小説「壁」第二話 | 森本オレオの落書き帳

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また変化が起きた。

部屋を占領するほど匂いが強くなってきたのだ。

僕はどうしても耐えられなくなり窓を開けた。

窓を開けても匂いは消えるわけではなかった。

風によって砕かれ、粒子が細かくなった薄くて軽い匂いが漂っているだけだった。

匂いが気になって本に集中できそうもなかったので、今読んでいる本と財布と鍵を持って外に出ることにした。


街はいやに静かに感じられた。

いつも通り人はごった返しているし、日差しもわりと強めだ。

車が行き交う騒音や、意味もなく話す人々、横断歩道のメロディ、遠くから聞こえる犬の鳴き声。

街はいつも通りだ。

僕だけがそこに馴染めない新築の建物のように存在していた。

それを正すように目についた喫茶店ではなく、ゆきえが働くカフェに入ることにした。


ゆきえはいつも通り働いていた。

茶色い髪を高い位置で一本に縛り、白いブラウスにキャラメル色のベストを着ている。

店の作戦なのか、そのキャラメル色のベストを見るとカフェオレが飲みたくなる。

お昼時だったのでカフェオレとベーグルを頼んだ。

それを彼女が手際よく無駄のない動作で、テーブルまで持ってきた。

ゆきえはいつものように「何かあったの?」という顔で僕を見た。

僕は不安になったとき、いつもここにゆきえの顔を見に来る。

誰にでも均等に笑う人のよさや、的確に注文を取ったり、音を立てないようにコーヒーをテーブルに置いたり、丁寧にグラスを拭いたりしている姿を見ると、ゆきえは確かにここに存在しており、僕もまた確かにここに存在しているのだと思える。

「それが部屋の匂いが強くなったんだ」とさっき起きた出来事を説明した。

ゆきえは人を馬鹿にするような含みをまったく持たずに「大丈夫?」と言った。

そこには優しさだけがあった。

「部屋にいるのが嫌なら今夜うちに泊まる?ご飯も作るし」とゆきえは言った。

ゆきえが発する一言一言には、優しさの粒子がくっついているようだ。

「いや、それならうちに来てくれないかな。そのほうが安心する」と僕は言った。

「いいわよ」とゆきえは言い軽く微笑んだ。

それからゆきえはテーブルを離れ、カウンターの中のいつも立っている定位置に戻った。

僕はカフェオレとベーグルをちびちび口にしながら本を読んだ。

本を読み終えてしまうともう一杯コーヒーを頼んだ。

今度は気を引き締めるためにエスプレッソにした。

いつまでも浮遊者ではいられない。

僕はそれをミルクも砂糖も入れずそのまま飲んだ。

窓の外を眺めていると、ある女に目がいった。

凛とした後ろ姿や、肩胛骨まである黒い髪や、白くてふっくらした耳たぶが美容部員の彼女に似ていたからだ。

僕は急いで残りのコーヒーを飲み干し、勘定を済ませ彼女を追った。

ゆきえの淋しそうな視線を横目に感じたような気がするが、気づかないふりをした。

店を出ると彼女は既に道の端っこにいた。

人ごみに紛れて見失いそうになったが、簡単に見つけることができた。

彼女の後ろを真っ白なワンピースを着た女の子が歩いていたからだ。

心の中でその名前も知らないワンピースの子に感謝し、走ってその子を追い越し、再び彼女を追った。

彼女は前に部屋に来てくれたときと印象が違っていた。

そのときは仕事に行く前だったらしく仕事着だったのだ。

僕の記憶が確かなら、黒のパンツスーツに黒のシンプルなカットソー、足元は高くも低くもない黒のパンプスで、髪は後ろで結んでいた。

今日の彼女の服装はラフで、紺のスキニージーンズに黄色のキャミソール、その上に袖と首元がレースがレースになっている黒のカーディガンを羽織っており、靴とバッグは黄色で揃えられていた。

髪はおろしていて、前髪はポンパドールだった。

そのギャップに僕は少しドキッとした。

不思議なことに、走っても走っても彼女に追いつかなかった。

物理的に考えて追いつくはずなのだが、走っても五十メートル先に彼女がいるという形が崩れないのだ。

そして走っているうちに僕は違和感を覚えた。

来たときと同じ疎外感を感じ始めたのだ。

そしてその原因に僕は気づく。

香水だ。
あの香水と同じ匂いがするのだ。

そしてその匂いは彼女から発している。

同じ香水をつけているから、あんなに詳しく説明してくれたんだろうか。

どんどん体が疎外感で侵食されていく。

ここにいるだけでも精一杯だ。

気がつくと彼女を見失っていた。

その代わりに以前彼女と一緒に来た神社が目の前にあった。

気がつくと疎外感は消え、僕は僕に戻っていた。

「お参りしたほうがいいわ」という彼女の言葉を思い出し、お参りをして帰った。