ぽつり、ぽつりぽつり。
俺は思わず空を見上げた。
まずい、雨が降ってきた。
しかし俺は傘など持っていない。
この程度なら大丈夫だろう。
そう思い、足を速めた。
ぽつり、ぽつり、ぽつり、ぽつり。
やばいか。まだいけるか。
俺は半信半疑のまま足を進めた。
ぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつ。
そろそろ本気でやばそうだ。
俺は走った。
ざああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
ああ、完全にアウトだ。
俺は今まで抱いていた僅かな希望を捨て、近くの店に飛び込んだ。
その店はまるで雨が降ることを知っていたかのように、シャッターを下ろしていた。
この店は何屋なんだろう。
しかし真っ白いシャッターからは、何も読み取れなかった。
俺は矢のようにアスファルトに突き刺さろうとしている、勇敢な雨に視線を戻した。
雨が降ると、空が泣いている、とよくいうが、もしそうだとすれば一体何に泣いているのだろう。
一緒に解決策を探して涙が止まるのなら、今なら喜んで付き合う。
俺は悩みを探るように空を見つめ続けた。
すると視界の端に日除けテントが映った。
曇り空に照らされた淡いマンゴー色の光が、俺のざらついた心を少しだけ慰めた。
「あの、これもしよかったら」
暴力的な雨音と細い声が入り混じったほうへ顔を向けると、そこには白い服を着た女が立っていた。
女は自分の傘を俺に差し出していた。
「いや、でも……」
「いいんです、私ここで待ち合わせしてますから」
「でも、そういうわけには……」
「本当にいいんです。それに都合のいいときにでも、ここに置いていってくれればいいですから」
女は再び傘を差し出してきた。
その笑顔には有無を言わさないものが含まれている気がした。
このまま断り続けても、きっと何度も傘を差し出してくるだろうし、その押し問答を終える頃にはきっと雨は上がっているだろうなと思ったので、ありがたく傘を借りることにした。
そして必ず返しますと伝え、短い雨宿りを終えた。
少し歩いたところで後ろを振り返ってみると、女はひたすらに真っ直ぐ伸びる雨の糸を見つめていた。
その白い肌には似合わない低い鼻も、雨を見つめていた。
★
がたがた、がたがたがったん。
小さい女の子が、自動販売機の前にしゃがんでいる。
「取れないよおお」と嘆きながらならまだしも、無言で黙々と取り出し口を引っ掻く姿が余計に俺の胸を切なくさせた。
片手に傘を持ちながらだと、小さい子にはそれが難しいのだろうか。
俺は女の子の横に立ち、取り出し口に手を突っ込んだ。
出てきたものは、俺も昔よく飲んでいた、見るからに子供が好きそうなオレンジジュースだった。
つぶつぶが入っているタイプで、最後に少し残るつぶつぶをどうしても食べ切りたくて、缶に水を入れてコップに移して飲んでいたのを思い出した。
ジュースを女の子に渡すと、一瞬「何が起こったの?」というような顔をしたが、すぐに屈託のない笑顔で礼を言い、去っていった。
そして俺も久し振りにつぶつぶと格闘してみようと思い、コインを入れ、ボタンを押した。
ガタンッ、という落下音は雨音にかき消された。
★
マンションの入り口におばあさんが立っている。
おばあさんはじっと雨を観察している。
きっとこのマンションの住人ではないんだろうなと思った。
友達の部屋に遊びに来て、帰ろうと思い部屋を出たが、部屋から下に降りている間に雨が降ってきてしまった。
しかし何らかの事情で友達に傘を借してとも言えないので立ち往生している、といったところかなと歩きながら推理した。
俺は軽く会釈をして、おばあさんの横に並んだ。
傘に視線を感じたような気がしたが、それを水滴と一緒に吹き飛ばし、部屋へ向かった。
エレベーターから覗くおばあさんの凛とした背中が、少し丸みを帯びたような気がした。
★
下がり続ける階段と、上がり続ける階数表記を見ながら、ぼうっと考えていた。
きっと、しばらく雨は降り続けるだろう。
そうすれば、おばあさんはずっとあの場所に閉じ込められることになる。
女だって相手が来なければ結果は同じだ。
やはり二人に傘を与えたほうがいいだろうか。
しかし見ず知らずの他人に、そこまでする必要があるだろうか。
この雨の中、二度と会わないかもしれない人のために再び踵を返すのか。
この箱の扉が開けば、あたたかい部屋が待っている。
ジュースを飲みながら、懐かしい思い出にも浸れる。
しかし俺だけがあたたかい時間を過ごしていいのだろうか。
上がり続ける階数表記が、もう一階しか上がらないと告げた。
俺は傘と缶を強く握った。
チンッ。
箱は七階に止まり、扉が開いた。
そしてその音は、スタートダッシュを踏み込む合図となった。
★
俺は部屋に戻るや否や、傘立てから自分の傘を抜き取り、すぐにエレベーターに戻った。
そして丸みを帯びた背中に話しかけた。
「すみません、もしよかったらこれ使ってください」
俺は自分の傘を差し出した。
「いや、でも……」
おばあさんは受け取らなかった。
当然だ。傘を貸してくれてもちろん嬉しいのだが、こういう場合、相手のことを考えてしまう。
「大丈夫ですよ、俺、傘二本ありますから。それに都合のいいときにでも、ここに戻してくれればいいですから。別に返さなくてもいいですし」
少しの沈黙があり、おばあさんの顔には迷いが浮かんでいた。
沈黙が雨音を強調させた。
「それならお言葉に甘えて……」
おばあさんは恐縮ぎみに言った。
おばあさんの顔のしわには、嬉しさと申し訳なさが刻み込まれていた。
遠ざかっていく傘を見送ると、再び傘を開いた。
途中、コンビニで、おばあさんが傘を返しに来てもいいように、使い捨ての傘を買った。
そして新しく買った傘を差し、女の元へ向かった。
★
女は別れたときと同じように、雨を見つめていた。
「もしよかったら使ってください」
俺は傘を差し出した。
傘で顔を隠しながら言おうと思ったが、ビニール傘なので隠せなかった。
「あら、戻ってきちゃったの」
女は、部屋で飼っていたインコを自由にさせてあげようと窓から放ったのに、いつの間にか戻ってきてしまったのね、というような顔で言った。
「はい、戻ってきちゃいました」
俺も飼い主を見つめるような顔で言った。
女は傘を受け取り、俺は再び女の横に並んだ。
「まだ来ないんですか?」
もうそろそろ来てもいい頃なのにな、と思いながら俺は言った。
「そうね。来るといいわね」
女は雨を見ているような、違うところを見ているような目をしていた。
「俺でよかったら付き合いますよ」
「いいの?」
「いいですよ」
「でも用事とかないの?」
「ないですよ。あるとしても懐かしのジュースを飲みながら思い出に浸るくらいです」
俺は缶を差し出した。
「あ、これ私もよく飲んだ。つぶつぶがどうしても残っちゃうんだよね」
「………するといいですよ」
俺はいい方法を教えてあげた。
「そうすればいいんだ。私不器用だから、缶切りで開けて食べてたわよ」
「綺麗なのに、似合わないことするんですね」
俺は笑った。
「わりとね」
女も笑った。
「私も飲もうかな」
女は自動販売機を探しているのか、首を左右に振り出した。
「俺、買ってきますよ」
「そんな、悪いわよ」
「いいですから、ちょっと待っててください」
俺は再び、雨の中に飛び出した。
★
俺はさっきと同じ自動販売機の前に立った。
そういえば昔、二つのボタンを同時に押して、買いたいほうが落ちてくるか、という遊びをよくしていたなと、ふと思い出した。
落ちてくれば、今日がラッキーデイ。
落ちてこなければ、明日にラッキー持ち越し、と自分の中で決めていた。
しかし、あまりにも落ち込んだことがあった日には、素直に一つだけボタンを押した。
外して更に落ち込みたくなかった。
俺は二つ同時にボタンを押した。
がたん。
出てきたのは、これまた懐かしかったがハズレだった。
改めて隣のボタンを押し、当たりを落とした。
いつの間にか、あんなに激しかった雨もほとんど止んでいた。
女は雨宿りを終えて、どこかへ行ってしまっただろうか。
しかし、あの場所で待ち合わせしていると言っているわけだし、まだいるかもしれない。
俺は急いで戻った。
焦りと、抱えた傘と缶で上手く走れない。
途中、何度か缶を落としそうになった。
たったこれだけの距離なのに、今は長く感じられる。
俺は遠くに見える白を見つめ続けた。
女は、いなかった。
シャッターだけが白く淡く輝いていた。
通り雨か、と俺は心の中で呟いた。
そして、別に止まなくてもよかったのにな、とも呟いた。
〈完〉
「いらっしゃいませ」
男が来店した。
「お一人様ですか」
男は頷いた。
「お煙草はお吸いになられますか」
男は手を顔の前で振り、吸わないと提示した。
前々から思っていたのだが、なぜ煙草に『お』をつけるのだろう。
しかし今はそんなことを考えている場合ではない。
私は今まで何度も繰り返された問いを、頭から追い出した。
「ではご案内致します」
男は頷き、素直に私についてきた。
男は席につき、私は水を運んだ。
「ご注文は」
私は擦り切れるほど口にしてきた問いを投げ掛けた。
しかし男の反応は鈍かった。
耳が聞こえないのだろうか。
しかし入り口でのやり取りではちゃんと反応していた。
私はメニューを広げ、もう一度問うた。
今度は少し大袈裟に、口を大きく広げた。
「ああ、コーヒーを」
なんだ、喋れるじゃないか。
「かしこまりした。少々お待ちくださいませ」
私は席を離れた。
「お待たせ致しました」
私はそれを飲んでしまいたい衝動を抑えながら席まで運び、テーブルに置いた。
男は礼を言う代わりに、小さく手を上げた。
席を離れようとしたとき、男の耳に何かが埋まっているのが見えた。
それは黒かったので耳の穴かと思ったのだが、どうやら違った。
よく見てみると、それは耳栓だった。
小さくて、黒い耳栓。
私はなぜだか、それをかっこいいなと思った。
私が耳の穴だと思ったように、誰も耳栓だとは気づかない。
そこにいるのに、いない。
それはまるで黒子のようだ、と思った。
それは誇り高く、私のすることはこれしかない、しかしそれは惰性ではなく天職なのだ、という面持ちで耳に埋まっていた。
そうか、反応が鈍かったのは耳栓をしていたからか、と私は理解した。
しかし、なぜ耳栓をしているのか気になったが、聞くのも変かと思い、私は席を離れた。
「すみません、おかわりを」
男は要求した。
「かしこまりました」
自分の言いたいことだけ言って、外部の音は耳に入らないとは全くいい機能だ、と思いながら私は黒い液体を注いでいた。
男はまた礼を言う代わりに、小さく手を上げた。
男は何かを紙に書いていた。
見た目や雰囲気などから総合的に判断して、物書きか何かだと思った。
私は勝手なイメージとして、物書きは必然的に煙草吸い、と思っていたが実際はそうではなかった。
男は時折、耳栓に手を持っていった。
どこか空中を見つめ、紙にインクを滑らせ、カップの中の液体を口に運び、耳栓を触る。
この四拍子を一定のリズムで保っていた。
男はまるで店内に閉じ込められたBGMの指揮を取っているようだった。
しかし、その時だった。
「あっ」
私は思わず声を漏らしていた。
それと同時に、奥の席の若者達が何かに対してどっと笑ったので、私の声に気づく者はいなかったと思う。
指揮のバランスが崩れた。
美しいその四拍子が。
指揮者は、四拍子目の姿勢のまま一時停止していた。
指揮者はなかなか動かなかった。
すでに四小節が過ぎ、五小節目に入ろうとしているのに。
私は頭の中で再生ボタンを押してみたが、その信号は彼には届かなかった。
しかし指揮者は一時停止してはいなかった。
そのように見えたが、実は再生中だったのだ。
私は微かに震える、ペンという名の指揮棒を見逃さなかった。
指揮棒が揺れるときは、必然的に指も動くことになる。
私はその瞬間を待った。
一拍子目しか指揮を振れない、その揺れを。
私はまた信号を送った。
「はっ」
私はまたも声を漏らしてしまった。
若者達の席は静かだったが、かといって誰かが私のほうを見るということもなかった。
どうやら今回はすぐに受信したようだ。
耳栓をつまんだ指は、微かにもじもじと動いていた。
それはラジオをチューニングしている動きに似ていた。
指揮者は実に真剣な表情でチューニングをしていた。
きっと電波が入りづらいのだろう。
そしてその面持ちからすると、もしかしたら本当にラジオが聴けるのかもしれない。
だとすると指揮者は一体どんな番組が聴きたいのだろう。
やはりクラシックばかり流れるような番組だろうか。
それとも意外にJ-pop、洋楽、R&B、ブラックミュージック、テクノ、民謡……。
いや、案外競馬かもしれない。
待てよ、落語だってありうるぞ。
いやいや待て、もしかしたら韓国語の勉強中の身で、韓国語講座かもしれない。
指揮者は顔をしかめた。
そして一瞬、指が耳から離れた。
きっと音が大きくなりすぎたのだろう。
「そんなことあり得ないって」
どこのテーブルかは分からないが、そんな声が聞こえてきた。
そうだ、そんなことあり得ないのだ。
第一、男は指揮者ではなく、限りなくライターに近い存在なのだ。
ライターなら周囲の雑音をシャットアウトするために、耳栓をしていてもおかしくはない。
私は何を考えていたのだ。
仕事中あまりに暇だからといって、物思いに耽りすぎるのはよくない。
私はここにいる間はプロなのだ。
「ありがとうございました」
入り口のほうから、今まで何度も耳にしてきた、記号化された声が聞こえてきた。
私は店内を見渡し、客が帰った痕跡を見つけ、そこに走った。
汚れた食器をトレイに乗せ、布巾でテーブルを拭きながら、なんとなしに男のほうを見た。
すると、またあの美しい四拍子を奏でていた。
私は四拍子目まで見届けてから、トレイを持ち、厨房に向かった。
そして食器を水に浸し、厨房を出て、トレイを元の位置に戻した。
厨房を出て目の前が男の席だ。
「すみません、コーヒーのおかわりを」
男は、さっきまでの私の心など知らぬと言わんばかりに(知らなくて当然なのだが)、そう告げた。
「かしこまりました」
私は再び、黒い液体をカップに流し入れた。
男は毎回、礼儀正しく手で礼を告げた。
それは記号化された礼よりも、ずっと温かみがあるように感じられた。
カップの内側が真っ黒になったので、私は必然的に席を離れた。
しかし席がそれを許さなかった。
まるで手の甲に釘を打ち込まれ、テーブルに固定されているみたいに身動きが取れなかった。
私は引力を感じる方向に顔と体を戻した。
「見てたでしょ」
男は言った。
男は私の手首を掴んでいた。
「何をですか」
私は咄嗟にそう答えたが、本当は何を見ていたか分かっていた。
「そんなに見たいなら見せてあげるよ」
男はそう言うと、耳栓に手を持っていった。
耳栓をそっとつまみ、静かに擦り始めた。
男は目を閉じ、電波を探し求めている。
私は耳栓から目が離せない。
耳栓がゆっくりとこちらに向かってくる。
右回し、左回し、右、左、右、左、右、左……。
男はコルクを抜くように、慎重に、丁寧に耳栓を引き出していった。
肩に粉チーズのような乾いた耳垢がパラパラと落ちてきたが、男は気にも止めずコルクを抜き続けた。
男は黒い服を着ていたので、粉チーズの存在感は否めなく、耳栓を見ていてもどうしても視界に入ってきた。
しかし男は粉チーズどころではなさそうだった。
男の顔は再び歪み出した。
耳栓は徐々に外界へと姿を現していく。
それはまるで脱皮のようだ。
その時だ。
赤い液体が、ぽたた、ぽたたと、耳から滴り落ちてきた。
正確には耳たぶの裏からだ。
私は粉チーズの次はタバスコか、と思ってしまった。
この男は一体、体に何種類の食べ物を詰め込んでいるのだろう。
粉チーズにタバスコと来たもんだ、きっと次はオリーブあたりが出てくるに違いない。
滴り落ちたタバスコによって粉チーズは溶け、見えなくなった。
そして粉チーズを含んだタバスコも、黒い服に染み込んでいった。
顔は尚も歪みを増している。
耳の裏からはタバスコが滴り続けている。
私はかつて幾度となくタバスコがかけられる風景を目にしてきたが、こんなに流れ続けるタバスコを見たのは初めてだった。
もちろん、それはタバスコではなかった。
それは血だった。
なぜ血が出てくるのだろう?
男は耳栓を引き抜こうとしているだけなのに。
その問いに答えるように、男は不気味な笑みを浮かべた。
そして虫歯一つなさそうな真っ白な骨を見せたまま、その問いに答えてくれた。
その答えは実に簡単なものだった。
男は勢いよく耳栓を引き抜いた。
そして耳は垂直に落下し、私の手の甲に着地した。
私はその時ようやく、耳栓が耳と顔をつなぐ本当の黒子だったのだと知った。
〈完〉
男が来店した。
「お一人様ですか」
男は頷いた。
「お煙草はお吸いになられますか」
男は手を顔の前で振り、吸わないと提示した。
前々から思っていたのだが、なぜ煙草に『お』をつけるのだろう。
しかし今はそんなことを考えている場合ではない。
私は今まで何度も繰り返された問いを、頭から追い出した。
「ではご案内致します」
男は頷き、素直に私についてきた。
男は席につき、私は水を運んだ。
「ご注文は」
私は擦り切れるほど口にしてきた問いを投げ掛けた。
しかし男の反応は鈍かった。
耳が聞こえないのだろうか。
しかし入り口でのやり取りではちゃんと反応していた。
私はメニューを広げ、もう一度問うた。
今度は少し大袈裟に、口を大きく広げた。
「ああ、コーヒーを」
なんだ、喋れるじゃないか。
「かしこまりした。少々お待ちくださいませ」
私は席を離れた。
「お待たせ致しました」
私はそれを飲んでしまいたい衝動を抑えながら席まで運び、テーブルに置いた。
男は礼を言う代わりに、小さく手を上げた。
席を離れようとしたとき、男の耳に何かが埋まっているのが見えた。
それは黒かったので耳の穴かと思ったのだが、どうやら違った。
よく見てみると、それは耳栓だった。
小さくて、黒い耳栓。
私はなぜだか、それをかっこいいなと思った。
私が耳の穴だと思ったように、誰も耳栓だとは気づかない。
そこにいるのに、いない。
それはまるで黒子のようだ、と思った。
それは誇り高く、私のすることはこれしかない、しかしそれは惰性ではなく天職なのだ、という面持ちで耳に埋まっていた。
そうか、反応が鈍かったのは耳栓をしていたからか、と私は理解した。
しかし、なぜ耳栓をしているのか気になったが、聞くのも変かと思い、私は席を離れた。
「すみません、おかわりを」
男は要求した。
「かしこまりました」
自分の言いたいことだけ言って、外部の音は耳に入らないとは全くいい機能だ、と思いながら私は黒い液体を注いでいた。
男はまた礼を言う代わりに、小さく手を上げた。
男は何かを紙に書いていた。
見た目や雰囲気などから総合的に判断して、物書きか何かだと思った。
私は勝手なイメージとして、物書きは必然的に煙草吸い、と思っていたが実際はそうではなかった。
男は時折、耳栓に手を持っていった。
どこか空中を見つめ、紙にインクを滑らせ、カップの中の液体を口に運び、耳栓を触る。
この四拍子を一定のリズムで保っていた。
男はまるで店内に閉じ込められたBGMの指揮を取っているようだった。
しかし、その時だった。
「あっ」
私は思わず声を漏らしていた。
それと同時に、奥の席の若者達が何かに対してどっと笑ったので、私の声に気づく者はいなかったと思う。
指揮のバランスが崩れた。
美しいその四拍子が。
指揮者は、四拍子目の姿勢のまま一時停止していた。
指揮者はなかなか動かなかった。
すでに四小節が過ぎ、五小節目に入ろうとしているのに。
私は頭の中で再生ボタンを押してみたが、その信号は彼には届かなかった。
しかし指揮者は一時停止してはいなかった。
そのように見えたが、実は再生中だったのだ。
私は微かに震える、ペンという名の指揮棒を見逃さなかった。
指揮棒が揺れるときは、必然的に指も動くことになる。
私はその瞬間を待った。
一拍子目しか指揮を振れない、その揺れを。
私はまた信号を送った。
「はっ」
私はまたも声を漏らしてしまった。
若者達の席は静かだったが、かといって誰かが私のほうを見るということもなかった。
どうやら今回はすぐに受信したようだ。
耳栓をつまんだ指は、微かにもじもじと動いていた。
それはラジオをチューニングしている動きに似ていた。
指揮者は実に真剣な表情でチューニングをしていた。
きっと電波が入りづらいのだろう。
そしてその面持ちからすると、もしかしたら本当にラジオが聴けるのかもしれない。
だとすると指揮者は一体どんな番組が聴きたいのだろう。
やはりクラシックばかり流れるような番組だろうか。
それとも意外にJ-pop、洋楽、R&B、ブラックミュージック、テクノ、民謡……。
いや、案外競馬かもしれない。
待てよ、落語だってありうるぞ。
いやいや待て、もしかしたら韓国語の勉強中の身で、韓国語講座かもしれない。
指揮者は顔をしかめた。
そして一瞬、指が耳から離れた。
きっと音が大きくなりすぎたのだろう。
「そんなことあり得ないって」
どこのテーブルかは分からないが、そんな声が聞こえてきた。
そうだ、そんなことあり得ないのだ。
第一、男は指揮者ではなく、限りなくライターに近い存在なのだ。
ライターなら周囲の雑音をシャットアウトするために、耳栓をしていてもおかしくはない。
私は何を考えていたのだ。
仕事中あまりに暇だからといって、物思いに耽りすぎるのはよくない。
私はここにいる間はプロなのだ。
「ありがとうございました」
入り口のほうから、今まで何度も耳にしてきた、記号化された声が聞こえてきた。
私は店内を見渡し、客が帰った痕跡を見つけ、そこに走った。
汚れた食器をトレイに乗せ、布巾でテーブルを拭きながら、なんとなしに男のほうを見た。
すると、またあの美しい四拍子を奏でていた。
私は四拍子目まで見届けてから、トレイを持ち、厨房に向かった。
そして食器を水に浸し、厨房を出て、トレイを元の位置に戻した。
厨房を出て目の前が男の席だ。
「すみません、コーヒーのおかわりを」
男は、さっきまでの私の心など知らぬと言わんばかりに(知らなくて当然なのだが)、そう告げた。
「かしこまりました」
私は再び、黒い液体をカップに流し入れた。
男は毎回、礼儀正しく手で礼を告げた。
それは記号化された礼よりも、ずっと温かみがあるように感じられた。
カップの内側が真っ黒になったので、私は必然的に席を離れた。
しかし席がそれを許さなかった。
まるで手の甲に釘を打ち込まれ、テーブルに固定されているみたいに身動きが取れなかった。
私は引力を感じる方向に顔と体を戻した。
「見てたでしょ」
男は言った。
男は私の手首を掴んでいた。
「何をですか」
私は咄嗟にそう答えたが、本当は何を見ていたか分かっていた。
「そんなに見たいなら見せてあげるよ」
男はそう言うと、耳栓に手を持っていった。
耳栓をそっとつまみ、静かに擦り始めた。
男は目を閉じ、電波を探し求めている。
私は耳栓から目が離せない。
耳栓がゆっくりとこちらに向かってくる。
右回し、左回し、右、左、右、左、右、左……。
男はコルクを抜くように、慎重に、丁寧に耳栓を引き出していった。
肩に粉チーズのような乾いた耳垢がパラパラと落ちてきたが、男は気にも止めずコルクを抜き続けた。
男は黒い服を着ていたので、粉チーズの存在感は否めなく、耳栓を見ていてもどうしても視界に入ってきた。
しかし男は粉チーズどころではなさそうだった。
男の顔は再び歪み出した。
耳栓は徐々に外界へと姿を現していく。
それはまるで脱皮のようだ。
その時だ。
赤い液体が、ぽたた、ぽたたと、耳から滴り落ちてきた。
正確には耳たぶの裏からだ。
私は粉チーズの次はタバスコか、と思ってしまった。
この男は一体、体に何種類の食べ物を詰め込んでいるのだろう。
粉チーズにタバスコと来たもんだ、きっと次はオリーブあたりが出てくるに違いない。
滴り落ちたタバスコによって粉チーズは溶け、見えなくなった。
そして粉チーズを含んだタバスコも、黒い服に染み込んでいった。
顔は尚も歪みを増している。
耳の裏からはタバスコが滴り続けている。
私はかつて幾度となくタバスコがかけられる風景を目にしてきたが、こんなに流れ続けるタバスコを見たのは初めてだった。
もちろん、それはタバスコではなかった。
それは血だった。
なぜ血が出てくるのだろう?
男は耳栓を引き抜こうとしているだけなのに。
その問いに答えるように、男は不気味な笑みを浮かべた。
そして虫歯一つなさそうな真っ白な骨を見せたまま、その問いに答えてくれた。
その答えは実に簡単なものだった。
男は勢いよく耳栓を引き抜いた。
そして耳は垂直に落下し、私の手の甲に着地した。
私はその時ようやく、耳栓が耳と顔をつなぐ本当の黒子だったのだと知った。
〈完〉
私がそこを歩いていると、脇に井戸があった。
井戸なんて気味が悪いので、すぐ立ち去ろうとしたのだが、心とは反対に足はそちらへ向かっていた。
私は恐る恐る中を覗いてみた。
しかし暗いばかりで、何とも判断しようがなかった。
それならば石を落としてみようと思い、地面を見下ろしたが、それらしき塊はなかった。
どうしたものかと思ったが、私は目の前に綱がぶら下がっていることに気づいた。
きっと中の桶と繋がっているのだろう。
私は以前より、これに興味があった。
この綱をたくし上げてみたいと思っていたのだ。
私は少し躊躇ったが、綱を引いてみた。
すると、ずしっと重みを感じた。
やはり水が溜まっているのだろうか。
私は更に綱を引いた。
これはなかなかに重い。
ずしっ、ずしっと、引き上げるごとに重さが手にのしかかった。
もうそろそろだろうか。
私は子供に戻ったような心境で綱を引き続けるが、思ったより深さがあるらしく、桶はなかなか姿を見せてはくれなかった。
私もそう若くはない。
腰に負担がかかる前に、なんとか姿を現してもらいたいところだ。
ずっし、ずっし。
ずうっし、ずうっし。
ずうううっし、ずうううっし。
徐々に綱を引く速度が衰えてきた。
私は声にこそ出さなかったが、懇願していた。
頼みます、私もそう若くはない。
この白髪混じりの頭を見れば分かるだろう。
その声が届いたのか、それはやっと顔を出した。
しかし、それは思い描いていたものではなく、本当に顔と呼ばれるものだった。
私は恐怖して、綱から手を離した。
落下するそれは、低くうめき、闇に飲まれていった。
〈完〉
井戸なんて気味が悪いので、すぐ立ち去ろうとしたのだが、心とは反対に足はそちらへ向かっていた。
私は恐る恐る中を覗いてみた。
しかし暗いばかりで、何とも判断しようがなかった。
それならば石を落としてみようと思い、地面を見下ろしたが、それらしき塊はなかった。
どうしたものかと思ったが、私は目の前に綱がぶら下がっていることに気づいた。
きっと中の桶と繋がっているのだろう。
私は以前より、これに興味があった。
この綱をたくし上げてみたいと思っていたのだ。
私は少し躊躇ったが、綱を引いてみた。
すると、ずしっと重みを感じた。
やはり水が溜まっているのだろうか。
私は更に綱を引いた。
これはなかなかに重い。
ずしっ、ずしっと、引き上げるごとに重さが手にのしかかった。
もうそろそろだろうか。
私は子供に戻ったような心境で綱を引き続けるが、思ったより深さがあるらしく、桶はなかなか姿を見せてはくれなかった。
私もそう若くはない。
腰に負担がかかる前に、なんとか姿を現してもらいたいところだ。
ずっし、ずっし。
ずうっし、ずうっし。
ずうううっし、ずうううっし。
徐々に綱を引く速度が衰えてきた。
私は声にこそ出さなかったが、懇願していた。
頼みます、私もそう若くはない。
この白髪混じりの頭を見れば分かるだろう。
その声が届いたのか、それはやっと顔を出した。
しかし、それは思い描いていたものではなく、本当に顔と呼ばれるものだった。
私は恐怖して、綱から手を離した。
落下するそれは、低くうめき、闇に飲まれていった。
〈完〉
