聞くのも、たのしい限り。

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