森本オレオの落書き帳 -8ページ目

森本オレオの落書き帳

小説などを置いています。

街で見かけた女のことだが、確かめる方法があったことに気づいた。

彼女に電話をして、あの日は何をしていたのか聞けばよかったのだ。

まるで匂いによってその思考に蓋をされているかのように、僕はそれにまったく気づかなかった。

それくらい混乱していたのだ。

だが僕は彼女の連絡先を知らないことにも気づいた。

前は知り合いを通して連絡してもらったのだ。

僕はその知り合いに連絡して、彼女の連絡先を教えてもらった。

彼女に電話をすると、彼女は何も知らないと言った。

「この前の日曜日は仕事だったわ。それに私黄色いパンプスは持っていないし、その香水もつけていないわよ。香水に詳しいのは、あなたもしっているとおり私が美容部員だからよ。自慢じゃないけどこう見えて結構勉強してるの。えらいでしょ」

これが彼女の答えだった。

彼女は一見フレンチレストランのように高級そうに見えるのだが、話してみるとファミレスのような気さくで気取らない女性だった。

そしてゆきえはサービスの行き届いたこじんまりとしたカフェみたいだなと思った。

「ええ、えらいですね」と僕は言った。彼女は笑った。

「あれから匂いはどうなったの?」と彼女は言った。

「相変わらずです、むしろひどくなってます」と僕は言った。

「それは大変ね、今度大屋さんか不動産屋に聞いてみたほうがいいんじゃないかしら」

「そうしてみます」

「何かあったらいつでも電話してきてね。相談に乗るから」

「ありがとうございます」

それから急に電話をしたこと、勝手に連絡先を聞いたことを謝って電話を切った。
目が覚めるとゆきえはテーブルに料理を運んでいた。

眠っていたのはほんの十五分程度だった。

おはようとゆきえは言った。

それから僕とゆきえはテーブルにつき、テレビも音楽もつけず食事をした。

テーブルには和風パスタとほうれん草のごま和えと、水の入ったグラスと缶ビールが置いてあった。

僕もゆきえもあまり酒を飲むほうではないし、僕ももう飲みたくなかったのでビールには手をつけなかった。

ゆきえに明日は仕事なのかと聞くと、休みよと言った。

あなたは仕事よねとゆきえが言い、そうだよと僕は言った。

今日も料理がおいしいねと僕が言い、ありがとうとゆきえは言った。

食事を終えると僕は二人分のコーヒーを入れ、その間にゆきえがケーキを用意した。

本当だ、君の店の苺のミルフィーユはおいしいねと僕は言い、そうでしょとゆきえは言った。

コーヒーの香りが部屋を満たしていた。

さっきの夢の話はしなかった。

食事を終えるとゆきえは帰ると言った。

仕事のことなら大丈夫だよ、今夜は本当に傍にいてほしいと僕は言った。

分かったわとゆきえは言った。

その晩僕はゆきえの存在を確認するように――つまり僕の存在を確認するように――ゆきえをしっかりと抱き寄せて眠った。

朝起きるとゆきえはいなかった。

もう帰ったのかと思いベッドから出た。

テーブルの上には一皿ずつきちんとラッピングされた朝食が置いてあった。

ラップの内側が蒸気で白くなっていた。

皿の中身はベーコンエッグと温野菜のサラダとロールパンだった。

コーヒーメーカーには新しいコーヒーが作られていた。

そしてコーヒーカップを重石にするように手紙が置いてあった。

そこにはゆきえのきちんとした字でさようならと書いてあった。

部屋は昨晩よりも悲しさを含んだコーヒーの香りで満たされていた。

僕はとりあえず気持ちを落ち着かせるために水を飲み、ゆきえが入れてくれたコーヒーをふたくち飲んだ。

そしてテーブルにつき手紙をじっくりと見てみた。

紙の上の五文字からは迷いは感じ取れなかった。

僕はひどく混乱してまたコーヒーをひとくち飲んだ。

そしてサラダとパンとたまごを交互に食べ、最後にコーヒーを流し込んだ。

もう一度手紙を眺めてみたが、やはりそこには閉鎖的なものしかなかった。

ずっと手紙を眺めているわけにもいかなかったので、支度をして仕事場に向かった。

手紙は持っていかなかった。
夢の中で僕は地面を掘っていた。

既にグラウンドの半分以上に穴が開いていた。

僕の斜め後ろにいるゆきえが「何してるの?」と言った。

僕はそれを無視して――というか声が耳に入っていないのだ――地面を掘り続けていた。

地面を全部掘ってしまうと、手に持っているスコップをきつく握ったままグラウンドを出た。

そこを出ると僕は白くて強い光に包まれた。

光がなくなると僕は昼間の僕になっていた。

ただひとつ違うのは、右手に土だらけのスコップをきつく握っていることだ。

僕は美容部員の彼女かもしれない女めがけて走り出した。

彼女を人ごみで見失わないように、僕はスコップを左右に振りながら走った。

道を歩く人達がマネキンのようにどさどさっと倒れていった。

倒れるとそれらは本当にマネキンになった。

夢の中でも彼女に追いつけそうになかった。

彼女の通るところだけスケートリンクになっていて、スケート靴を履いてすいすい滑っているんじゃないかと思うほどだった。

それでも僕は彼女を追った。

どうしても顔を確かめたかった。

角を曲がるとあの神社があり、彼女はお参りなんかせずに境内を抜けて裏道へ入っていった。

僕は賽銭箱にスコップを突き刺して彼女を追った。

神社を抜けるとそこは僕の住んでいるマンションだった。

彼女は明らかに僕の部屋のほうへ歩いている、と思った。

部屋の前に行くとドアが微かに開いていた。

やっぱ彼女が入ったんだと思った。

そして僕も部屋に入った。

部屋に入ると熱気で香水の濃度が上がっていたので――それは粒子がバレーボール大に大きくなり手に取れそうな匂いだった――ドアを明けっ放しにし、部屋の窓という窓を全部開けた。

僕は匂いを処理するのに夢中で彼女を忘れていた。

それほどすごい匂いだったのだ。

最後の窓を開け終えたとき、壁を隔てて何か乾いた音が聞こえた。

それは確かに誰かがソファに座る音だった。

僕はなるべく音を立てずにそこへ向かった。

そこにはあの女が座っていた。

だが顔には口以外のパーツはなかった。

女は、いや女の口は何かを言っていた。

正確には声は出さず口だけを動かしていた。

そこには声がない分、確かな意思があり訴えるものがあった。

女はこう言っていた。

どうしてあれを捨ててきたの、と。

そして女は匂いのする壁のほうへ歩き出し、壁の中に消えていった。

僕はそこで目が覚めた。