ゆきえは時間通りに家にやってきた。
右手に買い物袋を持ち、左手にケーキの箱を持っていた。
僕はすぐ買い物袋を受け取り、彼女を中に入れた。
「相変わらず匂ってるわね」とゆきえは笑いながら言った。
僕はなんとなく笑えなかったので、ゆきえが右手に持ちかえたケーキの箱を指差して「今日のは何?」と聞いた。
ゆきえはカフェで余ったケーキをときどき持ってきてくれる。
どんなにつらいことがあってもケーキは人を幸せにしてくれるのよ、というのがゆきえの口癖だ。
「今日はベークドチーズケーキとバナナタルトと苺のミルフィーユよ。うちのミルフィーユおいしいからあなたに食べてもらいたくて」とゆきえは苺の香りがしそうな爽やかな笑顔で言った。
僕はゆきえのこういうところが好きだ。
照れ隠しをするように「何買ってきたの?」と聞いた。
「別にたいしたものじゃないのよ。ビールと材料ね。私は飲まないけどあなた飲むかなと思って」とゆきえはまな板と包丁を用意しながら、後ろを向いたまま言った。
ありがとうと僕は言った。
それから床に座りながらビールを飲み、ゆきえの後ろ姿を眺めていた。
真剣に料理と向き合っている表情や、野菜を均等にきざむ音、盛りつけまで気を抜かないその姿勢が好きなのだ。
ゆきえが料理をしているときはそれを見ていたいので、僕はあまり話しかけない。
それを知ってか知らずか、ゆきえも僕に話しかけない。
ゆきえとはこれからも一緒にいたいと思う。
ビールを飲み干してしまうと、ソファに座って新しく買ってきた本を読んだ。
本の登場人物に後ろ姿の美しい女が出てきた。
それを読んで僕は昼間の女を思い出した。
あれは本当に彼女だったのだろうか。
別に顔を見たわけではないのだ。
それに走っても走っても追いつかないなんて、やっぱりおかしい。
まるで悪夢の中で走っているみたいだった。
僕はまた頭の中で彼女を追いかけてみたが、やはり追いつかなかった。
神社で十回お参りしたところで僕は眠りに落ちた。
また変化が起きた。
部屋を占領するほど匂いが強くなってきたのだ。
僕はどうしても耐えられなくなり窓を開けた。
窓を開けても匂いは消えるわけではなかった。
風によって砕かれ、粒子が細かくなった薄くて軽い匂いが漂っているだけだった。
匂いが気になって本に集中できそうもなかったので、今読んでいる本と財布と鍵を持って外に出ることにした。
街はいやに静かに感じられた。
いつも通り人はごった返しているし、日差しもわりと強めだ。
車が行き交う騒音や、意味もなく話す人々、横断歩道のメロディ、遠くから聞こえる犬の鳴き声。
街はいつも通りだ。
僕だけがそこに馴染めない新築の建物のように存在していた。
それを正すように目についた喫茶店ではなく、ゆきえが働くカフェに入ることにした。
ゆきえはいつも通り働いていた。
茶色い髪を高い位置で一本に縛り、白いブラウスにキャラメル色のベストを着ている。
店の作戦なのか、そのキャラメル色のベストを見るとカフェオレが飲みたくなる。
お昼時だったのでカフェオレとベーグルを頼んだ。
それを彼女が手際よく無駄のない動作で、テーブルまで持ってきた。
ゆきえはいつものように「何かあったの?」という顔で僕を見た。
僕は不安になったとき、いつもここにゆきえの顔を見に来る。
誰にでも均等に笑う人のよさや、的確に注文を取ったり、音を立てないようにコーヒーをテーブルに置いたり、丁寧にグラスを拭いたりしている姿を見ると、ゆきえは確かにここに存在しており、僕もまた確かにここに存在しているのだと思える。
「それが部屋の匂いが強くなったんだ」とさっき起きた出来事を説明した。
ゆきえは人を馬鹿にするような含みをまったく持たずに「大丈夫?」と言った。
そこには優しさだけがあった。
「部屋にいるのが嫌なら今夜うちに泊まる?ご飯も作るし」とゆきえは言った。
ゆきえが発する一言一言には、優しさの粒子がくっついているようだ。
「いや、それならうちに来てくれないかな。そのほうが安心する」と僕は言った。
「いいわよ」とゆきえは言い軽く微笑んだ。
それからゆきえはテーブルを離れ、カウンターの中のいつも立っている定位置に戻った。
僕はカフェオレとベーグルをちびちび口にしながら本を読んだ。
本を読み終えてしまうともう一杯コーヒーを頼んだ。
今度は気を引き締めるためにエスプレッソにした。
いつまでも浮遊者ではいられない。
僕はそれをミルクも砂糖も入れずそのまま飲んだ。
窓の外を眺めていると、ある女に目がいった。
凛とした後ろ姿や、肩胛骨まである黒い髪や、白くてふっくらした耳たぶが美容部員の彼女に似ていたからだ。
僕は急いで残りのコーヒーを飲み干し、勘定を済ませ彼女を追った。
ゆきえの淋しそうな視線を横目に感じたような気がするが、気づかないふりをした。
店を出ると彼女は既に道の端っこにいた。
人ごみに紛れて見失いそうになったが、簡単に見つけることができた。
彼女の後ろを真っ白なワンピースを着た女の子が歩いていたからだ。
心の中でその名前も知らないワンピースの子に感謝し、走ってその子を追い越し、再び彼女を追った。
彼女は前に部屋に来てくれたときと印象が違っていた。
そのときは仕事に行く前だったらしく仕事着だったのだ。
僕の記憶が確かなら、黒のパンツスーツに黒のシンプルなカットソー、足元は高くも低くもない黒のパンプスで、髪は後ろで結んでいた。
今日の彼女の服装はラフで、紺のスキニージーンズに黄色のキャミソール、その上に袖と首元がレースがレースになっている黒のカーディガンを羽織っており、靴とバッグは黄色で揃えられていた。
髪はおろしていて、前髪はポンパドールだった。
そのギャップに僕は少しドキッとした。
不思議なことに、走っても走っても彼女に追いつかなかった。
物理的に考えて追いつくはずなのだが、走っても五十メートル先に彼女がいるという形が崩れないのだ。
そして走っているうちに僕は違和感を覚えた。
来たときと同じ疎外感を感じ始めたのだ。
そしてその原因に僕は気づく。
香水だ。
あの香水と同じ匂いがするのだ。
そしてその匂いは彼女から発している。
同じ香水をつけているから、あんなに詳しく説明してくれたんだろうか。
どんどん体が疎外感で侵食されていく。
ここにいるだけでも精一杯だ。
気がつくと彼女を見失っていた。
その代わりに以前彼女と一緒に来た神社が目の前にあった。
気がつくと疎外感は消え、僕は僕に戻っていた。
「お参りしたほうがいいわ」という彼女の言葉を思い出し、お参りをして帰った。
部屋を占領するほど匂いが強くなってきたのだ。
僕はどうしても耐えられなくなり窓を開けた。
窓を開けても匂いは消えるわけではなかった。
風によって砕かれ、粒子が細かくなった薄くて軽い匂いが漂っているだけだった。
匂いが気になって本に集中できそうもなかったので、今読んでいる本と財布と鍵を持って外に出ることにした。
街はいやに静かに感じられた。
いつも通り人はごった返しているし、日差しもわりと強めだ。
車が行き交う騒音や、意味もなく話す人々、横断歩道のメロディ、遠くから聞こえる犬の鳴き声。
街はいつも通りだ。
僕だけがそこに馴染めない新築の建物のように存在していた。
それを正すように目についた喫茶店ではなく、ゆきえが働くカフェに入ることにした。
ゆきえはいつも通り働いていた。
茶色い髪を高い位置で一本に縛り、白いブラウスにキャラメル色のベストを着ている。
店の作戦なのか、そのキャラメル色のベストを見るとカフェオレが飲みたくなる。
お昼時だったのでカフェオレとベーグルを頼んだ。
それを彼女が手際よく無駄のない動作で、テーブルまで持ってきた。
ゆきえはいつものように「何かあったの?」という顔で僕を見た。
僕は不安になったとき、いつもここにゆきえの顔を見に来る。
誰にでも均等に笑う人のよさや、的確に注文を取ったり、音を立てないようにコーヒーをテーブルに置いたり、丁寧にグラスを拭いたりしている姿を見ると、ゆきえは確かにここに存在しており、僕もまた確かにここに存在しているのだと思える。
「それが部屋の匂いが強くなったんだ」とさっき起きた出来事を説明した。
ゆきえは人を馬鹿にするような含みをまったく持たずに「大丈夫?」と言った。
そこには優しさだけがあった。
「部屋にいるのが嫌なら今夜うちに泊まる?ご飯も作るし」とゆきえは言った。
ゆきえが発する一言一言には、優しさの粒子がくっついているようだ。
「いや、それならうちに来てくれないかな。そのほうが安心する」と僕は言った。
「いいわよ」とゆきえは言い軽く微笑んだ。
それからゆきえはテーブルを離れ、カウンターの中のいつも立っている定位置に戻った。
僕はカフェオレとベーグルをちびちび口にしながら本を読んだ。
本を読み終えてしまうともう一杯コーヒーを頼んだ。
今度は気を引き締めるためにエスプレッソにした。
いつまでも浮遊者ではいられない。
僕はそれをミルクも砂糖も入れずそのまま飲んだ。
窓の外を眺めていると、ある女に目がいった。
凛とした後ろ姿や、肩胛骨まである黒い髪や、白くてふっくらした耳たぶが美容部員の彼女に似ていたからだ。
僕は急いで残りのコーヒーを飲み干し、勘定を済ませ彼女を追った。
ゆきえの淋しそうな視線を横目に感じたような気がするが、気づかないふりをした。
店を出ると彼女は既に道の端っこにいた。
人ごみに紛れて見失いそうになったが、簡単に見つけることができた。
彼女の後ろを真っ白なワンピースを着た女の子が歩いていたからだ。
心の中でその名前も知らないワンピースの子に感謝し、走ってその子を追い越し、再び彼女を追った。
彼女は前に部屋に来てくれたときと印象が違っていた。
そのときは仕事に行く前だったらしく仕事着だったのだ。
僕の記憶が確かなら、黒のパンツスーツに黒のシンプルなカットソー、足元は高くも低くもない黒のパンプスで、髪は後ろで結んでいた。
今日の彼女の服装はラフで、紺のスキニージーンズに黄色のキャミソール、その上に袖と首元がレースがレースになっている黒のカーディガンを羽織っており、靴とバッグは黄色で揃えられていた。
髪はおろしていて、前髪はポンパドールだった。
そのギャップに僕は少しドキッとした。
不思議なことに、走っても走っても彼女に追いつかなかった。
物理的に考えて追いつくはずなのだが、走っても五十メートル先に彼女がいるという形が崩れないのだ。
そして走っているうちに僕は違和感を覚えた。
来たときと同じ疎外感を感じ始めたのだ。
そしてその原因に僕は気づく。
香水だ。
あの香水と同じ匂いがするのだ。
そしてその匂いは彼女から発している。
同じ香水をつけているから、あんなに詳しく説明してくれたんだろうか。
どんどん体が疎外感で侵食されていく。
ここにいるだけでも精一杯だ。
気がつくと彼女を見失っていた。
その代わりに以前彼女と一緒に来た神社が目の前にあった。
気がつくと疎外感は消え、僕は僕に戻っていた。
「お参りしたほうがいいわ」という彼女の言葉を思い出し、お参りをして帰った。
文字数の問題により、15回ほどに分けて掲載します。
それではどうぞ。
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そこを通るといつも香水の匂いがした。
ゆきえが家に来るたび匂いがするので、浮気してるんじゃないかと誤解されたほどだ。
そしてそのことから察するに、どうやら彼女のものでもない。
分からなかった。
なぜ壁から匂いが。
匂いはこの家に来たときからあったと思う。
初めは気にならなかった。
芳香剤代わりになっていい、とも思っていた。
だから放っておいた。
最近匂いが強くなってきた。
だが部屋を占領するほどの強さはない。
そこを通るたびに、匂いが強くなったな、と思うだけだ。
あまりにも気になるので匂いを調べてみた。
知り合いに美容部員をやっている女性がいて、お願いして家に来てもらった。
どうやら香水は女物らしい。
彼女は美容部員らしく色々教えてくれたが、そういう話に疎い僕は全部忘れてしまった。
それから彼女を送っていった。
帰り道で今の家について色々話した。
引っ越してきたときから匂いがしたこと。
最近匂いが強くなっていること。
彼女は人がいいので本当に心配してくれたようだった。
彼女が「お参りしたほうがいいわ」と言うので、途中で神社に寄った。
駅に着いたところで彼女と別れた。
人ごみに消えゆく背筋の伸びた後ろ姿を見ながら、彼女の身に何も起こりませんようにと思った。
それではどうぞ。
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そこを通るといつも香水の匂いがした。
ゆきえが家に来るたび匂いがするので、浮気してるんじゃないかと誤解されたほどだ。
そしてそのことから察するに、どうやら彼女のものでもない。
分からなかった。
なぜ壁から匂いが。
匂いはこの家に来たときからあったと思う。
初めは気にならなかった。
芳香剤代わりになっていい、とも思っていた。
だから放っておいた。
最近匂いが強くなってきた。
だが部屋を占領するほどの強さはない。
そこを通るたびに、匂いが強くなったな、と思うだけだ。
あまりにも気になるので匂いを調べてみた。
知り合いに美容部員をやっている女性がいて、お願いして家に来てもらった。
どうやら香水は女物らしい。
彼女は美容部員らしく色々教えてくれたが、そういう話に疎い僕は全部忘れてしまった。
それから彼女を送っていった。
帰り道で今の家について色々話した。
引っ越してきたときから匂いがしたこと。
最近匂いが強くなっていること。
彼女は人がいいので本当に心配してくれたようだった。
彼女が「お参りしたほうがいいわ」と言うので、途中で神社に寄った。
駅に着いたところで彼女と別れた。
人ごみに消えゆく背筋の伸びた後ろ姿を見ながら、彼女の身に何も起こりませんようにと思った。