また変化が起きた。
部屋を占領するほど匂いが強くなってきたのだ。
僕はどうしても耐えられなくなり窓を開けた。
窓を開けても匂いは消えるわけではなかった。
風によって砕かれ、粒子が細かくなった薄くて軽い匂いが漂っているだけだった。
匂いが気になって本に集中できそうもなかったので、今読んでいる本と財布と鍵を持って外に出ることにした。
街はいやに静かに感じられた。
いつも通り人はごった返しているし、日差しもわりと強めだ。
車が行き交う騒音や、意味もなく話す人々、横断歩道のメロディ、遠くから聞こえる犬の鳴き声。
街はいつも通りだ。
僕だけがそこに馴染めない新築の建物のように存在していた。
それを正すように目についた喫茶店ではなく、ゆきえが働くカフェに入ることにした。
ゆきえはいつも通り働いていた。
茶色い髪を高い位置で一本に縛り、白いブラウスにキャラメル色のベストを着ている。
店の作戦なのか、そのキャラメル色のベストを見るとカフェオレが飲みたくなる。
お昼時だったのでカフェオレとベーグルを頼んだ。
それを彼女が手際よく無駄のない動作で、テーブルまで持ってきた。
ゆきえはいつものように「何かあったの?」という顔で僕を見た。
僕は不安になったとき、いつもここにゆきえの顔を見に来る。
誰にでも均等に笑う人のよさや、的確に注文を取ったり、音を立てないようにコーヒーをテーブルに置いたり、丁寧にグラスを拭いたりしている姿を見ると、ゆきえは確かにここに存在しており、僕もまた確かにここに存在しているのだと思える。
「それが部屋の匂いが強くなったんだ」とさっき起きた出来事を説明した。
ゆきえは人を馬鹿にするような含みをまったく持たずに「大丈夫?」と言った。
そこには優しさだけがあった。
「部屋にいるのが嫌なら今夜うちに泊まる?ご飯も作るし」とゆきえは言った。
ゆきえが発する一言一言には、優しさの粒子がくっついているようだ。
「いや、それならうちに来てくれないかな。そのほうが安心する」と僕は言った。
「いいわよ」とゆきえは言い軽く微笑んだ。
それからゆきえはテーブルを離れ、カウンターの中のいつも立っている定位置に戻った。
僕はカフェオレとベーグルをちびちび口にしながら本を読んだ。
本を読み終えてしまうともう一杯コーヒーを頼んだ。
今度は気を引き締めるためにエスプレッソにした。
いつまでも浮遊者ではいられない。
僕はそれをミルクも砂糖も入れずそのまま飲んだ。
窓の外を眺めていると、ある女に目がいった。
凛とした後ろ姿や、肩胛骨まである黒い髪や、白くてふっくらした耳たぶが美容部員の彼女に似ていたからだ。
僕は急いで残りのコーヒーを飲み干し、勘定を済ませ彼女を追った。
ゆきえの淋しそうな視線を横目に感じたような気がするが、気づかないふりをした。
店を出ると彼女は既に道の端っこにいた。
人ごみに紛れて見失いそうになったが、簡単に見つけることができた。
彼女の後ろを真っ白なワンピースを着た女の子が歩いていたからだ。
心の中でその名前も知らないワンピースの子に感謝し、走ってその子を追い越し、再び彼女を追った。
彼女は前に部屋に来てくれたときと印象が違っていた。
そのときは仕事に行く前だったらしく仕事着だったのだ。
僕の記憶が確かなら、黒のパンツスーツに黒のシンプルなカットソー、足元は高くも低くもない黒のパンプスで、髪は後ろで結んでいた。
今日の彼女の服装はラフで、紺のスキニージーンズに黄色のキャミソール、その上に袖と首元がレースがレースになっている黒のカーディガンを羽織っており、靴とバッグは黄色で揃えられていた。
髪はおろしていて、前髪はポンパドールだった。
そのギャップに僕は少しドキッとした。
不思議なことに、走っても走っても彼女に追いつかなかった。
物理的に考えて追いつくはずなのだが、走っても五十メートル先に彼女がいるという形が崩れないのだ。
そして走っているうちに僕は違和感を覚えた。
来たときと同じ疎外感を感じ始めたのだ。
そしてその原因に僕は気づく。
香水だ。
あの香水と同じ匂いがするのだ。
そしてその匂いは彼女から発している。
同じ香水をつけているから、あんなに詳しく説明してくれたんだろうか。
どんどん体が疎外感で侵食されていく。
ここにいるだけでも精一杯だ。
気がつくと彼女を見失っていた。
その代わりに以前彼女と一緒に来た神社が目の前にあった。
気がつくと疎外感は消え、僕は僕に戻っていた。
「お参りしたほうがいいわ」という彼女の言葉を思い出し、お参りをして帰った。