ゆきえは時間通りに家にやってきた。
右手に買い物袋を持ち、左手にケーキの箱を持っていた。
僕はすぐ買い物袋を受け取り、彼女を中に入れた。
「相変わらず匂ってるわね」とゆきえは笑いながら言った。
僕はなんとなく笑えなかったので、ゆきえが右手に持ちかえたケーキの箱を指差して「今日のは何?」と聞いた。
ゆきえはカフェで余ったケーキをときどき持ってきてくれる。
どんなにつらいことがあってもケーキは人を幸せにしてくれるのよ、というのがゆきえの口癖だ。
「今日はベークドチーズケーキとバナナタルトと苺のミルフィーユよ。うちのミルフィーユおいしいからあなたに食べてもらいたくて」とゆきえは苺の香りがしそうな爽やかな笑顔で言った。
僕はゆきえのこういうところが好きだ。
照れ隠しをするように「何買ってきたの?」と聞いた。
「別にたいしたものじゃないのよ。ビールと材料ね。私は飲まないけどあなた飲むかなと思って」とゆきえはまな板と包丁を用意しながら、後ろを向いたまま言った。
ありがとうと僕は言った。
それから床に座りながらビールを飲み、ゆきえの後ろ姿を眺めていた。
真剣に料理と向き合っている表情や、野菜を均等にきざむ音、盛りつけまで気を抜かないその姿勢が好きなのだ。
ゆきえが料理をしているときはそれを見ていたいので、僕はあまり話しかけない。
それを知ってか知らずか、ゆきえも僕に話しかけない。
ゆきえとはこれからも一緒にいたいと思う。
ビールを飲み干してしまうと、ソファに座って新しく買ってきた本を読んだ。
本の登場人物に後ろ姿の美しい女が出てきた。
それを読んで僕は昼間の女を思い出した。
あれは本当に彼女だったのだろうか。
別に顔を見たわけではないのだ。
それに走っても走っても追いつかないなんて、やっぱりおかしい。
まるで悪夢の中で走っているみたいだった。
僕はまた頭の中で彼女を追いかけてみたが、やはり追いつかなかった。
神社で十回お参りしたところで僕は眠りに落ちた。